5.破月の疑惑
沙南公国軍練兵場の一角で派手な打撃音が上がり、一瞬遅れて重い物が地を打つ震動が起こる。
「遅い!攻撃もワンパターン!少しは学習しろ!」
もうもうと上がる砂埃を切り裂いて女の声が響く。
「っるせえ!!」
叩きつけられる声に反発するように跳ね起きた少年が、跳ねるような動作のまま構えると、勢いに乗せて声の方に突進する。走る勢いに合わせて、二、三度手にした長棒を振ると、巻き起こる風に砂埃が晴れ、向かう相手をはっきり捉える。
「おおお!!」
少年が突進の勢いのままに長棒を大きく振りかざし、正面に捉えた女に振り下ろす。女はわずかに眉を顰めると、左手に握った棒を、自分に叩きつけられる長棒の機先にかざそうとする。
(かかった!)
少年は女のその動きに、思わずにやりと口許を弛める。両腕に力をこめて長棒の進路を無理やり曲げる。両足で地面に踏ん張り、靴底が砂を噛んで滑る勢いも利用して急制動をかけ、無理やり体をひねる。
「てあああ!!!」
女の眼前で体を逆回転させると、先ほどとは反対側から長棒を振り下ろす。しかし女は全く焦らずそのままわずかに足を踏み変えると、両手の棒を交差させるように胸の前で構えると、そのまま少年の長棒を受け止める。
(もう一度!!)
完全に攻撃が受け止められたことに少年はわずかに失望するが、そのままもう一度体を回転させるように足を踏み込む。女の両手の棒に受け止められたままの長棒がそこを支点にして少年の回転の動きを後押しする。僅かに力に押された女が眉を寄せる。
(いける!)
しかしそう思った瞬間、がくり、と腕の力が抜けた。女がわずかに体勢を変え、交差した両手の棒で少年の長棒を挟み込むようにしながら斜め下へと押し込んだのだ。力点を変えられて、たまらず少年の体勢ががくりと崩れる。
「おわあ!」
叫んだ少年の視界の端に黒い影がはしる。はっとするかしないかの瞬間に左半身に凄まじい衝撃を感じた。
「うぐっ………!」
一瞬息が詰まり、視界が白く激しくぶれる。一瞬浮遊感を味わったかと思うと、次の瞬間には右半身を固いものに叩きつけられ、一瞬意識が飛んだ。
「だから、まだ甘い」
意識が飛んだのは本当に一瞬だったようで、女の冷静な声に、少年は視界を取り戻す。目の前には白茶けた砂利があり、少し離れた所に黒革の長靴の先が見えた。
少年が咳きこみながらも頭をもたげると、女が体を半回転させながら左足を地面に着いたところだった。彼女は受け止めた少年の長棒を外しながら、その場で右足を軸に鋭く体を回転、左足による後ろ回し蹴りで少年を吹き飛ばしたのであった。
少年は何とか腕を動かして体を起こそうとする。しかしひどく打ちつけた全身の衝撃はまだ薄れず、もがくように手だけがわずかに土の地面を掻く。それを息一つ切らさぬ冷静な目で見やると、女は体の力を抜いた。
「今日はここまでだ」
「ま…ま、だ……」
「骨は折れてないだろう。とっとと医務室へ行け」
少年は何とか右腕を持ち上げ、手を突いて体を起こそうとするが、肘がふんばるばかりでやけに重い体を1ミリと上げることができなかった。そんな少年の様子を最後に一瞥すると、女は髪をふわりと揺らして踵を返し、歩み去っていった。
大丈夫か、と何人かに声をかけられて体を助け起こされながら、少年は黒衣の女の後姿を、ただじっと睨みつけていた。
「それにしてもお前もよくやるよなあ」
軍官舎内の医務室で全身の擦り傷と打撲傷に薬を塗られながら悲鳴を上げている百に、彼に肩を貸してここまで連れてきた兵士が半ば呆れたように、半ば感心したように言う。
「え?」
自分では見ることも触ることもできない背中に沁みる薬を塗りこめられて、涙目になりながら百が振り向く。しかしすぐにあたたた、と悲鳴を上げて肩を押さえる。打ち身で腫れた部分が引きつられたらしい。
「毎日毎日毎度毎度ぼろぼろにのされてるくせに、よく懲りずにやってるよなって言ったんだよ」
「だって、悔しいじゃないか。あいつ、ぜんっぜん、顔色一つ変えやしねえんだぞ。絶対、力なら俺の方が強いはずなのに。だったら一発ぐらい当てられたっていいだろう?でもぜんっぜん、当らねえの。一発でも当てられたら、ちょっとは変わるはずだと思わねえ?」
「まあなあ、お前、馬鹿力だしな。でも、相手が悪いぞ、絶対」
「でも、俺だっていきなり武器変えられて、これでやれっつわれても普通無理だと思わねえ?あいつはずっと武器変えてないのに。絶対、不公平なんだよ!」
「いやお前、だから、相手が悪いんだって」
尚もぶつぶつと言い募る少年に、彼より少し年上の兵士が苦笑する。
「砂漠の紅珠って言ったらお前、有名な「戦士」だぞ」
この世界で「戦士」という場合、それはあらゆる武器を一通り使いこなせ、その上体術も優れた者のことをいう。それは一言でいうよりも、実際にははるかに困難なことであった。紅珠は双刀使いで有名ではあったが、実際にはその場に応じていくつもの武器を使いこなしている。
実際彼も、紅珠と一対一の実戦演習を受けたことがあるが、その時彼女は彼が普段使う長剣――沙南公国軍の通常使用武器である――と同じものを使っていたし、またそれを見事に使いこなしていた。彼自身は新兵ではなかったので一応の演習ということで、百のように徹底的に叩かれるということはなかったが、それでも確実に自分は負けていたと彼はわかっている。
そしてその後、紅珠による新兵訓練を見学して、彼は心底、今年の新兵ではなかったことを感謝していたのだった。
「紅珠さん、全然手加減しねえからな。ていうか、手加減てもの、知らないんじゃないのかねえ、もしかして」
兵士が苦笑しながら言う。
「それってどうなんだよ、教官としては失格じゃねえのか…?」
百が悔しそうに呟く。
「まあ、俺らがやるのは「武術」じゃなくて「戦闘」だからな」
だから多少の無茶もやりすぎも時には必要だ、そう彼は理解している。理解はするが、できれば避けたいというのも正直なところではあった。
「まあ、がんばれ。オレらは応援してるよ」
「おう!!絶対明日こそは一発当ててやるぜ!!!」
からかい半分の兵士の励ましの言葉に、百は勢い込んで答え、再びあたたた、と情けない悲鳴を上げる。
(こんだけ元気で懲りてない奴はおもしろいよな~)
本気で紅珠に勝つつもりでいる百には気の毒だと思うものの、実際のところ、彼をはじめとする兵士たちには、百が紅珠に挑戦する様は、一種の恰好な娯楽的見世物として、このところ有名であった。
百は正式には沙南公国軍に加入していない。あくまで百は「師匠」である嵐の勧めによって、私的に紅珠に武術訓練をつけてもらっているという状態であった。
紅珠の実力と容赦のなさを既に知っていた沙南公国軍兵士たちの間では、初めのうち、なんと無謀な一般人がいたものだと呆れ、ほとんど相手にもしていなかった。実際、一番最初に百が紅珠に挑んだ時は、全く話にもならなかった、と彼は思い出す。しかし大方の予想を裏切って、百は連日紅珠に挑み続けている。そして紅珠も律儀に毎回百を叩きのめしている。そういったことが続くと、それまで冷淡に見ていた兵士たちの間にも、事態を真面目に、しかし面白がって見物する空気が定着した。そして、どんなにやられても懲りたり拗ねたりといった、ネガティブな方には向かわない百の健康的な性格は、今ではすっかり沙南公国軍の兵士たちに可愛がられる存在になっていた。
