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4.風の巡り合わせ

 山間の道に複数の蹄の音が響く。

 沙南公国に程近い山地を流れる河は激しく蛇行しており、それに沿って造られた道もうねうねと曲がりくねり、鬱蒼と茂った広葉樹の森や竹林のせいもあって、ひどく見通しが悪かった。また、ここも一応街道ではあったが、人の定住する町やムラからはかなり離れており、道も平らにならされた程度で都市の近くの道のように美しい石の舗装などはされておらず、赤い土が剥き出しとなっていた。そんな条件の悪い道を、しかし五騎は全速力で駆け続けていた。

「一雨きそうだな」

 先頭を駆ける女に馬を寄せて、一騎が声をかける。吐蕃皇国では珍しい金の短髪が目立つ、やや軽薄そうな印象を与える容姿の男であった。しかし身に着けているのは使い込まれた軽甲であり、傭兵のような雰囲気を身にまとった男であった。

 言われて女が空を見上げる。山間にわずかに覗く空はどんよりと灰色の雲が立ち込め、白く濃い霧がじっとりと重く山腹まで下りてきていた。それを見て、女もうなずく。

「急いだほうがよさそうだ」

 女は上半身黒革のチュニックに上腕までを覆う黒革の籠手、マントも黒なら束ねて流した長い髪もみごとな黒という、全身黒尽くめの姿が、一行の中にあっても一際目立っていた。そして一行の位置関係から、女がこのグループのリーダーであることは間違いなかった。

 その後に続く四騎は、先ほど女に声をかけた男をはじめ、全員が戦闘を生業とすることがわかる、荒事慣れした雰囲気をまとわせた者たちばかりであった。みなそれぞれが使い慣れた装備に武器を所持しているのか、統一性はまるでなかった。

 五騎のうち一騎だけは二人乗りをしていた。手綱をとる傭兵風の男にしがみつくように乗せられているのは、こちらは旅商人のようであった。まだ若くやや小柄な男で、疾走する馬から振り落とされないようにしがみついている様は疲労感が隠せなかったが、それでも不満などが漏れてくることはなかった。五騎はその二人乗りの一騎を中に守るようにしながら駆け続けているのであった。

 ここ最近の雨で水かさの増えた急流は、激しく白い飛沫と轟音を上げていた。踏み固められた固い土の道を激しく叩き付ける蹄の音もともすればかき消えそうになる中、互いの声は尚更聞き取りづらく、一行は、怒鳴り合うようにしないと会話もできなかった。

「どのくらいきたよ!?」

「あ!?わかんねえよ!」

「おい!お前さん!まだか!?」

「ええ!?ああ、はい!でも多分もう少し!……あれ!あの山が見えてましたから!」

 二人乗りをさせられている商人の男が無理やりに首を上げて、霧にかすむ前方の山の頂を片手で示す。しかし危うくバランスを崩しそうになって、慌てて前に座る男にしがみつく。

 川沿いの道は不快なほどに水気に富んだ空気で、わずかにむき出しの顔や腕を冷たい帯がなぶるようであった。それも当然で、いかに温暖な沙南地方とはいえ、11月の山間の気温はさすがに寒さを覚えるものである。うっそうと茂る広葉樹の森も、多くは葉を落とし、いくつかは美しく紅葉していた。平時ならばちょっとした紅葉狩り気分も味わえそうであったが、今現在の彼らにそんな景色を見る余裕はなかった。

 不意に先頭の女が馬足を緩めた。前方から駆けてくる二騎に気付いたからであった。女に倣って速度を緩める一行に、二騎がすぐに近付いて来る。彼らも一行と同様、傭兵風の姿をしていた。二騎は女に馬を近付けると、胸元から金属の、紋様の刻まれたプレートを示す。女もそれに応えてマントの下から同じプレートを見せた。

「ご苦労。どうだった?」

 女の簡潔なねぎらいの言葉に、二騎のうちやや年長のほうの男が、軽く頭を下げて答える。

「はい、確かにその者の言う通り、隊商が襲われております」

「相手は」

「はい、あまり近付けませんでしたので確信はありませんが、恐らくは例の山賊かと」

 先行させた部下の報告に女は難しい顔でうなずくと、詳しい場所を聞き始める。

 ようやく疾走を止めた馬の上で二人乗りをさせられていた商人の男はかなりぐったりとしていたが、それでもようやく体を起こすと、必死の表情で彼らを見た。

「み、みんなは!みんなは、大丈夫なのか!?」

男の声に、戻ってきたうちのもう一人の男が安心させるようにうなずいた。

「大丈夫だ。みな、洞窟に避難していたようだ。今はその手前で食い止めていた」

「で、でも!」

「大丈夫だ。そのために俺たちが来たんだ」

なおも言い募ろうとする男に、隣にいた男が言い、ぽんぽんと彼の背中を叩く。

「任せとけ。俺たちは強いぞ」

「なんたって隊長があの人だからな」

周囲の男たちも笑って言う。そんな男たちの様子に、商人の男は何となくうなずく。何の保証もないものの、なぜだか安心していいような雰囲気が、彼らには感じられた。

 そんな彼らのもとに、先行隊からの報告を受けた女が戻って来る。

「現場はもう近い。二騎、(コウ)(タン)、私について来い。先行のお前たちは残りと合流。手はずは打ち合わせ通り。榴火(リュウカ)、お前に任せる」

「りょーかい」

 榴火と呼ばれた男、金の短髪に暗い赤の布を巻いた男が、間延びした声で返事をする。

「行くぞ!」

女が馬首を廻らすと、再び駆け出した。その後ろを、膠と呼ばれた大男と湍と呼ばれた神経質そうな長身の男が続く。

「さて、俺らも急ぐぞ。遅れをとるわけにゃいかねえだろ」

 榴火がにやりと笑って言う。口調は軽いものであったが、表情には凄みがあった。それに残りの三人が同様の表情で頷く。

 先行の二人を加えて四騎になった一行は、もと来た道を再び全速力で走り始めた。





 先行隊の報告通りに進む道は、次第に道を外れて鬱蒼とした山中に入っていった。道らしき道のない樹間を、三騎は最大限の速度で駆け抜ける。

「何でこんなところを通るんだ?」

 大きな体格に見合わない敏捷な手綱さばきで枝をかいくぐりながら、膠が怒鳴るように声を上げる。

「しょうがないだろう。最短距離で行くと下道よりもこっちの方が早い」

再び先頭を駆ける女が振り返りもせずに、やはり怒鳴るように答える。残る一騎は無言であった。前を行く二人に遅れはしないものの、湍は彼らに着いて行くのが精一杯であったのだ。

