自由都市での攻防2
動いたのはクロイツマイン。力在る言葉によりて精霊への干渉を成す。
「我が玉座に在れ、暁に潜みし者――――――」
言の葉が精霊に届く前に九龍が目前のテーブルをクロイツマインに向かいて蹴り上げた。
十数センチの厚みを以って切り出された北大陸産の黒樫と呼ばれるその硬さと重さにおいて唯一無二の重木材、重量は軽く百数十kgに至ろうかという代物なるが顔色一つ変える事もなく片足で無造作に空へと躍らせて見せる。
轟音を立てつ椅子を跳ね飛ばしながらまるで石礫が如き勢いで飛来する重量物に僅かに顔を顰めつも言葉を中断し一歩下がったクロイツマインが剣に手を掛ける。が、抜き打ちて斬り飛ばそうとしたところで剣に掛かる異様な重み。
「ちィ――――――」
いつの間に。柄に掛かる足先を視界に収めて舌打ちと共に腕に更なる力を加えるが押さえられた剣はまるで溶接されたかのようにビクとも動かぬ。細身だと思うたが、先ほどといい見た目では測れぬ相手であると思考を改める。
テーブルを隠れ蓑に肉薄したか。顔を上げれば愉快そうに上がった口角ばかりが僅かにテーブルの影より覗いた。重力のままに床に打ち付けられる木片、次いで頭蓋に響く小精霊からの警告の声。
剣による受けを捨て一歩下がる。警告は鳴り止まない。今一歩。警告は鳴り止まない。
逃げ切れぬか、悟ると同時に土精霊へ言葉を掛けようと口を開く。
「精霊術士ってのは一々行動が読みやす過ぎるね。ほんのちょっとばかり手を出しただけで精霊に頼る」
テーブルを挟んだ向こうにこちらに背を向けて床に付かんばかりに腰を落とした男、肩越しに目があった。総毛立った。だが、もう遅すぎた。今一度剣に手を伸ばすがそれを待ってくれるような相手でもない。
次の瞬間、テーブル諸共に身体が吹き飛んでいた。胸部に凄まじい衝撃。鳴り止まぬ精霊の警告、衝撃のあまりに視界が揺れて一向に戻る様子もない。熱いものが肺腑より上ってくる。傷ついた臓腑より吹き出た血がごぼりと口より溢れ出て床に落ちる。
粉々になったテーブルが床を跳ね回って四散するのをおぼろげな視界に捉えながらも光精霊に治癒を念ずる。あの厚みの黒樫ごしでこの威力。素手で黒樫を砕くなぞと聞いたこともない。何の魔力も感じない。魔力を用いたものではない。
痛みに呻きながらも顔を上げれば先ほどと変わらず微笑みすら浮かべてこちらを眺める男。
これが肉体のみによる力なぞと信じがたい思いだ。これがギルド総裁、皇九龍というわけだ。我知らず、喉が鳴った。
「鉄山靠を受け身も取らずに正面から受けるなんざ阿呆アルなあ。有名な技アルが有名なら有名なりに理由はあるものよ」
「……少し、甘く見ていたことは詫びよう。だが、やはり勝つのは僕だろう」
「アナタ、少し私を舐めすぎネ」
「言うじゃないか。天に至る輝き、汝は―――――」
クロイツマインの精霊詠唱は東大陸において、その詠唱の工程数の少なさは破格と言っていい。
莫大な霊力を有し僅か十にも満たぬ言霊による最小文節にて魔術を起動させしめる聖女、フィリアフィルを除けば大陸で最も短く、最速と呼べる速度での精霊魔術を駆使する。
フィリアフィルとは違い、精霊の召喚は小精霊や下位精霊であれば半ば無詠唱に近く、精霊魔術に限ればフィリアフィルを超える速度での起動、そして数多くの精霊のほぼ全てを従えるが故の魔術の十や二十ではきかぬ複数起動。
総じて声の届く範囲にいるならばあらゆる精霊を従属せしめるという魂源魔法によりて小精霊までをも従える力を持ち、そして四源精霊とすら契約を成し遂げたというクロイツマインは一度型にはまりさえすれば暴力に等しい数と神に等しき力による圧倒的物量で敵に何をさせる事もなく一気呵成に押し流す、魔術師としては異様な戦い方を可能としている。
魔王連中をも単騎にて消滅させしめる、この都市を灰燼へと変える、クロイツマインにとって事実として両共に不可能な事ではなく、慢心などでもない。
クロイツマインにとりてそれはさして難しいことでもなく、そのつもりになれば直ぐにでも実行できるのだ。
人間、否、あらゆる種族の中でもこと精霊魔術に関して言えば世界最高峰の魔術師である。相対したる者は数知れず、されど負けたことなどただの一度としてない。