そしてまた、明らかに初心者の百にも律儀に真摯に手加減なしできっちり連日相手をする紅珠に対する兵士たちの評価も、徐々に変わってきているのであった。いわく、「隙のない凄腕の傭兵」から、「意外に面倒見の良い有力な戦士」へ。「美人だが近寄りがたい女」から美人であることは変わらないが、「同じ釜の飯を食う沙南公国軍兵士の一人」へと。
***
12月も半ばにさしかかっていた。12月半ばの沙南公国は、吐蕃皇国の中では南方に位置するとはいえ、かなり冷える季節である。歳の終わりの月であることから、例年この時期はせわしないものであったが、この年はそれに輪をかけて、もしくはそれには関係なく、沙南公国政府は連日政務に追われていた。
現在沙南公国では、軍政の改革が急務として行われている。8月の皇公会議時に沙南公国の重要人物である宰相と副公であり大将軍であった人物を、沙南公国は失った。また、彼ら以外にも会議に出席していた有能な才能が幾人か失われている。失われた人は戻らず、また代わりもいない。そのため、単に代理を任命するだけでは沙南公国政府は立ちいかない状態となってしまったのである。
それならなぜ軍制改革に特に注力しなければならなくなったのかといえば、それは沙南公国の、それまでの体制への反省からであった。
従来、沙南公国はあまり軍事に力を入れていなかった。
吐蕃皇国内の軍に対する評判として、一般に沙南公国は、「兵のひとりひとりの質は標準、軍としては平凡」と言われていた。また、その特徴としては、吐蕃皇国軍中最も傭兵をはじめとする非正規軍人の率が高いというのが筆頭に挙げられるほど、特徴のないものであった。
ここ数年、吐蕃皇国は内外に大きな戦争を構えたことはなかったとはいえ、沙南公国では、他の公国と比べて明らかに沙南公国での軍の重要度は低く見られていた。もっとも、それで充分であったから通用したのであり、そのこと自体は国の平穏さを示していて、よいことともいえる。
しかしそういった、平穏さに慣れた国体が、今回の悲劇を招いたのではないかと考えられるようになったのである。
いってみると、これまで沙南公国は吐蕃中央政府に甘えがあったのである。その結果失われたものは、大きすぎた。
二度とそのような悲劇を繰り返してはならない。そのためにはあらゆる意味で、沙南公国は自立しなければならないと考えられるようになったのである。
とはいえ、これ見よがしに急激な軍事拡張などを行えば、それこそ吐蕃中央政府に、ひいては皇に、沙南公国は叛心ありとみなされてしまう。それでは本格的に国が潰されてしまうこともあり得る。それは、このたび喪われた者たちへのこの上ない裏切り行為となってしまう。それだけは決して避けねばならないことであった。
そのため、表向きは通常の軍政務改革であるように見せ、内実は大幅な変革を行なう。そのあやういかけひきを、沙南公国政府は一丸となって遂行していた。それは沙南公国人の元々の気質である強い団結力が大きく影響していたであろう。しかしそれ以上に、国中から敬愛されていた宰相と副公を奪われた悲しみが、彼らの決意と団結力をより強固にしていたのであった。
沙南公国軍に新たに採用されたばかりで一隊の隊長を任されることとなった紅珠も、例外なく軍制改革の真っただ中で連日会議や折衝、取引などの公務に忙殺される日々を送っていた。
彼女の場合幸運だったのは、彼女の所属することとなった隊というのが、今回の軍制改革における重要なポイントの一つである、「元・傭兵を大量に正規兵として雇用し、即戦力の隊を形成する」という計画の、正にその隊であったことであった。
もちろんそれは、彼女の経歴と傭兵たちからの信頼感から、適任であるとして抜擢されたことであった。そのため、彼女の意見や意思は比較的スムーズに受け入れられることが多く、異例と思えるほどの待遇の良さであった。しかし返せば、もしそれが失敗した場合は、その責任のほとんどは彼女一人が背負うこととなることを示してもいた。むしろ、そうなった場合の痛みを最小限にするための優遇措置であるともいえる。
しかし紅珠は、そういったことすべてを認識した上で、現在の状況を楽しんでいた。それは、もともと物にも地位にもこだわりの薄い砂漠の民の気質でもあり、それ以上に、自分の特性を活かせる仕事に、彼女がやりがいを見出していたためでもあったろう。
その日も紅珠は、新兵訓練と百の特訓をこなしてから隊長執務室に戻ってきた。
汗と埃にまみれた衣服を控室で手早く着替えると、書類や書簡の山積みされた机に就く。
「お疲れ様です」
声をかけられて、紅珠は微かに会釈を返す。
紅珠が沙南公国軍において身を置いているのは、元傭兵たちばかりを集めた新隊――通称、紅兵隊――であったが、正規の訓練を受けた者の全くいない隊というのは、もちろん正規軍組織としてはいささか問題が生じてくる。特に、従来の正規兵や一般市民の抱くであろう感情というものは無視できるものではない。そういった問題を回避、あるいは緩和するため、従来の正規軍の中から、幾人かが紅珠の上官や補佐として配属されていた。
今彼女に声をかけてきたのは、主にデスクワークを補佐するために配属されてきた者で、名を燦といった。30代後半の男で、元は補給部隊に所属していたが、今回の改編で、紅兵隊の隊長補佐官に任命され、主に事務処理を担当していた。
「今日の仕事はどんな感じだ?」
「はい、とりあえずはそこに積まれている書類の決裁。特に至急のものはありませんが、明日には公も出席される会議がありますので、それまでにはすべて目を通していただきます」
紅珠の問いに、燦が簡潔に答える。しかし単に書類の決裁といっても、それはそう狭くもない机の上を大半占拠して、かろうじて作業スペースを残す形で、絶妙なバランスをもって軽く小山状に積み上げられているものであった。
(どうして一日でここまで増殖しているんだ…)
昨夜執務を終えた時には確かにこの三分の一程度の高さだったはずなのだが、と思いつつ、紅珠は内心ため息を吐く。とはいえこれに手をつけなければ、時を追うごとにまた増えていくのは確実であった。とりあえず燦に軽く礼を返すと、紅珠は無言で手近の書類を取り上げた。
無言で書類を読み下しながら筆を走らせる紅珠の様子を少し眺めてから、燦も自分の机の上に積み上げられた書簡に、視線を落とす。
彼は、紅珠の補佐官となってから、まず驚いたことがある。紅珠が吐蕃皇国の公用語に、全く不自由しないどころか、文字まで完璧に使いこなせることであった。彼の知る限り、砂漠の民は大陸交易路を行き来して生活している者が多いためか、大体の者が多国語を操ることができる。しかしそれはどれもが完璧というわけにはなかなかゆかず、たいていはどこか妙な癖があったり、話す言葉に妙なアクセントやイントネーションがあるものだし、仮にしゃべる言葉に不自由はなくとも、文字まで完全にマスターしているかというと、そうではない者の方がはるかに多い。少なくとも彼は今まで、生粋の吐蕃皇国民かそうでないかの区別はそういったところで見分けられると思っていた。
