暁に祈る
――――――――――――――何だこれは。
こんなことがしたかったのではない。こんなことを望んだわけではない。
嘆きと苦しみと悲しみ、それを無くすためにここまで来た。子供のように信じていたのだ、人々の幸福を。死と戦争と病と飢餓、世に溢れる死の影を打ち払いたいとここまで来た。
病により腐り果てた身を隠し山奥で静かに横たわる女性を見た。
飢餓の苦しみに声もなく路傍に打ち捨てられたままの子供を見た。
老いた人間が捨てられる山中で老木に寄り添う孤独なる遺体を見た。
全てに恵まれながらも生気の無い眼でただ生きる貴人を見た。
戦で撒き散らされた触れれば死ぬ毒物で無垢に遊ぶ子供たちを見た。
鴉に食い荒らされる猫。蜘蛛に捕獲される蝶。水面に浮かぶ魚の屍骸。牛が食む植物の咀嚼音。
死は何処にでも在り、いつまでも付きまとう。
食卓に上る物が死体の山に見えてならず、口を付ける事もなくなった。
何故こんなにも死が溢れる世界なのか。なるほど、平和もある。善き事もある。生命は次代に継がれて生きてゆく。
それ故に恐ろしかった。苦痛しかないのならば納得もしよう。だが、そうではなかった。
家族に笑顔を見せる男が何の表情も浮かべず浮浪者に唾を吐くのを見た。
穏やかであった人間が病と老いにより周囲の人間に拳を振るうのを見た。
嘆きの声は死ぬほど聞いた。苦痛の声も死ぬほど聞いた。救いを求める声も死ぬほど聞いた。
故に、聞きたくなくなった。
苦しむ命あれば何がなんでも救いたかった。なれど、この手で掬い上げられる命の数はあまりに儚く。
病の根絶を願った。老いからの救済を願った。悪徳の駆逐を願った。戦の終わりを願った。命を願った。
そのうちに勇者と呼ばれるようになりたるが、そんなものなどいらなかった。
望むものは唯一つ。この世に満ちる悲痛を無くすことだけだった。
いつからか、深淵よりこちらを覗き込む視線に気付いた。
覗き込んでいるのみでそこに明確な意思はない。ただ見ている。人の営みを。生と死を。時と空を見つめ宛ら天におわします神のように。
魂を引き寄せ連れていく。その手に気付いた。
この世の理に気付いた瞬間だった。
この世は泡沫の夢、儚き現し世の水面。この世の痛みと苦しみと死と悲しみを取り除きたいと願うのならば。汝、その剣を取りなさい。
光が囁く。
ああ、そうだ。全ての救済を信じてこんなところまで来たのだ。
あの悪神を誅し、人々を救いたかった。嘆き祈り願い、空の彼方を虚ろな目で見据えながらたった独りで死にゆく子供を助けたかった。
なのに―――――――。
なにが勇者か、何が英雄か。目の前で自らが手に掛けた神の遺体に縋り付くようにして啜り泣く異形達。その悲痛な声、今まで散々に聞いてきた。
剣を持つ手が震えた。自分が救いたかったのは、この世から無くしたかったのはあの声だった。あのように泣く人々を救いたくてここまで来たのだ。
死んで良い者なぞ何処にもいない、今更になってこんな簡単なことに気付いてしまった。
生きるべき人、死ぬべき人、それを選び取るなぞ誰が赦されようか。気付いてしまったのだ、人の生死を自らの都合と物差しでより分けた傲慢に。
悪意でも憎悪でも快楽でもなんでもない、自らの感情ではなく、義務感で剣を取ってしまった。そうであるべきだと。命を奪う事の理由を他者に委ねる、なんたる愚行か。
そんなものの為に命を刈り取られた者達はどうすればいい。命を奪われるに自らに向けられた悪意ですらないのだ。
生きるためでもない、悪意でもない、物差しを他者に委ねた義務感なぞでどうして剣を取ってしまったのか。
悪であろうが善であろうがその身に剣を突き立てる己の罪の重さに違いなどあろうか。愛する者を失う苦しみと悲痛、あの声を生み出したのは他ならぬ自分自身だ。
