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6.闇月の光

 山賊討伐作戦はその月の最後の週に行われた。

 作戦実行部隊は姜将軍率いる青の砦駐留部隊の兵士で、沙南公国政府からは西公からの検分役として紅珠と彼女の預かる部隊が派遣されていた。もっとも、彼女の部隊が派遣されたのは検分役とは口実で、実のところ、正規兵としての作戦実行を新兵たちに体験させるというのが本当の理由であった。

 傭兵出身者のみで構成された新部隊を胡散臭がることなく、かつ実戦経験を積ませることのできる場所と将として、沙南公国の境界で長い年月山岳警備にあたってきた姜将軍は適任だったのである。




 早朝開始された作戦は終始沙南公国軍有利に進み、昼過ぎにはほぼ制圧が完了した。アジトに集まっていた山賊たちの幾人かは山中に逃れたが、大半は捕縛された。逃れた者も引続き山狩りで捜索が行われることとなっている。吐蕃皇国の中では比較的温暖な沙南地方とはいえ、真冬の山中である。まず逃れられるものではないだろう。

 今回の作戦は、周辺で直接的に最も大きな被害を引き起こしている巨大な山賊組織を討伐するということで行われたものだが、それ以上に見せしめの要因が強い。

 最近の沙南公国郊外の街道は数ヶ月前と比べて格段に治安が悪い。それは吐蕃皇国の政情不安に便乗したならず者たちの仕業である。そこには複数の賊集団の関係が既に判明している。それらを根絶することができれば治安回復に最善の結果であろう。しかしそれは難しい。ゆえにこそ、その中でも最大の賊集団を一網打尽にすることは、他の多くの賊集団に対する牽制になると期待されるのだ。

 作戦は日の暮れる頃には終了した。捕縛された山賊たちは青の砦まで連行された。取り調べも徐々に進められているが、どうやら難航しているらしい。

「しゃべらないとはどういうことだ?」

 部下の報告を聞いた姜将軍が眉をしかめながら言う。

「はっ、大変申し訳ありませんが、理由は不明です」

「捕まえた時にはどいつも威勢がよかったではないか。重症の奴にも治療はしているだろう?」

「何か言ってはならぬと誰ぞに命令でもされているのか?」

「いえ、確かにそうかとも思えるのですが、そうとばかり言いきれぬ様子なのです。あやふやな言い方で恐縮なのですが、とにかく、覇気がないというか、生気がないというか、まったくこちらの言うことを聞いているかどうかも怪しい様子で、ぼんやりしているというのが最も的確な表現としか…」

「わけがわからんな」

渋い表情で姜将軍が言い、報告をしていた部下が恐縮の体で頭を下げる。

「申し訳ありません、必ずや至急にご満足いただける報告を…」

「ああ、いや、そう焦らんでよい。暗示や薬物…そういうものの影響の可能性はある。ならばそれに応じた対処をせねば、有効な証言も取れぬ。まずは今一度、奴らの様子を把握することが必要だな。すぐに対策をとる。それまでしばし、警戒を怠らずに監視しておけ」

姜将軍の命に尋問担当の部下は了解の返事をし、一礼をして下がる。

「君はどう思うかね?紅隊長」

 しばし考えていた姜将軍が紅珠に視線を向ける。指令室の末席で報告を聞いていた紅珠は、思考に沈み込む直前に声をかけられ、はっと顔を上げた。

「…私の考えは将軍とあまり変わりありません。ただ、証言拒否のための演技なのか、本気で呆然としているのか…その辺りの見極めは慎重にせねばならないかと。それから、仮に暗示にかけられているのだとして、その手段に“術”が使われていたとするなら、それはかなり厄介なことかと」

「暗示をかけるために術を使う?そのようなこと、あるのか?」

姜将軍は武勇の人で、あまり“術”のことには詳しくなかった。彼の部下にも術を使う者はもちろんいたが、中央の吐蕃王国ほど術研究が進んでいない沙南公国では、強力な術を使用できる者は限られたほどしかいなかったし、もちろん絶対数も少ないので、吐蕃王国のように術者のみで一隊を作るなどは考えられないことであった。

「はい、もちろん可能性としては、という程度でありますが。人の心を操る術などは一般的に成功条件も低く、術者には高い技量が求められます。しかし術による暗示がかけられた場合で厄介なのが、かけられた術の種類が解らねば、術を解除できない場合があることや、最悪の場合は術をかけた本人にしか解けない場合もあることです」

紅珠の言葉に室内がざわつく。

「そんなことがあるのか!?」

「もちろん可能性があるというだけです。一定時間がたてば自然と解ける場合が多いですし、術をかけた本人が意識を失ったり、命を落としたら自動的に解ける場合がほとんどです。ですが、すべての可能性を考えて対処せねばならないかと思いましたので、申し上げさせていただきました」

「なるほど、確かにそうだ。何か、見分けるような方法などはあるのか?」

「いえ…私も術の専門家というわけではございませんので…」

困惑したような紅珠の言葉に、将軍はわずかに苦笑しながら軽く息を吐いた。

「確かにそうだな。我らには情報や知識が足りぬ」

将軍の言葉は何気ないもののようであったが、そこには現在の沙南公国の状態の一つを的確に指摘するものがあった。紅珠は無言でただ軽く頭を下げた。





 砦内の各所からの報告をまとめ、今後の方針を決めたところで一旦散会となった。今夜は万一のことを考えて交替で番をすることになった。紅珠が率いてきた隊は、今回の作戦では後詰めの者が多く、負傷者も少なかったため、最も疲労の現れやすい深夜と夜明けに重点的に割り振られた。

 紅珠も深夜のシフトに当るため、休むようにと将軍から言われたため、紅珠はそれをありがたく受けて、彼女の副官の榴火と共に指令室を出た。

「休む前にもう一度打ち合わせをしたい。何人か集めて私の部屋に来てくれ」

「ああ、メンバーも割り振らねえといけないしな…」

 紅珠の指示に頷きながら榴火が答えたところで、ふと二人は足を止めた。榴火が周囲に素早く視線を巡らせる。

「今…何か、聞こえなかったか?」

榴火の囁きに、紅珠は答えず、険しい表情でゆっくりと視線を巡らせる。その視線がゆっくりと足下の床に向けられたとき、今度は重い金属の鳴る音と極微かな震動が二人の靴底を震わせた。

「下……何だ?門?」

「………違う、声!金属の格子、地下牢だ!」

紅珠が叫ぶように言うなり、身を翻して駆け出す。一瞬遅れて榴火も紅珠の後に続いて廊下を走り、階段を飛ぶように駆け降りる。

 青の砦の指令室は二階中央に設けられており、そこからちょっとした広間のように広い廊下があって、一階エントランスフロアーに続く階段が弧を描くように設けられている。エントランスに文字通り飛ぶように駆け込んだ二人は、そのまま建物の奥へと向かう。建物の端に目立たないように設けられている狭い階段を二階分降りたその先に、この砦の牢屋が設けられている。そして今そこには、今日の昼、捕らえた山賊たちが入れられているのである。

 二人が地下牢を目指す間にも何度か不気味な重い響きと微かながら獣のような声が何度か起こり、二人が階段に辿り着く頃にはさすがに不審に思った砦の兵士たちが周囲を警戒して集まり始めていた。

 そんな中をわき目も振らず一直線に地下へ続く階段に向かった紅珠は、狭く暗い階段を凄まじいほどの勢いで駆け降りていく。最後の三段ほどを飛び降りるように降りると、そのままの勢いで地下牢の扉前に出る。

「何があった?」

 ここまで全力疾走してきたにもかかわらずほとんど息も切らさないまま、紅珠が扉前で番をしていた二人の兵士に問う。

「分かりません、突然中から……」

飛び込んできたのが紅珠だと気付いて驚きの表情をしながらも、若い方の兵士が答えようとする。しかしその声が終わる前に扉の向こうから重く耳障りな金属を殴るような音が連続して響く。そしてその合間に低く地を這うような、オオカミの唸り声のようなものが聞こえる。

「おい、大丈夫か!?何が起きている!」

 年配の方の兵士が分厚い木の扉を拳で叩きながら、扉の向こう側に怒鳴るように誰何の声をかける。

「中にもいるのか?」

紅珠に問われて、若い方の兵士が頷く。

「俺達はここで中と外との人の出入りを見張っています。中には、牢の中にいる奴らを監視するために、三人います。今夜は奴らから目を離さない方がよいってことで、特別に三人に増員されているんですが……」

扉の向こうからはこちらの声が聞こえていないのか、誰何に対する声は聞こえない。しかし恫喝や静止の声は聞こえてくる。扉の向こうに声をかけていた兵士が同僚の兵士と、その場に現れた紅珠と榴火の二人に頷いて見せると、扉を開けた。

 扉がきしみながら開く音が一瞬の静寂の中で地下の空間に響く。しかしすぐに異様な呻き声が地下室の空気をびりびりと震わせる。その場の全員が思わず身をすくませてしまうほどのそれは、石造りの室内で不気味な反響を起こす。

「――おい!大丈夫か!何が起こった!!」

 兵士が部屋の奥に声をかける。

「私達が行く。お前達はここを守っていてくれ」

今にもその場から駆け出しそうな兵士の肩を叩いて引き戻すようにしながら、紅珠が地下室に足を踏み入れる。

「中で何が起こってんのかわからない。なんかあったらすぐに知らせるから、ここは俺らにまかしてくれ」

既に足早に歩み去る紅珠の背中に何か言いかける兵士たちに、榴火が言いながら、彼女の後を追う。

「おい、姫さん一人で行くな」

 短い廊下の突き当たりには粗末な机と椅子があり、その足元に置かれた小さな火鉢が暖かそうな炎を上げていた。

 角の手前で紅珠は足を止め、そっとその先をうかがった。湿気の多く黴臭い重い空気が、息苦しさを感じさせた。

 紅珠が軽く腕を振ると、するりと身を翻して廊下の角の向こうへと歩を進める。榴火も注意深く気配を探りながらその後に続いた。





 紅珠は地下に下りてからずっと無言であった。湿度の高い澱んだ地下の空気は、まともに吸い込むと息が詰まりそうだった。

 いや、それだけが理由ではないことは、彼女自身がよくわかっていた。

 澱んだ空気の中に異質な気配が紛れ込んでいる。それは奥に進むにつれてはっきりと彼女には感じ取れるようになっていた。

 いや、最初にそれに気づいたのはもしかしたら最初に物音に気付いたときだったかもしれない。石造りの頑丈な建物の中、地上二階にいて地下二階相当の場所での出来事を感知できるなど、既に尋常のことではない。それが、彼女が激しく嫌悪している存在だからこそ、感じ取れたということなのであろう。