しかし、紅珠は違った。少なくとも、吐蕃皇国の公用語の読み書きは全く不自然なところはない。更にはある程度の計算にも不自由はなかった。吐蕃皇国においてもその他の周辺の国においても、「文字」と「計算」両方を身に着けているというのは、ある程度高度な教育を受けている者か、もしくは生業として必要な商人のどちらかであることがほとんどである。もしかしたら紅珠はどこか南方出身の商人の家に生まれた者なのかもしれない、などと燦は思っていた。
もちろん、そういった予想外の紅珠の能力は、燦にとっても迷惑なものではない。むしろ、この隊に異動すると決まったときに思った悲観的な予想――戦闘能力のみに長けた傭兵上がりのフォローに追われる仕事に忙殺される日々の始まり――が良い意味で裏切られたのである。更に、仕事のさばき方もなかなか合理的で、仕事の決裁速度も手早い。仕事のできる上司をもって、不満などあろうはずもない。
そんなわけで、燦は畑違いの隊への異動にも拘らず、精神的には大変快適な仕事の日々を送っているのであった。
その日も特にこれといった問題もなく、業務は滞りなく進んでいた。
そのまま午前の業務は終わり、昼食休憩をはさんで、引き続き執務室には書類を捲る音と、筆を走らせる音が断続的に続いていた。そんな中、午後遅くに届けられた報告書類に目を通した燦が無言のまま表情を変えた。
「隊長」
呼ばれて紅珠が無言で顔を上げ、視線を向ける。
「少し、妙な報告が……」
問うような視線に促されて、燦は書類を手に紅珠のデスクに近づく。受け取った書類を読んだ紅珠が、柳眉を顰める。
「――これは、公にご報告した方がよさそうだな」
しばらく思案した後に紅珠が言う。燦にももちろん異存はなかった。
*
紅珠のもとにもたらされた報告とは、先日の山賊討伐作戦の追加調査であった。
あの後、紅珠たちはすぐに現地から撤退したが、その後も砦――通称、『蒼の砦』――の姜将軍率いる駐留部隊によって、山賊捜索は続けられていた。紅珠たちとの戦闘時に逮捕された山賊メンバーの証言を引き出し、賊の本拠地を特定、現状確認を続けていた。
その経過は定期的に紅珠や大将軍・曹几達、そして西公・珪潤に報告されていた。そうして突入の機会が図られていたのだが。どうやら、異変が生じたらしい。
「異変とは?」
西公・珪潤と大将軍・曹几達、文部副長兼諜報部長・珪髄と紅兵隊隊長・紅珠の四人のみの会議の席で、珪潤が報告を持ってきた紅珠に尋ねる。それを受けて、紅珠が姜将軍からもたらされた書状に視線を落とす。
「例の山賊の隠れ家を監視している者からの情報ということなのですが――端的に申すなら、突然、奴らが凶暴化している…と」
「……意味がわからんな。賊などそもそも凶悪粗暴の輩だろう」
厳つい顔を更に顰めてほとんど凶暴な表情をしながら、曹几達が言う。
「そうおっしゃりたいお気持ちはよく分かります――ですが、わざわざこのような報告を寄こしてきたということは、その変化が著しく、甚だしいということでありましょう。わざわざ報告書に『異様な』とまで記してきているのです。通常考えられる程度を超えて、何かが起こっているのだと考えてよいのではないかと考えます」
「――確かに、妙な文面であるな。姜将軍の手の者であれば、能力的には信用できるはず」
珪髄も紅珠からまわされてきた書類を読み下しながら、眉を顰める。
それによれば、ここ数日、隠れ家に見られる人数が日毎に増えている。最初のうちは武器や食糧の運び入れなど、何らかの戦闘準備が活発化してきている様子がうかがわれた。しかし数日のうちにその、ある意味規則正しかった彼らの動きが、最近不規則になってきている。日中出歩く者はどこか覇気なくぼんやりとするようになった。精神的にも不安定なのか、些細なことで諍いを繰り返す様子があからさまにうかがえるようになり、最近では日中はそこかしこでぼんやり生気なく佇むだけの者も現れるようになっている。また、異変は夜間の様子にも顕著で、こちらはむしろ、活気があるように見えるという。
もちろん夜間には監視する者も視界が日中ほど利かない。しかしこれまでは夜間はさほど活動が見られなかったものが、人影が頻繁に出入りするようになり、詳しい会話の内容までは聞き取れないものの、何やら屋内から断続的に聞こえる人の声が、明け方近くまで続くようになったのだという。仮に彼ら山賊たちが夜間に活発に活動する生活習慣としているのだと考えたとしても、数日前までは普通に昼間の方が活動が活発であったことを考えると、やはりこの数日で急にそのように活動時間が反転しているのは、いかにも不自然である。
「しかしなあ…」
曹几達も書類に目を遣りながら、渋い顔をする。
「確かに、状況としては異様にも思える。しかしそれだけでは踏み込む決定的な理由とはならんぞ」
彼の言葉に、珪髄は少し考えながら、慎重な口調で言う。
「いや、そうとも申せません。『異様な』というフィルタを除いても、賊の動きが活発になっているという事実は残ります。それが何らかの次の襲撃計画の決行が近いからだということは十分にあり得ることです」
「ああ、そうか……その計画が、夜間に行われることなら、体を徐々に馴らしているのだとも考えられるな」
珪髄の言葉に、曹几達は頷く。多少思考に柔軟性が足りないところはあるが、他者の意見にも耳を傾ける度量を持っている辺りが、曹几達が周囲に信頼されている所以である。
「そうです。武器や食糧が備蓄されていることは、これまでの報告から、ある程度間違いないのです。であれば、あまり悠長なことも言っていられないかもしれません。奴らの準備が整う前に、こちらから仕掛けるべきではないかと――」
珪髄が言いながら一同を見渡し、最後に西公・珪潤に視線を止め、しっかりと見据えた。つられるように全員の視線が珪潤に集中する。
全員の視線を受けながら、珪潤がおもむろに口を開く。
「姜将軍に至急の伝令を。作戦実行準備を整えよ。並行して、山賊たちの異変について、もう少し詳しい情報がほしい。至急にだ」
西公の指示はすぐに早馬で蒼の砦の姜将軍のもとにもたらされた。それに対する返信は、異常なほどにすぐ届けられた。
山賊の隠れ家を監視していた兵士の一人が襲われた。不意を突かれて重傷を負ったものの、幸い意識ははっきりしている兵士の証言したところによると、
「まるで狂人としか思えない形相の男がわけのわからないことを喚きながらいきなり襲ってきた。とっさのことで反撃も遅れたのは口惜しいが、最も無気味であったのは、こちらが何度斬り付けても一向に構わない様子であったこと。まるでろくに痛みを感じていないかのようであった」
ということであった。
