鬼の住む島3
残りはどれほどだ?
私は必死に走っていた。背後の気配は粘着くようにして離れず、ぴったりと寄り添うように後を追ってくる。
本を抱え込んで離さぬまま、後ろを振り返るが気配ばかりで姿はない。
一時間半ほど前にクルシュナが残った。残りは私とクロウディアさんとくればさて、次は私だと気合を入れたのだが。
唐突に立ち止まったクロウディアさんは思いもかけない事をおっしゃったのである。
「余が足止めをする。主は走れ」
「………なぬ!?」
まさかの私が最後発言に目を剥く。私で逃げきれるとはとても思えないぞ!
フィリア、アレク、クルシュナ。
私が逆さになっても勝てないようなメンツが残った筈だというのに、本当に時間稼ぎしか出来ていないのだ。
三人がどうなったかはわからない。だが今もなおこちらに追いすがる気配を思えば三人が捕まった事は想像に難くない。
それを思えば、私が逃げきれる筈がない。どう考えても進むべきはクロウディアさんだ。
「いやいやいや、私が残りますよ!」
いくらなんでも責任重大すぎる。どう考えたとて無謀だ。
まぁ一対一では本を使う隙などほぼあるまいに、私が足止めの役を担ったところでたかが知れているだろうが……私が逃げきる役をやるよりは遥かにマシであろう。
ここで先に進むべきはどう考えてもクロウディアさんだ。
が、クロウディアさんは目を眇めてつんと顔を斜め上30度にあげた胴に入った華麗なる見下しなお顔をなさりながら口をへの字にして面白くなさそうに拒絶を述べた。
「余が足止めをすると言ったであろうが。二度も言わせるでないわ。
主を逃がすと余は決めた。良いか、捕まるでないぞ。
行け!!」
「おりゃーーーーーーっ!!」
行けと言われるととっとこ暗黒神の本能が疼いて行かざるを得ない。
下知をくだされた猟犬の如く、餌を投げられた駄犬のように一直線に、すっとぶように私は走る。
クロウディアさんめ、私の使い方を心得ている。やりおるわ。この暗黒神、言い訳のしようもない完膚なき敗北である。
私の意思ではどうにも出来ない具合で暗黒神レッグが火を吹いている。
どたどたと土煙をあげながら私は走る。
振り返る。
逃がした小娘の姿は遥か遠くに霞みてやがて視界から消えた。
物理的な距離などこの結界内にあっては幾らあっても足りるものではない。
逃げる者がどれほど走るか、それはこの遊戯の勝敗に何ら関係は無し。
残る者がどれほどの時間を稼ぐかが全てにして、クロウディアの意識が向かうは目前に立つ女のみ。
これを鬼ごっこなどとは言わぬであろう。今も昔も変わらぬ懐かしき空気。闘争の悦びなどとあの吸血鬼でもあるまいに。
らしくない。なんとも、らしくない。
この胸の高鳴り、熱くなる魂、意識の底で静かに燻ぶる黒き炎。なかなかどうして。思うた以上に高揚しておるか。
聞けばマリーベルだけではなくウルトディアスまで居るというのだ。
世界はまた面白くなりそうだった。実に。
想うは嘗て謁見を果たしたる混沌。
この結界内で腐り続ける日々に、濁っていた世界が黎明を迎えた如くに澄み渡りて手を伸ばせば届くとさえ思う。
あの頃のように。
最上位精霊が持つ神域に等しい結界、飲み込んだ魂は千を超えよう。
ただの魔族であれば、何ら手を打つことも出来ずにこの遊戯に敗北したであろう神域。
数百年はくだらぬであろう時をこの結界内で遊戯の元に魂を簒奪し続けた鬼の姫。
あの鬼姫が何を求めたるかはクロウディアの知るところではない。
この結界の維持の為、全てを諦め受け入れ、飽いてなお、精神を削るようにしながら只々この遊戯に興じ続ける女の求める物など常人には理解の出来ぬ代物に相違ない。
じゃりと足で地に円を描く。魔術の組み立てなどこれで事足りる。
こちらへ肉薄しつつある女を笑った。
悪魔と踊る娼婦、あらゆる享楽の限りを尽くしたる狂宴の魔王、遊戯に勝とうなどと、二千年早いわ。
「さあ、鬼なる姫よ。
余と遊ぼうぞ!!」
炎が吹き上がった。
ただの赤の炎などクロウディアからすれば児戯にも等しいが。
この黒の炉に思うがままに魔力を流し込みてこの結界諸共に爆炎の中に消し飛ばしてやればさぞや楽しかろうに。