(まさか)

感情が否定したがるのを、理性が許さない。予想も予測も、全ては現状を正しく認識しなければ、正しい判断を下すことも何も出来ない。紅珠は一度強く目を閉じて呼吸を整えると、改めて薄暗く異様に澱んだ石造りの通路の先に視線を向けた。

 異常な様子はすぐにわかった。ずらりと並ぶ牢屋の鉄格子を掴み、揺さぶる無数の手。格子に打ち当てられるように突き出される歪んだ人間の横顔。獣じみた怒号とそれを叱り付ける監視の兵士たちの怒鳴り声。全てが混然と混じり合い、その場の混乱と異様な熱気を高めていた。

「何事だこれは」

 最も近くにいた兵士に駆け寄って問うと、緊張に顔を引き攣らせた兵士が頭を振る。

「分かりません、先程から急に暴れだして」

言っている間にも目の前の格子が激しく揺さぶられ、とても人間とは思えない喚き声が上がる。

「おらァ!騒ぐんじゃねえ!!」

奥の方から憤った怒鳴り声と金属を殴る鈍く重い音が響く。

「先程から急にと言ったか?」

「はい、ずっとおとなしかったので安心していたのですが」

「何か、何者か、入ってこなかったか?」

「いえ、そんなはずはありません。ここは出入りする場所は完全に一カ所だけ。壁にも窓や何か、穴すらありません。何より、壁の向こうは池です」

「ではなぜ急に暴れだした」

「わかりません」

思案げに表情を曇らせる紅珠に、兵士が言う。

「大丈夫です、牢は破られたりしません。何しろ頑丈です」

「だが、落ち着かせねばならんだろう」

「だめだ、埒あかねえ。水持ってこい、ぶっかけてやる!」

奥から憤然とした様子でもう一人の兵士がやって来る。

「いや、それはまずい。凍死させてもまずいし、後が面倒だ」

「じゃあどうすんだよ!ったくキチガイどもが面倒かけやがって」

いささか短気らしい兵士が吐き捨てながら側の鉄格子を蹴り付ける。

 どうしようか。紅珠は考えようとして、背筋がぞわりと粟立つのを感じた。

 紅珠が振り向くのと、奥の方で悲鳴が上がるのはほぼ同時であった。

「ううわあああああ!!!」

「なんだ!」

兵士が怒鳴る。紅珠は榴火に一瞬視線をやると、無言のまま身を翻して走り出した。

 背後から三つの足音と引き止めるような声が聞こえたが、構わず角を曲がる。その正面にもう一人の兵士の後ろ姿がある。

「どうした!」

 駆け寄りながら声をかけると、兵士は一瞬振り返り、呆然とした表情で、震える指を廊の方へ向けた。

 兵士の隣で、紅珠は目を見張った。気がふれたように暴れる囚人たちにはもう驚かない。異様な光景は、その後ろにあった。

 一見薄暗く、煤けて黒ずんでいるだけのように見える石壁に、不気味に黒く蠢くモノがある。単なる影やあるいは虫などではない。何とも言いようのない、敢えて言うなら、粘性の高い液体がじわじわと染み出してきているように見えた。

「なにごとだ」

慌ただしく追ってきた男たちも、示された先の光景に最初はただ不審げに表情を歪めるだけであったが、ぴっちりと蟻の這い出る隙もないほど精巧に組まれているはずの石壁の継ぎ目からぶつりと染み出してきた不定形の黒いモノを見て呻く。

「なんだありゃあ?」

 不審の表情で眉をしかめながら、兵士の一人が牢に近づく。

 紅珠は何とも言いようのない不快感に、かろうじて表情を保ちながらじっと異変を観察していた。

 紅珠の全身が、それは禍々しいものだと感じ取っていた。本当なら、それの気配をすぐ側で感じているというこの状況自体が本能的に忌避すべきものであった。しかしいまここから離れることは、彼女の理性とプライドが拒否した。それが害毒であることは、改めて確認することではない。今彼女がすべきことは、それにどのように対処すべきか、最善の策を見付けることだった。

 闇の存在に対する最適の策は、炎である。しかし現在の場所は逃げ場のない地下室。うかつに炎など使えば、すぐに酸欠で自らを危うくしてしまう。

(どうしたらいい)

それが形有るものなら刀剣或いは素手での物理攻撃も有効だろう。しかし見る限り、目の前に湧き出してくるものは、不定形の影のようなものとしか思えなかった。

(落ち着け、思い出せ、何か、何かあったはずだ)

「おい、ひ…隊長、あっちからも」

榴火が押し殺した声音で紅珠に囁く。紅珠が目を遣ると、隣の牢でも同じように、壁一面からじわじわと黒いモノが湧きだし、まるで蛇のようにうねうねと四方に蠢き広がり、その体積を膨張させつつあった。

「くそっ!気色わりい!」

「まてっ!」

静止の声も聞かず、兵士の一人が腕を振りかぶると鋭く振る。赤い光が激しく明滅し、水面をたたき付けるような衝撃音が響く。

「どうだ!」

閃光がやや収まってきた中、紅珠が目を遣ると、壁一面が真っ白な霜に覆われていた。

「あぶねえだろ!」

「うるせえ!気色わりいんだよ!」

「ばか!こっちまで凍死させる気か!」

「…まだだ」

 兵士たちの言い争う声に女の低い声が割り入る。その声にはっと振り返った男たちの目に、薄く凍り付いた牢の石壁の一部がもこもこと蠢き、開いた氷の亀裂から細い黒いモノが頭を覗かせようとするところであった。

「くそっ!」

慌てて構えようとする誰よりも早く、紅珠の声が響く。

「榴火!」

紅珠の鋭い声に榴火が反射的に構える。

「奴らを自由にさせるな、お前の針で狙い撃て!」

「お…おう!」

とまどいつつも素早く術力を両手に集中させた榴火が、ふっと息を吐き、全身の力を抜く。

 彼の術は火の系統。両手に凝った熱をぎゅっと凝縮させるイメージ。掌の上の熱の綿を握りこむようにおもむろに手を握る。見据えた視界に、氷を突き破って鎌首をもたげようとする黒いモノを捉える。

「この、や、ろう!」

石を掴んで投げるようなモーションで、榴火が全力で腕を振り下ろす。投じられた術力が、牢の鉄格子を抜けて石壁に炸裂する。

「うわ……!」

地下牢の空気が大きく鳴動する。音にならない何かの悲鳴がびりびりとその場の全てを撃った。

「どうだ!?」

衝撃の収まりかけた石壁に、無数の赤い針のようなものが突き刺さっている光景が現れる。

「まだだ、範囲を絞れ」

紅珠の冷静な声が榴火に告げる。

 榴火の投じた火の術力を凝縮した針に貫かれた黒いモノは、声とも音ともつかない奇妙な唸りを上げながらじくじくと崩れていく。効いているのは確かであるが、火の針一本一本の威力はさほど強くはなく、効果のある範囲も限定的であるようだった。しかし、黒いモノに直接当たらず凍りついた壁に突き刺さった針は、容赦なく薄い氷を溶かし、その下で凍りつきかけていた黒いモノを解放させることになる。

「どうすりゃいいんだよ」

「あれらは闇に潜むものだ。滅するには炎か、もしくは閃光の術しかないだろう。だが、閃光の術はここでは効き目が弱かろうし、火の術だって大げさなものは使えんだろう。氷の術で滅することはできんが、動きを止めるには有効なようだ。それなら、氷で足止めしつつ、火で片端から滅するほかなかろう」

紅珠が手早く説明する言葉に、榴火は頷き、兵士たち3人は戸惑いつつも、理解はしたように頷く。

 この場にいる者で氷の術が使える者は3人の兵士のうち2人、火の術が使えるのは榴火のみであったが、榴火の術はさほど強力なものではない。しかし彼の術の使い方の最大の特徴はその効果を相当な部分彼自身のイメージ通りに表現することができることと、一撃の威力は弱くとも、術の発動時間がかなり長いことであった。

 とりあえず、這い出て来るモノは凍らせて足止めし、その間に焼き払うしかないと思われた。しかし囚人たちがいてはそれすら簡単なことではない。かといって理解不能なほどに凶暴に暴れている囚人たちを、このまま牢から出すわけにはいかない。彼らは何らかの方法でおとなしくさせて別の場所に移動させるのが最善策であろう。

「とりあえず、お前達はここで足止めを。私とお前は、将軍のところへ報告だ」

 紅珠の指示に、その場の全員が頷く。

「お、おれは先に外に説明に行く」

術が使えないと言った兵士が表情を引き攣らせながら言うのに、紅珠は頷く。彼が慌ただしい足音を響かせながら走り去るのをちらりと見送ってから、紅珠は榴火に視線を向ける。

「しばらく頼む。危険だと判断したらすぐにここを出ろ」

「あれはなんなんだ?」

「正直、分からない。だが見ての通り、純粋な火の力には弱い。お前の能力ならピンポイントであれを滅することができる」

紅珠が手早く榴火に指示を下す。その間にも氷の術を使う兵士たちは、壁から湧き出る黒いモノを凍らせようと、術をくりだす。しかし牢の格子越しに、暴れる囚人に当たらないように調整しながらの作業であるから、当然簡単にはいかない。

「それでは頼む」

言いつつ踵を返す紅珠に、まかせろ、と榴火は頷く。その返事を背中で受け取りながら紅珠が早足で角に差し掛かった頃。

「なんだあ、これえ!」

行く先から悲鳴のような声が聞こえてくる。小走りに足を速めて声の方に向かった紅珠の目に、廊下にへたりこむように蹲ってもがいている男の姿が映った。

「どうした!?」

 乏しい光量の下では彼の身に何が起こっているのか分からなかった。しかし兵士の所へ駆け寄った紅珠は、それが何か分かって、足を止める。無意識に表情が引き攣り、腰が引けるのを止められない。

 床から黒いモノが湧き出していた。それはまるで無数の蛇のように鎌首をもたげ、蠢き、そして兵士の足を搦め捕るように巻き付いていた。

 あまりに異様な光景に足を竦ませている紅珠に、床でもがいていた兵士が気付く。

「隊長!助けて!こいつをはずしてください!」

 兵士の声に、紅珠は硬直していた体を揺らす。微かに震える脚を踏み締め、慎重に兵士への間合いを詰める。

「どうなっている?」

「よく…わかりません!急に足が動かなくなって」

兵士の言葉を聞きながら、紅珠は必死に対策を考える。一つ呼吸をして、兵士の身体に絡み付きつつある黒いモノに手を伸ばす。それを掴もうとした指は、しかし虚しく空を切るだけであった。

「掴めない!?」

「くそ…!何でだよ、何で動けねんだよ!」

兵士の表情が驚愕に歪む。紅珠は兵士をなだめつつ、背中に負っていた刀を引き抜き、それを兵士の足に絡み付いている黒いモノに突き立てる。短い気合いと共に鋭く床に突き立てられた刀は、しかし硬い石の感触だけしか柄を握る紅珠の腕に伝えない。

(実体はない、しかし生身の人間の動きを制限するだけの影響力を持つ。これが術の類ならば、“風”に属する力か、もしくは“魅了”に属するものか…?)