あの声こそを無くしたかった筈だったのに。
勇者になど、なるのではなかった。
光と共に消えた二人。一陣の風が自らの夢と希望の終わりを告げ、そして悟る。
自分が本当に成すべきことを。まだ立てる筈だ。折れてはならない。折れる事など許される筈もない。
ただ一人残った友と共に、成すべきことを成すのだ。全てを無かった事には出来ない。だが、これから己の命も生も言葉も全てを不要と断ずる。
混沌の神の遺体は静かに剣に貫かれたまま横たわるのみ、縋っていた異形達も既に消滅した。長い黒髪が舞い上がりその神の三眼は虚ろとも知れぬ何処かを見つめたまま。魂は既に失われた。
噛みしめるようにして立ち上がる。ここから全身全霊を懸けての贖罪の旅が始まる。
まだ死ねない。まだ。
「アレク、私は行くよ。
この神殺しの呪いを受けた肉体は崩壊するだろう。だが、まだ死ねないんだ。何千年経とうともやり遂げる。旅は終わらない。
死体に巣食う怪物と成り果てたとて構わない。
……ただ、ただ謝りたいんだ。彼女に。彼らに。その為に私はこれからを生きる。
君がこれからどの道を選んでも私は何も言わない。私に付き合えとも言わない。君が決めて呉れて構わない」
「……………馬鹿を言うな。ここまで来たんだ。まだ俺の旅も終わらん。
お前が未来に行くなら俺は過去に行く。ヴァステトの空中庭園だ。
魔王達は既に死んだ。魔王マリーベル、クロウディア、ガルーネシア、エウリュアル、ウルトディアス、原初の五柱に次代の八芒、確かに未来に送り届けるさ」
「……アレク」
「言うな。無かった事にするなら相応の代償は払う。何千何万でも時の罪を積み上げたっていい。
あの神の事は今となってはどうにもならんが……未来はまだ確定されてないさ。世界樹の無限の枝葉、その中にあの混沌が帰ってくる枝が無いとは誰も言えんだろ。
虚数空間に落ちてったなら魂は其処にある筈だ。お前は見てなかったが、あの狂信者達は諦めやしないだろう。あの目つき、自らが消滅する寸前までこの結末に抗うさ。
あの狂信者達は必ずその枝葉を掴み取る。俺は死に物狂いで繋ぐ。だからお前は行けばいい。いつも通りに道を切り開いて行け」
「…………………約束しよう。私は進むべき道を誤った。
待つ。遥かな未来で、どれほどの時を超えたとてその時を待つ。悠久の時の果てだとしても私は必ずそこに居る」
「……もう二度と会うことはないだろうな。
クロノア、互いに道は違えるが……この旅は本当に楽しかった」
「……私もだ。闇ばかりが覆い尽くす天に憎悪と怒り、苦痛と嘆きと病と死と生命の業が溢れるこの世界で、お前たちとの旅だけが私の光だった」
固く握った手、別れの時だった。
長い長い旅路の果て、友が進むと決めた道に祝福だけを送りその背を見送る。
翌日。
レッドテープがぱちんと切られた。クラッカーと共にくすだまが弾けて紙吹雪が散るが広大な空間すぎて逆にさもしい。
まばらな拍手が無情に響いて彼方の暗闇へと消えていった。
くあと欠伸を一つ。殆ど眠れなかったのでイマイチな違和感がつきまとう。妙な夢も見た気がしなくもないしな。
「えー、ここにー、えー、ビフレスト地下大回廊の開通を記念致しまして記念式典を執り行うー」
やはり響くのは元気のない拍手だけである。不思議な話なのだがどうにも労働そのものよりも労働環境が改善した直後に工事が完了してしまった事実に全員心が折れたらしい。
よくわからん。完了したんだから喜ぶところだろ。チンピラ共であるからして不思議な脳細胞をしているのかもしれない。
助っ人の十人も何をするでもなく工事完了してしまったので顔が微妙そうだ。
