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7.公国の決断

 その年、沙南公国は、比較的暖かな新年を迎えていた。

 朝晩は冷え込むものの、雪が降るほどではなく、青く晴れ渡った空の下、西公・珪潤の執り行う、祖霊と神霊に国の一年の安泰を祈る新年の儀式が、滞りなく行われた。





 新年の儀式が一通り終了した明けて七日目、 城の廊下を歩む紅珠と嵐がいた。 城は沙南公国の行政府であると同時に、西公の住まいも併設している。二人が向かっているのはその、行政エリアから長い廊下と内庭で隔てられた、西公のプライベートエリアだった。

 人気のない廊下はしんと冷え、二人の規則正しい靴音だけが、木の床や壁、天井に吸い込まれていた。

「そういえば、おぬし、身体は大丈夫なのか?」

「ええ、ご心配には及びません」

 嵐の問いに、紅珠は軽く微笑みながら答える。

(そんなわけなかろうが…)

至って平素な表情で隣に立つ女に、嵐は胡乱気な視線を向ける。





 紅珠は青の砦での事件が一段落した後、倒れて一晩伏せっている。原因は戦いの最中に負った怪我で、当然と言えば当然のことであったが、その知らせを聞いた嵐は、比喩などではなく驚愕した。なぜならば、当の本人は、屋上での異形の怪人との戦闘後、詳しい検証は翌朝にしようというところまで、様々な事後処理を問題なくこなして自室に戻ったのを見送った後だったからだ。

 就寝前に所望されていた水を届けに行った厨房係が、寝台の側で明らかに異常な様子で倒れている紅珠を発見しなかったら、どうなっていたか、それを考えると、嵐は頭痛を覚えずにいられない。

 紅珠の怪我は、主に打撲で、特に背中と左肩のものの症状が酷く、酷く腫れて熱を持っていた。左肩を看た医者は、骨折まではしていないものの、下手をしたら骨にまで症状が及んでいるかもしれないと言い、そんな状況で戦闘を続けていた紅珠に、驚くよりも呆れていた。それなのに…と、嵐は自分の隣に涼しい顔をして立つ紅珠の姿に、溜息を吐く。

 今現在の紅珠の様子から、彼女が最低でも全治30日以上を宣告された重傷患者であることが分かる者はいないだろう。外見から分かる部分では、こめかみの辺りに絆創膏が貼られている以外に怪我を負っていることを示すものはない。しかし、普段着ているところをとんと見たことのない、沙南の官僚の制服である、ゆったりした服を着ているのは、これから西公に会いに行くことが理由ではないだろうと嵐は確信している。





「そう言えば」

 ふと紅珠が嵐に視線を向ける。

「まだお礼をしていませんでしたね」

「何をだ」

「あの時、看病していただきました」

ああそんなことか、と嵐は頷く。





 紅珠が倒れた夜、診察した医師は、傷と打撲から高熱を発していた紅珠に、薬を服用させていた。薬の効果か、間もなく眠りに就いた紅珠であったが、しばらくすると再び熱が上がり始めていた。

 その夜は、事件後も砦は落ち着かなかった。本格的な事件の検証は翌朝以降となっていたが、負傷者――そのほとんどの症状は有害なガスによる中毒症状に似ていたが――の治療や、砦内外の見張りの厳戒体制強化が敷かれていた。そのため、当然負傷者看護には人手が足りなかった。そこで、術の行使で多少の消耗はあったものの、負傷もなく疲労も軽く、しかも武力は皆無で見回りの役には立たない、かつ、正規の軍人ではない嵐は、看護の手伝いをしていたのである。

 明け方近く、病室の見回りをしていた嵐が、紅珠の部屋を覗くと、荒い息でうなされる紅珠がいた。どうやら傷口が腫れて熱が上がったらしいと判断した嵐が、冷やした布で顔の汗を拭ってやるうちに、薄く紅珠が目を開いた。