 吐蕃皇国を中心に、この大陸の様々な場所で傭兵として仕事をしてきた紅珠には、人外のモノ、いわゆる化け物との遭遇も、極僅かな事例ではあるが、経験している。また、他の傭兵や各地を旅している商人などから似たような話も聞いたことはあった。その中には実体のない化け物の例もあった。しかしそれはいずれも煙か霞のような儚い存在であり、生身の人間や動物を脅かしたり惑わしたりすることはあっても、直接肉体に影響を及ぼすような話は聞いたことがなかった。

 しかし今目の前で兵士の身に絡み付いている黒いモノは、実態がないにもかかわらず、生身の肉体の動きを抑え込んでいる。それが単なる精神的な影響による現象ではないことは、紅珠が兵士の腕を握って引っ張ってみても身体を揺さぶってみても、彼をその場から動か逃がすことができないことからも確かなようだと紅珠は考える。

 そうしているうちにも黒いモノはますます強く兵士の身体に絡み付き、彼の着衣や纏っている甲冑の表面がまるで太い縄のようなもので締め上げられているように引き攣っていく。

「うわあああ!!!」

 それまでは何とか気丈にしていた兵士も、その黒いものが足から胴へと這い上がり、胸から顔に迫ってきたのに気付き、恐怖の叫びを上げる。

「―――!!」

兵士の叫び声に、恐怖の表情に、紅珠の頭に血が昇る。

(これが、呪いだろうが、―――外法だろうが!)

「これが術ならば!」

 素早く立ち上がって軽く間合いを取ると、両手でしっかりと柄を握った刀を、腰だめに構える。跳ねる心臓を無理やり宥めるように呼吸を整える。一瞬で精神を集中させると、握った刀の先まで意識を通わせる。そうして、黒いモノが湧き出ている石の床を見据える。胸に吸い込んだ空気を、細く吐き、吐き切る瞬間、紅珠の腕が鋭く動く。

「うあああああああ!」

腰の位置の刀を一瞬で頭上に降り上げると、そのまま気合いと共に刀身を床に叩きつける。刀身に一瞬、赤く光る文字のような模様が浮かび、それに触れた黒いモノが、暫くもがくように漂った後、ふっとかき消すように消える。

 刀が床に叩きつけられる瞬間、思わず目を閉じてしまった兵士は、急に体の締め付けがなくなったのに気がつき、慌ててその場を飛び退く。

「大丈夫か!?」

紅珠の声に改めて自分の身体を見るが、どこにも異常がないことを確認して、兵士は立ち上がる。

「はい、大丈夫です。ありがとうございました」

「本当に大丈夫か?気分が悪いとかいうことはないか?」

刀を片手に下げたまま、紅珠が兵士に近づいてくる。薄暗がりの中でもはっきりわかるほどの美貌に正面から見据えられて、兵士は思わず状況も忘れて動揺しそうになるが、すぐに気を引き締める。

「はい、大丈夫です。お手数おかけしました」

 兵士の言葉に嘘や虚勢は感じられなかった。紅珠は軽く息を吐くと、改めて意識を集中させる。

(足元…石のタイルの、隙間…?壁や、天井…は、まだ、か?)

 うかつだった、と紅珠は内心臍を噛む。目に見える異常に気を取られて、その不快な気配が既に範囲を広げていたことに気が付かなかったのだ。進入路は、もしかしたら先ほどの一番奥の牢の壁からかもしれない。しかし目に見えない程の僅かな石組みの隙間を辿り、既にこの地下室の床、ほぼ全面に闇のもの特有の嫌な気配が広がっている。そして、今にも再び床から湧き上がろうという気配を感じる。

「急ぎ、将軍に伝えねばならない、行くぞ」

「はい!」

 紅珠の言葉に兵士は敬礼を返すと、先に立って地下牢入り口の扉に向かう。重い木の扉を開けようとして、再び兵士の表情が驚愕に歪む。

「…開きません!なんでだ!!」

紅珠が無言で眉を跳ね上げると、扉に駆け寄る。兵士はガチャガチャとノブを回したり揺らしたりするが、扉は開かない。ノブの動きも悪いし、強く扉を揺さぶっても不自然なほど動きが悪い。

(閉じ込められた!?)

最悪の予想に、紅珠は表情を変えないまでも、内心は心が凍えそうになるほどの恐怖を感じていた。

「誰か!そこにいるか!?扉を開けてくれ!!」

 力を込めて扉を叩きながら扉の向こうにいるはずの見張りの兵士に呼びかける。

「どうした!?」

「扉が開かないんだ!どうなってる!?」

扉の向こうからもやはり焦ったような声が聞こえる。がたがたと大きく扉が揺すられるが、やはり開く様子がない。思わず扉に手を触れた紅珠は、しかしはじかれたように身を引く。僅かに触れた指の先が、熱した鉄に触れた時のような強烈な痛みを感じるほどの冷たさを感じていた。

(もうここまで…!)

扉の表面に薄く嫌な気配がまとわりついていた。痛みも熱も、紅珠の抱えるそのモノへの嫌悪感からの反射であったが、気分の悪さは事実であり、紅珠の焦りを募らせる。

「ちょっと待ってろ、今何とかする!」

 扉の向こうから声が聞こえる。そのことが彼女を恐慌状態に陥らせることを防ぐ。

(何か方法はないか)

考えようとするものの、すぐには有効策が思い付かない。

 彼女は術の使い手ではないし、先ほどの刀を使った方法も今ここではあまり用いたくない。刀はあくまで彼女の護身刀であり、彼女自身の身を守るために力を発揮する。正に最終手段なのである。今この事態に有効な力を発揮してくれるとは思えなかった。

 紅珠が開かない扉を前に手をこまねいていると、今度は背後の地下牢の奥から狼狽の叫びが上がる。

「な、今度は何!?」

「どうした!」

 二、三歩を踏みだしかけながら奥に問うと、慌しい足音が近づいてくる。待つ間もなく、角から兵士の一人が青い顔で駆け寄ってくる。

「あいつら、変だ!わけわかんねえ、バケモンだよ!!」

 取り乱しながら言うのをなだめて報告をするよう促すと、何とか兵士は姿勢を正す。

「隊長の指示通り、あれらを凍らせつつ、榴火殿の炎で焼き払っていました。ほとんど壁も凍らせたし、そろそろ大丈夫かと思っていたところ、囚人たちに異変が」

「異変?」

「最初に気が付いたのは、奴らの声が変になった、ということです。でも気が付いたら、ちょうど俺の目の前にいたやつの口にいつの間にかあの黒いモノが入っていって、そうしたかと思うと、体の形が変になって…」

 兵士は何とか報告をしようとしているが、どうにも要領を得ない。そこで紅珠はもう一度牢に戻ることにし、兵士には引き続き扉への対処を命じた。

「榴火!」

 駆け寄りながら呼びかけると、榴火が振り返る。その表情が豪胆な彼には珍しく青褪めて引き攣っているのを認めて、紅珠は一層表情を引き締める。

「どうなっている?」

紅珠の問いに榴火は牢を指さしながら何事か言おうとする。しかしそれはうまく言葉にならず、何度か空咳をするだけだった。紅珠が彼の隣まで近寄り、牢を見る。そこでさすがの紅珠も喉から引き攣った呻きが漏れるのを止められなかった。

 そこに人はいなかった。いや、厳密な意味で言えばそれはまだ人であった。しかし身体の各所が歪み、膨張し、不自然にくびれ、それが刻々と悪化していく。ぼたりと指先であった場所からなにかどす黒いものが石の床に滴り落ちる。それを床の上で飲み込んだ黒いモノが、ぼこりとその身を膨らませる。ぼこもこと盛り上がり、その闇色を濃くしてゆく。そしてその闇色のモノは、全ての牢に生まれ、巨大な一つの影に変化しつつあった。

「――退避!すぐにここを離れろ、危険だ!」

 紅珠の鋭い声に、はっと榴火が肩を揺らした。そして同様に呆然としていたもう一人の兵士の腕を強く引く。さすがに戦場慣れした兵士が、混乱した表情ながらも、何とかふらつく足を踏みしめ、その場から走りだした。紅珠は最後尾から二人の後を追いながら、一度肩越しに振り返る。今や牢の中にいるものは、闇色の一つの塊になろうとしつつあるように、紅珠には見えた。





「隊長!大丈夫でしたか!奥では一体……!」

 扉の前に残してきた兵士が、奥から駆け戻ってきた三人を迎える。

「大丈夫だ、それより…」

扉は、と聞こうとして、紅珠はそれが既に開いているのに気が付いた。そしてその向こうに集まり、ざわざわとしている兵士たちの中の、ひときわ小さな姿。

「あ、報告します!扉はご覧の通り、開きました。向こうから開けてくれたんです」

 兵士が姿勢を正しながら報告するのを頷いて受けながら、紅珠はちらりと視線を巡らせる。

 扉の向こうの兵士と何やら話していた、屈強な兵士たちの中では一層小さく見える、赤毛の男――嵐が、ふと紅珠と視線を合わせ、軽く頷いてみせる。紅珠は彼の手にある短い杖のようなものが見覚えのあるものであることを確認し、軽く息をついた。

 それは今夜の異変に立ち会ってから、彼女が初めて認めた安堵の感情であった。




     *




「どういうことだ?それは」

 地下で起こったことを報告された姜将軍の反応ははっきりと困惑したものであった。無理もない、と紅珠は思う。実際に体験した者にとっても、たちの悪い悪夢だったと割り切ってしまえたらどれだけ楽なことか、と思う出来事であった。

 しかし確かに地下に何らかの侵入があり、それによって捕らえていた人間が人ならざる姿に変えられてしまったことは事実である。今は堅く扉を閉ざして結界を施しているが、正直な話、それがどの程度の効力を持つものか、未知数なのである。兵士と榴火を見張りに残してきているが、いくら有能な彼らとて、対処の分からない相手では、不安は抑えようもないだろう。

 何としてでも迅速に対応策を導き出さねばならない。そしてそれは、これまで「闇」を追ってきた自分の責務である、と紅珠は思っていた。

(何としてでも、『あれ』は私の手で滅ぼさねばならない…!)