なんと言っても精霊魔術だけではないのだ。聖者の称号を持つクロイツマインは勇者として神の加護をも得ている。軍神や武神といった戦の神は勿論のこと、何よりも時空神の面を備える巨大なる神性、運命の女神と呼ばれる三柱からの加護である。人間の中でもこの三女神からの加護を持ちたるはこの時代においてはクロイツマインのみ。
神性の加護、精霊魔術、クロイツマインが負けるというのは常ならば有り得ぬと言っても過言ではない。
―――――――――――ただ一つの不幸を言えば、相手が悪すぎた事であろう。
パァン、破裂音と共に集まりつつあった精霊が消滅した。驚愕の声を上げる間もない。
空を叩いただけの掌打は、触れる事叶わぬ筈の存在に届いた。
「発剄掌打、精霊を殺すのも私には難しい事じゃないね。其処に在るならばこの拳で打てぬ道理も無し、アナタも遅すぎる。私の前に立った時点でアナタの負けよ」
精霊術士というのは精霊に対し言葉かあるいは思念によりて命令、意思を伝えるものだ。
故に、致命的な弱点が存在する。
「ごぁ……ッ!!」
口内に突っ込まれた指先が粘膜に覆われた肉厚なる物を引き抜かんばかりに握り込みて引っ張り上げる。
喉奥への刺激に思わずえずいて生理的な涙が目尻に滲む。何をするつもりだというのか、考える事すら出来ぬまま。
鉄をも拉げさせる肘がクロイツマインの顎を下から打ち上げた。
不快さを伴う重い音が響く。完全に粉砕された顎がぱかりと開き、砕けた歯がパラパラと床に落ち口内より溢れ出た血が血溜まりとなって広がる。
「精霊に意思を伝えねば何も出来ない、アナタ言霊使って精霊使う。口塞げば翅を毟られた羽虫も同然ヨ」
顎を打ち上げると共に引き千切ったクロイツマインの舌をゴミの如く投げ捨てた九龍はその辺の冒険者から上着を奪い血と涎に塗れた手を拭いながら笑った。
そう、精霊術士とは口であればこのように顎を砕けばそれで終いよ。思念によるものとしても、態々接近戦を挑んでくる時点で狂気の沙汰だ。顎を砕かれ痛みという雑念に追われ何も考えられぬ様子、ましてや九龍を相手にするならばこの結果は考えるまでもないであろう。
変じ続ける状況、相手の戦闘行動に対する思考が追いつかねば何も出来ずに終わるのだから。状況を整理し、未来を予測し、対策を打ち立て精霊に命ずる。反射と反応ほどの超えがたい差があるのだ。
先程からの動きを見るに九龍に追いついておらぬはそれこそ見ればわかるというもの。対応力の限界を超えるのは目に見えていた。
精霊に対し一々あれしろこれしろ、術士の思考限界を超えた瞬間に終わる。これが精霊術士の限界だ。たかが一工程、されどその差は永遠に埋まる事もない。
精霊の自由意志に任せるというのもないではないが、それこそ狂気の沙汰。精霊というものはまともな知性と思考なぞ持ち合わせてはいない。小精霊など尚更。使える精霊を別に喚び出すにしても、九龍はそれを待つほど親切でもない。
あるいは取れる手としては詰碁か。予め敵の動きを予測、誘導することを前提に精霊に最初に必要な命令を覚え込ませる事だ。これもまた実際に実行に移すバカはおるまい。少し狂えば全てが破綻し、それを巻き返す事が不可能になる。余程の物狂いにのみ赦されたやり方だろう。
四源精霊などと下手に大きすぎる精霊と契約したとてそれを運用するならば遠距離からの砲撃、それしかあるまい。あるいは使い捨て前提の肉の壁でも無くば使い物になるまい。
言うなれば鈍重なるが高威力の火砲を抱えておきながら包丁を持った人間の前に出てくるようなものだ。結果なぞ火を見るより明らかであろう。火薬を詰めて砲を詰め、その間にあっさり刺殺されて終わりであろうが。殴った方が速い、まさしく。
人間というものは永き時の彼方に精霊術を過信しすぎた。魔族と竜といった思念や動き一つで直接魔術を起動せしめる種族の衰退が大きな理由であろうが、戦いの勘と呼べるものがまるでない。魔族や竜、神霊族にとっては精霊魔法とはあくまで補助やサポートが主たるものだ。
つまるところ人間の扱う精霊術とはいうなればそう、大魔法を扱うこと叶わぬ人間の苦肉の策だったものだ。
それがわからぬ阿呆故に剣聖と異界人が奥に引っ込めておいたのであろう。九龍達にとってクロイツマインが後方に引っ込んだままというのは九龍自らが東大陸に乗り込んででも手を打たねばならぬ事柄だった。
