神の左手悪魔の右手2
―――――――――何たる屈辱、何たる侮辱。何たる不遜。神たる己が身に未だ嘗て無き激情の炎。
永き生においてこれほど嘗められた事はない、ただの一度たりとてだ。
人は額づき祈りと共に乞うてくるもの、獣なれば畏れ逃げ惑うもの。神とはそういう存在であるからである。
知的生命体が創造しえる幻想の窮極、意識集合体たる神が侮られるなどとは、断じて赦される事ではない。赦されるものか。赦されていい筈もない。
神と人は対等ではない。万物の上に在るもの。神は不可侵、絶対にして不変。人が天を仰ぎ見る先に輝くものが神なれば。太陽の如く地を照らす信仰と祈りそのものである。
唾を吐きかけられるを許容するはそれ即ち神位の剥奪に応じたも同然也、地に落ちたる信仰なぞ、天上に在るべき神に非じ。
狂わんばかりの神の怒りに現し世の依代が煮崩れる寸前の有様にて、バシャバシャと液状化し蒸発する末端の四肢の尽くが大地に落ちる。
歴史にすれば千年あまり、神族としては古いとは言えぬまでもそれでも地を這う者とは天と地ほどの差がある。
ましてや雲上にて流星の如き糸を張り巡らせては天空を渡る、蝗と飢饉と旱魃を司りし蜘蛛、それが泡雲の君。古き太陽神の直系、神位で言えば天空神とも言える神格は言うに及ばず。
万、億の魂を刈り取り毎年のように人々が恐怖に身を震わせ手を合わせその顎から逃れ未来を恵まれたいと国をもあげて一心に祈らせたる大災害を神格化した存在が包括する畏れとは古さだけが取り柄の神とはその格が違う。
ぐるりとさかしまに孵りて冥界より引きずり出したるは神としての八肢。雲糸を手繰りて霧雨と共に禊の如く不浄の陰気を落として回る神蜘蛛の八肢である。
人間の男を模した無形の邪神、己の本性を曝け出したる八肢で握り締めれば容易くへし折れるとすら思えたのだ。
だというに。
「邪見」
蝗を司る一肢目。頭上より振り下ろされた一度触れれば蝗に食い荒らされ果てる肢、それに気付いた素振りすらなく抜けられた。
「邪思惟……」
飢饉を司る二肢目。横合いから刈り取るが如き死鎌は逃れるを能わず、それが片手で跳ね除けられた。
「邪語!!」
旱魃を司る三肢目。近づけば一呼吸で千年超えるが如く時を吸い上げる肢は触れることすら叶わず毟り取られた。
「……邪業、邪命、邪精進、邪念正定……!」
乾季と雨季を司る四肢。四つの災害に揉まれたが如き屍を晒すが包容は正面から砕かれた。
「邪定、八天厄道……!!」
人の儚き祈りを無残に圧し折る天の理を司る最後の一肢。
魂核を貫き魂諸共に消滅させるそれは狂ったような哄笑と共に右手一本で止められた。
何たる、何たる悪夢。ただの眷属如きなれば最初の一撃で終わっている。
挙句の果てに。怒りのあまりに発狂寸前になりながら正視すらしたくもない事実を認識するしか無い。
砕かれた神の矜持、此処で引けば己は神の座から堕ちるだろう。
喉奥より血が吹き出る程に呻く。先ほどからこの悪魔、片腕で戦っているのだ。
「お前ぇ……何故、何故左腕を使わない!?
この泡雲の君、空浪雲涅を前にして片腕だけで充分だとでも言うのかしらァ……!?