 数十分駆けたところで女が馬を止めた。後の二騎が続いて馬足を緩めながら並ぶと、そこはいきなり木々が途切れ、急斜面となっていた。

「あそこだ」

 女が斜め下方を指す。指の先を追うと、崖下の狭い洞穴のような場所に、いくつかの人影が見えた。丈の高い草や雑木に程良く隠れた場所で、確かに緊急避難場所としては適た場所のようであった。

 しかしその洞穴から竹林をはさんで少し離れた川沿いには、数人の戦闘中の姿がある。洞穴が見つかるのも時間の問題であろう。

 ここから洞穴に下り、まずは非戦闘員を保護するべきか。彼女は判断を下した。

 しかしその瞬間、鋭く叫ぶ。

「湍、七時の方向!守れ!」

 声に反応して湍が振り向く。反射的に構えた両手の間に淡い光が生じる。

 湍の視界に、木立の向こうの人影と、鏃が映る。反射的に淡い光の中で指が素早く印を組み、口の中で呪言が唱えられる。淡い黄色の光が周囲に溢れ出す。

 不完全ながら発動した物理防御壁が、放たれた矢の勢いを殺す。光る黄色い糸のようなものが矢の一本一本に絡みつく。ぶつりと切れた糸から逃れた矢が三人を襲う。しかしそれらは難なく避けられ、弾き跳ばされる。

「奴らかあ!」

 膠が吼えるような声で罵り、背中に負っていたメイスを素早く取って振り被る。ごつい顔の中で大きな目が周囲をぎょろりと睨む。

 湍が振り返るが、馬だけを残して、そこに既に女はいなかった。

 馬の蹄が灌木と下草を蹴散らす音が近付く。しかし次の瞬間、彼らの頭上の木の枝が激しく揺れる音がし、黒い影が落ちかかる。

 再び矢をつがえようとしていた山賊の男が頭上を振り仰ぐ。そこに見たのは、長刀を振りかざして切りかかってくる黒い影。

「…っつあああああ!」

避ける間はなかった。悲鳴を上げる隙さえなかった。気合い一閃、袈裟掛けに叩き切られた男が血飛沫を吹き上げながら倒れる。

「…っへっ!さっすが!」

 残身をとりながら着地する黒い後ろ姿に、膠が唇を歪める。言いつつ突進し、その勢いを乗せてメイスを振る。切りかかってきた山賊の剣とメイスがぶつかり、微かに火花が散る。

「手早く片づけるぞ!」

「おうよ!」

女の鋭い声に二人は頷く。

 膠が力を込めてメイスを押し返すと同時にわずかに体を開き、鍔競り合いのバランスを崩す。素早く斜め下から振り上げられる剣には上半身を反らせて空を切らせる。再び態勢を整えると、今度は膠のメイスが敵に左右から連打をあびせる。

「うおおおおお!」

気合いと重い金属で強化したメイスの重量が加わった打撃は、一打ごとに威力を増す。受ける山賊の、剣を支える腕に痺れが走る。

 数十度打ち込んだところで山賊の腕が弾かれた。そのまま痺れた指から剣が滑る。慌てて握り直そうとしたが、そこが隙になった。

 横殴りにメイスが山賊の銅を打つ。彼にはもうそれをこらえる力がなく、大きく開いた口から血を噴きながら、馬上から叩き落とされた。




 立ち上がった女を再び矢が襲う。それらを刀で払いながら彼女は素早く周囲を見回し、側の大木に身を寄せる。

「湍、前方20に二人!任せる!」

 後方に叫ぶなり、女は素早く駆け出す。その影を数本の矢が射抜くが、彼女の体にはかすりもしない。彼女はそのまま木の間をすり抜けて走り、身軽に跳躍して木の枝を掴むと、勢いをつけて前方の枝に飛び乗る。その勢いのまま再び跳躍すると、騎馬の横腹から切りかかる。

「うおおお!?」

思わぬところから思わぬスピードで現れた敵に、騎馬上の山賊が叫ぶ。とっさに腰の剣の柄に手を伸ばしたものの、間に合わなかった。右腕が大きく切り裂かれ、絶叫が上がる。両断されないまでも腱を断たれ骨の露出した腕には全く力が入らず、全身に眩むような激痛が走る。

 切りかかってきた影がそのまま男にぶつかってくる。その勢いと重さを支えることはとてもできず、諸共に鞍から転がり落ちる。飛び掛った女も、落ちる瞬間に受け身はとったがとても止まらず、そのまま地面を転がって勢いを殺す。

 起き直った女が、けたたましい悲鳴と馬のいななきに振り返ると、暴れる馬に男が引きずられていた。落馬の瞬間、無意識に握りこんだ手から手綱が外れなくなったようだ。暴れる馬に後続の二騎も巻き込まれ、地面の女に構うどころではなかった。慌てて向きを変えた騎馬が駆け去ろうとする。

「膠!そっちへ二騎!」

「おうよ!」

女の声に膠の応える声が聞こえる。女もそちらに向かおうとしたが、はっと足を止め、素早く側の木の陰に身を隠す。数秒の差で先程まで彼女のいた空間を矢がよぎる。

「隊長!少しだけ足止めしてくれ!」

 木々の向こうから湍の声が届く。彼女は頷くと、両腰の後ろから大小の刀を抜く。ちらりと木の陰から視線を遣り、方向を確かめる。そうして灌木の間で動く影に一気に突入する。

 左の刀が素早く藪を切り裂き、右の太刀が灌木を叩き切る。その隙を縫うように飛来する矢を左で薙払う。藪をかき分け遠ざかる気配に、女が視線を向ける。

「おいで、私が相手よ!」

血なまぐさい戦場には不似合いなほど美しい声が響く。その声に遠ざかっていた気配が向き直る。殺気が女に集中する。女は右手をだらりと下げ、左の刀を気配のする方へ構える。

 再び飛来する矢を、左手一本の素早い剣さばきで弾く。二人の射手に狙われる身は圧倒的に不利なはずであったが、彼女の表情に焦りはなかった。

「隊長、避けて!」

そのとき後方から女を呼ぶ声が響いた。女が身を翻して後方の地面に身を投げる。次の瞬間、轟音とともに土煙が吹き上がった。凄まじい音に混じってかすかに人間の悲鳴が上がる。