襲われた兵士は幸い、発見が早かったため、手当てが間に合ったようだという。しかし襲ってきた山賊の一員と思われる男の姿は、見つからなかった。ただし、おびただしい出血の跡が木立の間にところどころ残っているのが、発見された。それがどうやら山賊たちの隠れ家に向かっていることも確かなようだという。
しかしそれだけの出血があれば襲撃者とて無事ではあるまいに、血の痕跡からして、倒れたり足を止めたりした様子がうかがえないということは奇妙なことであった。また、本気で山賊たちが監視の兵士を排除するつもりであったのだとしたら、襲撃者がたった一人であったこともおかしいし、そもそも他に監視の兵士は二人おり、彼らはその時もそう離れた位置にはいなかった。そして、彼ら二人は、全く襲われておらず、他の襲撃者が近辺に潜んでいた様子も見つからないという。
結論としては、今回の兵士が襲われたのは、完全な突発的な事件であり、かつ、襲撃者には明確に兵士を殺す意図はなかったと思われる。にもかかわらず、攻撃は執拗で、反撃も充分過ぎるほど受けている。その上、決して浅くはない傷を負ったにもかかわらず、襲撃者は全く普通のペースで山間の道なき木立の間を去っていったということになるのである。
更に付け加えるなら、危険を感じた兵士たちは、監視場所を変えた。しかし、以前の監視場所に、その後山賊たちがやってくることは、今のところないのだという。
*****
「んっ……はあっ…………!!!」
幾重もの紗の帳に囲まれた寝台の中で、しなやかな身体が跳ねる。
荒い息遣いと布ずれの音。重厚な寝台のきしむ音。あるかなきかの火明かりの中営まれる行為は、厳寒の冬の夜でも、ひどく甘い熱をはらんでいた。
帳を透かした火明かりの下、珪潤は組み敷いた自分の腕の中の紅珠をじっと見つめる。なだらかな曲線を描く均整のとれた身体は、驚くほどにしなやかで、白く肌理が細かかった。
珪潤とてそんなに多くの女性を見てきたわけではないが、それでもこれ程に美しく艶めかしい身体を、彼は他に知らなかった。
それでも握った上腕の硬さや、肌のあちこちに残る様々な傷跡が、彼女が深窓の姫君などではなく、いくつもの戦闘行為を繰り返し、それを生業として生きてきた戦士であることを如実に証明していた。
「公…?」
整わない息の合間に、紅珠が問うように潤を呼ぶ。常よりもかすれた低い声は、彼の内側を熱くさせる。誘われるままに、潤は腰をより彼女に押し付けるように動かしながら、彼女の身体に覆いかぶさった。
「ぅんっ……!!」
びくりと震える肢体を抱き締めながら、潤は紅珠の首筋に顔を押し付けた。ふわり、と空気が動き、甘い香りが彼を包み込む。甘く爽やかな花のような香りは、紅珠の肌から香ってくるものだった。
砂漠の民は老若男女問わず、沙漠の厳しい天候の下で素肌や髪の毛を守るため、常に香油を塗り込んでいる。特に女性は年齢を問わずその香油にこだわりを持っていて、各人が自分の好きな香りを調合して用いており、香りだけでそこにいるのが誰なのかが判るほどだとも言われている。
潤には香りだけで個人を識別することはできなかったが、今この時の紅珠の、ほのかな汗の匂いの混じったひどく官能的な香りは、彼女にとてもよく似合っていると、潤は思っていた。
「紅珠……」
万感の思いを込めて名を呼び、肌に触れ、体を揺す振る。
「んっ…うん……あ、あ、ああ…………」
彼の動きに素直に紅珠も身体を揺らし、息を上げる。紅潮した頬。切なげに伏せられた目許、呼吸のために大きく開かれた口からのぞく白い歯列。ひどく艶やかで、しかしどこか理性を捨て切らない彼女の仕草は、品の良さすら感じさせ、妙に潤を惹き付ける。そして、ギリギリまでこらえて、こらえ切れずにこぼれ落ちる嬌声は、ひどく密やかで、たまらなく甘く、熱い。ずくん、と潤の内で鈍く血が疼く。
「紅珠………!!」
おぼれている。頭の片隅でそんな言葉を思いながら、彼は感情のままに、彼女の内を深く侵していった。
静かな寝台の中で、起き上った影が蝋燭を灯した。明るくなった帳の中で、半身を起こした紅珠が身支度をする後姿を、珪潤は寝具の中からぼんやりと眺めていた。
彼女と彼がこうして肌を重ねるのも何度目かになるが、彼女が彼の部屋で朝を迎えたことは一度もない。それは、彼らの立場を思えば当然のことかもしれなかったが、彼はそれを、残念に思っていた。
今夜もいつものように手早く身支度を整えた紅珠が、さらりと長い黒髪をたくし上げた。簡単に指で梳いて、くるりと細紐でまとめて一つに縛る。そうしてようやく紅珠が潤に向き直った。
「…戻るのか?」
「ええ。あまりのんびりしていては、夜が明けてしまいます」
彼に微笑みながら答える紅珠は、やはり美しく凛としており、そんな彼女に潤は何も言うことができなかった。
「…気を付けて」
「ありがとうございます」
礼儀正しく頭を下げた紅珠が、寝台の帳の外へ出て行く。
静かな靴音と衣ずれの音だけを残して紅珠の後姿が部屋を出て行くのを、彼は寝台に突っ伏したまま、じっと見送っていた。
*
珪潤の寝室は、西公の私邸の奥にある。
両親は既に亡く、未だ妻帯していない珪潤の館は、彼の他には数人の使用人がいるだけで、こんな月も沈んだ真夜中は、物音一つしない程静まりかえっていた。その静けさを邪魔しないよう、静かに紅珠は廊下を歩み、使用人用の出入り口からそっと外に出た。彼女がこの出入り口を使うのは特に他意はなく、単純に余計な人に出会うこともなく、彼女の現在の宿舎に帰るのに最も近道だからである。
吐蕃皇国の中では、沙南公国は比較的温暖な地域であったが、12月の半ばのこの時期は、さすがに冷え込む。肌をぴりぴりさせるような空気の中、しかし紅珠の意識はどこまでも澄んで覚醒し切っていた。情事の後の気怠さもなく、日中の仕事の疲れも不思議となくなっているようであった。
(……どうも眠れそうにないな)
確かに先程少し眠っていたが、それで眠気もとんでしまったのだろうかと思いつつ、紅珠は向かう先を少し変えた。
深夜の執務室は張り詰めるほどに冷たく、静かだった。日中は燦が常駐している卓も、今はいくつかの書類と筆記具が並んでいるだけであった。紅珠は室内の灯火をいくつか点し、ストーブに火を入れると、自分の卓の椅子を引いて座った。
仕事が忙しい時には深夜までこの部屋で過ごすことも多いため、そこにいることは何も違和感はなかった。しかし今夜は特にやり残した仕事も思い付かず、紅珠はしばしぼんやりとストーブの火がちろちろ燃え上がるのを眺めていた。その頭の中では、いくつもの考えが浮かんでは消えを繰り返していた。
ふと気配を感じた紅珠が窓に目を遣ると、そこにはどこからか現れた梟が大きな翼を羽ばたかせて、桟に止まるところであった。
軽く目を見張った紅珠は、しかしすぐに立って窓を開け、梟を室内に入れた。梟の成鳥としてはやや小柄なそれは、彼女には馴染みのものであった。
梟を椅子の背に止まらせると、紅珠はその足に括り付けられた小さな筒から折り畳まれた紙片を取り出した。紙片を開き、そこに記された内容に目を通した紅珠は、今度は紛れもない驚きに目を見開いた。
(矸氏が、現れた……!?)