無意識にさ迷う紅珠の視線が、上座にいる姜将軍の方に向けられる。瞬間、紅珠の全身にぞくりと悪寒が走る。

 姜将軍の背後、石の壁に黒い影が蠢いた。

「将軍!」

 紅珠の身体が反射的に動いていた。末席の紅珠は将軍から最も遠い場所にいる。遠回りする余裕はないと彼女は判断し、机や椅子を蹴ってまっすぐに部屋を横切る。何事かと唖然としている面々をすり抜け、地図や筆記具の広げられた机を蹴って壁の目前に降り立つ。

 紅珠の右手が耳飾りを掴む。それを金具が弾け飛ぶのも構わず引きちぎるように取ると、耳飾りを握った手を黒い影に叩き付けるように突っ込む。手の中の象牙の台に埋め込まれた三つの紅玉が眩い光を放つ。黒いモノが触れる体の部分がぢりぢりと嫌な感覚を訴えるのを無視して、紅珠は念じる。

(燃えろ!)

ごうっと音を立てる勢いで炎が噴き出す。紅珠が腕を突っ込んでいる場所を中心に瞬く間に炎が広がり、壁一面に湧き出していた黒いモノをのみこむ。

 部屋中が一気に騒然となる。悲鳴や戸惑いの声の中から、一際通る声が紅珠の耳を打つ。

「紅珠!引け!」

炎を操る手はそのままに紅珠が振り向くと、部屋の反対側で、杖を構える嵐の姿があった。その杖の先に眩い光が宿っているのを見た紅珠は、無言のまま素早く腕を引いて下がった。それを確認した嵐が、杖を振る。

 全身を覆う赤い炎から逃れようとするかのように身をのたくらせていた黒いモノの一部が、炎の幕を突き破って伸び上がろうとする。刹那、緑の光の幕がその上から壁全体を覆う。嵐の杖が形成した邪なものを封じる結界であった。

 赤い炎から逃れようとした黒いモノが、緑の光に触れた瞬間、その動きを止める。やがて小刻みに震えだしたかと思うと、先からその身がぼろぼろと崩れはじめる。やがて赤い炎に蝕まれた部分もぼろぼろと崩れ始め、赤い炎が燃え尽きる頃には、壁全体を埋め尽くしていた黒いモノはすっかり消え失せていた。




     *




 嵐の杖が扉の表面をなぞる。杖の跡を緑の光の線が続く。線が繋がると、それで囲われた場所が淡く緑色に光りはじめる。

「これでよし。これで奴らは入って来られぬ」

嵐の言葉に、隣に控えていた紅珠が頷く。

「では念のため、お前たち三人、ここを見張っていろ。何か異変があったらすぐに本部に報告を」

紅珠の指示に、砦の兵士たちが了承の言葉を返す。

「これでひとまず侵入口となりそうな部分は全て塞げたか?」

嵐の言葉に紅珠は頷く。

 本部が黒いモノに襲撃された直後、砦中の見張りから矢継ぎ早に報告が上がってきた。砦の北方には池があるが、そちらの壁面を黒いモノがはい上がってきつつあるというのが、それらの情報を総合した結果の状況判断であった。

 しかし奇妙なことに、砦周辺で、人影らしきものを見たという報告はなかった。この現象は術によるものの可能性が高いと思われたが、それにしては術者の姿が確認できる場所にないというのは、不可思議なことであった。しかし術によるものでないとすれば、そのような実体のない靄のようなモノが人に何らかの影響――恐らくは悪影響――を及ぼしたなどということは、この吐蕃では前代未聞のことであった。しかし少なくとも、地下牢の囚人たちは黒いモノによって変質させられてしまっている。紅珠たちが脱出した後で、地下への入口は、分厚い木の扉を閉ざして厳重に錠をし、その上から嵐の封印術がかけられた。そのため目視では確認できていないが、時折扉に何かが攻撃しては弾かれ、不気味な咆哮が上がっていることが、報告されている。

 そのようなモノの驚異に砦をこれ以上曝すことは許されなかった。

「この砦全体を結界で囲むわけにはいかないんですか?」

 紅珠の問いに嵐が渋い表情をする。

「できぬことはない。しかしこの砦は広い。いくらも経たぬうちにわしはひからびてしまうであろうな」

嵐の答えはある程度予想できていたので、紅珠は落胆はしなかった。しかしそれならそれで、やはり対処は考えねばならない。

 明らかにあの黒いモノには炎が有効である。紅珠は左手に握ったままの耳飾りに目をやった。元は鮮やかな紅色をしていた玉は、今は濁ってしまっている。これではもう大した威力は期待できない。そもそもこれは、紅珠の肌守りであり、彼女の心身に危険が迫っている状況でしか効果は期待出来ないし、炎の術力を発揮しようとするなら、対象に接触させねばならないだろう。つまり、今回のケースでは非常に非効率的な道具であった。

 紅珠は術具無しに炎の術を使うことはできないし、他に持っている術具にしても、威力を調整できるほどの高度なものは、今は持っていなかった。

(室内戦闘はあまり想定していなかったからな…)

そもそも紅珠は武器による直接戦闘を得意としており、術具は補助的にしか用いていない。それでは今回のような実体のない相手にどう対処すればよいのか。

(基本的には術の得意な者に任せるべきだな。そして私は――)

 紅珠は、必ずこの砦に矸氏が現れると考えていた。矸氏は闇の存在に心身を乗っ取られたモノで、前回の遭遇のとき既に、身体能力の異常な発達と肉体の変形・変質が生じており、正常な人間とは呼べない姿になっていた。しかし、少なくとも武器による直接攻撃は有効であった。問題は、この約一ヶ月で、ソレがどのような、更なる変化を遂げているか、或いは能力を身につけているか、である。

 紅珠は、本来そのような不確定なモノと正面対決はしたくない。しかしかといって、そのようなものを他人に、ましてや自分のあずかる部下にも誰にも、接触させることは、全く望ましいことではなかった。では自分が何とかしなくてはならない。




 ふいに、温かい手が紅珠の肩に触れた。

「大丈夫か?随分思い詰めた表情をしておる」

紅珠が振り向くと、翠の双眸がじっと彼女を見つめていた。

(…そんなに表情に出ていただろうか)

思わずまじまじと彼の表情を見返してしまってから、やや間の抜けたタイミングで、紅珠は微笑んで見せた。

「大丈夫ですよ」

(そうだ、私が自信のない態度でいては、他にしめしがつかない。信用してくれた将軍にも申し訳がたたない)

「そうか」

嵐は紅珠の表情に力が戻ったのを見て、口許を微かに緩める。

「では、わしからささやかだが助力しよう」

嵐はそう言うと、杖に意識を集中させる。そして杖の先に灯った温かな緑の光を、紅珠の体に当てる。光の触れた場所から爽やかな風が体内に吹き込むような感覚に、紅珠は軽く眩暈を覚える。

「お主の武器も出せ」

言われて、紅珠は背中に負っていた二振りの刀を外して差し出す。嵐は杖を眼前に構えて口中で素早く術言を唱えると、再び杖の先に灯った緑の光で、刀身をなぞる。仄かな緑の光が一瞬刀身を包んで、すぐに消える。

 元の通り刀を納めた紅珠が、目の前の嵐に軽く頭を下げる。

「感謝します」

「うむ、武運を祈るぞ」

顔を上げて少しだけ口許を緩めた紅珠が踵を返して走り去るのを、嵐は見送った。




     *




 騒然としている砦の中を、紅珠は上階ヘと駆け上がっていた。

 既に各所で異常なモノの目撃報告が多数上がっていた。しかし既に、姜将軍からは侵入阻止と対処の指示が下っていたため、兵士達は騒然としながらも、不安や恐怖というよりは寧ろ、昼間は不完全燃焼に終わってしまった好戦性を刺激されているかのようだった。また、姜将軍の指示によって、砦中至るところに灯火が点されたため、青の砦は、まるで深夜にあらざる活気を呈していた。

 行く先々で、兵士たちの報告を細かく受けながら上階を目指す紅珠は、内容を脳内でまとめ、彼女なりに状況を把握していった。

(おそらく、屋上に何かがいる)

 それは言ってしまえば彼女の勘でしかない。しかしそれを裏付けるのは、約一ヶ月前の満月の夜の事件の光景であった。星空から降るように屋敷に落ちてきた召喚されたモノの光。異様な姿に変貌した矸氏であったモノが、天井を破って逃げていったときの、人として有り得ない跳躍力。

(――そういえば、何故、今夜だったのだろう?)