 しばらくしてようやく土煙が薄れてから、女は立ち上がった。彼女から数メートル離れた地面が、無惨に陥没していた。

 馬の蹄の音が近づいてくる。振り返った女がやや表情をやわらげる。

「隊長、すみません!」

近づいてきた湍が、悔しそうな表情で頭を下げる。彼は体格こそ女よりもずいぶんと大きいが、年齢は若い女よりもまだ若く、そうやって感情を顕わにしていると、まだまだ少年といってよかった。

「何を謝る?見事ではないか」

そんな湍に、女は微笑みながら彼が引いてきた自分の馬を受け取り、ひらりと跨る。

「やっぱ俺まだ駄目なんスよ。術も遅いし、敵が見えてないと威力がた落ちだし…」

「術の発動にリスクがつきまとうのは仕方のないことだ。だがお前の術の威力は確かだ。後は慣れだろう」

悔しがる男に素っ気ないほど簡潔に言うと、女はおもむろに馬首を巡らした。

「さあ、逃げた奴らを追うぞ」

 言って駆け出した女の後に続く湍の表情には、悔しがりつつもくすぐったそうなものが浮かんでいた。





 二騎が着いたときには、既に戦闘は終わっていた。

「おう、なかなかあっけなかったぜ」

 地に倒れ伏すいびつに歪んだ二体の側で、メイスに付いた血を振り落としていた膠がニヤリと笑う。

「ご苦労だった」

女が簡潔なねぎらいの言葉をかけながら、かすかに頬を弛ませる。

「それにしても、やっぱあれか?こいつら斥候か別動隊か?」

「恐らくな…湍、辺りに敵の気配は?」

女の問いに、湍は術の糸を周囲に張り巡らせつつ、答える。

「生きてる人間の気配はない。こいつらだけだ」

湍の返答に、女は厳しく引き締めた表情で頷く。

 倒した男たちの風体から見て、やはり間違いなく、今件の敵はこの辺り一帯で最近名を知られている山賊である。当然この周辺の地理は完全に把握されていると見て間違いないだろう。であれば商隊の隠れている場所もばれているに違いない、と考えた方がよい。今も別の道から別動隊が迫ってきているかもしれない。

「急ぐぞ。非戦闘員の保護が最優先。商隊に合流したら、湍、お前はその場で彼らを守れ。膠と私はそのまま戦闘行為へ移行。後は先程の打ち合わせ通りだ。いいな?」

 女の言葉に、二人はそれぞれの言葉で返答する。

「よし…!一気に下りるぞ!」

女が馬に一鞭当てる。高々といなないた馬が、斜面を疾走し始めた。






 川沿いの竹林の中で山賊と商隊の攻防は続いていた。竹林の中では足音を殺すことは不可能であるし、鬱蒼と茂った葉が日光を遮るため、視界も悪い。今のような曇天の下では尚更で、周囲はまるで夜のように暗かった。

 しかしその状況は、少なくとも今現在、商隊の護衛側には味方していた。十人ほどの一団に二人の護衛。それは決して少ない戦力ではなかったはずだが、いかんせん襲撃者の数が多かった。

(この辺りの治安は最近悪くなっているとは聞いていたが、これほどとは…!)

 じっと陰に身を潜めながら、男は舌打ちした。彼は大都でこの商隊に雇われた傭兵で、槍を得意としていた。それは今のような場合、有利な武器であり、近付く敵の破壊力を的確に奪うという戦術は、味方が圧倒的に少なく、動くものの全てが敵と判断してよい現状では最善の方法といえよう。とは言え地の利は敵にある。第一、敵の正確な人数も把握できていない。それが実は何より恐ろしいことであった。

 襲撃を受けて、負傷者をかばいつつ逃げ、避難場所を確保したところで手近な橋は落とした。それで敵の足を止めたはずだったが、それでも敵は追ってきた。この竹林に誘い込んだまでは計算通りだったが、正直彼の気力は切れかけ、集中力も乱れがちであった。

(あっちは無事だろうか)

彼はもう一人の護衛のことを考えた。斧使いの男は、彼とは反対に陽動が得意だと言い、先程も派手に暴れて敵を引きつけてこの竹林に駆け込んで行った。しかしその後、彼の姿は見ていない。

 そのとき彼の斜め前方で足音がした。ざわざわと竹の揺れる音が連続する。一人の気配ではない。彼の全身に緊張が走る。

(…来るなら来やがれ!)

 槍を握り直す手の平が不愉快にぬめる。汗をズボンの尻で拭きながら、彼は気力をかき集めた。

 その瞬間、彼は自分の後方から迫る気配に気付いた。信じられないほどのスピードで迫る人間の気配。

(そんなところから敵!?)

 虚をつかれて呆然とする。こんな近くに来るまで気付かなかった己の不徳に、怒るよりも絶望してしまう。

(…だめか)

 思った瞬間、後方の気配が彼の脇をすり抜けた。黒い人影は一気に前方に近付いていた敵の気配に寄ると、鋭い刃鳴りが連鎖する。複数の、蛙の踏み潰されたような耳障りな悲鳴とののしり声が上がり、慌てて逃げ去る複数の足音がばらばらに遠ざかっていく。

「大丈夫か?」

 振り返り、近付いてきた黒い人影が彼に声をかける。

「…誰だ!貴様!」

気を取り直した彼が、鋭く声を上げる。

「ああ、お前は…(ケン)だな?私は沙南公国軍の紅珠という。救援が遅くなった。すまない」

その言葉に彼は驚いた。より正確にはその声に。

「商隊の方は無事だ。援軍も間もなく来る。それまでもうしばらく、力を貸してくれ」

 暗い竹林の外で、ぱんぱんと数発の破裂音が響き、数条の光が射し込んでくる。それに照らされて浮かび上がった姿は、紛れもなく、全身黒衣の若い女であった。しかも付け加えるなら、状況を忘れて見とれてしまうほどの、すこぶるつきの美女であった。