伝書梟が届けてきたのは、紅珠の沙南公国軍における副官の榴火からの報告であった。
(ここ数日姿を見ないとは思っていたが…)
どうやら彼は現在、例の山賊のアジトのある山に潜んでいるらしく、そこで見たものについて、紅珠に知らせてきたのである。
曰く、過日沙南において傭兵・紅珠と、その雇い主であるリンこと珪潤の前に現れ、傷を負って逃走した矸氏――正確には、矸氏の皮をかぶっていた、人外のモノの姿を、見たのだという。
矸氏であったモノは、もはや人間とはとても思えない容貌に変化していて、かろうじて身に着けた沙南貴族の服装から、彼であると判別できる程度だという。
汚れ傷んだ服の袖から伸びた腕は、人間にはあり得ないほど長く、時折くねくねと動いているようにも見える。また吐蕃の貴族ならば、必ずきれいに結ったまげを冠か帽子の中に隠しているものだが、冠も帽子もない頭髪はまげもだらしなくほどけ、ぐしゃぐしゃに乱れていた。
一目で異様なその存在は、しばらく沙南公国内で姿をくらましていたが、約一月の後、現れた。しかもよりによって山賊たちのアジトに。
榴火からの報告は、それだけであった。文字の様子からして急報を走り書きで彼女に届けてきたものらしい。本人が戻って来るのではなく、わざわざ彼の使役鳥である伝書梟をよこしたということは、まだ彼はしばらく監視を続けるつもりだということであろう。とりあえず一仕事を終えた梟に褒美の餌と水を与えながら、紅珠は榴火の報告がもたらす意味を考えるために、高速で思考を巡らせた。
(とりあえず…二人、榴火のところに行かせるか。名目は――)
夜明けまではまだ時間があったが、彼女にはもう眠るつもりなど一切なくなっていた。
*
その日、連日の激務の中でふいにぽっかりと予定の空いた紅珠は、ふらりと沙南の市街に出た。
丁度昼食時であったため、町中のあちこちで食欲を刺激する匂いが漂っていた。
紅珠は特に目的のないまま市場の人ごみの中を歩き、適当に目にとまったパンや果物を買い求め、そのままやはり特に目的のないまま、人ごみを抜けて運河の方へと歩いた。
沙南公国は緑の豊かな国で、公国の首都であるこの沙南の町も、街路や公園などあらゆる場所に豊富に木々が植えられている。しかしさすがにこの真冬の時季、木々は紅葉すらほとんどなく、冬枯れのわびしい景色が広がっていた。そんな景色を見るともなく眺めながら、しかし紅珠の頭を占めていたのは、そういった景色ではなかった。
梟で報告をしてきた榴火のもとには、あの後すぐに二人の部下を送っていた。その三人と、「青の砦」の姜将軍からは、連日報告が届けられている。情報が集まり、詳細なものとなるにつれ、事態の重大さが徐々に明確になっていった。
山賊のアジトに現れた異様な人物については、ほどなく姜将軍の部下たちにも認知されるようになっていた。そしてその存在の異様さ、異質さが明らかにうかがえるようになると、その情報もより詳しくもたらされるようになってきた。
その姿は、ひとことで言えば人間の形をした蛇、であるという。遠目からもぬめった肌は明らかに鱗で覆われており、人間にはありえない程大きな瞳は、にごった黄色で、瞳孔が針のように細くなっていた。またその行動も爬虫類じみていて、主に日が暮れてから活発に行動したり、日中に行動するときでも目深に外套をかぶり、影のある場所を選んで行動しているようであった。
間近でその姿を見ることになった者は、いささか衝撃的な光景を報告してきた。それは冬の一時の陽光に誘われてさまよい出てきた兎を喰っていたのだという。――もちろん、兎を食べること自体が問題なのではない。問題なのは、その兎を捕まえる方法と食べ方である。それは、数メートル手前に現れた兎におもむろに腕を向けると、文字通り腕を伸ばし、異様に角ばり、巨大化した手で兎の胴を握り、そのまま鞭のしなるような音を立てながら宙で振り回すと、体の方へ引き寄せた。そして胴を締め付けられる痛みにもがく兎を、人にはあり得ない程巨大な口を開け、頭から丸呑みにしてしまったというのだ。
どれだけ異様な風体でも、近くで見ればやはりそれは人間の姿をしており、各パーツが尋常な人間のものとは多少違うものに変化していようともやはり人間の形をしているそれが、歯のない口から細く紅のように赤い舌をのぞかせていたり、人間の赤ん坊ほどの大きさの兎を苦もなく口中に収め、そのまま喉の奥にゆっくりと落ちていくその喉の動きであるとか、そういった明らかに人間ではない行動をしているというのは、いかに戦場で修羅場を見てきた経験のある兵士とはいえ、流石に嫌悪感を持たずにはおれないものであった。彼はかろうじてその場で嘔吐することはこらえたようであったが、姜将軍に報告をした後、しばらく医局でやっかいになるはめになったという。
紅珠自身は変化する前の矸氏を知らない。ゆえに沙南の人々が感じるほどの衝撃を受けることはない。そのはずであった。しかし彼女は自分自身が予測していたよりも遥かに気分の重い自分を自覚していた。
(人間を、蛇の姿に変える、もの。復活、再生、贄、虫、香、それと――)
無意識に、しかし確実にそれらの単語が彼女の中で渦巻く。それは最初のうちはただ不愉快な感情をもたらすだけのものであるように思えたが、しかしそれはどうやら違うらしいと彼女はようやく最近気付き始めていた。全ての報告が、状況が、彼女自身が目撃したものが、彼女自身今の今まで忘れていた、遠い昔の記憶をぼんやりとではあるが、紐解き始めたようであった。
(しかしそれは――)
「おう、そなた、紅珠ではないか」
思いに沈んでいた紅珠を、不意に能天気な声が呼んだ。紅珠はびくりと身体を揺らして足を止めた。そうしてゆっくりと、背後をふり返る。
「おお、やはりお主か。珍しいのう、どうした?」
振り返った紅珠の視界に、にこにこしながら歩いて来る男の姿が映った。明るい色彩の髪を無造作にさらした、痩身の男。口調を裏切る童顔の中で、翠色の双眸が「のほほん」とでも表現したくなるような穏やかな笑顔でこちらに向かって来ていた。ついでにその両腕には何やら湯気の立っている紙袋が抱えられていた。
「嵐さん……」
紅珠がそっと名を呼ぶ。掠れたような声なのは、寒風にさらされ続けていたせいだと、紅珠は思った。
「――どうかしたか?おぬし」
しかし嵐はそんな紅珠の様子に不思議そうに首をかしげながら、彼女の眼前で立ち止まった。紅珠は一瞬ひるんだように半歩後ずさる。しかし自分を見つめる嵐の姿に、ふと紅珠は思いつく。それを一瞬のうちに検討すると、軽く息を吸った。
「嵐さん」
「うん?」
「――よろしければ、お昼ご一緒しませんか?」
笑いかけた顔が、ぎこちないものではありませんようにと、無意識に紅珠は願っていた。
沙南公国の都は、政庁であり西公の住まいでもある雲水城を中心として築かれており、基本的な構想は吐蕃皇国の都・大都と同様、城・貴族や官僚の住居区域・商工人の区域・農民の区域のそれぞれが明確に区割りされ、その間に運河が張り巡らされていた。沙南が大都と大きく違う点は、大都が全体的には方形であるのに対して、沙南は全体的に円形を成しているということであった。