「おお、起こしたか、済まぬ」

「嵐…さん?」

声をかけてきた方に億劫そうに首を傾けた紅珠は、腫れぼったい瞼で何度も瞬きしながら、ほのかな灯りに浮かぶ嵐の姿に、驚いたような声を上げる。

「どこか痛むか?」

「いいえ」

「痛み止めの薬があるが飲んでおくか?」

「いいえ、…大丈夫ですよ。もうじき夜が明けるでしょう?その頃には…」

言葉を重ねる毎に紅珠の声はか細さがなくなり、はっきりとしてくる。しかしやはり辛いのか、何度も瞬きを繰返す表情には、常の鋭さはなかった。

「おい、あまり無理するなよ」

嵐がさすがに危ういものを感じて眉をしかめるが、紅珠は軽く口許を歪めて笑みをつくるだけだった。

「もう、眠るがよい」

 嵐が溜息を吐きながら、もう一度布を冷やして紅珠の額に載せる。その上から軽く押さえ付けるようにする嵐の手に、紅珠の指が触れる。

「…気持ちいいです」

布に半分隠れている紅珠の表情は、瞼を閉じていて、熱のためかやや火照った肌の色も相俟って、普段の人形のような印象は為りを潜めていた。年相応の少女が甘えるような指の仕草に、嵐は思わず苦笑する。

「相当熱が高いようだのう」

苦笑に紛れて洩れた嵐の呟きに返る答えは既になかった。





「あなたも疲れていらっしゃったでしょうに、引き止めてしまって申し訳ありませんでした」

「いや、気にすることはない。おぬしはあの後すぐに眠ってしまったしな。わしもすぐに部屋に戻って寝てしまったからのう」

 妙に神妙な表情で詫びの言葉を口にする紅珠に、嵐は軽く笑って頭を振る。

 実際、あの後紅珠は間もなく深い眠りに就き、嵐の手を握っていた指の力も直に解けてしまったので、嵐はそれを合図に彼女の部屋を出て自室に戻った。その間、ほんの十数分ほどであった。嵐としては、通常の看護の役割の範疇で、迷惑を掛けられたとも思ってはいない。むしろ彼にとっては、その翌日、何でもない様子で襲撃の後始末に出ていた紅珠の姿を見た時の方が、よほど驚きに気疲れした出来事であった。

「心配し過ぎですよ。傭兵稼業なんてやってたら、あのくらいの怪我なんて日常茶飯事です。そのたびごとに何日も寝込んでいては、やっていけません」

紅珠が明るく言って笑う。一見すると何の含みも何もない朗らかな笑顔に、ついつられて頷きそうになるが、それは違う、と嵐は内心で踏み止まる。

「私は、砂漠の不死身の戦士なんですよ」

紅珠が言う。飄々とした態を装った煙に巻くような言葉は、どこからが冗談でどこからが本気か、嵐には分からない。誤魔化しの巧い奴だ、と思いつつ、嵐はそれ以上追及するのを止めた。






「わざわざ来てもらってすまないな」

 私室に現れた紅珠と嵐の二人に、西公・珪潤は如才ない態度で迎えた。連日の公式行事による疲労は多少感じられたが、それ以上に久々に公務から解放された、穏やかな雰囲気で二人の客を迎えた。

「いえ、貴重なお時間を割いていただきまして、ありがとうございます」

紅珠が微かに柔らかな笑みで軽く頭を下げる。言葉も礼にかなったものであったが、その口調には親密な響きが溢れていて、嵐は「おや」と思う。

「そちらがそなたの言っていた者か」

珪潤の視線が紅珠の隣に立つ嵐に向けられる。

「はい、嵐と申しまして、禾峯露の街で出会いました。諸国を旅してきた経験、そして多方面にわたる知識、急場における状況判断能力、いずれも長けた者と思われます」

紅珠が嵐を示しながら潤に紹介する。紅珠の口上に潤は頷き、嵐に笑顔を見せる。

「珪潤だ。この度の働きも、報告を受けている。ご苦労だったな」

「嵐と申します。この度は過分なお引き立てをいただきまして、感謝しております」

嵐が言って、深々と頭を下げる。知識として宮廷の礼儀作法は知ってはいたが、嵐は沙南公国の人間ではなく、あくまで紅珠の知人であり、沙南公国としては客人でしかない。そのため、過剰な礼儀は避けたのだが、それはむしろ珪潤に好ましい印象を与えた。

