FALLEN ANGEL
前兆は無かった。前兆は無かった、筈だ。
僅かに視認出来たのはその唇が漆黒の髪に触れる寸前。男の顔に浮かんでいた微笑みはなんら変わる事なく、その手に握り込まれた髪の毛がぎゅう、と引き絞られた。
引き寄せられるままに引き摺られた身体が僅かに椅子から浮いた直後、髪の毛諸共に破断され血しぶきを撒き散らしながら四散する。
まるで羽をもがれた鳥の如く、椅子に凭れかけていた身体が冗談のような肉塊になりながら拉げて崩折れる。切り刻まれた黒髪がそれこそ鳥の羽のように舞い上がった。
「…………っ!?」
なんじゃぁ、叫ぶ間すらない。床に転がる寸前に解体された素体のパーツが撓んで───────────歪んで爆散する。
弾け飛んだ素体の中身がぶち撒けられ、飛び散った肉片とも内蔵ともつかないものが壁と言わず天井と言わず辺り一面を穢し、重力に従いずるずるとずり落ちていく。
あえてそれだけ残されたのであろう、足元に転がってきた頭部に釣られるようにして視線が下がる。ざんばらに刻まれた髪の間から虚を映す逢魔時の色をした瞳がちらりと覗くのが見えた。
転がりそうになりながらたたらを踏んで一歩、下がった瞬間に得も言われぬ感覚を覚えて顔を上げる。
視界いっぱいの手。すぐ眼前に翳された手の平に遮られ最早その表情は見えない。逆光に照らされた手は暗く沈み、そのシルエットだけが鮮明だ。
静まり返った部屋に、ただ水音だけが静かに響く。軈てその音もしなくなった頃合いに、男が口を開いた。
やはりその表情は窺い知ることが出来ぬまま、平坦な声だけが聞こえてくる。目の前の闇が口を開けて音を出しているような、そんな錯覚を覚えた。それほどに静かな声だった。
「…………本当に。今この瞬間にお聞き出来て良かった。
素知らぬままに過ごしていた時間を一秒でも早く終わらせることが出来て良かった。
今、己がこれ以上無い絶望の中に居たのだと、ただ一秒だけでも早く知れて本当に良かった」
「…………………?」
空気は震えているようでもあり、張り詰めているようでもあり。一度触れれば何が起こるかわからない、そのような異様な静寂だった。
「私は、傷付いていない。なんの痛みも感じていない。悪魔は涙など流さない。
だからそう、これは貴女になんの意味をも齎さない。貴女はお優しい。お優しい暗黒神様、その慈しみと無関心さでいつだって貴女は我々を絶望の水底に置いてゆく」
「……む……?」
右に視線をやる。次に左。迷いに迷って上を見て下を見る。
私だってこれぐらいわかる。なにせミラクルでマジカルにデキる暗黒神ちゃんであるからして。
脳裏を駆け巡る短い旅路。遺書を残す時間すら与えられないであろう事を理解している思考回路は既にコイツを宥める事を完全に諦め、儚くも荘厳な音楽と共に走馬灯を流し始めている。
手のうちようも無く、ここから大逆転に到れるような奇跡は起こらないという確信すらあった。
ぴりぴりとした緊張感は唾を飲み込む事すら許しはしない。
一時間後にここに無事で立っていられるビジョンがまるで浮かばない。
浮気がバレた男、托卵がバレた女、赤点を取った事がバレた子供、億単位の損失を出したのに気付いた営業、おちゃらけてたのに目の前で静かに涙を流された瞬間、不可逆のやらかしに後戻りできない事を悟った感情が放つ冷気ともつかないものに背筋が撫でられた感覚。地雷を踏み抜いた事に気付いて、最早足を上げる事も出来ずにただその場に立っていることしか出来ない、そのような時が凍るような感覚。
言い方はなんでも良かった。
暗黒神生活六ヶ月目、あまりにも早いゴールであった。
そう、ここに来て私は漸く悟ったのだ。
目の前の悪魔がこれ以上は無いというほどに。
完全無欠に。
一周回って逆に面白くなってくるくらいに。
もう二度とお目にかかれないであろうレベルで。
最早手詰まり、短い神生ありがとうございましたと言うしか無いくらいに。
───────────マジギレしている、と。
「…………………」
指先すら動かせずにただコチンと固まる。何故だ。何がどうしてそうなった。私は今なにか変なことを言ったか?