紅珠と嵐は街路から運河の河川敷に下りた。そこは特に公園のように整備されてはいなかったが、「緑の都」沙南の都らしく、土手は緑の草で覆われ、所々には木が植わっているため、人々が好んで集まる場所となっていた。今は真冬であるため、流石に人はほとんどいなかったが、冬でも枯れない草に覆われた土手は人々を自然に集めるものらしく、何人か昼食を摂っている姿が見られた。
紅珠と嵐も適当な土手の草の上に腰を下ろした。
「…で、どうしたのだ?おぬし」
誘ってきたものの、特に何を言うでもなく総菜をはさんだパンを齧っている紅珠に、嵐が尋ねる。
「ハクのことか?あ奴また昨日もあちこち青痣つくって帰ってきたが…」
「…よくもっていますよね、彼は。あの根性だけは立派なものです」
嵐の向けた水に、紅珠がまるで喉に何か詰まったような口調で、ようやく返す。しかし言葉を発したことでようやく気持ちが楽になったのか、ふうと息を吐き、先ほど屋台で購入していた温かい香草茶を一口飲んだ。
「――嵐さん、以前、禾峯露の街で起こったこと――憶えていますよね」
紅珠の言葉に、嵐はわずかに目を見開く。
「忘れるわけがない。あれは――異様な事件であった」
驚きはしたものの、嵐は素直に頷いた。
忘れるわけはなかった。辺境の沙漠の街での事件。
白昼、蝙蝠の姿をした異形の化け物の大群に襲われた事件だった。通常暗い所を好む蝙蝠がよく晴れた日中に現れるのもおかしかったが、基本的に果物などを食料とするおとなしい性質の生き物であるはずが、異常に獰猛で凶暴な性質となり、人間を集団で襲っていたことは、もっとおかしかった。そして極めつけはその姿。通常はあり得ない「三つ目」の存在。明らかにそれは、通常の蝙蝠とは異なる生物であった。そして、その異形の蝙蝠の群れを操っていた外法の術士たち。
「そう、異様な事件でした」
紅珠が頷く。その表情は心なしか、口元のこわばりが緩んだように見えた。
「――私は、あれからあの事件の裏を追っています」
紅珠の言葉に、嵐は再び驚く。
「…そういえばおぬし、何やら引っかかるものがあるようであったのう。心当たりがあったということか」
嵐の問いには、紅珠は頭を振った。
「……そういうわけでは、ありません。最初は、『あり得ない事件』だと思っていましたから。でも、あり得ないとは思いつつも、どうしても気になって仕方がなかった。あり得ないことだと否定したくて、調べてみる気になったのだという方が、より正確な動機です。――でも」
否定できなくなったということか、とそこで言葉を切った紅珠の気持ちを、嵐は察した。
「――あれは、『闇』です」
しばらく沈黙した後、紅珠はそう言った。呟くような言葉は、何かを懼れているもののように、嵐には思えた。
「――『闇』?」
「そうです。闇にしか住まうことのできないもの。光に対局する存在。闇に生命を与えられたもの。闇の眷属――平たい話が、この世に存在することなど、本来あり得ないものたちです」
「『闇の眷属』――それは、外法士たちにも通ずるところなのか?」
「――私は、そう考えています。いえ、そう考えねばおかしい点が多々あるのです」
そう言って、紅珠は香草茶を一口飲む。まだ温かさを失わないそれが、紅珠の気持ちを少し落ち着かせる。
彼女は、禾峯露で三つ目の異形の蝙蝠「三眼飛鼠」と外法士に出会った後、しばらくそこで現場を調べてから、一旦沙漠に戻った。砂漠の民は彼らにしかわからない場所に本拠地を持っていて、そこでは民のまとめ役である「長老」や「隊長」と共に、旅をして生計を得ることのできない者たちが生活している。そして吐蕃皇国の中で最も皇国以西の文化や情報に詳しいのが砂漠の民でもあり、本拠地には僅かながらそういった資料や情報が存在していた。
紅珠の記憶が確かなものであるならば、三眼飛鼠や外法士たちが用いた術などは、吐蕃皇国のものというよりは、むしろ皇国以外、西方の知識や術であるとしか思えなかった。彼女は生まれ育ちの関係から、西方の文物の知識が他の人よりも多かった。しかし彼女とてそれほど詳しいわけではなく、また成長して以降は基本的に吐蕃皇国での活動が主であったため、記憶は曖昧なものとなっていた。彼女は砂漠の民の本拠地で、その曖昧なものをすこしでも確かめたかったのである。
結論から言うなら、砂漠の民の本拠地にも、彼女の求めるものは大して存在していなかった。しかし多少なりとも収穫はあった。だから、彼女は改めて吐蕃皇国内で調査を続けたのである。無理を言って吐蕃王国の大都で『天藍』に加えてもらったのも、大して当てもなく『隠者・エック』を探したのも、そのためであった。
「――現在、吐蕃皇国では至る所で異常な事件が発生しています。あなたもお聞きになっていると思いますが…例えば、蝗が大量発生して農作物が壊滅的な打撃を受けました。明らかに、季節外れの事件でした。井戸水の汚染によって一つの村が丸ごと病気になってしまった事件もありました。医者に診せても結局有効な治療方法が見つかりませんでした。…幸い、症状はあまり深刻ではなかったことと、水の汚染もしばらくすると収まったとのことで、経過を見ながら引き続き治療を施している状況です」
それらは、一見異常な事件である。しかし、結局のところ一つ一つは大した事件ではない。全面解決はしないまでも、ある程度常識的な結論を与えることのできる類の事件ばかりである。しかし、実際にそれらの事件を調べてみた彼女にとっては、それらは「ちょっと異常だけどよくある事件」であるとはとても思えないという結論に達したのである。
極めつけが、一ヶ月ほど前にこの沙南公国で遭遇した事件。外法の召喚術、異形の虫、そして外法の蘇生術を行なおうとしていた矸氏と、その矸氏の異形への変身。
「………嵐さん、あなたは――『悪魔』の存在を、信じることができますか?」
「『悪魔』?なんだそれは?」
紅珠の唐突な問いかけに、流石に嵐は面食らった。信じるも信じないも、彼女の言葉は彼にとっては全く耳慣れないものであった。
「――いえ、すみません、気にしないでください」
そう言うと、紅珠は軽く頭を振った。そうしてぎゅっと目を瞑ると、気持ちを切り替えた。
「私の調べたところ、そういった異常な事件は、大都市よりも郊外の小さなマチやムラで多く起こっています。大都でも調べてみましたが、城壁外ではいくつか怪しげな事件は、小さいながらもありましたが、不思議なことに城壁の中ではそういった類の事件は起こっていませんでした。この沙南公国でも同様です。辺境のムラである禾峯露や――黄瀬などでも事件が起こっていますが、この沙南の町では大きな事件は起こっていませんでした。それが、約一ヶ月前、町の外れとはいえ、沙南公国の中で、明らかに「異常な事件」が発生したのです」
