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3.望月の闇

 屋敷の表門は、深夜なので当然のことながら、堅く閉ざされていた。

「誰か!いないか!先ほどの悲鳴はどうした!?」

 紅珠が門内に向かって声を張り上げる。しかし何の反応もなかった。しかしそれはおかしなことであった。矸氏は貴族であり、きちんと屋敷を構えている。位はあまり高くないとはいえ、貧乏をしているわけでもなく、相応の使用人を雇っている。門番の一人もいないということは通常考えられなかった。しかし何の返事も、人の気配さえなかった。

「誰もいない…のか?」

「おかしいですね」

 紅珠も潤も表情を堅くする。

 紅珠がそっと腕を伸ばして門扉に触れようとした。表面に触れようとしたところでぱり、と微かな抵抗を感じて腕を引っ込める。黒革の手甲の表面がほのかに光り、すぐに消えた。

(どうやら、ここも結界は有効…しかし、この程度なら……)

「どうする?」

 潤の問いかけに、紅珠は迷いなく答えた。

「入りましょう」

 そして腰の後ろのポーチに手を伸ばすと、そこから小さなナイフといくつかの石を取り出した。そしてその、小さな紫色の石を潤に差し出す。

「これを持っていてください。屋敷の内部は有毒な空気で汚染されている可能性があります。この石を口に含んでいると、ある程度は防げます」

潤は頷いて、それを受け取った。

(そうか、これが例の報告書にあった――)

 潤がその石を懐にしまっている間に、紅珠は再び門に近付いていた。本体の門ではなく、その隣にやや小さく設けられている勝手口の正面に立つと、手にしたナイフに軽く息を吹きかけ、構える。

「ふっ!!」

 気合とともに4本のナイフが投擲され、扉の四隅に突き立った。

「どうするんだ?」

「扉を破ります。結界はそう強いものではありませんので、とりあえず囲めばその部分は破れるはずです」

潤に答えながら、紅珠はそっと扉に近付き、手を伸ばした。今度は抵抗もなく指先が木のざらついた表面に触れる。軽く扉をゆすり、何度か叩いてみる。その感触を確認すると、おもむろに彼女は軽く間合いを取って半身で構える。

ガン、と激しい音とともに紅珠の右足が勝手口の扉を蹴りつけた。木の扉は大きく震え、ガチャガチャと耳障りな音を立てる。

 さすがに潤は驚いたが、とりあえず黙って彼女を見ていた。

 紅珠は一旦体勢を戻すと、息を整え、気合を溜める。

「ふっ!!!」

 気合とともに再び紅珠の右足が扉を打つ。バキ、とどこかが壊れる音がした。そこへ右で蹴った勢いそのままに体を反転させ、回転の勢いを乗せた左足が振り上げられ、靴底が扉に叩きつけられる。めきめきと木の割れる音が響き、勝手口の扉は半壊状態で彼らに入口を開けた。

「入りましょう」

 紅珠が息も切らさぬ平素の声で潤に告げた。





 邸内に一歩足を踏み入れると、そこにはむっとするほどの濃密な空気が充満していた。甘いような、苦いような、花のような、草のような、どこか滅入るような香り。潤は思わず軽く咽てしまった。咳き込んだ拍子に大量の空気が喉に流れ込んでくる。苦くて、どこかねっとりした空気であった。

「これは…何だ?」

「香…だと思います。でも、これはちょっと…」

 紅珠が口許を手で覆いながら眉を顰める。視界は薄白く煙っていた。木を燃やした時の特徴的な刺激臭からして、間違いなくこの屋敷のどこかで盛大に火が焚かれている。恐らくそこで香木を燃やしているのだろうと紅珠は思った。彼女は特に香に詳しいわけではなかったのでそれがどのような種類のものかまでは判らなかったが、特に毒性があるわけではなさそうだった。しかしだからといって煙を大量に吸い込んで体によいわけもなかった。