そのような事さえ出来ぬ有り様に我が事ながら笑うしかあるまい。
子供騙しの魔力しか扱えぬ様なぞ、以前では考えもせなんだ。
炎などものともせずにクロウディアを捕まえんと迫る女の後を追うが如くに雨が降り出す。
炎に炙られた雨が蒸発し水蒸気となって辺りに立ち込める。その炎霧の中に立つ女はクロウディアを見つめながら静かに答えた。
「居なかった」
「……何?」
「……鬼など、何処にも居なかった。
私が見たものは人の業だけ。此処には鬼など最初から居なかった」
世界が書き換わる。
女が描く絵巻物語は墨を流しながら女の世界を彩りて広がる。
神霊族とも、魔物や眷属とも違う神域結界。
クロウディアとて覚えのあるものだ。無論、早々居るものでもないが。
ラプターの自動人形、永遠少年、人の狂気と業が生み出す形を伴い顕現する精神世界。
「この力、魔族でもない、亜人でも、神霊族でもない、そなた――――――――」
「此処は私の領域、私の世界、私は伝承に謳われたるこの鬼ヶ島で待ち続ける―――――――真の鬼を!!」
魂からなる結界領域、目の前の女が如何なる者か、もはや問うまでもない。
悪鬼羅刹が住まう嵐の間に揺蕩う幻惑の島、そこに住まうていたのは鬼などではない。
「―――――人間とはのう!!」
「――――神羅大封印。海に、風に、土に、炎に、万物に解けたる我が魂が、汝を封印します!
人々は望んだのです。神羅大封印、その顕現を!
鬼が居ないなどと……こんな馬鹿な話はありません……あっていい筈がない……!
私は何の為に、誰の為にあんなものに耐えたのです……!
あんなものが人間であった筈がない……!!人間であって良い筈がない!!
でなければ、わからないではないですか……私の命は何だったのです……神羅大封印の依代となる為だけに在った私の存在は何だったのです……!!
私は信じ続ける、私こそが神の工芸品であると!!
真の鬼、真の邪悪がこの世にあると……!!」
「余は魔王クロウディア、たかだか八百かそこらしか生きておらぬ尼巫女めが、戯れ言を抜かしやあぁああぁぁああ!!」
光が爆ぜた。
遠くで爆発音。立ち止まりはしない。
必死こいてひーこらと私は走る。
残り時間はおそらく10分もあるまい。短い時間だが、これを逃げ切るのは至難の業であろう。
ここで追いつかれるわけには行かない。
理由はわからないが私は皆さんにこの役目に選ばれたのだ。
皆さんは私がどうにかできると思ったのだろう。そうでなくば今、私が此処に立っている理由はないのだ。
この本か、あるいは別の何かか。何かが信頼に足ると思われたのだ。
そこは私の知る所ではないが……聖女のフィリアに、暴食のクルシュナ、素性は知らんがアホみたいに強いアレクに、魔王クロウディアさん。やる気を出すに十分だった。
この信頼に報いるのだ。何もせずに捕まるなどと出来よう筈もない。
やらねばならんだろう。出来ることは何でもやるのだ。
私は本を開く。
どうにもこの世界で彼女に干渉するのは魂の変質やら、ああいう系統になるらしい。ボカスカ買えるような代物じゃない。
姿はちゃんと認識できるし触れることも話すこともできるが、多分彼女は実際に私達の目の前に居るわけではないのであろう。端末みたいなもんに違いあるまい。
となれば以前に勇者に使ったような物理的な足止めはおそらく通用しまいて。ばばばっと本を捲る。目的の商品はすぐに見つかった。
ここから先は一種の賭けに近い。あの龍を思い出す。そう、うなぎである。
彼女はどうにも出来ない。だったら出来ることと言ったら私をどうにかするのだ。これしかない。
二度と買わねぇと誓ったばかりだが大人の事情って奴の前にはそんなもんは風の前の塵に同じ。
おりゃーと大量購入してやった。出てきた山と積まれたそれを私は暗黒神リスとなってとにかく頬袋に詰め込む。
時間はない。後が怖いとか何がどうなるかわからないとか言っている暇はないのだ。
みっしりと頬いっぱいに頬張り、なんとかぐぐと喉を動かしてその全てを胃袋に収めた。
商品名 きび団子
食べた人をパワーアップさせちゃいます。
脅威の百万馬力。鬼もなんのその。
ボカーンと星が爆発した。