紅珠はそう言って、嵐に簡潔に事件のことを説明した。説明しつつ、我ながら荒唐無稽な事件だと改めて思うが、紅珠が意外に思うほど、嵐は真面目に彼女の話を聞いていた。
「――そうか、それで、その事件を起こした張本人は行方をくらまし――そしてつい先日、その山の中で発見されたということなのだな?」
「――そうです。とはいえ、前回『それ』を実際に見たのは、私と西公・珪潤様だけ。今回、部下たちが発見したものがそれと全く同一のものであるかは、正確に言えば、確認はとれておりません」
「それでも、状況から可能性は高い。しかし仮に同一のものではないとしても、怪しく、危険度の高い存在であるということだけは確か――ということだな?」
紅珠の言葉を、嵐の言葉が補うように返される。その常の口調と真面目な表情に、紅珠は思う以上に心が落ち着くのを感じていた。落ち着くと同時に場違いなほどの安堵感が湧き上がり、我知らず委縮していた心が解放されるような気がしていた。同じことに同じようなことを考えてくれる存在というものはこれ程にありがたいのだと、紅珠は感じていた。
「――ひとつ、確認したいのだが」
嵐がやや考えるように、視線を伏せながら言う。
「その、矸氏の館で起こった事件は、満月の夜であったと言ったか?」
「ええ。確かに、きれいな満月の夜でした」
頷く紅珠に、嵐はやや考えるようにしながら、視線を上げる。
「関係がないならば、悪いのだが――今夜が、確か丁度、満月ではなかったか?」
嵐の言葉に、紅珠ははっとする。思わず天を見上げるが、昼日中の空はただ青い空と薄灰色の雲があるだけで、月の姿などは見えるはずもなかった。しかし暦を思い返せば、確かに今日辺りが満月、例の事件が起きてからちょうど一ヶ月になるはずであった。
「それでは、『それ』の活動がここのところ活発になっていたのは――」
「早計な結論は危険だ。しかし可能性としてはありうるだろう。――そなたのいう、『闇』の存在には、そのような生態はあるのか?」
「それは、わかりません。ですが――月か、或いは太陽の存在に影響を受ける存在であるとは、充分に考えられることです」
紅珠の表情は我知らず固いものになり、やや血の気が引いていた。しかし彼女はさすがに歴戦の戦士であった。呆然とする前に、彼女は気を取り直していた。唇を噛み締めながら、立ち上がる。
「紅珠、気を付けよ。今話していたことがもし真実を衝いたものであるならば、近日中に再び事件は起こる。そしてそのものの最終的な目標は、おぬしと、西公である可能性は、非常に高い」
今にも駆け出しそうな紅珠に、嵐が思い煩うような表情で言う。紅珠は頷くと、慌しく暇を告げると、速い足取りで土手を上がって行った。
立ち去る紅珠の後姿を、嵐はじっと見送っていた。
***
夜も更けた頃、紅珠が室内を覗くと、そこにはいつもならばすでに休む支度を整えた部屋の主がいるはずだった。しかし彼女が見たのは、未だ灯火の下、書類に向かっている珪潤の姿であった。
「公……」
そっと呼ぶ声に、珪潤ははっと顔を上げた。
「ああ、紅珠か」
そう言って振り返った顔は、常の笑顔で、紅珠は少しだけ安心する。
「まだお仕事なのですか?」
そっと歩み寄りながら、紅珠が室内を見回す。珪潤の私室は、ごく私的な客を迎えるためのスペース兼執務室がほとんどを占めていて、その奥に寝室がある。しかしどの部屋にも書物やら何かが収められた櫃やらが溢れていて、かなり雑然としており、一般的な王侯貴族のイメージからする優雅さとは全く対極にある部屋であった。
「ああ、すまないな。呼んでおいてこんな……」
紅珠の言葉に、潤はきまり悪そうな表情になる。彼としても、約束を忘れていたわけではなかった。しかし予測不能の事態が起これば予定は狂う。そしてこの日、通常業務終了間際にもたらされた報告が、沙南公国府に緊張と慌ただしさを生んでいた。
「いいえ、お手伝いしますよ」
そんな潤に笑いかけながら、紅珠は整理されないまま積み上げられている書類の山に向かった。そんな紅珠の姿に目をやって、潤は苦笑した。
「…すまないな」
「いいえ」
数刻が過ぎて、書類の処理も一段落した潤が顔を上げると、紅珠はやはり静かに室内の整理をしていた。
「……紅珠」
名を呼ばれて、書棚の整理をしていた紅珠は振り返る。潤は筆を置いて、紅珠に視線を向けていた。
「そなたは、どう考えている?今回の事件」
問われて、紅珠は思わず動きを止めた。しかし潤の真摯な表情に、一つ息を吐いて気を取り直す。
「今日の昼に申し上げましたこと…公は信じてくださいますか?」
「そなたの追っている『闇』の動きが、月の満ち干に密接に影響を受けている、という可能性だな」
紅珠は珪潤の下、沙南公国軍に所属して働くことになるとき、一つ条件を付けていた。それは、紅珠が軍所属になっても、変わらず彼女がそれまでずっと追っていた『闇』についての調査を続けることであった。そして潤もそれを了承していた。それは沙南公国の西公として、潤が紅珠の能力を必要としていたということもあるが、それ以前に数ヶ月前、沙漠周縁のマチやムラから相次いで沙南公国府に上がってきていた奇妙な事件の報告書のことが、気になっていたからでもあった。
吐蕃暦331年3月の禾峯露、そして4月の黄瀬、この二件は特に内容の詳細さや派手さ特異さなどで珪潤には強く印象付けられていた。また、7月の王都・大都での『皇公会議』に関連して、西公・珪潤のもとには様々な情報が集められていたが、その中にもいささか妙な報告が紛れていた。例えば人気のない路地裏で黒い影のようなものが蠢いている、とか、脚や眼が2つ以上、もしくは2つない鳥の姿を見た、などの大都住民の噂話である。
それは一見すれば、よくある単なる怪談話である。しかしそもそもそういった怪異が「王都」に存在すること自体が奇妙なのである。なぜならば、吐蕃皇国の首都でもある「王都・大都」は、吐蕃皇直属機関でもある皇立研究所の術者や研究者たちによって、持てる知識と技術の粋を集めて計画された、「呪術都市」であったからである。それが、吐蕃皇国内の他の公国をはじめとした都市やマチ・ムラとの、最大の違いなのであった。
吐蕃皇国の中心国である「吐蕃王国」は、そもそもが古代宗教の色を極めて濃く引いた国であった。遥か昔には、吐蕃人の長は強力なシャーマンであり、その能力をもって、吐蕃人の勢力を周辺の民族のどこよりも強力なものに育て上げ、現在のような吐蕃皇国の礎を築いたのだと言われている。そして吐蕃人の都市造りの特色として、霊的な力の強い土地を選ぶというものがあり、それが例えば他の民族が住まう土地であっても、彼らにとって必要であれば奪い、そこに自分たちのマチを造るのである。先代の皇の時代に首都であった江州は古い都で、もちろんそういった基準で選ばれたと言われているし、一説では現在の「大都」もそういった基準によって選ばれたのだとも言われている。