「あまり大量にこの煙を吸わない方がよいでしょう。口を覆うものがあれば、それを」

 紅珠は自分自身も首元に巻いていた布を口許に引き上げながら言う。潤は頷き、かぶってきた外套を改めてかぶり直し、口許をしっかりと覆った。




 そうしてから改めて周囲を見回すと、事態の異常さは、外で感じていたよりも遥かに深刻な事は明らかであった。

 正門から邸へ続く前庭、そして植栽の向こうにあるはずの主庭には、灯火の一つとてなかった。満月に浩々と照らされた地面には白い玉砂利が敷き詰められていたので、視界はきくものの、屋敷へと続くはずの踏み石の向こうは、黒い影のような塊があるようにしか、紅珠には見えなかった。

 その方角からは人が走り回るような音、物が倒れたりぶつかったりするような鈍い音、そして男女入り乱れた悲鳴や怒鳴り声、泣き声が混ざり合った喧騒が響いてきていた。

(騒ぎの元は…どちらだ?)

 紅珠は集中しようと呼吸を整える。しかしその瞬間、紅珠はあることに気がつき、慌てて足下に視線を向ける。

「おい、紅珠…あれは何だ?」

ほぼ同時に潤が呆然としたように囁く。彼の視線は足下ではなく、前方の樹上に向けられていた。彼の視線を追って紅珠も夜空を見上げ、微かに息を呑んだ。

 丸い月の光を何かの影がよぎる。いや、それは一体の姿ではなく。

「……虫?」

うねるような盛大な羽音とともに、影がぐにゃりと歪む。まるで宙を滑るヘビのような影が庭木に舞い降り、影と同化する。

 潤はその正体に気付き、思わず悲鳴を漏らしそうになった。しかしむりやり息の塊を飲み込むことで、それを止めた。喉の奥でぐう、と不快な音が鳴ったが、その程度のことは気にしていられなかった。一方、傭兵として様々な経験をし、色々と不快なものも見てきた紅珠も、さすがに呼吸が荒くなっていた。

 彼らの視線の先にある樹木は、月光に照らされ、大きな黒い影となって地上に生えていた。その影が不気味に蠢いているようだった。いや、実際、蠢いていた。樹木そのものではなく、その表面に無数に取り付いたものたちが。半透明の翅は絶えず細かく震え、硬い肢は互いに擦り合わせられたり、樹皮や葉とぶつかり合ってかさこそと音を立てる。そんな無数の音が全て重なり、えもいわれぬ不気味な波動となって二人の耳に不快感を与える。

 樹上の光景に木を取られていた紅珠が、足下のことを思い出して、慌てて視線を落とす。ちょうど靴先にあったものを、慌てて横に蹴り飛ばす。

「リン様、足下にも気を付けて…」

 紅珠の声に、潤も気を取り直し、足下に目をやる。そしてそのあまりの光景に、今度は悲鳴を止めることができなかった。

「うわ!…なんだ、これ!」

 玉砂利の影を、無数の虫が這っていた。月の光だけでははっきりと視認できなかったが、白くて体長の真ん中辺りの胴回りだけがやや太い、小さな虫がいくつもの列を作って這いずっていた。実害があるかどうかという以前に、本能的に、あるいは生理的に、潤の背筋を嫌悪感が駆け上る。

「何でこんなに虫が湧いてるんだ!」

 足下の虫の行列を踏まないように足位置を移動しつつ、視線は樹影に潜んだ羽虫の動きから逸らせずにいる潤が引き攣った声で叫ぶ。紅珠とて状況は同じであった。殊更虫が苦手ということはないが、さすがにこれだけの大群になると好き嫌いを越えた嫌悪感が生じるのだということを、妙に冷静に紅珠は考えていた。