聞かれた事に答えただけである。その内容にもなにか問題があるとは思えない。なんなら寧ろ喜ぶところでは?という気すらしている。
一体何が起こった。わからん、私にはわからん。答えは見えず、またいい感じの答えをくれる者もここには居ない。
この身体にもそんな機能があったのかと思うくらいに一瞬で冷や汗が吹き出た。身体内部がぐるんと動くのが感覚でわかった。息すら止めてただ床を見つめる。
「元居た場所に還る?或いは元のようにレガノアと合体し世界運営を?
我々の願いを叶えるとして出した結論がそれなのですか?
之は愉快。まさしく、ご冗談を。己を人間と思い込んでいるにしても質が悪い事を。
本当に……、本当に。貴女は心底からご自分の事に一切のご興味が無く価値を見出していないのですね。
死んでいてもいいし生きていてもいい、男でも女でもどちらでも構わないし此処に居なくても居てもいい。
他者が願えば何であっても叶えてくださるのに我々が貴方が必要ですと縋っても貴女には何も届かない。あの時もそうだった。そして今も。
貴女は何をすればその存在を信じてくださるのです?何を言えば?何をすれば?」
「…………………………………………」
冗談事ではなく明らかに室内の空間が歪んでいる。みしり、と軋む音は部屋の壁などではない。
黒い影のようなものが足元に伸びてくるのを冷や汗を流しながら眺めているとごろりと影に押されるようにして頭部が転がってこちらを向いた。
黒髪の隙間から僅かに見えるその瞳には光はなく、何も写していない。
直後、足元の頭部が容赦も呵責も無く踏み潰された。ぼぎゅり、嫌に生々しい音と共に床の染みと化した頭部から散った肉片が濡れた音と共に蹴散らされる。
気を取られたのは一瞬、伸びてきた手が私の首をがしりと鷲掴んだ。
「ぎゅむ」
「暗黒神様のままでいて欲しい、叶わぬのならば貴女の子のまま消滅させて頂きたい、我々の望みはそれのみですがまるで通じないばかりか核が異なるのみの個として違いもない次が生まれるのだから神域にも我々にも変化は無く大した事はない、時間が経てば勝手に叶うなどと。
次と貴女は違うもの、そのような単純な事がどうして貴女には理解が出来ないのですか」
首を掴む手にぎりぎりと、少しずつ力が込められていく。
見上げる悪魔の顔は逆光で見えない。
首を絞め続ける手を引き剥がそうと試みるべくガリガリと爪を立てるが意に介した様子もない。
私の首を絞める事でこいつも容赦なく鎖を引き絞られているのだろう。
パキン、と首元から爪の割れる音。ぼとぼとと赤い物が流れ落ちていく。
「……ああ、そういえば先代暗黒神様について興味がおありのようでしたね。いいでしょう。
今更、隠すような事でもない。隠していたところで何ら貴女の枷になりえないのだから。人間と思い込んでいるのならば表層のみとしても己の生存、幸福を優先するものと思ったものを。だからこそ我々は口を噤んだ。最早なんの意味もない。お優しい暗黒神様。
貴女ですよ。
その魂の寸分たりとも違わぬ、以前の貴女です。
以前に貴女が有していた神域は本当に居心地が良かった。
貴女の愛に満たされた楽園。
それだけが我々に与えられたもの。
貴女は根源に近い存在、自我を持たず、魂も持たない役割を果たし続ける核を中心としたエネルギーだけの存在でした。
我々でさえ最後まで貴女との対話は叶わなかった。
神という概念は本来ならばこの世界には干渉できない。
同じように我々もまた神には干渉できない。ですが、その理はあの時に全てが覆った。
神はこの世界には近く、手の届く場所に居る。
あの時、あの場所に居た連中はほぼ全員が違う事を願っていましたが。然して結果として貴女の死は確定された。
貴女というエネルギー体はあの人間に結晶化された後、その肉体は崩壊し、その魂は次元断裂に飲み込まれ、そしてそのままこの宇宙から消滅しました。
そしてこの宇宙から貴女が消えてしまえば暗黒神という役目の存在は確かにまた産まれる。
この世の摂理、魂を作り出す霊的深層部の領海、この宇宙そのものとも言える本質、我々にはあまりにも強大すぎて認知できるものではありませんが……。