そして現在でも、吐蕃皇には祭司的な役割が与えられている。春には一年の豊作と国の安泰を祈願する儀式があるのも、そういった理由からなのである。そんな皇の膝元でもある「大都」に怪異が存在するなど、それが単なる噂であったとしても、本来あり得ないことなのである。
そこへきて、沙南公国の中心都市での怪異な事件の発生である。それを自分自身の身をもって経験した以上、潤には紅珠の調べている『闇』の存在を完全に否定することなどできなかった。そこに何らかの可能性があるかもしれない、と考えるのは自然なことであろう。
「可能性として否定はできないな。実際、我らの神事においても、太陽や月は重要な役割を担う。生憎、それによって神力に増減があるという話は、私は聞いたことがないが。今度それとなく文官の誰かにでも聞いてみようとは思うが…」
とはいえ、吐蕃皇ほどではなくとも、沙南公も祭司的な役割を負っていて、その彼がそういった話を知らないのであるから、この沙南公国にはそのような概念がないのだと思って間違いはないのである。
一方、紅珠はそのような潤の言葉を予期していたように、静かに頷いた。
「そうですね。それが当然だと思います。実際のところ、私自身も半信半疑といったところでありますので」
そう言って、紅珠は微かに口元を歪めた。
「とにかく、この件に関しては情報が不足しているのです。私がこれには明確な裏がある、と思って動いていることも、まだ現在のところ、それは単なる私個人の勘でしかないだろうと言われれば否定はできませんし。…実際、信用して下さっているだけでも、大変ありがたいと思っております」
そう言って、紅珠はややうつむけていた顔を上げた。
「ただ、ひとつ、思い出したことがございます。禾峯露での事件のことです。あの事件自体は日中に起こりました。ですが、あの日は――確か、記憶が定かであれば、満月の日であったように思います」
「……」
紅珠の口調は平静なものであった。しかしその表情にはいささか精彩が欠けているような気が、珪潤にはした。彼は何気なく視線を動かし、窓の外を見た。そこには二日ほど過ぎたとはいえ、見事に丸く見える月があった。
「砦の姜将軍からの報告は、確かに、満月の夜の日に奴らの襲撃があったということだった」
潤は呟くように言うと、視線を戻した。すでに紅珠の表情は強いものに変わり、じっと珪潤を見つめていた。
「…とはいえ、簡単に退けられたのは将軍にも戦闘の備えがあったからなのだということだし、単純にそういった軍の動きを奴らが察知して先手を打ってきただけなのだと考えられるし、実際、そちらの方が信憑性のある解釈なのが厳しいところだな」
そんな珪潤の言葉に、紅珠は軽く肩をすくめて笑った。
「それが当然です。私だって、普通ならそう考えます」
紅珠はそもそも砂漠の民として生きてきていた。あらゆる場面において、様々な情報を集め、考慮し、その上で最善の判断を下さねば、沙漠はおろか、どんな場所ででも生きてはいけない。砂漠の民の最大の敵は、平時においてもその身の安全を保障する保護機関など存在しないということであった。であるからこそ、民同士の精神的な連帯感は異常ともいえるほどに強いのであるし、互助精神も他の民族から見ると驚くほどに優先されるのである。しかしそれ以上に、とっさの局面では個の判断が優先されることも事実で、そうした独立的な気質がなければ、生き延びていけないというのもまた、砂漠の民の実情であった。
そうした現実的な判断をするなら、今日の夕刻に砦の姜将軍からもたらされた、例の山賊たちによる大規模な沙南公国兵への襲撃行為は、強制排除の準備を整えつつある沙南公国軍への先制攻撃であると考えるのが妥当なのである。
「――全面的に、信じていただかなくて結構です。いえ、そうしないほうが、よいのです。なぜなら例え『闇の眷属』があの山賊たちの行動に影響を及ぼしているのだとしても、彼らは虫や獣ではなく、人間です。完全にその意志や行動を操ってしまうなど、きっと不可能だと思うのです。ただ、彼らの行動の陰に、そういった思惑を持った者がいて、彼らを利用しようとしている――そう考えた方が、きっと正しいのだと思いますし、こちらの対処としても誤らないのではないかと思うのです」
紅珠の言葉に、珪潤は頷いた。彼女の言葉や考えに、偏りがないことを改めて感じたからであった。
「それでは、やはり今のまま、そなたの情報は他の者たちには伏せておくこととしよう。そなたは今の通り、その可能性も考慮しながら対策を練ってくれ。そなたの隊を使うのももちろん許可する」
珪潤の言葉に、紅珠は深々と頭を下げて礼をする。
「……しかしなあ、それにしてもやはり、人が足りぬなあ………」
話が一段落したところでふと気が抜けた潤は、軽く伸びをするように椅子の背に体を預けた。次の間から水差しと杯を載せた盆を運んできていた紅珠が、軽く首をかしげる。
「人、ですか?それなら曹几達殿も角釉勾殿、珪髄殿もあの人事の塼尺夕センセキユウ殿も、皆様で良い人を見つけておいでのようですが…?」
「ああ、それはわかっておる。私とて探しておるくらいだからな。しかし、こと知識量豊富な者とは得難いものだと思うてな…」
彼の脳裏にあるのは、先ごろ獄中で病死したという景朔林のことであった。彼は珪潤の父であった先代の西公の頃からこの沙南公国の宰相として辣腕を振るってきた人物であったというだけではなく、潤にとっては教師であり父親に近しい存在でもあり、父亡き後、若年の身でこの沙南公国を統べることとなった潤にとって、最も頼りになる人物であったのである。
景朔林は政治的な手腕に優れていただけではなく、この国の歴史にも詳しく、また法学や政治学、礼法など、様々な分野に造詣が深く、沙南公国のみならず吐蕃皇国全土にその名が知られ、先代の吐蕃皇の時代には、皇自ら何度となく相談相手として景朔林を選んでいたほどであった。
景朔林のその能力は、彼の長年の努力の賜物であることは間違いがない。しかし、かと言って誰にでもできることではない。彼の持って生まれた素質がそういった才能を伸ばすに向いていたということである。そしてそういった才能の素質の持ち主というのは、そうそういるものではない。
「――公のお求めになる才を満たす者であるかどうかは確かではありませんが――」
つい一人考えに沈んでいた珪潤を、紅珠の声が引き戻した。
「一人、わたくしの知る者に心当たりがあります」
思わず潤は紅珠の顔を見直した。紅珠は逡巡するような様子ではあったが、その様子は真摯なものであった。
「それはどのような者だ?」
「ひとことで言うなら、異才の持ち主、です。また年齢に見合わぬ知識量であることは間違いがありません。……公も、存在だけならご存知の者ですよ」
「ほう、それは…興味深いな」
無意識なのか、姿勢を正して自分を見つめてくる西公・珪潤の姿に、紅珠は一つ息を吐くと、頷いた。
「少なくとも――今回の件に関しては、公のお役に立てるのではないかと思います」