 走る足は緩めないまま、紅珠はふと思う。

 矸氏の事件は満月の夜のことであった。そして今回も、満月の夜、賊のアジトを見張っていた兵士達が、襲われている。

 紅珠が追っている『闇』は、光を厭う性質をもっており、光と対称の立場をとる存在、ゆえに総じて『闇』と呼称している。それらは光の象徴である太陽を最も嫌い、基本的に陽の光の下では活動できない。また『闇』の象徴は月とされており、闇の眷属の多くは、月の世界から人界にやって来るとも言われている。

 だからこそ、紅珠は闇のモノが大挙して行動を起こすなら満月の夜であり、対称的な新月の夜には行動が抑えられる、と考えていたのである。

 しかし、今夜、闇は行動を起こした。なぜか?日中こちらから攻撃をしたことに対する報復なのか。しかしそれにしては闇の動きが活発過ぎるように思える。人体、それも生体を異常な姿に変質させる力が、尋常なものであるはずがない。

(――もしかしたら)

紅珠は冷たい予想に胸を冷やす。

(もしかしたら、私は大きな考え違いをしていたのかもしれない――)





 階段の突き当たりにある重い扉を、駆け上がる勢いで押し開けて一気に飛び出すと、その空気の生臭さに、紅珠は咳込んだ。片手で口を覆って、わずかずつ息を吸い込むようにするが、それで軽減できる不快感はほんの僅かで、紅珠は胸の悪さに顔を顰める。

 吐くそばから真っ白な息が、重くたゆたっている。身を切るように冷たいのに何とも言えず不快感をかきたてる気配、覚えのあるその感覚に、間違いなく闇はここにいると、紅珠は確信する。

「隊長!」

 気配を探る紅珠を呼ぶ声に、彼女は視線を向けた。屋上を警備する兵士の一人が、紅珠を呼んでいた。

「ああ、湍か。何かあったか」

それが自分の部下の湍であることに気付いた紅珠が彼の側へ行くと、湍はやや強張った顔で胸壁の下を示してくる。紅珠は嫌な予感がしつつも、そっと壁の上から下を覗き込む。そして、半ば予想していた光景に、思わず呻き声を漏らす。

 壁の下方は真っ暗だった。いや、それは正しい表現ではない。砦内が煌々と明るいにもかかわらず、周囲が真っ暗に見えるほど、黒い何かの『モノ』が一面壁に張り付いていた。そしてそれはうねうねと、脚のない爬虫類を思わせる動きで、じりじりと砦の外壁を登ってきているのであった。

「どうしたらよいのでしょう」

不安げな声で指示を求める部下の姿に、紅珠は無言のまま自らに気合いを入れ直すと、対処法を探る。

「やつらは明確な実体は持たない。しかし一旦捕われると、強力な拘束力を発揮する。そして、捕われたものは奴らに取り込まれ、正気を失うか、あるいは肉体を乗っ取られてしまう。その果ては 人としての存在の消失だ」

「弱点はあるのですか」

「ある。火の力だ。光と言い換えてもよい。術によるものを含めた、純粋な火の力が、奴らの最大の弱点だ」

「火、ですか」

湍が紅珠の言葉に表情を暗くする。彼は術者であったが、火の力はあまり強くない。彼の専門は、大地にまつわる術であった。

「とにかく、あれらを砦内に入れてはいけない。皆の力であれを食い止めてほしい」

自然と周囲に集まってきていた兵士達に、紅珠は呼びかける。どうやって、言いかけて、湍はふと口を閉ざす。

(もしかしたら)

思い付いた方法を、検証する間もなく、湍は実行に移す。

 湍は胸壁の上から上半身を乗り出して暗闇に目をこらす。うねうねと太い蛇か蚯蚓かといった黒いモノを視覚に捕らえると、意識を集中、術のイメージを脳裏に描くと、腰から術力補助の杖を引き抜き、構える。

「とまれ!」

気合いと共に術を発動する。杖で指された先で、青い光の立方体が形成され、立方体で区切られた内部に黒いモノが閉じ込められる。

「消滅!」

すかさず再び術が発動。青い立方体は湍の気合いと共に、上下に強力に収縮、バシッと何かの弾ける音を上げ、中に閉じ込められた黒いモノと共に消滅した。その様子を見ていた周囲から驚きと喜びの声が上がり、どよめきが広がる。

「…なるほど」

隣で一部始終を見ていた紅珠が頷く。

「確かに、手応えが異常に小さいです。掴みどころの無い存在であるようですが、間違いなく実体を持っています。重力に囚われる存在であるならば、俺の術も有効です」

湍の言葉に、再び紅珠は頷いてみせる。

「面倒であろうが、頼む。あれらを砦に入れるな」

自らの隊長である紅珠に、湍は敬礼で応える。

「わかりました。――隊長は?」

「私は、大本を叩く」

紅珠は言うと、その視線を屋上の端に向ける。その視線の先には塔があった。僅かながらその方向から、嫌な気配が漂ってきているのを、紅珠は感じ取っていた。




     *




 その塔は、無骨な外観の青の砦に似つかわしく、これといった特徴のない、そっけない塔であった。それは本来、有事の際の物見などの為に設けられているもので、極端に開口部が少なく、かつ内部も多少のスペース以外は、螺旋階段と最上階の物見広間、屋上の旗掲揚台など、余計なものは一切ない場所であった。

 塔に近付くにつれて嫌な気配は濃くなる。紅珠は右腰に挿した刀の鞘に手を触れ、軽く呼吸を整えた。柄に触れた指先から伝わる気配と胸の奥の気配が同一の波長を生み、彼女の全身をぼんやりと白い光が包む。途端、闇の気配に感じていた息苦しさが、嘘のように霧散する。嵐の施した結界が機能していることを改めて感じながら、紅珠はそっと塔の扉を開けた。

 ごとり。

 重い音をたてて、兵士の身体が仰向けに倒れ込んで来る。反射的に半身を引いた紅珠が、足下の兵士を確認する。どす黒い血に塗れた兵士は、虚ろな目をして既に呼吸をしていなかった。甲冑の胴の部分が無残にひしゃげており、その脇に力なく垂れている両腕は、肘部分を中心として通常あり得ない歪な曲がり方をしていた。首筋は無残に抉られ、口の端からはまだ乾き切っていない血泡が溢れていた。

 死体の様子にさすがに眉をひそめながら、紅珠は慎重に塔内部へと足を踏み入れた。

(塔の様子を見に行った兵士は二人だと言っていた。ならば、もう一人は――)

兵士たちの話を思い出しながら、紅珠は足音を忍ばせて石階段を上っていく。塔内部は人一人が通るには充分な広さがあったが、急角度の螺旋構造であるため、先の様子が見えず、心理的にはかなり圧迫感があった。

 しばらく慎重に上り続けると、不意に空間が広がる。直前で紅珠は一旦足を止め、腰の刀に手をやりながら残りの数段を一息に駆け登った。





 その部屋は意外なほど広かった。円形の部屋の中心には、屋上へ続く螺旋階段があり、周囲の壁にはいくつかの窓が設けられている。窓の間の壁には燭台が設けられ、今は煌々と明かりが灯されている。そしてその明るい部屋の中に、異様な光景があった。

 ぼろぼろの衣服を身にまとった長身の男が兵士に覆いかぶさっていた。そこから何かを咀嚼し、啜る、こもった不快な音が聞こえてくる。

「そこまでだ!やめろ!」

 紅珠の声に男がゆっくり振り返る。どす黒い、ひび割れたような顔の中から、濁った黄色のぱかりとした双眸が暗い情念を漂わせながら紅珠を睨み据える。

「おオおおぉぉお前ハあァあ」

時折キンと高くひび割れたような発声で男が――否、少し前まで人間の男であったモノが、紅珠を認識して表情を歪める――いや、正確には歪めようとしたように見えた。

 丸い頭に鼻先に向けて細まる顔の輪郭線、人間ならば耳のある場所には僅かばかりの穴のようなものがありかなしか見える程度で、その辺りまで大きく裂けた口には唇はなく、暗い赤色の口中には歯は一切見られず、先が二つに分かれた細く長い舌がしゅるしゅると音をたてて出入りするだけであった。あらわになった皮膚の部分は奇妙にひび割れたように見え、そのまま異常に長く見える首につながっている。それは既に人間と呼べる姿ではなかった。それは蛇や蜥蜴を巨大化させた姿を思わせた。

「うおおおオマえぇぇおうおごあああああ!!」

既に人間のものなのか分からない声が蛇男の口からほとばしる。

「おうゥォオアァあごろ、コロ、ごォロしてやあぁァぁあゥオおおオおおオ!!!」

最後は人の言葉なのか、単なる生物の咆哮なのか、紅珠には分らなかった。頭部同様、奇妙に長く伸びてひび割れたような深い皺だらけのどす黒い腕が、巻き付いて抱えこんでいた兵士の死体をその場に放り投げる。床に転がる死体を蛇男の右足がぞんざいに蹴って押しやる。元は上質で品の良かったであろう沙南貴族の絹の室内履きは、既に元の色すら分からない程に汚れ破れ、かろうじて足を覆っているだけの状態となっていた。

「お前は――何者だ?矸氏なのか、それとももう中身も外見のままに変わってしまったか?」

 紅珠の言葉は目の前の蛇男に対してのものなのか、或いは単なるひとりごとなのか、わからない程小さかった。






 厳寒の凍てついた空気を長太刀が鋭く薙ぎ払う。素早く切り返された太刀が、縦横無尽に走り、蛇男に襲いかかる。常人ならばかわすことの容易でない連続攻撃を、蛇男は人にはあり得ない速さと動きでかわしていた。しかし全てをかわし切ることはできず、その衣装に、伸びて湾曲した腕に、毛の痕跡すらない頭部に、細い血煙りを飛ばす。

 素早い動きを止めようと脚を狙った斬撃は、唐突な後方への跳躍でかわされる。宙でトンボを切って着地するのに間合いを詰め、下から斬り上げ、切り返して間をおかずに斬り下げる。眼前で交差した腕がかろうじて致命傷を避けたが、太刀の重さが、蛇男の腕の骨を叩き折る。

「ぐぅおおオおおオおおオおお!!」

ばっくりと開いた口腔から奇怪な悲鳴が上がる。紅珠はひどく滅入った気持で、太刀を引いて構え直す。

 どんなに奇怪な姿をしていても声をしていても、それは人間の姿形を忘れさせてはくれなかった。どんなに相手は既に人間ではない、人とは異質な存在なのだと思っても、その人間臭い反応は、僅かな期待をどうしても抱かせてしまう。

(変質してしまった人間という存在は、回復されるのか?)

 紅珠にはわからなかった。彼を倒せばこの砦を襲っている闇の生き物も撃退できると考えているが、それとて前例のない事態においての推論である。

「でも!」

紅珠は気合いと共に大きく踏む込むと、上段から太刀を振り下ろした。間一髪避けられた太刀先を、床ギリギリで止める。もう一歩踏み出して半身になり、中段に太刀を構える。

「ここでお前に負けるわけにはいかないんだよ」

紅珠の宣言に応えるように、大きく間合いを開けた位置から、蛇男が吼える。

「逃がすわけにはいかないんだよ!!」

 やや重心を低くしたまま、紅珠が踏み込む。首筋を狙って鋭く繰り出された突きを、蛇男がぐにゃりと首をひねって避ける。そのまま踏み込みの重心をずらした紅珠が水平に太刀を薙ぐ。

「ぐギいいイイ!」

奇怪な唸りを上げた蛇男の口が、大きくしなるように宙を廻って、太刀を銜えようとする。素早く太刀を引いた紅珠が、再び中段に構えた体勢から突きを繰り出す。腰を狙った太刀先はかわされるが、間髪入れず狙った胸元への反応が遅れる。

(捕らえた!)