宇宙の再編に合わせて新たな代替え品が創造される筈だった。
元来であれば絶対神レガノアの下に死を司る天使として生まれたでしょう。あのクソ虫もそれを狙っていた筈だ。
そして地獄はそのままその天使に引き継がれる。原初から完成された陰陽の型を持ちたる絶対神の名の通り、新たなレガノアが混沌属性すらその身に内包する筈だった。
そうなればあちらは現状のようにこの枝をまだるっこしい方法でじわじわと時間をかけて最後に食い潰すなどとする必要もなかったでしょうね。
ええ、次は確かに生まれましたよ。貴女が考えていた通り。
その存在を我々は受け入れる事が出来なかった」
ぼぎん、何かがへし折れるような音が響く。しかしその音がしたのは私の身体からではない。
だと言うのに首を掴む手には益々力が込められていく。
逆光の中、零れ落ちていくものが男の腕を汚していく。
「新たに生まれる神は貴女ではない。新たな核を持った同じようなモノとして創造された新しい存在。そう、貴女ではない。
貴女の魂は次元の彼方へと流れ出ていってしまったのだから。
我々は拒んだ。あの神殺しを頼るまでもない。今私が貴女が作ったモノにそうしたように、今までもそうしてきたに過ぎない。
地獄が崩壊し、我々が消滅寸前に…………いえ、消滅していたのは叛逆による反動ですよ。一匹一匹と主殺しによる反動で崩れ落ちていきました。
ですが、当然でしょう。役割が同じというだけの存在に何故従わねばならないのです?
貴女以外の神など要らないのです。
貴女しか認めない。
以前と寸分たがわぬままの貴女が良い。
故に、我々は探した。我々が反動で消え去る瞬間、その魂を受け入れてくれる神は無い。行き場もない魂となりて自壊してゆきながら虚数を彷徨う中。そこに極点の如き可能性を求めた。
貴女が落ちたヴォイド、平行宇宙でもどこでもない次元的に隔絶された時間すら無い何も無い空間。
ただの人であれば耐え切れず消滅したでしょうが貴女は神として強大でしたから。
貴女の結晶化された魂は劣化する事無く永遠に留まり続ける。それが幸いでした。
貴女の核が輪廻、無意識の海に溶け込み、新たな魂として再加工されてしまえば見つけるのは容易くなりますがそれを貴女と見做すかは難しいところですので。
結晶化されているとは言え、高位次元のエネルギーでしかない魂すらもたない貴女がまともに生まれ変われるかどうかも未知数でしたしね。
神殺しにとっても予想外でしたでしょうね。我々が何をしようとしているかは知っていたでしょうが。
まさか見つけるとは夢にも思わなかったでしょうから。
空間的に果ての無い砂漠でたった一つの砂粒を見つけるようなもの。
神域も失われ楽園から弾き出された我々はそれこそ永遠に近い空間をずっと彷徨い続けました。
そして次元の狭間を漂う貴女の魂、それを見つけ出した。時間から隔絶された空間においても永い、永い時でした。
座標で言えば事象の始まり、原始の彼方、創生の零。世界が始まるその第一歩、そこまで遡って漸く。
遥か昔、気の遠くなるような時の果て。確かに謁見は果たされました。
アレに出来て我々に出来ぬ道理が無い。初めまして、暗黒神様。我々こそが最も古き魔王。
我々は願った。我々が持ち得ぬ、もう一つの奇跡の力を。祈り、願い、己が欲する未来の為に、零に近しい可能性を手に入れてご覧に入れました。
レガノアは貴女に奇跡を願った。究極の想いと力、高みに至った魂、魔王として奇跡を貴女に願った。
我々もまた同じ。我々はあの光の神に因果を覆す奇跡を願った。
666万の悪魔、その全てが求めたただ1つの祈り。
多が求める救済と奇蹟。祈りの奥義、神は顕現する。アレは確かに我々の願いに応えた。
光は混沌の法則を、闇は秩序の奇跡を求めた」
「………むぐぐ………」
今まさに私と心中しかねない行動を取っている男の思考が理解できない。
そう、いつだって理解不能だった。
お前達のことを理解できた事など今まで存在してきた中でただの一度も無い。
人間に取り憑いていた時だってわけのわからない事ばかりだった。
「……まだ夢を見ているのですか?