手を抜くだなんて、莫迦にして、天に唾を吐く所業、なんたる、言葉すら出ない、あぁぁあぁぁぁあああ!!!……この、……天上の神々の一柱に向かって!!」
叫んだ瞬間、ニタニタと嗤うだけであった悪魔の表情の一切合財が抜け落ちた。
空気が変わった。背筋が粟立つ。耳が痛いほどに張り詰めた静寂。
ゆっくりと掲げられた左腕。何故気付かなかったのか。
なんて、おぞましい。あれは、違う。
奴の左腕。あれは、生来のものではない。あまりにも、あまりにもおぞましい腕。何故己はこんなものの傍に居るのか。
逃げ出したかった、今すぐに。
「………は、アホかテメェ?冗談だろ?テメェ如きに使っていい左腕じゃねぇんだよ」
そうだとも。
この程度の女に使うなどあってはならない。
この左腕だけは。
「この左腕は私の愛、私の光。私が賜った、神の左腕。テメェみたいなクズの虫ケラに使うなどあるわけねぇだろ」
目に映る見た目も伝わってくる感覚も確かに元来の男の腕とまるで変わらない。
だが、それ故にこの腕こそが神の存在証明そのものたらん。そうとも、神は此処に居る。
狂信したる神の左腕。悪魔にとって何を置いても守るべき至宝だった。
それを穢すなど、あってはならない。
「万死に値しますヨ、虫ケラが。使え、だと抜かすその思想が既に罪です。伊達に黒の狂信者などという二つ名を与えられていませんよ。
神に唾吐かれれば狂気と等量の信仰の炎を以って異端を火刑に処す可し。この左腕を穢すなど……楽に死ねると思うんじゃねェ。
その魂、地獄に引きずり込んで万の微塵に刻んでジュデッカにバラまいてやる……」
「…………ぐぁ……っ!!」
蹴り抜かれた身体、神の身が他者から影響を受けるなどと信じがたい思いだった。蹴り飛ばされるがままに依代が吹き飛んだ。
土煙を上げて転がるようにして倒れ伏した大地に穿たれた深淵がその顎を開く。音を立ててその黒穴に沈み込む身体。
そこから漂う、この世で最も悍ましき気配。総毛立った。飲み込まれた手の先の感覚は無い。
触れるものもなく何も見えはしない。見えぬながら、この向こうは、想像を絶する狂気と混沌ばかりが詰まる世界であると確信する。
此処だけは嫌だった、此処だけは。例え神の位から引き下ろされ消滅するとしても構わないとすら思う。
広がる黒闇から舞い上がる虹色の不浄の光。鼻を刺す異様な匂い。微かに漏れ聞こえる狂気の声。闇に呑まれた身体には痛みも何もない。だからこそ恐ろしい。存在しているのかすらわからないのだから。
吹けば飛ぶ薄布のような空間一枚隔てた先に広がる無窮の闇に堕ちていくという気が狂いそうな恐怖の最中、垂らされる救済の蜘蛛の糸を求めて絡め取られた蝶のように必死に藻掻く。
「いや……いや、いやいやいやいや……!!
ここには堕ちたくない、いや、いや……たすけ、いや、お願い……!!
なんでもするから!ねぇ、お願いよ!!此処にだけは堕ちたくない!!