手の届かぬ場所でこの力を行使され続けるなどこちらにすれば悪夢としか言いようがない。降って湧く神託に加えてクロイツマインのこの力、戦術レベルで敗北が確定していたのだ。手の出しようがない、そういう状況だった。
多少のリスクを冒そうとも取るべき首だったのだ。この首は。それが単身この場に乗り込んでくるなどと。居もしない異界人と本で釣り上げたにしては聊か仙魚が過ぎるか。
どちらにしてもこの機を逃すつもりもなく、ここで首を捻じ切るが相応。
肥大した自己意識、四源精霊と契約したという優越、全能感に取り憑かれたが故に見せびらかさずにはいられない。己の力を見よ、と。これほど狩りやすい者もない。
首に手を掛ける。そのまま捻ろうとしたところで―――――――――奇妙な浮遊感。景色が歪みて足が地につかぬような、ここ数十年感じたこともないような体幹の不安定さ。
九龍の耳に既視感のある声が届いた。
「言うじゃないか。天に至る輝き、汝は―――――」
状況を考える前に九龍の身体が動いた。刹那と言える時間とは言え反応が遅れた身体では先と同じようにとは行かぬ。
服の裾に仕込んだ礫を集まりつつあった精霊へと弾きて散らす。疾走りながらも手近にあった椅子を掴んで脚をへし折り、クロイツマインの顔を目掛けて全力で投擲した。
精々出来たのは驚愕の顔を浮かべるぐらいであろうか。投擲したものが狙い過たず経口を破壊したのを見届け、そのまま頭部ごと蹴り飛ばそうと跳躍した瞬間の事だった。
得も言われぬ違和感。二度目である。故に確信する。既にこの拳で沈めておらねばおかしい相手。答えは一つである。
何者かが干渉しているのだ。何者なるや、考えるまでもない。神性からの干渉である。
血飛沫が散るを見た筈だが何事もなかったかのように相手は無傷。
神の加護を得た奇跡代行者なぞと戦うのは実のところ九龍をして無駄としか感じ得ぬ。他者の血涙を流した上に立つ努力によりて得た結果を容易く捻じ曲げてみせる奇跡代行者に時間を割くというのは穴の空いた柄杓に水を注ぎ続けるようなものであるからだ。
代行者を守護する神性をば神格にものを言わせて頭から押さえつける事が可能な程の上位の神の領域内なればこのような無粋なる干渉を受ける事もあるまいが。それで言えばあのモンスターの街や一部の北大陸などは最近はかなりやりやすいと報告を受けたばかりだった。
「―――――――」
何かを抜かす前に今度は肺を臓腑に響く掌打にて完全に破壊する。顔に血が飛ぶが気にすることもなく次いで相手の首元に奔らせたる絶命の一手、そこで三度目の干渉。
時が逆巻くのを今度こそ確かに知覚した。肌に感じる途方も無き違和感。ギギギと軋む世界。時が凍りつきて音を失う。これを認識できるというのは恐らくは異界人という異物であるからであろう。
この世界の人間ならば、そうとすら気づくまい。時への干渉、かなり力ある神性ではあろうが。時間神というのは数あれどここまで明確に、それも何度も干渉せしめるならば時間神の中でも最上であろう。あまり神々に詳しいとも言えぬが、それぐらいは九龍とて想像がつく。
一分か、二分か。おそらくは時間逆行などという大掛かりな干渉なればその程度が限度なのであろう。それも連続しては使えない。数十秒でも間を開けねば発動は出来ないと見える。
だが、九龍を相手に聊か数を重ね過ぎたと言える。神が時へ干渉するその前兆、感覚。己の足は確かに大地に噛んでいる。ならば問題など何もない。神性の時間干渉が追いつかなくなるまで何度でもクロイツマインを屠るも悪くはないが、それよりは無粋な横やりを正面から砕く方が九龍には性に合っている。
大地を踏みしめる。世界は己の足元に。
知覚した以上は時に干渉されている瞬間に意識を保つというのは九龍にすればさほど難しい話ではない筈だ。
その瞬間を認識できるのならばそこに己の意思が介在出来ぬ道理はない。時が凍てつく瞬間にも己の意思は確かにある。
過去を振り返る時、それは連続性のあるものとして蘇るか?答えは否。写真の如く断片的に思い浮かぶもの、そして映像のようにそれらを連続性があるように再生しているだけだ。要するに錯覚である。
意識が連続性のある線であるなどという証明はされていない。時が止まる、挙句に逆巻くなどと時間軸が崩壊した世界を前提としているのならば尚更である。