 周囲が突然騒がしくなる。

「かかったかな」

にやりと紅珠が笑う。周囲の暗闇からざわざわと殺気が寄せてくる。

「お前は後から来い」

紅珠は言うと、両腰の刀を抜いて構えると、暗闇に向かって駆けだした。

 剣隙の音と怒号、重たいものが倒れる音が遠ざかっていく。紅珠が竹林の中の敵を全て引きつけて行ったらしい。静かになった竹林を、ようやく狷は抜けた。





 紅珠の動きに吊られて竹林の外に飛び出した山賊たちは、矢の一斉射撃を浴びて絶叫する。慌てて周囲を見ると、そこは騎馬の兵隊によってすっかり包囲されていた。

「沙南公国軍か!?まさか、何でこんな…!」

 翻る旗を見た山賊たちから声が上がる。この辺りは確かに沙南公国の管理下にあるものの、辺境と言ってよく、実際今まで彼らが沙南公国軍に遭遇したことはなかったのだ。しかも沙南公国軍といえば、皇国中で最も弱い軍隊と陰口を叩かれるほどで、公国の守りには不足はなかったが、積極的に動こうとする軍ではなかったのだ。そこに彼らはつけこんでいたわけなのだが。

 膝まである草むらの真ん中で黒衣長髪の女が仁王立ちで、驚く山賊たちを見回していた。

「我らは沙南公国軍だ。武器を捨て、投降せよ。抵抗すれば容赦しない。逃亡する者も同様だ。おとなしくしろ!」

殺伐とした中で、奇妙に美しいよく通る声が響く。だがそれは今この場では物騒なもの以外のなにものでもなかった。

「やかましい!腰抜け軍が今更何ができる!どけやあ!」

驚きから醒めると、激情が山賊たちを襲った。こんな小娘に、という感情もあったろう。ばらばらながらもさすがの気迫と勢いで山賊たちが突進する。女に向かう者も包囲を破ろうとする者も竹林に逃げ込もうとする者もいた。

 たちまち乱戦となる。

 竹林に逃げ込もうとした者は矢の斉射の的となる。それを切り払い、走るが、竹林に到達したところで、悲鳴が上がる。紅珠は竹林の側で槍を振るう狷を見とめて、微かに頬を弛めた。

 彼女の指示によって包囲網は狭められつつあり、もはや竹林側も逃げ場ではなくなっていた。包囲する兵士たちを指揮しつつ、紅珠が振り返りざまに太刀を振るう。切りかかってきた敵の斧とぶつかり、火花が散る。思った以上の力に跳ね返された男が、驚愕の目で彼女を見る。そんな男を、間髪入れず反対から刃が襲う。首筋を大きく切り裂かれた男が、大量の血しぶきを吹き上げながら草の海に沈んだ。

 わっと喚声が上がったのに紅珠が振り向くと、包囲の一部が突破されていた。そのまま洞窟方面に走り去ろうとする背中の方に、紅珠は怒鳴った。

「湍!行った!」

瞬間、山賊たちの足下の地面が爆発した。いや、爆発したように、土砂が吹き上がった。いきなり地面を失い、巻き上げられた土砂に全身を撃たれた男たちが宙に吹き飛び、離れた地面に叩きつけられる。

「ちくしょお!」

 しかし比較的ダメージの少なかったらしい男が一人立ち上がり、再び走り出す。

(やっぱ、見え辛いと威力が…!範囲も小さすぎたか!)

非戦闘員を保護するために洞窟で物理障壁を張っていた湍が、敵を仕留め損なった気配を感じて舌打ちをする。しかし敵をこの洞窟に近付けるわけにはいかない。障壁を維持しつつ湍が弓矢を構えようとしたとき、背後の洞窟から誰かが駆け出してくる気配がした。そのまま彼の横をすり抜けて少年が障壁の外へ駆け出していく。

 少年はそのままの勢いで、突進してきた敵を棒のようなもので殴り飛ばした。湍の術でダメージを追っていた男には、それに耐えきれる力はなかった。再び地面に叩きつけられた男は、力なく咳き込みながら呻きを上げてもがいている。

「ししょー、やりましたよー!」

 敵をたおした少年が振り返りつつ、元気な声で拳を上げる。

「お~う、よくやったぞ~」

それに答える何だか間延びした声に、湍は背後を振り返った。そこには赤茶けた髪の小柄な男が、にこにこと笑いながら手を振っていた。




     *****




 負傷者を護衛しつつ、出動した軍の半数を率いて、紅珠は沙南公国軍の砦に戻った。残る半数には山賊との戦闘の後処理を任せてある。とはいえ、ほぼ無力化したはずなので、ほどなく戻ってくるだろう。

 今回、彼女たちが迅速に現場に赴くことができたのは、偶然であった。この砦周辺で警備を兼ねて兵士の訓練をしていたのである。




 新軍制になって、紅珠は正式に沙南公国軍の一員となり、一隊を任される隊長となった。とはいえ、彼女を含め、その隊は多分に実験的要素が高かった。何しろ隊長である紅珠を含め、ほぼ全員が傭兵出身者であったのである。

 例外はあれど、基本的に傭兵というものは個人的な技術で戦うものであり、チームワークというものが苦手な者が多い。また、一番得意とする武器以外は使えない者というのも多かった。また、志願制であるため、当然ながら個々の実力にも大きな幅がある。そういった部下たちを、最低限、隊として率いることができるように訓練することが、ここ最近の紅珠の仕事であった。

 かなりの見切り発車的な制度であったことは否めないが、そういったリスクをしょった上でも実行しなければならないというのが、今現在の沙南公国軍の実情であった。




 それでも今のところは概ね良好に計画は進んでいる。

 第一次募集で集まった兵士は総じてやる気や野心に溢れていて、訓練にも今のところ全員が付いてきている。

 個々の実力のばらつきは、訓練次第である程度はさまになる。それ以上のことは個人の資質が関わってこようが、そこを補うのが軍隊というものであろうと紅珠は考えている。

 軍隊の強さというものは、兵士たちの集団が軍という単位で統制の取れた動きができること、そしてその上で組み立てられた作戦を実行できることなのであろうと彼女は理解している。つまり、兵士たちの平均的な強さよりも実力の劣る者は周囲の者の助けによって平均値にまで引き上げられるし、そうやって協力し合うことで個々の実力以上のものが全体として発揮される。

 今現在の彼女の部下たちは、各人、個としてはそれなりの実力を有している。何といっても、傭兵として働いていた紅珠も名を知っている者も幾人かこの軍に参加してきたのはやはり心強かった。しかしまだ、彼らを軍として組織することは難しかった。