 二人の客人に席を勧めて自分も同卓に着く。そこに何もないのに気付いた紅珠が隣室に茶の準備をしに立つと、部屋には二人の男が残された。

 嵐は失礼にならない程度に室内に視線を巡らせる。

 沙南貴族の邸宅には、あまり招かれたことのない嵐であったが、その彼にしてもこの部屋の趣味の良さはうかがわれた。決して派手さはないが、上質な家具調度の揃えられた室内は、心地よい落着きを感じさせるもので、部屋の隅の薪ストーブが時折立てるぱちっという弾ける音が、この部屋の居心地を、更に身近なものにさせていた。

「何もない部屋だろう?」

 嵐の視線に気付いたのか、潤が軽く笑いながら言う。

「そうですな、一国の主ならば、もっと豪壮な部屋でもおかしくないですな」

嵐が軽い調子で返す。

「しかしとても落ち着ける部屋です」

嵐の言葉と笑顔に、潤も穏やかに笑う。

「近臣たちには、常々言われるのだ。もっと贅沢をしてもいいと。贅沢をするのも首長の役目だとな。だが、どうにも性に合わぬのだ。――まだ、父も弟も亡くしたばかりだしな。そのような気にもなれぬというのもあるが――元々あまりそういうものに興味もなくてなあ」

何でもないような潤の言葉に、嵐はしかし彼の内面の寂寥を感じ取る。そして王都・大都でのことを思い出す。

「弟君は――沙南公国前副公殿は、良きお人とお見受けしました。あのようなことになり、大変残念に思います」

 嵐の言葉に、やや潤の顔色が変わる。

「そなた…弟を、いや、元副公・珪節を知っているのか?」

「はい、昨年8月の会議の折、わしは大都におりました。あの時期、大都では人手不足で、わしは臨時雇いの会議の書記として、働いておりました。その際、偶然、ほんの少しの時間ですが、珪節殿と直接お会いする機会もありました」

「何と……それは何という、奇遇であろう」

 潤はしばらく絶句していた。昨年8月の『皇公会議』での沙南公国副公・珪節の会議報告は、連日、詳細に届けられていた。王都・大都とここ沙南公国では、人の足では日数がかかるが、術によって開かれていた『転送門』からは毎日公式書簡が届けられており、各公国では、その書簡によって会議の様子をある程度知ることができた。また、沙南公国独自の通信網として、会議の時期には特に、鳥による書簡の遣り取りが行なわれていた。これは、多少の時間はかかるが、それでも人間や地を駆ける動物と比べると、比較にならぬほど早く移動できる能力と、訓練によって任意の地点を行き来させることを覚えることのできる鳥の習性を、書簡の遣り取りに利用したものだった。この方法で届けられるのは、公式文書からは分からない、内輪、かつ秘密の内容が主なもので、あの日――『東姫密書の変』が起こった当日の緊急書簡が最後のものとなった。それは今は亡き景朔林直筆の走り書きで、文章の末尾には、ほとんど掠れるような訴えとして、彼自身の言葉が記されていた。

『節様は、誇りをもって西公代理を務め上げられます』

『西公閣下においては、何卒ご自重ありますように』

 ああ、確かに副公・珪節は、宰相・景朔林は、誇り高く、最期まであっただろう。全ては、沙南公国の公たる自分のため。沙南公国の正当性を身をもって示すため。だがそのために喪ったものは、同じ両親の血を分けた、実の弟と、血縁こそないものの、物心ついた頃から身近にあって、実の父親と同じくらいに教えを受け、頼りにも頼みにもしてきた、父親代わりとも慕ってきた大切な重臣。珪潤にとって、かけがえのない人物二人という代償は、果して正当な代価であったのか。