 硬直している二人の背後で、大きな音がした。

 庭に面した木戸が吹き飛ぶように外れ、そこから数人の人影が転がり出て来る。

 けたたましい音に気を取り直した紅珠がそちらに視線をやる。

 庭の木立と柵に阻まれてはっきりとは見えなかったが、男女の悲鳴や怒声、わあわあと意味のない喧騒が響いてくる。

「…行きましょう」

 瞬時に決断した紅珠が潤に声をかける。潤も頷くと、踵を返して歩き始めた紅珠の後に続いてそろりそろりと歩き始めた。





 植え込みの間を抜ける時は少し勇気が必要であったが、特に何も起こらなかった。

 透垣の脇をくぐって、二人は庭の内部に入った。途端、先程よりも濃厚な香りと白さが二人を襲った。思わず布の上から口を押さえた紅珠の後ろでは、潤が軽くむせて咳をする。

 植栽と透垣を隔てて向こうとこちらでは、明らかに空間の濃度が違っていた。庭全体に白い煙が充満していて、視界が遮られるほどではないが、明らかに異常なレベルの香煙が発生していて、煙の刺激と香りのきつさに、鼻の奥や喉がぴりぴりするほどであった。

 庭に面した木戸が数枚外れて、広縁から庭に落ちていた。戸がなくなったことで開いた屋敷内からは、尚も薄白い煙が漂い漏れ出てきているのが見える。庭では数人が蹲り、荒い呼吸や苦しげな咳を繰り返している。呻き声や意味のわからない呟きも聞こえて、いっそう状況の不気味さが際立っていた。

「大丈夫か!」

 潤が一番近くで蹲っている男の側に駆け寄って声をかける。何度か背中を擦り軽く叩いてやると、男は苦しげながらも何とか顔を上げ、頭を振った。

「駄目だ………あんたも、逃げ…………」

「何があった?この煙は何だ?」

畳み掛けるように潤が問う。男は弱々しく頭を振り続けていたが、ようやっと声を絞り出す。

「わけが…わからない。いつも……焚いてた、香。苦し……息。くるしい…」

 どうやら、男には外傷はないようだった。とすれば濃い煙のせいで呼吸困難になっているということだろうか、と潤は推測する。であれば、この男を含めてここにいる人間全員、屋敷の外に運び出すべきだろうか、そう潤が考えていると、急に視界の端が明るくなった。同時に何かの悲鳴と喚き声のようなくぐもった音も聞こえる。

 潤がそちらに目をやると、そこに紅珠の後姿があった。右手に短剣を構え、左手で何かを捧げ持っているようであった。その左手の部分から赤い炎が噴出しているようなのが見え、一瞬で消える。彼女の周囲だけ一瞬白い煙が薄れ、不気味な煙の帯が現れる。

 広縁に上がる段の途中で、彼女は屋敷の中を覗き込むようにしながら何度か短剣を振るった。その動きに白と薄灰色の煙の帯が付き纏う。剣を腰の鞘に収めると、紅珠が段を蹴って広縁に駆け上がり、木戸の隙間に腕を伸ばし、何かを掴み出した。やや小柄な老人らしき姿が、広縁に引きずり出されてくる。そのまま腕を引っ張り上げて老人を肩に担ぎ、紅珠が立ち上がった。それから再び屋敷の内部に視線をやって、左手を突き出す。するとそこに握られていたカンテラから炎が噴出された。赤い炎がいくつかの黒い影を弾き、包み込み、一瞬で消す。その様子を確認してから、紅珠が広縁から駆け下り、そのまま潤の方へ戻って来た。

「これは、どういうことだ?」

 何と言うべきか迷いつつ、とりあえず現状の確認を口にした潤に、紅珠は頭を振る。

「見ての通りです。香の煙と…虫、です」

「虫…もしかして、その火で?」

「はい、焼けました。この庭にはあまり姿が見えませんが、屋敷の内部にはたくさんいました。この人が這ってくるのにも何匹もたかろうとしていたので、とりあえず散らしてみましたが…」

言いながら、紅珠が肩に担いでいた老人を地面に下ろした。老人の額からは血が流れていたが、命に別状はなさそうであった。しかしやはり煙のせいか、涙を流しながら咳き込み続けていた。

「何があった?中はどうなっている?」

苦しそうな老人に聞くのは酷かとも思ったが、悠長なことを言っている事態でもなさそうだと、潤が老人を励ましながら問う。老人はぜいぜいと苦しげな息をしていたが、思いのほか言葉はしっかりしていた。