 今日のように数人を率いて成果を上げることは可能であったが、十人、二十人と人数が増えると、恐らく収拾がつかなくなるだろう。それはこれから徐々に整えていかねばならない。

 しかしかといって、彼らを当たり前の兵士に仕立て上げてしまうのは、面白くないし、意味のないことであろう。それくらいならば、いっそのこと国民総動員して兵役に就けるほうがよほど効率がよい。まっさらな状態に教え込むほうが、自己流でやってきた者を矯正するよりははるかに楽だと思われるからである。

 集まってきた彼ら元傭兵たちの個性を活かしつつ、軍としてのまとまりを持たせる。そんな隊を作り上げるのが、今現在の彼女の構想であった。しかし紅珠は、自分の軍隊組織を訓練する能力には自信がなかった。何といっても彼女自身、個人の能力によって戦い抜いてきた傭兵である。ある程度の人数を率いて戦った経験はあったし、人間を率いることとはどういうことか、ある程度は学んでいたが、実践で活かすことはなかなかない環境であった。そして、人を率いることと人を教えることは別の能力であった。

 幸いというか何というか、今回の件である程度、一隊を率いるということの手応えは感じていた。しかし最終的に軍隊的な働きをしてくれたのは、この砦に駐留していた、以前からの沙南公国軍の兵士たちであった。

(やはり、ある程度の訓練ができたら、どこか、適当な隊にお願いして訓練してもらう方がよかろうな…基本を徹底的に叩き込んでくれそうな人といえば…)

 考えつつ、幾人かの人間の顔を思い浮かべる。その中にはこの砦の守備隊長の姿もあった。





 それにしても、ここの守備隊長が話のわかる人でよかった、と紅珠は思う。

 この砦は沙南公国の勢力の一番端に位置しており、一般の人家はほとんど見当たらない、山奥にある。基本的に治安の良い沙南公国ではあるが、それでも犯罪行為がまったく起きないわけではないし、戦が今まで起きなかったわけでもない。実際、今回のように旅人を襲うならず者は存在している。そういった者たちを取り締まって街道の安全を守護し、かつ有事には公国守護の最前線となるのが、この砦の役割である。

 この砦には守備隊長の姜将軍以下100人ほどの隊が常に配置されている。数ヶ月に一度隊員の交代は行われるが、隊長である姜氏は少なくともこの二年ほどは沙南公国の首都に戻ることもなく、この辺り一帯の治安維持に専念している。彼は沙南においても古くから存在する由緒正しい貴族の一人で軍人でもあり、この砦へは特に志願して赴任してきている。世間ではいわゆる「変わり者」との評判で、常に眉間に皺を寄せた気難しい表情を崩さない無口な初老の男であった。

 しかし少なくとも紅珠が実際に接した限りでは、姜将軍は無口無愛想でもこちらの話はきちんと聞いてくれるし、何より、今現在はまだ単なる傭兵の集まりでしかない紅珠たちを、その見てくれや肩書きだけで判断せず、対応してくれたと感じていた。

 山岳守備で鳴らしたベテランの兵士たちを新兵同様の彼女たちの訓練相手として貸し出すことにも同意してくれたし、この一週間の訓練中も、彼自身手が空いているときには、何度も自ら訓練場にも足を運んでくれたのである。正式な軍にあまり慣れていない紅珠の質問や相談にも、時間のある限り付き合ってくれた。

 外見だけで判断せず、内面を良しと判断したら相応の対応をしてくれる、姜氏とはそういう人物であろうと紅珠は感じた。ゆえに、彼女にとっても大変居心地がよく、信頼に足る人物であろうと感じられた。そして同時に、新兵の訓練を申し出たときにこの人物を紹介してくれた西公・珪潤や沙南公国軍新大将・曹几達にも深く感謝していた。

 今も彼女は、姜将軍と打ち合わせをしてきたばかりであった。

 本来なら一週間の新兵訓練だけの予定で、明日朝には沙南の街に戻る予定で、そのように事を進めてきた。しかし予定外に山賊退治が起こってしまい、負傷した商隊の保護をすることになってしまった。

 今回紅珠たちが山賊退治に向かったのは、単純に彼女たちが一番早くこの報を受けたからであった。砦から少し離れた山間で騎馬行軍の訓練をしていた紅珠たちのところに、馬に乗ってよろよろと駆けて来る男が来た。男は王都の方から沙南に向かっていた商隊の一員で、山賊に襲われたことを誰かに知らせるため、命がけで逃げてきたのだという。彼は傷こそ浅いものの、慣れない山道を騎馬で早駆けしてきたためかひどく疲れていた。

 その姿に緊急性を感じた紅珠は訓練の予定を変更し、即座に自分が現場に向かうこととしたのである。自分の部下の中から特に乗馬に優れた者二名を先行隊として詳しい状況を探りに行かせ、次に紅珠含め個人技に優れた者五名で向かう。残りの者には砦に軍の増援要請に行かせ、それと合流してから現場方面へ向かわせる。そうやって詳しい場所と状況を調べることと救援を向かわせるのを同時進行させることができたため、迅速に商隊を救うことができたのである。

 商隊を救うだけなら、多少の腕前さえあればできる。しかし今回は敵に問題があった。この辺り一帯で最近暴れている山賊団で、この辺りの街道守護も担っている砦の守備隊にも危険視されている者たちだったのである。これまでの姜将軍たちの調査から考えると、この山賊団は100人近い大集団を結成していると思われ、今回襲撃してきた者たちは全員撃退したが、それで終わらない可能性もあった。また、今回沙南正規軍が表立って行動したが、それに反発して何らかの行動を起こす危険性もあった。

 でしゃばったことをしてしまったかと恐縮した紅珠であったが、姜将軍は一言も咎めなかった。遅かれ早かれ、根本的に取り締まらねばならない相手であった、むしろよいきっかけかもしれないと彼は言い、負傷した商隊の保護も含めた事後処理はすべて砦の方で引き受けてくれることとなった。

 現場の後処理に残した榴火たち数人の紅珠の部下と砦の守備兵十数人はまだ戻ってきていないが、彼らが戻ってきたらもう少し詳しく今後のことを段取りできるであろう。しかしとりあえず、紅珠たちの隊は予定通り明日沙南の街に帰ることができそうである。

(――それにしても本当に治安が悪くなったものだな……)