 珪潤にとって、8月の政変で失ったものは、かけがえのないものであった。彼にとってかけがえのない存在の、その生きた最後の様子を知る人物の証言は、どんな些細なものであっても、彼にとって何よりの喜びであった。

 嵐が知る限りの、王都・大都での沙南公国副公と宰相の生前の様子を語ると、しばらく珪潤は、卓に肘をついた片手で目元を覆い、無言だった。その話の最中に隣室から茶の準備をして戻ってきた紅珠も、ただ何も言わず、語る嵐と食い入るように耳を傾ける潤を見つめているだけであった。

「……辛い話を、お聞かせしてしまいましたか?」

 暫くの沈黙を、嵐の言葉が破る。

「―――いや、いや、いや」

重い声で、潤が応じる。

「――辛いわけでは、ない。むしろ、そう、嬉しい話だ」

紅珠が無言でトレイに乗せたポットから暖かい茶を器に注ぎ、静かに潤の前に置く。こぽこぽという水音と馥郁たる香りが、少しだけ室内の空気を柔らかくする。

「――あいつは、私の弟なのだが、時々兄を兄とも思わぬ生意気を言う奴でな――」

紅珠がもう一つの器に茶を注ぎ、嵐の前に置く。嵐はゆらゆらと揺れる湯気越しに、独白のような言葉を吐き続ける珪潤をじっと見つめていた。

「――考えてみれば、あの時も、そうだったな。私が行くというのに、自分が行くのだと言い張った――安心して、ここで待っていろと。羽根でも伸ばして女でも探していろなどと――」

言って、潤は口許を無意識のうちに緩めていた。出発間際、『転送門』の前で交わした会話が蘇る。





 ああ、全く、最後まで生意気な弟だった。

 自分とは対照的に、楽観的で、快活で。

 だが、二人で力を合わせ、父の跡を継いで、この沙南公国を支えていこうと誓った、無二の盟友でもあった――





(やはり、納得できない)

 覆った視界の中で、歯噛みするような思いが潤の思考を占める。

 有り得ない謀反を疑われて、死に追いやられた節と景朔林。

 怪しい雰囲気を感じていたのに、自分の代わりとして会議に出席するといった節。

 それに同意した廷臣たち。

 それを認めた自分自身の『西公』としての決断。

(例え、それが単なる私怨であろうとも、私には――)





 ふっと、潤の手が眼元から離された。それほど長い時間が経ったわけではなかった。しかし短い時間に、彼の中を多くの巨大な感情が巡っていた。その苦悩の姿は、今まで誰にも見せたことがなかった分、今、この室内にいる二人――紅珠と嵐――の前で、心を剥き出しにしてしまったような羞恥と困惑を、潤は感じていた。しかしそれらの感情を認識してしまうと、奇妙な安堵感を――不思議なことに――覚えていることにも、潤は気付いていた。

「――見苦しいところを見せた。済まぬ」

 低く、掠れた潤の声に、嵐が頭を振った。

「――いや……」

嵐の表情にも声音にも、余計な同情も何もなかった。それが潤をより安心させた。嵐が目の前の器を取り、口に運ぶ。それに倣うようにして、潤も無意識に茶器に手を伸ばす。温もりと磁器の手触りの良さが、全身の感覚を現実に引き戻すように、潤は感じる。

「――旨いな」

 一口含んだ茶の香りと舌触りの良さと適当な温度に、潤が無意識に呟く。

「ありがとうございます」

紅珠の静かな声がそれに応える。はっとしたように視線を向けた潤は、そこに柔らかく微笑む紅珠の姿を認める。心裡の激情がゆっくりと収まり、代わりに確かな、何か堅いものがそこに生まれるのを、潤は感じる。