「よく…わかりません。見回り交替の時間になったので起きたら、もうこんな……お屋敷が揺れて、悲鳴が聞こえて……灯りも消えてしまいました。わけが分からないまま、逃げて…」

「この煙は?」

「多分…旦那様がいつも焚かれているもので……若奥様がお好きなので……でも、いつの間に、こんな…」

 老人は咳と涙と鼻水の合間にしゃべるので、何とも聞き辛かった。しかし大体のことは伝わった。それでも、なぜ、今夜、このようになったのか、この屋敷の主である矸氏と、その奥方が、今現在何をしているのか、は分からなかった。

 その老人から矸氏夫婦の部屋の位置を聞くと、紅珠が潤を見た。

「ともあれ、矸氏に会うべきかと思われますが、いかがですか?」

「うむ、原因が何であれ、彼に会って、事情を聞かねばならぬであろうな」

 行動は決定したが、彼にはここにいる人間たちをどうすべきか、については心が決まっていなかった。

 ここに置いていったままでよいのか、それとも彼らだけでも避難させてからの方がよいのか。紅珠が伺うように潤を見ている。

 結局、潤はここにいる人間全員を屋敷の外に避難させることを紅珠に告げた。紅珠は一瞬目を見開いたが、特に何も言わず彼を手伝った。





 約十分後、庭に面した外れた木戸の前に、潤と紅珠は立った。

 紅珠は潤に、彼女の持っているものよりはやや小さいカンテラを渡した。

「リン様、先ほどの石を」

 紅珠が言って、自らも小さな紫色の石を口の中に放り込んだ。潤は頷いて、懐から石を取り出した。

「――おそらく、この中はここよりもひどい状況だと思われます。先程より、結界は強まっていると思われますし…正直、どんなことが起こるかはわかりません。無理だと判断したら、直ちに結界外へと出ることを優先してください」

 紅珠の言葉に、潤は頷いた。そして口許を覆う布を少しずらして石を口中へ落とす。ひんやりと滑らかな感触が渇き気味の熱い口の中で、不思議と気持ちよかった。




 広縁から一歩室内に入った途端、空気が変わった。それは紅珠だけではなく、潤にも分かるほどの変化であった。

 ねっとりと身体にまといつくような重く水分に富んだ空気。暗い室内が白く見えるほどの濃厚な煙。息詰まるほど鼻腔と口腔の粘膜を刺激する強烈な何かの複雑なにおい。そして不気味に闇の中で蠢く無数の黒い影と不穏な耳の奥に響く重い音。

 心積もりはしていたはずの紅珠と潤であったが、それでも充分に不気味さを肌で感じ、一瞬とはいえ足が竦む思いであった。

 室内には灯りがなかった。紅珠が手にしたカンテラを周囲に向ける。どうやら二人のいる部屋は客間の一つであるらしく、数脚の椅子と卓が部屋の真ん中に置かれ、壁の飾り棚には品の良い置き物が並んでいた。そして影の濃い天井の隅をカンテラの燈光が過ぎった途端、影が不気味な鳴動音を上げながらぐにゃりと蠢いた。

「………!!」

 ぐうっと潤の喉の奥が空気音を立てる。うんうんと鼓膜の奥に不快な振動を響かせながらわらわらと影が動き、小さく分裂していく。室内の暗さではっきりと視認はできない。しかし確認するまでもなかった。屋敷の外の木に集っていた羽虫と同じものであった。

 潤の隣で紅珠がふうっと息を吐く音が聞こえた。

「リン様。こいつらは火に弱いはずです。それから、毒を持っている可能性も考えられます。極力、近付かせないように」

 こんな場所でさえ心地よく耳に響く低音が、冷静な言葉を紡ぐ。状況は悪いが、それでも何とかなると感じさせる、聞く者に落ち着きを与える声だ、と潤は感じた。

 紅珠がゆっくりと、慎重に歩を踏み出す。靴裏と木の床の間で砂が擦れるざりり、という音がいつもより大きく聞こえるような気がした。

 ぶおん、と不吉な音が空気を重く震わせ、黒い塊が天井から下りてきた。紅珠がさっと左手のカンテラを音の方へ構える。明るい黄色の光に照らされて、黒い塊が一斉に膨れる。闇に住まう生命が灯りを嫌って逃げ惑う。わんわんと不気味な音が室内にこだまするように鼓膜を振るわせる。しかし逃げ惑う一群が一筋の群に分かれて空をうねる。そしてそのままカンテラの明かりの届かない陰から紅珠に迫る。