まぁここはホワイト職場に生まれ変わったのである。なので私としてもここは爽やかな汗と弾ける笑顔と共にサムズアップして頂きたいのだが。記念撮影もあるというのにこんな様子では私ブラックですと言わんばかりになってしまう。
仕方がない。ここは一つ、少し給料とボーナスに色を付けてやるべきであろう。
本で買った記念セットのくすだまとレッドテープとクラッカーだけでは盛り上がりも薄い。現場監督たる私の責任の下、赤字覚悟の出血大サービス。労働には正当なる対価をというのがギルドの方針であるからしてそう決まっているのならば仕方がない。
私もギルドの一員なのである。権力と法には勝てないのだ。というわけで用意したのは落成式なんかの締めのアレである。別に建物が建ったわけではないので落成式というのもおかしいが丁度いいだろう。竣工式でもないし。
「というわけで散餅の儀も行う。各自必死こいて拾い集めるようにー」
「……ふむ、おチビ。散餅の儀とは何かね?」
「む」
比較的元気なブラドさんが口を挟んできた。
この世界に散餅の儀という文化はないらしい。もしかしたら人間の大陸にはあるのかもしれないが目の前の労働者共の顔を見るに全員知らないと見ていいだろう。
「餅まきですな」
「餅まき」
「餅まきだ」
「餅を撒くのかね?」
「餅を撒くのだ」
「餅を?」
「不毛だからおやめなさいな」
マリーさんに止められてしまった。今にもラップが始まりそうだったと言うのに。
顎に指を当てて悩んだ様子のカミナギリヤさんが首を傾げた。
「餅など撒いてどうするのだクーヤ殿。
我々が拾うのか?」
「そうなのです。私が投げまくり、拾った餅は早い者勝ちで自分の物に出来るのです」
言いながら脇に置いてある籠いっぱいに収まった餅を見せる。
数量は多めに見積もって三百程である。いやあ頑張ったぞ私。褒められるべき。褒めろ。
えーと、なんだっけ。
「なんか災いを避けるとか財力自慢とかお目出度いから財の分配とかなんとかのどっかの文化ですな」
「……ふむ、そうか。文化ならばやろう。辺境の国、根こそぎ狩られた種族、失われゆく伝統、燃え尽きゆく古書。
そんな中で残ったものがあるのならばそれは尊ぶべきだ」
なんかいきなり壮大な話になったな。まぁカミナギリヤさんだからな。
「餅……食べ物だろう?ありがたくはあるがね」
「餅だ。黄金色の餅とか銀色の餅とかなんか青っぽい餅とか赤っぽい餅とか。なんか白銀の奴も入れといたぞ。サービスしといた」
全員無言で立ち上がる。やる気が出たようで結構。チンピラ共なだけあって金にはがめついらしい。
重さがそれぞれあまりにも違うので投げた後の軌道で知識さえあればある程度は判別可能だろう。重そうな奴だけを狙いすませば金の餅ばかりを手にするのも夢ではない。
だがそれでは大きなリターンも望めない。オリハルコンやらアダマンタイン、ダマスカス鋼やらミスリルやら金より高価ながら重さはまちまちなものも混ざっている。大きさもまちまちなのでデカイ奴を狙うというのも一つの手だがデカイだけで中身はマジで餅というのもある。
リスクを避けるか莫大なリターンを取るか。周囲の奴らが何を狙うかを見極める事も重要だろう。狙われていない餅を如何に拾うか、人が殺到する場所を如何に避けるかというテクニックが試される。着実に漏れる物を拾い集める、それこそが勝利への道なのである。
つまりカミナギリヤさんやらブラドさんやらマリーさんやらクロウディアさんやらの面子を如何に避けるかでもある。張り合うだけ無駄だろうからな。
ちなみに私としては大穴としてウルトの周囲が安牌だと思っている。包装紙に包まれたこれは別にキラキラとしてもいないし今の話を聞いても興味はなさそうな顔をしている。多分殆ど動きゃしないだろう。