「――頼みが、ある」

 潤の言葉に、嵐は頷く。両手で掴んだままの茶器を卓上に静かに下ろしながら、嵐は潤の言葉を待つ。

「これからも、この国に、沙南に留まり、力を貸して欲しい。私は、まだ未熟な身で物足りない思いもさせるかもしれない。だが、決して失望はさせないつもりだ。沙南の人間として、私の友として、そなたの――そなたらの、力を、知識を、貸して欲しい」

潤の視線がまっすぐに嵐を見据え、そして紅珠へと動き、再び嵐に戻る。座の二人を等分に見ていた紅珠は、潤の視線を受け、視線を嵐に向ける。嵐はちらりと一瞬だけ紅珠に視線を向けたが、すぐに潤へと視線を向ける。明るい翠色の瞳が、底知れぬ深さを湛えて、目の前の男を――若き沙南の統治者の姿を見据える。

「わしとて、知識も能力も、限りある身だ。学ぶべきは学び、知るべきは知ったと思う端から、この世には限りがないのだと知る、その繰り返しだ。だが、使えぬ知識など単なる無駄であり、徒に弄ぶだけのものならば、それに意味などもはやない――」

一呼吸して、嵐が続ける。

「わしの持つものが、真に役に立てられる場を、探しておった。もしそれが、おぬしの思うものと方向を同じくするのであれば、おぬしの決意を助けるものとなるならば」

紅珠の濃い紫の瞳が、じっと無言で嵐を見つめる。

「約束しよう。わしの持てる知識と能力を、おぬしの、沙南のために使おう」

「ありがとう。私はきっと、そなたのその気持ちに報いよう」

潤が微笑み、頷いた。その表情は、紅珠が今までに見たことがないほど、熱情を湛えたものであった。






 一渉り、室内の三者の感情が収まってから、珪潤は今日二人をわざわざ私室に招いた本題を取り出した。

「青の砦の姜将軍から報告書が届いた」

 その言葉に、紅珠の視線が鋭くなる。

「結論として、件の怪人はその身に着けていたものから、矸氏にほぼ間違いないと考えられる。そしてその体の変形の件だが――」

言いつつ、眉を顰めながら、潤が手にしていた書類の幾枚かを卓の上に置く。

「結論として、骨格に目立った異常は見られない。唯一、頭蓋骨が成人男性としては有り得ない形に歪み、結果として蛇の頭部に似た形を形成するようになっていた。しかし骨の形自体に変形は見られない。――鼻骨が折れていたが、それは報告からすると、紅珠、そなたの攻撃の結果の負傷だろう。だが、それ以外の骨に損傷はない。大きな異常があったのは、筋肉や筋だ。頭だけではない。全身の筋肉や筋が、伸び、歪み、或いは膨張していた。腕や胴体、脚部の異常な膨張部分を特に調べたところ、折れた骨を庇うように、その周囲の筋肉が異常に発達していたことがわかった」

「――つまり、いくら攻撃しても、傷が治っていたように見えていたのは、筋肉の異常な代謝現象であったと――?」

「そういうことになるな。皮膚表面の傷は、正確に言うと治癒していない。だが、筋肉が急速かつ異常に発達することで、本来の傷口を圧迫し、血管の破れ目を収縮させ、傷口が露出しない状態になる。折れた骨自体も繋がりはしないが、筋肉が骨と骨の繋がりを補佐し、或いはまるでトカゲの尻尾や蛇の胴体が動くように、関節となる部分を増やし、人間ではありえない鞭のような動きができるようになっていたものと考えられる」

 潤の説明を聞きながら卓に置かれた書類を取り上げて内容に目を走らせる紅珠が、目に見えて眉を顰め表情を険しくしていく。

 あまりにも突拍子もない報告書の内容は、荒唐無稽とすら言えるもので、常識に照らし合わせては、到底受け入れられないものと言えた。それを実際に相手にした紅珠だからこそ、それが戯言などではなく、事実なのだと認識できるが、そうでなければ何をふざけたことを、と呆れていたかもしれない。