紅珠が確信した瞬間、蛇男の腕が大きく宙をしなる。胸に太刀が突き刺さる寸前、鞭のようにしなった蛇男の両腕が、太刀に絡み付いた。そのまま刃で肌が切られるのも厭わない怪力で太刀を締め付けると、その動きを止める。

「ツゥうかまぁァぁえたあぁァぁあ」

ぞっとする声音で蛇男が口許を歪めて嘲笑する。そうして動けない紅珠を濁った黄色の瞳で睨むと、大きく反動を付けて首を振る。

「死ねェぇええぇえ!!!」

ばっくりと開いた唇のない口が、紅珠の顔面めがけて迫る。その鼻先に、刃が叩きこまれる。

「ぎゃあぁァぁァぁァぁ!!!!」

予想しなかった攻撃に、蛇男が絶叫する。激痛に、太刀を抑え込んでいた両腕からは力が抜け、血を噴き出す顔面を仰け反らせる。

「残念ね。私の武器は一つじゃないの」

紅珠の右手には解放された長太刀が、左手には血を滴らせたやや短めの太刀が構えられていた。最も得意とする二刀を構えた紅珠が、体勢を整えながら微かに口元を歪める。

「観念なさい。お前では私に勝てない」

 紅珠の、刀を掴んだ両腕がゆらりと広がりながら油断なく蛇男に対して構えられる。その蛇男は、雄叫びのような悲鳴を上げながら悶絶している。紅珠はその周囲をゆっくりと移動しながら、間合いとタイミングを図った。その彼女の目の前で、異変が起こり始めた。

 両手で押さえている、出血しているはずの顔面が、ぶくり、と膨らむ。露出している頭頂部も一回り大きく膨らみ、肌に刻まれている深い鱗の間の亀裂が大きくなる。顔面を抑える手もぼこり、と膨らみ、指先で鈍く光る爪が伸び、まるでトカゲの足のように変わる。

 思わず紅珠の眉間に皺が寄る。嫌悪の表情で、紅珠は鋭く踏み込む。

「ふっ!」

右の長太刀が勢いを付けて斜め下から掬い上げるように蛇男の胴体に叩き込まれる。その寸前、

「ウオオオオオ!!」

室内に轟く大声で叫んだかと思うと、太刀を跳ね飛ばす勢いで、蛇男は跳んだ。少し離れた後方に蹲るように着地する。

「ウォオオオオオオォオオオ!!!!!」

そのまま両手両脚をばねのように縮めると、間髪入れず跳び上がった。紅珠をめがけて異様に変化した両手が爪を立てて振りかざされる。

 紅珠の左腕が反射的に跳ね上がる。短めの太刀が蛇男の右手の爪をがっちりと受け止める。蛇男の体勢が僅かに崩れる。紅珠が左腕を振って相手を払おうとする。しかし恐ろしいほどの怪力がその動きを妨げる。紅珠が眉を顰める。左腕一本の攻防がぎりぎりと行われる。そこへ蛇男のもう一本の腕が振り下ろされる。

「!!」

とっさに紅珠は右の太刀を跳ね上げる。しかし間合いが近すぎて、勢いも刃の切れ味も減殺される。辛うじて跳ね飛ばすようにして腕の軌道を変えるが、すかさず軌道を変えた腕が、紅珠の頭部へ薙ぎ払うように振られる。紅珠は反射的に避けるが異様に肥大した腕に目測を誤り、避け切れずに頭部をかすめる。弾かれて額当てが飛ばされる。紅珠はその勢いを借りて間合いを取ろうとするが、左手の太刀を掴まれる力はまるで緩んでいなかった。

(くっ……)

とっさに動けずにいる紅珠に、蛇男の腕が、脚が、襲いかかる。間一髪で急所への攻撃を避けながら、紅珠は必死で対処を探る。致命傷は避けているものの、尋常ならざる怪力での攻撃の全てを避けることはできず、ダメージが蓄積していく。左の太刀は押しても引いてもびくともしない。紅珠は決断した。

 左手を離すと同時に右の太刀を両手で構える。飛び退ると同時に太刀を横に薙ぎ払う。蛇男の左腕から細く血煙が弾ける。軽く間合いを取った紅珠は、右手で長太刀を構えて半身に構える。

「グゲァアアアアァァ!!!」

 掴んでいた太刀を投げ捨てると、蛇男が再び跳びかかってくる。紅珠は右の太刀でそれをさばきながら間合いをとり続ける。左手は腰のポーチを探り、目的の物を探り当てる。それを素早く左手にはめると、再び太刀を両手で構える。

「おおおおおお!!」

紅珠が気合一喝、襲いかかる蛇男の腕に長太刀を叩き付ける。鈍く骨の折れる音と血が噴き上がる。

「ウグオオオオォぉァアアアアア!!」

蛇男が骨折した腕をそのまま、力任せに紅珠に叩き付ける。辛うじて太刀で身体に直撃するのを防いだ紅珠であったが、そのまま力に押されて吹き飛ばされる。

「ぅくっ!」

背中から壁に叩きつけられて、紅珠が短く悲鳴を上げる。肺が圧迫されて瞬間息が詰まる。しかしすぐに気を取り直して蛇男を睨みつけた紅珠は、信じられないものを見た。

 ぶらん、と折れたところからだらしなく揺れる男の左前腕。傷口からはぼたぼたと血が滴っていた。しかしその出血は見る間に収まり、皮膚が泡立つようにぼこぼこと盛り上がる。そしてバリバリと破れた表皮が剥がれ落ちると、その下からは僅かに傷痕の残った、新しい皮膚が表れてきた。更にその腕はぼこぼこと内部から変異を繰り返し、骨折した部分を中心に歪に肥大し、巨大な左腕が不気味にゆらゆらと持ち上げられる。

 思わず吐き気を催しそうなその光景を、紅珠はかろうじて耐えた。明らかに全身から血の気が引いているのを感じていたが、意識だけはしっかりと繋ぎ止めていた。嫌悪感から全身から嫌な汗が噴き出していた。

「バケモノだな」

自分の目の前にいるのは、文字通り、紛れもなく人間とは異質の存在である「バケモノ」なのだと、紅珠は改めて認識した。手の甲で額をぬぐい、掌に沸いた汗も衣服で拭う。左手に嵌めた元耳飾りであった宝石を、しっかりと外れないように巻き付け直す。やや暗く濁った紅玉は、しかし明かりを受けてまだ澄んだ輝きを弾いていた。

「お前は、人ならざる姿になってまで、何を為したかったのだ……?」

 紅珠の呟きは、男に届いたかどうかは分からなかった。例え聞こえたとして、それを男が理解できるのか、紅珠には分らなかった。




     *




 何度目かの轟音に、屋上の一同がざわめく。塔の屋上階に当る窓から赤い炎が噴き上がり、吹き飛ばされたらしい瓦礫がいくつか屋上の床に鈍い音を立てて散らばる。兵士たちの視線は屋上の端の塔に集中する。そこには彼らの同僚の兵士が二人と、紅隊長がいるはずであった。

「おい、やっぱり、様子を見に行くべきじゃ…」

「だが、何も連絡がないしな。その前に、ここを離れるわけには…」

 言いながら兵士は、両手に構えた力を、狙いを付けて放つ。小さな炎が黒い塊に当たって弾ける。弾けた部分の黒い塊が消滅するが、すぐに下から黒い影がせり上がってくる。

「ちっ、やっぱ、俺程度じゃあんまり効かねえな…」

「めんどくせえ敵だな。剣が効かねえってのは…」

「効くかもしれんぞ。どっちにしろここからじゃ届かんがな」

「矢は効かなかったんだよな…」

 ぼやきながら、兵士が手にした掌より少し大きなボールのようなものを放る。それは緩い弧を描いて闇の中に消え、数秒後に鈍い破裂音とともに爆発し、赤い炎を上げる。周囲を包んでいた闇色のモノが霧消する。

 それは、先ほど司令部から配給された術具であった。どうやら今回の敵の弱点を衝くものとして至急に作られたものらしく、数が非常に少なかった。しかし効果は確実である。

「あんま使うなよ、すぐなくなるぜ」

「わかってるよ。でも……」

 砦の外壁に取り付いた黒いモノは、一向に減らない。それどころか、確実にわずかずつではあるが上へと登ってきている。何とか食い止めなければならない。それが彼らの使命であった。

 少し前から、砦北側の池の畔に灯りと人の姿が増えている。夜闇と遠目ではっきり見えるわけではないが、どうやら兵士たちが何やらしているようだった。恐らく、この屋上に術具が届けられたように、何らかのこの事態に対する対処法が採られているのだろうと彼らは思った。実際、先ほどまでほとんど見えなかったはずの地表面の様子が、かなり黒い影に遮られているとはいえ、見えるようになったのが、事態の改善を示しているのではないかと、兵士たちには思えた。それは、この砦の兵士たちの、姜将軍に対する信頼感からの願望であったかもしれないが、しかしそれは手探りで未知の相手と戦っている兵士たちに、希望を与えていた。

 重い音を立てて階下から屋上に上がる扉が開いた。近くにいた兵士たちが反射的に振り返る。しかしそこにいたのは姜将軍の姿でも屈強な兵士の姿でもなく、兵士にしては小さな人影二つであった。

「あれ、あんた……」

 湍が、その姿に目を瞬かせる。

「嵐さん、百、どうした?何か連絡か?」

声をかけられた人影が湍の方に振り向く。

「ああ、えっと、湍さん、ですよね?」

二人のうち、やや大柄な方が湍の姿に気が付いて、駆け寄ってきた。その後を、小柄な方がいささかおぼつかない足取りで歩み寄って来る。

「……どうした?お前の師匠」

「いやあ、外からここまで休みなしで走って来たんですけど、途中で師匠ばてちゃって、途中からおんぶして来たんですけど」

(……乗り物酔い?)