目敏い奴は何人かそれに気付いた様子でジリジリと位置取りを直している。クロノアくんも興味なさそうな顔をしているが残念、あの人はマリーさん達とチームメイトだ。あの二人の為に幾らかは動くだろうな。
あとはぱっと見回した感じでカグラはこの中で一番へろへろだし狙い目だな。だがまぁ、言ってはなんだがあいつは身体的ハンデがデカすぎる。餅なんか殆ど見えちゃいまいしあの手でちゃんと取れるかも怪しい。
正直まともに工事についてこれただけで行幸レベルだ。本人も餅まきのやり方を聞いて早々に諦めたらしくポケットに手を突っ込んだまま棒立ちである。
あいつの近くならばライバルが減ることは減るが、カグラを狙うというのは幾らなんでもチンピラ共も気が咎めるのか距離を詰めようとするどころかちょっと離れている。お前らにも良心とかあったのか。
まああとは、悪魔の気まぐれを読みきれるかどうかが全てだろう。餅は金属が殆どなので存外に重たいので投手は悪魔によるものである。
というわけでちょっと考えてから地獄の輪っかを設置。
「出てこいルイスー!」
私の声でぴょんと飛び出したるはうさぎ執事。
「ここに。……さて、お嬢様の悪魔使いは酷いの一言ですな。まさか餅投げにこのルイスとは。
老体には堪えますぞ」
「いいからやるのだ!」
餅の籠をグイグイと押し付ける。うさぎの手では流石にやり難いのかうさ耳ダンディ初老姿に変じて籠を受け取った。
こういうのは知る限りルイスにやらせておけば安全だ。メロウダリアもアスタレルもそういう意味では全く信頼などないので。クルシュナは投げる前に自分が全部食うだろうし後の二人は知らないし。
「とりあえず魔法は禁止で。足とか道具とかも無し。手で拾うことがルールだー!」
「変身はありかね?」
「無し」
「分身は?」
「無しに決まってるわーい!」
常識的に考えろ!ぷりぷりとしつつもルイスによじのぼって餅の籠から握れるだけ取って飛び降りた。ちらっとそれを見てから一つ思い出した。
「包装紙はくじにしといたから捨てないように」
「くじかえ?」
「魔王コンビとかがあまりにも有利過ぎるので救済措置です。
包装紙に書いてある番号ごとに豪華景品プレゼント。これは完全に運なので己の幸運を祈るのだ」
餅を購入してから考えついた為なんとこの暗黒神ちゃんの手書きのくじである。一晩頑張ったのだ。景品は適当に本で出しといた。本で買ったものを世界にばらまくといいと聞いたのでマジで出血大サービスの品々である。
感謝するがいい。というわけで。
「今より餅まきを始めるー!!」
この手では二、三個しか握れなかったが初投には十分であろう。振りかぶって投げた餅はあまり距離も出せずに近場に落ちた。そしてそれが開始の合図である。
開始早々やはり気が乗らない様子のウルトだったがまさかの裏切り、餅を拾うではなく周囲の邪魔に喜びを見出したらしく投げ込まれた餅を更に弾き飛ばし人を転ばせ大暴れし始めた。
これには流石の暗黒神ちゃんも苦笑い。
そしてこういったことには比較的フェアなルイスではあるが、やはり悪魔は悪魔ということであろうか。フェイントの掛け方が異様にうまい。投げた餅の空中停止は卑怯だろ。いやまあ投手にルールは設けなかったので文句は言えないが。
魔王やらの高レベル帯の人達は言うに及ばず、意外にも善戦しているのが数名居るようだ。異様に位置取りがうまい。見どころがある奴らである。
ぽいぽいぽいと投げられる餅。かなりの数を作った筈だがそれでも保ったのは二十分程度だった。籠の底に残った餅を籠ごと放るようにして一気にバラ撒いて餅まきは終了した。
短い命であった。ナムサン。