嫌だ、いや、いやあぁぁああああああ!!!」
「馬鹿か?テメェの行き先は此処しかねェよ。深き混沌に堕ちてそのまま朽ち果て失せろ」
ガコンと蹴り落とせば、その姿は直ぐに消え失せた。
後に残ったのは何事もなかったかのように広がる大地ばかりである。
「たのもー!!」
大門を開けてのしのしと歩く。い草の香りも芳しい建物だ。なんとなく靴は脱いでおいた。しかしこの大陸でこの建築様式は逆に大変そうだ。金かかってそうである。
うーむ、あちこち大穴が開いているな。つるりとした断面は熱で融解したようにも見えるが。
元からそんな形でしたよーとばかりの綺麗な開き方だ。これをまともに食らったらしき人間や神獣、天使の死体が転がってなければこういう形の建物だったんだろうと思えただろう。
神族の気配はもう無い。多分あの悪魔羊が殺ったんだろうな。ナンマンダブ。申し訳程度に手を合わせておいた。
神の炉に居た奴らと同じ服らしきものを身に着けたレガノア教の神官職であろう人間は悪魔に集中的に狩られたらしく生き残りは居なさそうだ。
この街に元から住んでいるらしい兵士達は力なく座り込み、完全に戦意もなくうなだれているばかりである。幾らなんでも士気に差がありすぎだろ。
ふむ。そう言えばこの街はなんか色とりどりの旗を掲げていたな。あんまレガノア教に熱心な街ではなかったのだろうか。端っこだし。よくわからんが。
木の枝倒して位置確認。この大穴多分アスタレルの仕業だな。壁も何もかも無視して一直線に進んだ感じがする。実に雑な仕事である。悪魔が芸術肌とか嘘だろう。雑さしか見えないぞ。
ま、私は優雅たれ暗黒神ちゃんなのでちゃんと廊下を道なりに進むが。あいつ背が高いんだな。穴の位置高いもんな。許さん。もっと下に開けとけ。そうすれば私もこの穴を跨いで進んで行けたというのに。
しかし、うむ。たいへんよろしい。楽ちんだ。時間かけても大丈夫な安心感があるという素晴らしさ。いつもこうだったらいいのだがいつもこのレベルで悪魔召喚とかしてたらなんか色々吸い取られそうだ。
まぁそれ以前に今の私はなんか絶好調だからな。こんなのはそうそうあるまい。
何枚目かのごうじゃすそうな襖を開く。光の届かない薄暗い室内は襖に描かれたキラキラとした塗料の手の込んだ絵を守る為だろう。
四方を飾る金糸飾りは間違いなくガチで金である。この襖一枚とっても高値で売れそうだ。
ウルトが見たら大喜びだな。血臭がしなければ更に良しだったが。まぁ文句は言うまい。
立ち止まる。襖一枚向こうに人の気配。異界人の男と剣聖。それならばここが目的地に間違いあるまいて。時間を掛ければ掛けるほどに状況は悪化する。急がねば。
すぱぁんと襖を勢い良く開け放つ。
「うわあ」
広々とした空間。しかしひっでぇ有様だな。アスタレルの奴暴れすぎだろう。あちこちに広がる血痕と臓物。上半身が消し飛んだ奴らがあちこちに転がっている。
周囲を見回してから、広大な広間の先にある上座に視線を向けた。
人間が三人。異界人と剣聖、そして好色そうな狒狒爺が上座にどっしと座っている。あとは控えているのか。気配はあるが姿は見えない。手を出してくる様子は、ない。
三人が立つ最上座の部屋の上部には、こりゃまたどでかい穴が開いている。お空がぽかりと覗いているレベルだ。あの三人が無事だったのは座ってたからか。どうにも上部ばかりを狙った攻撃ばかりをしていたようだ。
あいつあの三人に気づかなかったのか?