「――だがまあ、これは身体が残っているからまだましだな」

 潤が書類をもう一枚卓に置きながら、眉を顰める。

「地下牢に残されていた大量の灰は、動物を燃やした時のものに、最も近いものだったと砦では結論付けたようだ。骨や肉片こそ残されていなかったが、骨を高温で焼き、粉にしたものに、非常によく似ていると書いてある。しかし、地下室が骨をも焼き尽くすほどの高温で焼かれたのなら、砦自体も無事でいられるはずがないし、そもそも室内には炎の跡などは見当たらない。そもそも地下への入口は木製の扉で塞がれていたし、空気穴程度の風量で、そのような高音が得られるとは考えにくい。しかし状況からは、そこに存在し得ない炎のような高温で、地下牢にいたものどもは灰にされた――そうとしか言えぬ状態だ。まことに有り得ない話だがな」

 報告書に目を通しながら、潤の話を聞く紅珠は、あの夜の地下牢のことを思い出す。

 岩壁の隙間からにじみ出てくる、得体の知れない黒い影のようなモノ。狂乱していた牢の中の捕虜たち。そして牢の中で不気味な黒い塊となって蠢いていた、あのおぞましい影。石畳の隙間から湧き出て、兵士の脚を捉えていた、あのモノ。

 屋上での事件を解決した後、地下室の様子を見に行った紅珠と嵐は、呆然とした様子の榴火をはじめとした、警護に当たらせていた兵士たちに迎えられた。既に扉は開かれており、その先にはただぼんやりとした灯りに照らされた空間が伸びているだけだった。

 何があったのか、やや要領を得ない証言をまとめると、それまでは絶えず扉を叩き付けたり揺らしたり、そのたびに扉の結界に触れて弾ける音がしていたのが、急に静かになり、結界も反応しなくなった。怪しみつつも状況を確認するため、覗き穴から伺ってみるが、それまでそこを埋め尽くしていた黒いモノは、既に見えない。それでも用心してしばらく様子を伺ってみたが変化がないため、用心をしつつ開けてみたところ、見ての通り、何もいなくなっており、ただ灰のような土のような、得体の知れないものが床といい壁といい天井といい、辺り一面にぶちまけられた惨状であった、と。

 用心のため直接灰には触らないよう、雪中行軍用のブーツやマスクなどで物々しく装備した兵士が奥の様子を探りに行ったが、ほどなく、生存者のいないこと、地下室の空間全てが同様の状況であることを報告してきた。あまりにも異様な状況のため、その夜はそのまま再び地下空間を封印し、翌朝以降片付けと本格的な調査をすることとしたのであった。

 少なくともあの時、あの地下室の中には、全く火の気はなかったし、異様な熱気の残滓も一切なかった。地下室を温めるためのストーブも、とっくに火が消えてしまっていたようで、奥まで行った兵士も、むしろ凍えるように寒かったと報告している。

「結局、これに関しては何もわからぬ、ということに、なりましょうか」

「…そうですね、あえて言うなら、人の身体が一つの肉塊に変形させられ、それが一斉に灰になり崩れ落ちてしまった――というところでしょうか?」

「……まるで、出来の悪い怪談か妖怪話のようだな」

 最後の潤の言葉に、紅珠がふと表情を変える。何かを思い出すような視線に、嵐が気付く。

「どうした、何か気が付いたか?」

「いえ…怪談、で思い出したのですが……確か、『闇の眷属』は、死ぬ時には肉体を失い、灰となって飛び散ってしまう――と」

 紅珠の語る『闇の眷属』の話は、潤は勿論、嵐にも知らないことが多かった。とは言え、彼女自身も「はっきりしたことではない」と明言しているように、証拠となる文献などのほぼない、ほぼ口伝で伝えられているものだった。それでも、今紅珠が口にしたことには、嵐にも少し思い当たる点があった。