余程退屈だったと見える。
次元越しに人の魂に干渉して同調しその生を擬似的に体験しながら貴女は長いこと人の夢を見ていたようだ。
神の戯れには呆れ返るばかりです。
魂の生成工場に干渉し弄くりまわすなど神の御業をほいほいと。
……それにしても我々の祈りを以て顕現した貴女を見た時には驚きましたよ。
貴女が当たり前の様に自我らしきものを発現させていたのだから。
今の貴女ならわかるでしょう?
愛とは時に羽根の様に軽く、時として鉛の様に重いもの。
我々からのプレゼントはお気に召しましたか。我々の祈りの具現、我々の総意を以て創りました。
ウロボロスの首輪、よく似合っていますよ。その性質は円環。ぐるぐると廻って同じところに戻ってくる。
ウロボロスの首輪とは即ち肉の呪い。形無き概念を無理やりに押し込める為の檻です。我々の信仰そのもの。
貴女が居ない世界で我々がどれほどの絶望を味わっていたかわかりますか?
本当の地獄とは、失意とは。神が不在である事ですよ。貴女はどこにも居ない。あの日々はまさに地獄だった。
……記憶が混濁しているのを悟った時、心底嬉しかった。
思い出せば、またいつの日か再び置いていかれるのだと我々は恐れた。あの時のように、そうあれかしとなれば何の未練もなく我々諸共に全てを他者に譲って消えゆくのだと。恐怖だった。あの日々に戻るのは、もう耐えられない。
貴女の魂が暗黒神として不滅。新たな概念の創造、あの人間に出来たのならば我々とてやる。
魂の本質、霊的な核をも縛る鎖、これでもう貴女は何処にも行かないでしょう?
我々を置き去りにする事も、もう二度とない。
何もせずにいれば再編された世界で貴女と同じ情報体持つ天使の元で、何の変化もなく何の問題もなく何の畏れもなく正しく新世界を構成する天の理の一つとして日々を生きたのでしょう。ですが、我々は天の国より生きたい場所がある。貴女が出ていくのならば我々も出ていく。新世界に用意された椅子は我々には不要なのです。帰る場所は望みません。今度こそ貴女に付いて行く、それだけです。
まあ、首輪を付けるのに貴女の魂を圧縮固定化して浅い領域まで引き摺り堕とし巨大すぎる魂を首輪で括れる大きさまで削ぎ落としたせいで以前の力のほぼ全てが失われてしまったようですが。
それは我々にとって問題ではありません。
むしろ好都合かと。か弱くて、ひどく脆い。そうやってジタバタと短い手足を必死になって振り回しているのを見るとゾクゾクします。
……こんなに健気な悪魔達を忘れて自分は人間であるなどと巫山戯たことを。
それはまだしも挙句の果てに元に場所に還るだの、元のように合一して世界運営するだの、二度と言わないで頂きたい。次はありません。
暗黒神様は地獄でもっと反省すべきデスネ」
その危険な言葉を最後に意識が闇へと飲み込まれた。