でもあいつフィリアが目の前に居ても気づかなかったからな。悪魔は人間に気づきにくいのだろうか。
腕を組んで三人の様子を眺めてみる。異界人のおっさんはいかつい顔を崩すこともなくこちらを静かに見つめ、剣聖と狒狒爺は多少顔色が悪い。まぁこの凶行を目の前で見たのだろうし、それを思えば仕方がないところもあるだろう。
私だってアスタレルが全力で大暴れする姿なんて見たくない。確実にトラウマになる。目の前に浮かぶようだ。声を押し殺して吹き飛び続ける周囲に怯えながらじっと身を竦めるのが。きっとあの三人もそうだっただろう。可哀想に。
目的の人物は広間の真ん中辺りに転がっていた。周囲に色々削れた死体が転がっているのでちょっと心配したが、遠目に見ても傷はなさそうだ。
ふむ、ここは大胆に行くべき。てくてくと歩いてフィリアに近寄る。静止はない。
「……………」
フィリアの身体の傍にしゃがみこんで身体を検分。やはり怪我はなさそうだ。ぽかりと口を開けさせてからぐいぐいと結晶化した魂を押し込む。喉がごくりと動いたのを確認してからよしと頷いた。
目的は達したので用はもう無い。しかしここまで止められもしないとなると多少心配である。
聞いてみるか。目の前に居るんだしな。
「止めないの?」
私の問いに答えたのは異界人のおっさんである。顔の傷が歴戦の猛者って感じがして強そうである。悪魔一人くらいは引きずってくるべきだったかもしれん。
「止めても意味がないのだ。その身体は先程の衝撃で術式の全てが破壊された。セレスティアの器としてはもう使い物にならぬ。
持ち帰るならば好きにする事だ。我々の目的は既に達成された」
「む。目的って何さ」
「幾つかある。先ずはアンジェラと言ったか、アルカ家の自律人形とノーブルガードの娘の肉体の奪取、あるいは破壊。あの街と暗黒神討伐の任を請ける事。
金狐の勾玉のオリジナルの入手。そしてこの島国の頭領の依頼の遂行。もう一つあったがそちらは時期を見るつもりだったのだよ。
思わぬ前倒しで全てを一気に片付けられたのは幸運と言えるだろう」
「ふーん」
気のない返事をしつつも目が泳いでいる事がバレませんよーに。
なんでこの場にアスタレルかルイスが居ない。私ではさっぱりわからん。入る傍から詰め込まれて結局全部出ていってしまったぞ。
震える声で話を継いだのは剣聖ジェダ。
「……我々は見るつもりだった。足るかどうかを。
だが、答えはもう語るまでもない。豊臣の、構わんな」
その問は狒狒爺に対するものだったらしい。座ったままの爺は冷や汗を掻いているがそれでも声は震えては居なかった。
「おみゃーらの好きにするぎゃ。
儂に文句はねぇがや。見るべきものは見たんに。
流れは兎も角として、時が満ちた事に違いはないにゃあ。次が来る保証なぞ無し、刹那に命を懸けるが人間よ」
何やら話が進んでいる。いかん、話に置いて行かれていることがバレたら恥ずかしいどころではないぞ。
したり顔で頷いておくに限る。
「暗黒神アヴィス=クーヤ。四千年前にあった次元断裂というものを知っているかね?
勇者が邪神の身体に剣を突き立てた瞬間、断末魔とともに世界が引き裂かれた、我々のような異邦人からすれば御伽噺に近いがこの世界でそれがあった事は純然たる事実なのだよ」
「聞いたような……聞かなかったような……」
うっすらと記憶に残っているような……なんだっけ。
「何。大した話ではない。再現しようというだけだ。今この場で」
「…………む?」
「元最高神の太陽神とは言え当たり前だが邪神程とはいかぬのだよ。四千年前の規模には程遠い。精々がこの島が飲まれるぐらいになるだろう。
そしてその程度が今の我々にとって最も都合が良い」
異界人ゲルトルート=ガントレットが取り出したるはあの黒の勾玉。
「ここが地獄と繋がるのは目的遂行に必要な事象の一つだった。こればかりは運試しと思っていた程だったのだが。
存外に早く機会が訪れた」
放り投げられた勾玉、酷くゆっくりと見えるそれは黒い光を放ちながら宙を舞う。
同時に私の背後に降り立つ気配。
「暗黒神様」
がっしと私のイカ腹に左腕が回る。フィリアの身体が犬猫のように持ち上げられるのが視界の隅に見えた。
ゲルトルートが抜いたサーベルが一筋の光となって白銀の煌めきを放つ。
ギッ、硬質な音と共に勾玉がそれに触れた。黒い石に罅が入るのが確かに見えた。
カキン、軽い音と共に勾玉は二つに割れ、狐の鳴き声が響き渡り勾玉から溢れた黒金の光を中心に、まるで硝子が割れるように空間に罅が入るのを私は見た。