「……そういえば、遥か西方のいずれかの国に伝わる話では、邪な存在は、日の下で肉体を維持する力が弱く、ゆえに生命を失うと、肉体は塵となって消えてしまう、と」

「なるほど、どうやら我々は西方の事情にあまりにも暗い。少し本腰を入れて情報を集める必要があるようだ」

二人の言葉に、やけに深刻そうな表情になる潤に、逆に紅珠と嵐がいぶかしげな視線を向ける。二人の視線を受けて、潤は報告書を卓に置きながら、軽く頭を振る。

「矸氏の周辺を調査していた髄から内々に報告が来ている。矸氏が大量の薬品や薬草、呪いものを購入していたことは既に証言がとれていたが、その取引相手がほぼ判明した。それによると、奥方の故郷である、中央の商人とも多くの取引がされていたが、それ以上に、沙漠の道を越えた西方の国の商人との取引が最も多いということなのだ」

「――なるほど、この件に関しては、中央よりも、西方の国々との関わりが濃厚な可能性が高い――と」

「まあ、まだ確証はないがな。単純に、我が国が香草を仕入れる先は西方の国々となるから、偶然の一致でしかないのかもしれん。だが、沙漠の向こうの国情について、我が国が今まであまり配慮してこなかったことは事実だ。主な通商相手のカジャルについても、最低限の情報しか握っていないということは、よく考えれば随分な手落ちだ。この際、西方への政治方針を改めることは、必要だろう」

 潤の声には、並々ならぬ思いと熱意が含まれていた。沙南公国という、大陸通商路の東の終点という重要な位置を治める政治家としての彼の決意には、昨年の政変以来、改めて「沙南」という国を如何様に位置付け、どのような方向へ向けていくべきか、悩み考えた、一つの結論がそこにあるようだった。

「確かに、それは重要なことと存じます。微力ながら、私もお力になれるよう、努力いたしましょう」

紅珠には彼女独自の情報網――すなわち、「砂漠の民」のネットワークがあった。それは吐蕃皇国のみならず、北は草原の道を越えた北西の地域、すなわち西域諸族の領域から、西は沙漠周縁の街やムラ、そしてカジャルや大陸通商路の西端、バルジャ王国にまで、その分布は及んでいる。本気になって彼らとの繋がりを持ち、情報を統合すると、多くのものが得られるであろうことは予想できた。ではなぜそれが今までされていないのかといえば、現在のように砂漠の民の活動が穏健なものとなり、ある意味での集権化が為されるようになったのが、わずかこの十数年前からにすぎないからである。

 困難なことではある。しかし意味はある。そう、紅珠は考えていた。沙南に紅珠が腰を落ち着けてから、まだ一年にも満たないが、その短い期間の経験は、彼女の内面に、明確な変化をもたらしているようだった。

「是非、頼む。私には、いや、この沙南には、今あまりにも人材と情報が不足している。我らのこれからには、何よりもそなたらのような力が必要なのだ」

 潤が言い、ふと口をつぐむと、大きく息を吐き、俯く。紅珠と嵐が潤に視線を向け、様子を見守る。

「――今日、だけだ。今から、少しだけ、我儘を許してくれ」

苦しげですらある低い押し殺した声だった。常ならぬ潤の様子に、紅珠すら軽く目を瞠る。二人の視線の先で、潤はまるで神に祈るときのように組んだ両手を額に当て、じっと俯いている。

「私は、大それたことを願っている。それは、非常に利己的な、個人的な動機に基づくものだ。為政者としてはあってはならぬ態度だ。個を抑え、全ては民の為に。私はそう、父と、師から教えられてきた。感情に流されず、公正に、大局を見極め、より良き方向へ民を導くこと。それが人の上に立つ者の担うべき役割である。個人の感情に従って民の生活と命を少しでも危険に晒すことなど、言語道断である、と。だが、今、私は、私の感情は、その教えに、刃向かおうとしている」

苦しげな独白にも似た声が、一旦途切れる。

「私は、大それたことを願っている。皇のなさりように、我らの国を、民を、辱める皇国の在り方に、私は叛意を抱こうとしている。国民の益にならぬ国など、あってはならぬ。その大義名分で、私は、大逆の罪へと己を突き動かしてしまいたいと願っている」