百のあっけらかんとした表情と近づいてきた嵐の青褪めた顔色を見比べて、湍は思わず嵐に同情してしまっていた。

「……そんなことよりも」

 嵐が何度か浅い呼吸をして呼吸を整える。

「紅珠はここか?」

「紅珠…隊長は、先ほど、あの塔に入って行かれました」

「一人でか?」

「はい、……ああ、いや、あの塔にはその前に二人、探索と警戒に配置されて行ったので、今は隊長と三人のはず…ですが」

「戦闘が行われているな?」

「はい、でも何かあったら報告に来るはずだし、俺らも今手を離せないし、任せるほかないかと……」

言いつつも、言うほど内心の不安が刺激された湍が、僅かに表情を曇らせる。

 その時、一際激しい轟音が塔の方角から屋上の空間に響く。はっとして振り返った湍は、その光景に目を見張る。

 塔の最上階の辺りの壁が派手に吹き飛ばされていた。真昼のように灯りが燈された屋上の空間の中で、もうもうと上がる白い埃や煙がどこか非日常的に映る。破壊された壁の石材が屋上の床に落下し始め、慌てたように塔の付近にいた兵士たちが避難する。その瓦礫と共に、何かの物体が床に叩き付けられる。

「ウグォオオオォオオオ!!」

奇怪な悲鳴とも咆哮ともつかないものを上げて、その物体が瓦礫の間でのたうちまわる。その姿を見た、周囲にいた兵士たちが、口々に驚愕の声や悲鳴、唸り声を上げながらじりじりと後退する。

「何だ!?」

塔からは最も離れた場所にいる端には、もうもうと上がる土埃も邪魔して、何が起こっているのか、今ひとつよく分からなかった。思わず立ちすくんでいる彼の後ろで、先ほどまでとは別人のように張り詰めた声がする。

「ハク、行くぞ」

「はい!師匠!!」

そのままするりと湍の横を通り過ぎて、嵐と百の二人が走り去っていく。

 一瞬、どうしようかと決めかねた湍であったが、再び上がった兵士たちのざわめきに、はっと視線を塔に向ける。そこには、破壊されて大きな開口部となった塔の最上階から今まさに飛び降りた人影が、いっそ優雅に舞い下りる姿であった。

「……隊長!」

それが遠目でも間違いようのない、彼の隊長であることに気が付いた湍は、今度は迷いなく駆け出していた。





「何だこいつは!」

 屋上にいた兵士たちの間に驚愕のざわめきが広がる。

 この世のものとも思えぬ咆哮を上げて血まみれの姿でのたうちまわる、異形の怪人を、近くにいた者はもちろん、離れた場所で壁を這い上って来る黒い影に対処していた者まで、茫然と見遣る。

 誰もが対処に迷い動きあぐねている中、数人がのたうちまわるモノに近付く。ためらいながらも剣を構えて怪人の様子を伺おうとする。

「おい、お前…!」

 呼び掛けながらのたうちまわるモノを覗き込んだ兵士が、さっと顔を青ざめさせて呻く。そのとき、仰向けになったそのモノの顔面を、屋上を照らす篝火が明らかにした。その姿を見た兵士たちから驚愕の声や呻きがあがる。蛇にしか見えない頭部を持った、かろうじて人の形をしているとわかるソレを、何ものと判じてよいのか、その場にいる誰も、わからなかった。

「そいつから離れろ!」

 ぎごちない空気を、凛とした声が打った。

「紅隊長!」

 兵士が声の方に振り向いた先で、いましがた塔から飛び降りた紅珠は、乱れた髪を乱雑に後ろへ払いながら立ち上がるところだった。コートの袖口で額に滲む血を拭いながら視線を上げた紅珠の視線が鋭さを増す。

「離れろ!身を低くしろ!」

鋭い声に、兵士たちがはっとして、意識を怪人に戻す。その彼らの視界の端で何かの影が鋭く過ぎる。

「ぐわっ!」

いくつもの悲鳴が上がる。不意に思わぬ場所からの攻撃を受けた兵士たちの多くは反射的に避けて直撃を免れたが、避けきれなかった兵士たちが体の痛みに、思わずうずくまる。

「しまった……」

紅珠が内心舌打ちをしながら刀を構え、飛び出そうとする。その耳に、勇ましい気合いが届く。

「うおおおおおお!」

紅珠からは、ちょうど蛇頭の男を挟んだ向こう側から、百が男に躍りかかる。百の手にした長い棒が唸りを上げて男の蛇の形をした頭部に振り下ろされる。

「…よしっ!」

鈍く激しい手応えに、百が相手へのダメージの大きさを確信する。明るくなった表情はしかし、直後に驚愕に変わる。蛇頭の男は、百が首筋に叩き込んだ棒をそのまま、払うこともせず、そこを支点に、ゆらりと頭部を揺らし、反動をつけて大きく振りかぶる。

「うそ!?」

弾丸のような勢いで男の頭部が向かって来る。予想を超えたとんでもない光景に、百の反応が一瞬遅れた。直撃を覚悟して百が身を固くする。

「はあっ!」

 鋭く短い気合いと共に、鈍い殴打音が上がる。鞘に収まったままの長刀で、百に襲い掛かろうとしていた蛇頭を殴り飛ばしてその軌道を変えた紅珠が、殴りかかった勢いのまま体を捻り、男の胸に左右の脚で連続して蹴りを入れる。男の体勢が揺らいだところで、着地した床に両手を付き、男の足元に、全身のバネを効かせた強烈な蹴りを入れる。連続しての急所への攻撃に、男は耐えられずに転倒する。

「頭はいくら狙っても効かない。腕も脚もだ。狙うなら体幹部だ」

 素早く起き上がった紅珠が、ちらりと視線を百に向けながら言う。なんとなくむっとしたものを感じながら、百は棒を握り直して構えをとる。

「こいつ何なんだよ、あんた、何手間取ってんだよ!」

百の怒鳴るような声に、紅珠は常と変わらぬ素っ気なさで答える。

「見ての通り、化け物だ。だが、今回の件の重要な参考人だ。簡単に殺してしまうわけにはいかない」

 奇妙な咆哮を上げて突っ込んで来る男を、紅珠が寸ででかわし、すれ違い様に体の回転の勢いを乗せた刀の一撃を男の肩の辺りに叩き込む。

「んなこと言ったって、捕まえられんのかよ、こんな化け物!第一、何の参考になるっつんだよ、こんなん!」

「やるしかなかろうが!」

もはや人声とは思えない奇怪な咆哮を上げながら、長く歪に伸びた首や両腕を振り回しながら襲い掛かって来る怪人を、何とかさばきながら、二人が怒鳴り合う。

 そう、殺してしまえるなら、ある意味楽なのである。しかし目の前の存在は、姿は変わり果ててしまったとはいえ、あくまでも沙南の貴族、矸氏であり、更にはこの砦を今襲っているモノの首謀者である可能性が高い。不明なことが多すぎるとはいえ、あらゆる意味で簡単に殺すことのできない存在なのである。

(なんとかして動きを止めないと…!)

 その思いが焦りとなったか、何度目かの男の腕をかわしつつ懐に入ろうとした紅珠は、視界の端でちらりと動く影への反応が一瞬遅れた。

(しまっ……!)

らしくもなく注意力を削がれた紅珠の体が、それでも無意識に攻撃を避けようと、傾ぐ。乾いた打撲音と共に、紅珠の左肩に熱い衝撃がかする。

「っく……!」

転倒も直撃も免れたが、とっさに攻撃もできない痛みに、紅珠は数歩引いて右手の刀を構え直す。

「うおおおおおりゃ!!」

 紅珠が引いたのを見て、今度は百がつっこむ。長棒を扱くようにして握りを確かめ、踏み込む勢いを両腕に込め、そのまま狙いを定めて真っ直ぐに男の胸の中央を突く。鈍い轟音が轟き、男の身体を揺らす。

「……っでもだめなのかよお!」

 決して悪くはない手応えにも関わらず、それが相手にさほどのダメージを与えていないことにショックを受けつつも、半ば予想していた百は、一呼吸で次の動作に移る。

 男の胸を突いている棒を素早く引くと同時に、身体に添わせて回転、右手を持ち替えると、身体を軽く捻りながら棒に勢いを乗せ、横殴りにする。軽く脚を引いて間合いをとると、再び持ち替えた長棒で、素早い連続突きを繰り出す。





(どうすればいい?)

 百の様子を見ながら、紅珠は息を整えつつ考える。

 百は、見た目は年齢相応に細く、身長の割には手足が長いため、そうは見えないが、意外と腕力が強く、足腰もしっかりしている。徒手であろうが武器を持とうが、戦闘員として、まず恵まれた身体の持ち主であると言える。かつ、基本的に素直な性格をしており、教えられたことを正確に身につけ、実行することもできる。

 しかしいかんせん、百は訓練も経験も浅い。臨機応変に事態に対処する素直さはあっても、とれる行動の選択肢は少ない。また、スピードもやや劣る。持ち前の正義感と膂力と度胸で、どこまでこの相手に通用するか。

 一方で、紅珠自身には経験値とスピード、正確に急所を狙う技はあるが、腕力は男性には劣り、一撃の破壊力には乏しい。

 つまり、どちらも決定力に欠けていると言わざるをえない。

(脚を止めて、網でもかけるか…)

 注意深く男の動きに目を遣りながら考える紅珠の側に、近付いて来る足音がある。

「あれが矸氏か」

 声をかけてきた嵐に、紅珠が視線を向ける。

「ええ、そうです」

紅珠は、一瞬嵐に向けた視線を、男と百の戦いの様子に戻すと、軽く息を吸い込んで背筋を伸ばす。

「あれを倒すわけにいかぬというのは、やはりあれが貴族であるからということか」

嵐の言葉に、紅珠は答えなかった。答えなくとも、彼には分かっていると思ったからだ。

 吐蕃皇国では、貴族以上の階級を持つ者を、一般の者が裁くことはできない。それは当然、沙南公国においても、そうであった。

 そしてまた、紅珠個人としても、できるなら矸氏は生かしたまま捕らえたいという気持ちもあった。矸氏は彼女自身とは全く関わりのない人であったが、西公・珪潤にとっては、矸氏は古い馴染みの人物だったからだ。

「捕らえてどうする。あれに人間の理性はあるのか」

「わかりません」

「人間の姿に戻す方法はあるのか?」

「わかりません。何しろこんなものは初めて見たので」

 紅珠の答えに、嵐は考え込む。そんな二人のもとに、湍が近付いてくる。

「隊長、大丈夫ですか」

「ああ、私は大丈夫だ。そちらはどうなった?」

「はい、今のところ何とか撃退していますが、アレが出てきてから、アイツらの動きが活発になっています」

 湍の言葉に、紅珠が素早く周囲を見回す。すると、下から這い上がって来る黒いモノを、胸壁の間から懸命に攻撃している兵士たちの姿と、それをかい潜って伸び上がろうとする黒いモノの姿が目に入って来る。

 一際高く伸び上がろうとする黒い影に、一人の兵士が大きく振りかぶって、瓶のようなものを投げ付ける。それは黒いモノの中で破裂し、大きな炎を撒き散らして、瞬く間にソレを燃やし消滅させていく。空気が音にならない悲鳴を上げて唸る。