 思って、紅珠は眉をしかめる。

 彼女は傭兵として、今回の狷たちのように旅人の道中警護を今まで何度も受けてきたことがある。しかしこの沙南地方含む吐蕃皇国南西地方でこれほど大きな賊集団がいたという記憶はなかった。つまり、本当にここ最近、もっとはっきり言うなら、八月の政変後、混乱と弱体化した各公国の隙を狙って幅を利かせるものが増え始めているということである。

 それが単なる「ならず者集団」であるうちは、まだいい。しかしそれが人数を集め規模を大きくし、周囲に与える脅威が大きくなればなるほど、「危険な集団」となってしまう。そうなれば公権力からは危険視され、取り締まり、掃討の対象となる。

(奴らは十分“脅威となり得る犯罪者集団”を形成している。しかもそれを隠そうともしていない――危険、だな。かなり)

 ともあれ、彼女は無力な一般人を襲って強奪や殺戮をするような輩は好きではなかった。そして一度助けた者を途中で放り出すのも性に合わなかった。

(明日、沙南に向かおうという者がいるなら私たちに同行させて――ああ、皆が寝んでしまう前に伝えておかねばならんな。それから――)

 考えつつ廊下を歩いている紅珠に、突然声がかけられた。

「おお、おぬし、紅珠か?」

 その声に、ぴたりと紅珠の足が止まった。そうしてから、ゆっくりと声のかけられた方に振り向く。

「おおやはり、そうであったか」

視線の先には、廊下の角を曲がって歩いてくる小柄な人物がいた。赤茶けたくしゃくしゃの髪に、にこにこ笑う童顔。細められた目の色は翠色で、男性としてはかなり小柄で痩身の、そして何より、その独特の言葉遣い―――

(ラン)、さん?」

「おう、覚えてくれとったか」

かすかな紅珠の声に、目の前までやってきた男――嵐がにかりとしか表現のできない表情で笑った。




     ***




「…どうかしたか?」

 目を丸くして自分を見つめている紅珠に、嵐が不審そうに尋ねる。

「…いえ、どうも」

紅珠がひとつ頭を振って、表情を戻した。

「お久しぶりです。こんなところでお会いするとは思いませんでした」

そう言って微笑む。

「わしもだ。まさかおぬしが軍人になっておるとは思わなんだぞ」

 にこにこと笑う顔は彼女に、数ヶ月前、禾峯露(カホウロ)の事件の後、月の下で酒を酌み交わしたときのことを、鮮やかに思い出させた。

「あなたこそどうしてここに…あの商隊にいたのですか?」

「ああ、旅の途中で会うてのう。目的地が一緒だったから合流させてもらったのだ」

問いつつ、紅珠は山賊襲撃の報告を受けたときのことを思い出していた。

 確か、息も切れ切れに馬を走らせてきた若者は、「商隊が襲われていることを知らせに行けと言われて来た」と言ったのであった。そして「ここからもう少し馬を走らせた場所に沙南の砦があってそこには兵士が常駐しているはずだからと言われた」とも言っていたのだ。

 そのときはそのことにたいした意味など感じなかったが、よく考えると不思議なことであった。彼の口ぶりでは、沙南の救援が望める位置にあることを、少なくとも商隊の人間は当初、把握していなかったということにならないか。確かに、この砦は付近の街道の守護兵が常駐しているが、基本的に一般人には開かれてはいない。今回は治療の必要な負傷者がおり、それを兵士が保護したという形であるために、めったにないことではあるが全員が砦内に収容されているのである。

 また、簡単に商隊に事情も聞いていたのだが、その証言の中には確か、「救援は必ず来るから敵から身を隠せる場所でじっとしていた方がよい」と言った人の意見に従って、例の洞窟に隠れていたのだというものもあったはずであった。

(なるほど、あの冷静さにはこの人が関わっていたと…)

 そう気づいて、紅珠は何故だか何とも表現しようのない感情を覚えた。





「――そうだ、わしはおぬしに会ったら、頼みたいと思っていたことがあるのだ」

 二、三、他愛のない言葉を交わしているうちに、ふと嵐が思い出したように表情を変える。

「頼みごと?」

「そうだ――もし、迷惑でなければ、なのだが」

「?」

何やら迷うように言葉を濁す嵐に、紅珠が無言で先を促す。

「紅珠、おぬしの力を見込んで頼みたい。わしの弟子の師になってくれぬか」

「弟子…あなたの?」

目を瞬いている紅珠に、嵐は(ハク)のことを簡単に説明する。

「………というわけでの、まあ、一応、預かった以上わしにはあやつを立派に育てる責任がある。しかしいかんせん、わしではあやつを鍛えられぬ。だからといってその辺の適当な者に任せるわけにはいかん。技量にも人間性にも信用の置けるものでなくては。そう思ったときに、おぬしのことを思い出したのだ」

「……そう、おっしゃってくださるのは確かにありがたいことです、が………」

 何やら考えつつしゃべっているのか、紅珠の言葉は不自然に途切れる。

「しかし」

紅珠はそこでひとつ大きく息をする。

「しかし、あなたの弟子ということは、あなたの技術を学びたい、ということなのではないのですか?私の力、ということは、単純に言えば実践での戦闘技術ですよ。それは、あなたの弟子に教えねばならぬことなのですか?」

「言いたいことはわかる。しかしこれはわしがあやつの個性や特性を考えた上で、何が最もあやつに向いている能力であるか、考えた結果なのだ。確かにわしはあやつにわしが今まで学んできた知識を伝授することはできる。しかしそれはあやつに向いていない。あやつの持って生まれたもの、これまでの年月で身に付けてきたもの、それらを考えたとき、百に最も向いているのは恵まれた体格と、山仕事で鍛えた体力を活かす能力なのだ。実際、わしにも教えることのできる武術の基礎をやらせてみたが、飲み込みも早いし変な癖も何もなくて素直なものなのだ」

嵐の言葉も表情も、実に真摯なものであった。じっと見つめてくる相手から視線を外しながら、紅珠が思案顔になる。

「…おっしゃることは、わかりました。とりあえず、その――ハク、でしたか?その者の力を見てみないことには、私にはこれ以上何とも申し上げようがありません。――あなた方は、沙南に来るのでしたよね?でしたら、沙南で私は今、新兵訓練をやっております。そこでまずは一度、その者の力を見せていただきたいのですが。それから返答させていただけませんか?」