意識と時間の連続性、片方が崩れ去ったならばもう片方も道理であろうよ。故に未来を識った我が動けぬ道理も無し。時が逆巻く、それ即ち未来を覗き見たも同然なれば。
頭蓋を壁に叩きつけようとしたところで四度目の干渉の気配を感じ取る。仏の顔も三度まで、一度聞き齧ったのみの言葉なるが、成る程。良い言葉だ。覚えておこう。
逆巻く時間と空間。時への干渉により気の流れが完全に静止する。常なれば有り得ぬ慣性も人体構造も一切合財を無視した動きも、今ならば可能であろう。はっきり言ってだ、それこそ現実であれば不可能なる技の試打ちが出来るという――――ボーナスタイムとすら言えよう。
時と空間、双方からの力の向きに逆らいて真逆より力の方向をずらしてそれをそのまま叩き込む。攻撃の受け手となりて上半身と下半身に相反する気の流れを打ち込みて脊椎を破壊する為のカウンター技、一の受け技連環輪天打。然程難しき技でもないがこの条件下なれば絶大なる威力を発揮するであろう。
果たして効果は顕著であった。クロイツマインは何が起きたかも理解できておるまい。神からの守護と干渉、思えばあの自信の出処はそれを経験として識っていた故であろう。しかしそれを甘んじて受け入れるだけの者がその世界に踏み込める筈もない。
腕に伝わってくる感触は軽く、反動すらほぼ無い。武人としては一級の技の冴えであると断言できた。時の流れ無き点の世界で加えられた力の全てはそれが再び線に戻った瞬間に代行者の腰骨を中心にその身体をいっそ芸術的とさえ言えるほどの血模様を空中に描きながら捩じ千切り、勢いのままに下半身と分かたれた上半身は空で二、三度回転した後に壁にめり込みて水袋らしく拉げて液状化した。
ずるりと引きずり落ちるようにして多少は原型が残った臓腑と脂と骨の混合物が壁を伝い落ち、その周囲から小精霊が引力から解き放たれたようにして四散してゆく。見るにつけやはり魂源魔法が精霊関係だったのであろう。実に運のいい男である。とはいってもそれ故の不幸ではある。運が良いだけの事を実力と勘違いしたまま生きて死ぬというのは本人が自覚せぬでも傍から見ていて滑稽極まりなきものだ。
ご自慢の四源精霊王の力とやらも見ることもなかった。まあ見たところで少し大きめの花火のようなものであろう。既に興味は失せた。態々見ずとも総司と手合わせでもしていた方が余程有意義だろう。
先の冒険者とは別の冒険者から上着を奪い取りて血に塗れた手を拭う。
手を拭き終わり静まり返るギルドを見回してから飯を食っていたらしき奴からトマトソースのカツサンドを奪い口に放り込みながら受付の暇人共に声を掛けた。
「何してるアル。とっととあの壁のシミ片付けるよ」
「……え、あのグロい塊をですか?」
「あんなもんあったらメシが不味くなるアル。内蔵から破裂してるせいで壁に汚物の臭いがこびり付くアル。そろそろお昼時ネ」
「九龍様が作ったんじゃないですかぁ……。しかもめっちゃ食ってるじゃないですかぁ……トマトソースのカツとか食べないでくださいよぉ……」
「あー住嘴住嘴。うるせぇアル。聞こえねーアルな。
片付ける時は跡を辿られないように綺麗に片付けるよ。ここにクロイツマイン=ライン=ハーツマルトとかいう男は来なかったしギルドは何の関与もしてないネ。
そこにあるのは顔なしさんの死体よ。邪魔だからとっとと片すね」
言いつつ壁隅のモップを指す全員軒並みクズと称されるだけある創立メンバーの一人たる九龍はもぐっさもぐっさと赤いトマトソースを口の端から垂らしながらカツサンドを全て胃に収めた。
まじかよ、うへぇと嘆く声には完全無視を決め込みて数時間前にあった総司よりあった打診を思い出す。
クロイツマインを片付けたとなれば、小精霊による魔法感知を気にしなくとも良くなるのだ。
なればあちらでも魔術による穴掘りが可能となる。さすれば進みの遅い掘削作業もそれなりに進むであろう。
それでも総司からの打診に一度是を返した以上はきっちり十名送りつけるつもりではあるが、今回の事もあればそろそろ顔を出す頃合いやもしれぬ。なんだかんだと予定は伸びに伸びている。
早急に片付けたとてこの臭いは暫く取れぬであろうから逃げるのに丁度良い。
ぺろりと指先を舐めてから本の持ち主とやらのことを思った。