潤の声以外、時折炎の中で弾ける薪の音の他に何も音のない室内で、潤の呼吸音がやけに大きく響く。

「――今なら、まだ間に合う。私のこの願いが誤りであるなら、そう言ってほしい。止めてほしい。そなたらは、この国においてはまだ経歴も浅い。私のことも、知らぬことが多いだろう。しかしそれ以上に、私の知らぬ、この国以外のことも知っている。私には与り知らぬ知識と経験を有している。私とは、この国の者とは、違う視点で物事を見、判断を下すこともできる。だからこそ、私は願う。今、ここで私を止めないなら、きっと私は、大逆の罪へと進んでしまう。それが身の程を知らない大それたことであると、理に適わぬ行動であると思うなら、今、ここで私を止めてほしい」

 沈黙は、長くはなかった。静かに、紅珠が頭を振った。

「貴方が、利己的な動機で大それた願いを抱いているというなら、私とて同じ。この吐蕃という国、肥大し、尊大に他を見下すこの国の在り様に、この国に生きる我らは、今まで、それでも従ってきた。でも、くにたみと認めた者を差別し、虐げ、人間を人間とも思わぬ振る舞いをしてもなお、その歪さに気付かぬその思い上がり。――私は、許せない。そう思った。だからこそ、ここに、貴方の下に来たのです。この思いが、大それたことというなら、それでもいい。大逆というなら、それで構わない。私たちには、国を選ぶ権利がある。選ぶ権利などないと言うなら、国を住みやすくする権利がある。それすらないと言うなら、この国に我らを治める資格などない。――国は民を守るもの。民は国がなくても生きていけるが、国は民なくして存立し得ない。この願いが大逆と呼ばれるなら、私は国を変えたい。この国を変える義務と権利は、地位や身分に関わらず、我ら全てが持つものだと、私は考えます」

潤がゆっくりと視線を上げる。その視線を受け止めて、紅珠はやはり柔らかく微笑んだ。

「確かに、大それた願いであろう」

静かに、嵐が口を開く。

「一国を統べる身として、個を抑え、民を生かす道をただ探る、それは正しい。また、主君を戴き、臣として仕える身なれば、その決定に従うは当然のこと、疑問や、ましてや叛意を抱くなど以ての外、それは確かに正しい。だが、主君が誤りを犯すなら、それを身をもって諌めることもまた、臣としての重要な勤め。臣は主君の意を実行する手足であると同時に、同じ国にあって、それをより良きものとするため、共に働く、いわば同士であろう。わしはそう思う。そして主君を諌める行動とは、決して並々ならぬものだ。それが真に自己本位の思いのみで、他を考えることのないものであるなら、誰一人として同意を得ることはできず、助力する者もないだろう。だが、少なくともおぬしの思いと行動には、人を動かすものがある。おぬしの思いは、多くの人と心を同じくすることができる願いだろう。大それた願いとおぬしは言う。だがそれはこの国を変えようという意味での大それた願いだ。――わしには、少なくともおぬしの願いを、誤りだと断ずることは、出来そうも、ない」

 再び、室内に沈黙が下りた。それが居心地がいいのか悪いのか、潤には分からなかった。未だに畏れに近い恐怖は、拭い切れはしなかった。しかし、そういうものなのかもしれない、とも潤は思った。自分は、この、一歩間違えば身を切り裂かれるような畏れの感情を心裡のどこかに棲み付かせたまま、これからやろうとしていることへ進まねばならない。それがこの国を率いる身としての、義務の一つなのだろう。

「――ありがとう。二人とも」

 潤の言葉は非常に簡潔だった。しかし紅珠にも嵐にも、それで充分だった。






     *






 吐蕃暦332年1月。この月は、沙南公国にとって、そして、吐蕃皇国にとって、重要な意味を持つものとなった。

 後の世の歴史書は語る。この年、この月、吐蕃に新たな星が現れた。

 そのつよさ、はげしさをもって、開国以来300年の礎は大きく揺らぎ始めるのだ――と。






―五.緑の宝石の国・完―



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