紅珠の答えに、嵐は満足げにうなずいた。

「もちろんだ。おぬしが見て、使い物になるかどうか、判断してくれ」

それでもわしは多分大丈夫だと思っておるがな、そう続けた嵐に、紅珠はふと意地の悪い笑みを向ける。

「…言っておきますが、私は一切手加減できませんからね。この仕事に就いて一週間で沙南公国軍内での私の肩書きに「鬼」の一文字が加わるようになったらしいですからね。私にやらせたところで、その者がついて来れるかどうかは保障できませんよ」

紅珠の言葉に、嵐はそれは頼もしいと言って、からからと笑った。






 翌日紅珠たちの隊が沙南に帰還するのに嵐と百を合流させることを決めて、二人は分かれた。

 紅珠はそのまま廊下を歩み、たどり着いた明るく開けた場所で、足を止めた。そこは砦の中庭を見下ろせる位置の外廊下が少しだけ張り出してテラスのようになった場所で、手すりと柱だけが他の部分と比べて少しだけ優美に作られていた。そこから周囲を見わたすと、月影に砦全体が淡く蒼く染まっているのが見えた。

 この砦はまったく軍事目的のための建物で、装飾などもこのテラス以外一切ない。しかし使われている石材自体が、この地域特産の月の光の下では蒼く見える特殊なものであった。それゆえに、昼間は無骨以外の何者でもないこの砦は、しかし月明かりの下、特に満月の夜には幻想的で美しい山城へと変貌するのである。

 折りしも分厚い雲間から射し込んだ月光に照らされて、ほのかに蒼いテラスは現実離れして美しく見えた。

 紅珠はふらふらと誘われるように歩を進め、冷たい柱に寄りかかるようにして外に視線を遣る。石造りの建物特有の空気の澱みから開放されて、殊更空気が澄んで冷たく感じられた。それを肺の中に思い切り吸い込むと、仰け反るように顔を上げて息を止める。こつんと頭が石の柱に当たる。髪の毛越しですらその感触が冷たくて気持ちいいような気がして、紅珠はふう、と息を吐く。ゆっくりと肺の中を空にするように、吐いて、そうして目を開ける。

(ああ、そうか、そういうことか)

 胸内に呟くと、自分自身の中で、様々なことがすとんと腑に落ちた。まるでパズルのように、ひとつのキーワードを与えるだけでひとつひとつのパーツがきれいに組み合わさって、全てが連結されて、一見関係ないと思える全てのことが繋がって、そうして最後に出来上がったのは、たった一つの形。そんなイメージが思考の中、超速で展開する。

 このとき何故か、紅珠の意識内にこの沙南に来る前に会いに行っていた養父の顔が思い出され、その記憶の中の表情に、彼女は語りかけていた。

(そういう、ことだったんです、ね――…)

 晩秋の夜気は冷たくて澄み切っていて、とても気持ちがよかった。

 風邪を引いたわけでもないのにほてったような身体にその空気を何度も吸い込んでは、紅珠はその奇妙な息苦しさを蒼い空気に溶かし込むように吐き出した。

 何度も、何度も。





     *****





 沙南公国府の西側に位置する公国軍舎の前には広場があり、そこでは連日軍の訓練が行われていた。

 剣を激しく打ち交わす金属音と気合を発する声、鋭く地を踏み、蹴る靴音、そして戦う二人を応援し、囃し立てる大勢の喚声。

 鈍い金属音に短い悲鳴が重なり、少し遅れて一方に叩き落された剣が地面で跳ねて転がる奇妙に軽い音。音が静まる前に喚声はさらに大きくはじける。

「…参りました」

 痺れた右手首を握りながら若い兵士が肩を落とす。相手の降参の声を聞いてから、紅珠はそれまで油断なく構えていた双刀をおろした。





 9月の末に新軍制が発足してから、沙南公国軍では軍事訓練が活発化していた。その中でも、新たに入隊してきた者たちを対象とした新兵訓練により多くのウェイトが占められていたのは、当然のことであったろう。しかしそれだけとはいえない熱気があふれているのは、そこに紅珠がいるからと言っても過言ではなかった。

 訓練の中心は軍全体、もしくは隊毎の集団訓練であったが、それ以外の時間には個人技を磨くことも積極的に推奨されていた。それはもちろん誰と誰が組んで行ってもよいのだが、ここしばらくはとある人物――つい先ごろまで凄腕の傭兵として名を知られていた人物――すなわち紅珠に挑戦しようという者が引きもきらないのである。また彼女も挑戦されれば断らなかったし、それがまた見事に勝ち続けるものであるから、皆の関心を一身に集めてしまっており、そこで更にまた再度再々度と挑戦し続ける者は増えていくばかりなのであった。

 また純粋に、紅珠の対面勝負時に見せる動きの美しさは一種の舞踏を見ているようですらあり、戦闘訓練に明け暮れている男どもにとっては格好の娯楽でもあった。おかげでいつも紅珠が勝負をしている場には黒山の人だかりができているのであった。





 自らの武器を拾い、肩を落として人だかりの中に消えていく兵士の姿を見送りながら、紅珠はふっと視線を廻らせた。

 全体訓練を終えた後、挑戦してきた者はこれで五人である。いい加減日も傾きかけて空の色が変わりかけている。今日はもう終いにした方がいいだろうか、そう思ったところで、ざわっとどよめきが上がり、人垣が割れる気配がした。

 紅珠がそちらに視線を遣ると、そこから少年が一人歩み寄って来ていた。その姿を見て、紅珠はふっと口元を緩める。

(ああ、これが彼の言っていた、少年か)

 生成りの、貧しいと言ってよい平服に見るからにごわごわした、しかし暖かそうではある樹皮布の上着と帯。浅黒く程よく焼けた顔はまだ子供っぽさを多分に宿しており、頭部を覆った布の下から黒い髪がぴんぴんとはねてはみ出していた。身長は彼女よりも高く、手も足も長く、どちらかといったらひょろりとした印象の少年であった。

「あなた、ハクね?」

 紅珠が呼びかけると、いきなり名を呼ばれた少年がびくりと表情を強張らせ、わずかに頬に血を昇らせる。しかしすぐに元気な声が返事を返す。

「そうだ。あんたが紅珠?」

遠慮のない元気な声に、周囲がどよめく。それは多分に反感と好奇心を含んだものであった。新参とはいえ名を知られた戦士であり、今現在は正式に軍の一つの隊の長を務める人間に対するにしては、無礼な物言いと受け取られたのだ。