 紅珠はその様子に内心唇を噛む。しかし、今採り得る最善の策は、一つしか思い付かなかった。

「悪いが、もう少し抑えていてくれ。アレがここまで辿り着くと、非常にまずいことになる気がする」

それは彼女の直感にすぎなかったが、「砂漠の傭兵」としての彼女の戦い方を知っている湍は、それを受け入れた。一礼して元の場所に駆け戻る湍の姿を見送りながら、紅珠は再び考える。

(とは言うものの、どうするか…)

 手が足りない。彼女は心底そう思った。

「あれは、どういう状態なのだ?」

 兵士が離れるのを見計らったように、嵐が紅珠に問う。

「元はヒトだったということは、あれは何らかが操っているのか?それとも、化け物がヒトの姿を真似ているのか、それとも、何らかのモノが乗り移ってでもいるのか?」

「…正直なところ、よくわかりません。彼がどうしてあのような姿になったのか、その直接のきっかけを知る者の証言は得られませんでした。ただ、私は、彼は一種の憑依状態にあるのではないかと思っています。巫女が神意を得て神の言葉を語るように。矸氏は何らかの存在を儀式によって召喚した。それを意図的にか、それとも意図の他の出来事であったかはわかりませんが、矸氏の身の内に宿らせた。それが、矸氏の意識と力を超えてしまい、あのような人外の存在へと変貌させてしまった…」

「…では、矸氏の中にあるものを何とかしてしまえば、可能性はあるやも知れんな」

「…できますか?」

「わからぬ。だがやってみる価値はあろう」

 紅珠は少しだけ考えたが、すぐに頷いた。今の状況で、可能性があるなら何でも試す以外、状況を打開できる途はなかった。

「すまぬが、しばらく時間を稼いでくれ。それから、なるべくアレをあの位置から動かさぬようにしてくれ」

 そう言って動きだそうとする嵐を、紅珠は呼び止めた。

「これを使ってください。特殊な方法で精製した油です。多分、アレには有効です」

「わかった。有り難く使わせてもらう」

 紅珠から手の平に収まりそうなくらいの小さな瓶を受け取った嵐が、軽く笑って走り去るのを見送ると、紅珠は一度、大きく深呼吸をした。吸い込んだ空気を全身に行き渡らせると、胸の空気を少しずつ吐き出していく。可能な限り高めた集中力で、ゆっくりと全身の力を引き出していく。手にした刀の先端までも自分の身体の一部としながら、紅珠は立ち上がる。

「いくぞ」

 自分自身に囁くと、紅珠は飛び出した。





 百と戦いを続ける蛇頭の男の背後から、紅珠は一気に間合いを詰める。鋭い踏み込みで高く跳躍すると、空中で体重移動、くるりと前方に回転すると、そのまま狙いを定めて、長靴の踵を男の右肩に叩き込む。助走と跳躍、そして落下の勢い全てを上乗せした強烈な浴びせ蹴り――いわゆる踵落としを食らった男が、一際激しい悲鳴を上げる。

 悲鳴とも咆哮ともつかない呻き声を上げ続ける男の肩口で、紅珠は無理に体重移動をすると、いきなりの紅珠の攻撃にやや呆然としつつも男から間合いを取って下がる百の傍に、ひらりと着地する。

「あんた曲芸師かよ……」

憎まれ口を叩く百に軽く睨んでみせると、紅珠は素早く振り向いて構えをとる。

「私たちでしばし時間を稼ぐ。なるべく殺さないように、ただし、ここからこいつを絶対に動かすな」

言いつつ、紅珠は素早く髪止めの一つを引き抜き、そこに付いた飾りを片手で毟り取る。

「見ての通り、こいつの回復力は異常に速い。しかも負傷部分を庇うように異常な変形をおこす。しかし、回復力も変形も無限のはずはない」

怒りからとも痛みからともとれる呻りを上げながら、蛇頭の男が二人を濁った黄色っぽい瞳で睨みつけている。その右肩は、先ほどの紅珠の攻撃で明らかに骨が折れ、歪んで傾いでいたが、力なく垂れ下った異常に長いその右腕は、びくびくと震えながら、徐々に肩へと波打つ筋肉が寄せ集まっていく。

「うえ………」

あまりにも非常識なその光景に、百は胃の辺りに重い感覚を覚える。

「馬鹿力とあの身体を活かした予測しにくい攻撃をしてくるだけだ。スピードも先程よりは鈍ってきている。それ以外には術もない。分かっていれば恐れるほどの相手でもない!」

一息に言うと、紅珠は毟り取った飾りの青い石を、変形を続ける男の足下に投げ付けた。ばらばらと当たる礫のような青い石が、眩い光と共に凍気を噴き出す。

「うごおぉォオおお!!」

驚いたように男が身をひねるが、既にその足は凍り付き、床の石畳に固定されていて、動けない。

「はあああ!」

すかさず飛びかかった紅珠が、振りかぶった刀を、変形を続ける男の右肩に叩き込む。ぐにゃりとした筋肉の感触に、紅珠は軽く舌打ちするが、鋭い刃は確実に男の皮膚と筋肉を切り裂く。

「う、うおおおおおおお!」

紅珠に続いて百が長棒の一撃を、男の胸の中心に叩き込む。常人ならば胸骨の砕けそうな衝撃に、蛇頭の口から叫び声が上がる。紅珠は内心微笑みながら、再び間合いを取る。

「復活する隙を与えるな!」

「おおおおおお!」

 百の繰り出す突きが、一撃毎に男の身体を大きく揺らす。気持ち悪さや恐怖心を抑え込みながら、必死に相手の攻撃を封じ込めるように、百は極度に神経を集中させ続ける。

 百の攻撃の隙に、紅珠が的確に急所に攻撃を加える。暴れる男が足を拘束する氷を破壊して足を踏み出そうとすると、その両膝それぞれに、長刀と長棒の攻撃が叩き込まれ、思わず男が膝を付く。その隙に追撃しようと大きく振りかぶった百の斜め後ろから、異様に長く伸びた男の腕が襲いかかり、遠心力を加えた拳が百の背中を殴る。咳き込みつつも百は反射的に身を屈めて、転がるように間合いから離れた。

 目標を失った男の左腕が、そのまま今度は紅珠に向ってくるが、紅珠はそれを双刀で捌くと、一旦間合いを取る。

「ちくしょう、絶対負けねえ!」

斜め後ろで怒鳴る百の言葉に、軽く口元に笑みを浮かべると、紅珠は再び双刀を構え直し、男に向かっていった。





 幾度目かの男の攻撃をかわした紅珠は、周囲に緑色の光が満ちていることに気が付く。はっとして周囲に視線を遣ると、杖を構える嵐の姿が目に入った。一瞬合った嵐の視線が、頷くのを紅珠は認める。

「ハク!下がれ!!」

一際高く大きな紅珠の声が、男の間近で棒の攻撃を加えていた百の耳に届く。はっとして百が周囲に視線を向けると、紅珠が大きく飛び退いているところだった。その引いた近くに杖を構えた嵐がいるのにも気付いた百は、慌てて棒を引いて、その場から駆け出した。

「嵐さん!」

「うむ」

 紅珠の声に意識を集中させていた嵐が頷き、視線を上げる。その目に、異変に気が付いていないのか、大きく全身を揺らしながら、周囲に首を向けている蛇頭の男の姿が映る。そしてその姿を囲むように、嵐が張り巡らした、油で描かれた陣の姿。それは嵐の意識の集中に応じて、結界を成し、ゆるやかに緑色の光を床から立ち上らせている。

(風の力で炎の力を増し、融合した力で、一気に“邪”を浄化する!)

 嵐が杖の力を一気に解放する。すると彼の思いに従って、結界が眩く輝き、床に油で描かれた陣の模様から、炎が噴き上がる。その炎に、結界内に吹き上がった風が勢いを加え、互いに絡み合うように天高く立ち上がる。

「人の身に巣食いし邪なる力よ、消え失せろ!」

 言葉と共に、杖を介して嵐の気合いが、結界の真ん中に佇む蛇頭の男に叩き付けられる。嵐の意思に応じて、風と炎の渦が、竜巻のように男を取り込む。

「ぎゃアああぁぁあァああああああアアアぁあ!!!!!」

奇怪な咆哮が轟く。思わず屋上にいた者全てが動きを止めてその様子を見守る中で、激しく渦を巻く炎の柱は、暫しの後にふっと天へ昇るようにかき消える。

 兵士たちがつられて夜空に視線を向けるが、そこには炎の名残は何もなかった。

 呆然とした空気が漂う屋上の空間で、紅珠が駆け出した。まだ淡く緑の光と緩い風が残る結界の中へ踏み込み、その中央で倒れ伏している男に近付く。

 うつ伏せに倒れたそれは、ひどく汚れてはいたが、炎に焼かれた様子は一切見られなかった。

 その姿は、先ほどまで戦っていた姿と一切変わりなく、四肢や関節が歪に増大したり伸びたりした人間離れした姿で、露出している部分には、毛髪の類も見られなかった。

 それが動かないのを確認しながら、紅珠がそれの身体を仰向けにしようとそっと手を伸ばす。触れたその身体がひやりとするのに、紅珠は眉を顰める。苦い思いが湧き上がるのを無視しつつ、力を込めてその異様に重たい身体を持ち上げようとすると、横から別の手が伸びてくる。怖々ながら力を貸してくれる百の姿をちらりと見遣ってから、紅珠はもう一度力を込め、動かない男の身体を仰向けに転がす。

「うっ……」

 間近で見ると更に異様さの際立つその顔に、紅珠も一瞬息をのむが、我慢してその口元に手甲を外した掌をかざす。そこに何の感触も感じられないのを確かめてから、そっと首筋――と言える場所を指先で探る。

「――死んでいるのか?」

「――どうやらそのようです」

隣にやってきた嵐に頷きながら肯定を返した紅珠が、矸氏であったモノの死体からそっと手を引いた。

「――あの術は、確かに邪なモノだけを焼き払った。ということは、こやつは既に人間としての意思も魂も、あの化け物の魂に食われてしまっておったのだろうな」

「ええ」

苦い顔で言う嵐に、紅珠は頷いた。





 気が付くと、屋上へ這い上ろうとしていた黒いモノはいつの間にやら消え失せていた。様々な声でにわかに騒がしくなる青の砦の屋上空間で、紅珠はじっと考えに沈んでいた。

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