「師匠に言われたから、来た。あんたが俺の師になってくれるんだって?」

しかしそんな周囲の様子を何も感じないのか気にしないのか、更に百は変わらない態度と口調で続ける。場の空気はいっぺんに妙なものに変わっていく。

「言っとくけど、俺の師匠は嵐さん一人なんだからな!」

そう、言い切ると憮然とした表情で百は紅珠を睨む。不機嫌、というよりはふてくされている、と言った方がより正確な表現であったが、ともかくこの場にあってはあまりにも場違いな言動に、周囲のざわめきは収まらない。

 一方で、紅珠はさすがに驚きはしたものの、内心では――自分でも驚いたことに――吹き出しそうなのをこらえなければならないほど、微笑ましさを感じていた。

(なるほどねえ、あの人をよほど慕っているらしい)

いつの間に弟子を取るまでになったのかと彼の人の心変わりを驚いていたが、どうやら彼の主張する通り、「押しかけ弟子」の類いであるようだと納得する。

(――変わらず、やさしいようで)

そうは思う。そしてそんな百を哂うことは彼女にはできない。しかし彼女とてそもそも積極的に百を鍛えねばならない理由はない。嵐に頼まれたからこそ、なのである。第一、いくら頼んだ相手が嵐であろうとも、力量次第では紅珠は百を引き受けるつもりはなかった。力量、あるいは素質、最低でも熱意。それがない者を相手に武術を教える気は、彼女にはまったくなかった。そのことは既に嵐に伝えてある。

「構わんぞ」

 だから、殊更冷静な表情で、紅珠は応える。

「おまえが嫌なら私は構わん。だが、お前が本気で強くなりたいなら、かかってくるがいい」

言われた百が、表情を歪める。

「――俺、強いし。嵐さんだって教えてくれるし。あんたじゃなくていいんだけど」

「やるのか、やらないのか?」

悔しくて殊更憎まれ口を叩いてみせたつもりの百であったが、紅珠の表情にも口調にもさざ波すら立てられず、反対に自分自身の熱が上がる。

「うお~~っしゃあ!やってやるよ!!」

 悔しさとかその他よくわからない色々な感情を吹き飛ばすように百が怒鳴る。勢いのままに背中に負っていた棒を抜くと、紅珠に向けて構える。周囲の野次馬のどよめきがひときわ大きくなる。紅珠も鞘に収めていた双刀を抜くと、真っ赤な顔をして自分を睨みつけている少年に向けて構える。

「いくぞお!うおおおおおお~~~!!!」

一声吼えると、長剣ほどの長さの棒を腰だめに構えた百は、紅珠に突進していった―――



     *



「で、どうだった?」

 相変わらず飄々とした嵐の問いに、紅珠は苦笑を返す。

「……ひどい人ですね、相変わらず」

「…何でだ」

(――分からないわけはないでしょうに、この狸――)

不審そうな嵐に、紅珠は色々と言いたいことはあったが、全て抑え付けて、表情を整える。

「気迫はなかなかのものでした。純粋な腕力も。体も頑丈そうでした。体力もありそうですね、新兵たちの中では粘った方ですね」

「…能力についての感想はないのか」

紅珠の言葉が全て百の身体のことであるのに、嵐が苦笑いする。

「……腕の長さと、歩幅の大きさからくる絶対的な間合いの有利、打ち込みの強力さ」

言いつつ、紅珠が軽く握った右手に目を落とす。今はもう何ともないが、まともに百の全力の打ち込みを受け止めたとき、両手に嫌な痺れが走ったことは確かであった。

「――基本の型は、あなたが教えたと言ってましたっけ?」

「ああ、ほんの基本だが。足捌きと体捌き。剣の持ち方、構え方、振り方、そんなものだがな」

「確かに。そういったものはお手本通りと言ってよいでしょう。そこは問題ありません」

紅珠は軽く頷いて応える。

「――ただ、それだけ、です。まだまだ――」

紅珠の答えに、嵐はくすりと笑う。それからこてんぱんにやられてぼろぼろになって戻ってきた百の姿を思い出し、紅珠の言動に含まれる真摯さと容赦のなさに軽く背筋を伸ばす。

「では、どうなのだ?」

「――体格もある、筋力や体力もそれなりにある、基本は身に付いている。素質は、あります。器用さと応用力はこれから見せていただきましょう。あとは、やる気と根気、向上心、それさえあるなら…」

「なんとか、なるか」

「なんとか、してみせましょう」

 嵐の言葉に紅珠が答える。その紅珠の答えに、嵐が満足そうに微笑んだ。そんな嵐をじっと見つめて、紅珠が微かに瞼を伏せた。

「――ところで」

 唐突に紅珠が顔を上げる。先ほどまでの強いまなざしから一転、口調も軽いものとなって嵐を見つめる。

「なんだかやけにつっかかられたんですけど。どうかしたんでしょうか?」

主語の抜けた紅珠の口調にいくぶん戸惑いながらも、嵐は彼女の言わんとすることは察した。

「ああ、それは…わしにもようわからんのだが」

言いつつ、嵐が思い出して苦笑する。

「どうもな、端から機嫌が悪かったのだ、あやつ。昨日、おぬしから訓練の時間と場所を知らせてもらったろう?あの後すぐハクに、今日おぬしのところへ行くように、と言うたのだが」

「――私のこと、何か言ったのですか?」

「いや、特には何も。以前知り合った者、ということくらいしか言うておらん」

首を傾げながら問う紅珠に、嵐も素直に頭を振る。実際、そのくらいしか嵐には紅珠について言うことはないし、以前の肩書きよりは現在のポジションの方がこの場合は重要だし、更には実際本人同士が会ってみるほうがよほど話は簡単なわけで、そう思うからこそ、嵐は簡単な事情説明しか百にはしていない。だから嵐にも百の不機嫌の理由はわからないのである。

「……あなたしか『師』はいらない、と言っていましたし、あなた以外の者から教えを請うこと自体が気に入らないのでしょうか?」

「さてのう。しかしそれほど視野の狭い者ではないとわしは思うておるのだが――」

 二人はしばらく向かい合って頭を捻り合っていた。

 そんな自分たちの姿の滑稽さに気付いた嵐が急に笑い出し、紅珠もつられて笑い出して、その日の会話は終わった。

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