 群が肉薄する直前、紅珠が踏み込みを変えて身体を捻る。そして黒い羽虫の群にカンテラを向けると、手元のレバーを思い切り握りこむ。瞬間、激しい火柱がまっすぐに噴出し、黒い塊を飲み込み、薙ぎ払った。

「ぎゃう!!」

 無数の羽音と、炎が何かを燃やしてバチバチと弾けるような音に混じり、奇妙な悲鳴が上がる。

「なんだ!?」

人声ではない。獣ともいえない。少なくとも昆虫のものではありえない悲鳴が連鎖する。羽虫の一群を燃やし尽くした炎が消えると、一瞬明るくなった室内が再び暗く沈む。しかし蠢き始めた影は静まらない。

 潤が目の前に持ち上げた右手を握り、そこに意識を集中する。ほのかに光る拳を少し離れた空中に集まりつつある塊に向け、気合と共に鋭く振る。立て続けに三つの火球が飛び、たちまちのうちに炎の塊に化す。

 火の術には様々な発現形態があるが、潤の場合は掌に生み出した火球を対象物に飛ばすというものであった。一発の威力はさほどのものではないが、かなりの連発がきくことと的中率の高いことが強みであった。

 耳障りな音を上げながら燃え尽きていく火の玉を紅珠が鋭い目で見つめる。

(術の火も効く、か。やはり)

そしてそのまま視線を素早く動かす。元々夜目の利く紅珠の視線が、扉の位置を確認する。

「リン様、ここに長居は無用です」

紅珠がカンテラで扉を照らす。その周辺にも黒い粒がわらわらと飛び回っているのが見える。その方向へ向けて紅珠がカンテラを構える。噴出した炎の帯が空間を薙ぎ、二人の進路を確保する。その隙に潤が扉へ駆け寄り、鍵のかかっていない扉を素早く開けて部屋を飛び出した。紅珠もすぐに後に続く。


 部屋を出ると急に視界が晴れた。板張りの廊下の向こうは中庭になっていて、天井のないそこは、今夜の満月に浩々と照らし出されていた。

 庭は美しく彩色された柱を持つ回廊に囲まれていた。庭の真ん中には大きな鉄鍋のようなものが備えられていて、そこには赤々と炎が燃やされていた。そして回廊にはいくつかの扉が見え、中にシンプルだが明らかに上質の細工の施されたものがあった。おそらくあれがこの屋敷の主人、矸氏の私室であろうと潤は思った。

 閉鎖された部屋から出たせいか、先ほどまでのような重苦しいまでの息苦しさは薄れていた。虫の羽音やうなり声のような音は続いていたが、室内でない限りは虫が集ってくることはないようで、不気味さは残るものの、廊下の方が気持ちはいいようであった。

 紅珠が廊下の欄干をひらりと乗り越えると、中庭に下りた。品良く刈り込まれた緑の下草を踏んで庭の真ん中に近付く。

 鉄鍋のようなものはおそらく香炉のようで、複雑な文様や線刻が、表面に繊細に刻まれているのが遠目からでもよく分かる、明らかに上等なものであった。鍋底は半円形で、やはり金属の台の上に設置されていた。

 炎の熱気が紅珠の肌に触れる。中で燃やされている木材は、恐らく何らかの香木であろう。そして多分この屋敷中に充満しているにおいと煙の原因。凶暴ですらある刺激の強い甘ったるさと一種の爽快感、草の香り、目や喉の粘膜を刺激する苦味、そしてどこか肌にべたつく異質な粘性。

(何が燃やされているんだ?)

 においや煙は分かる。しかしかといってこれだけの強烈なにおいと空気を作り出すのは、一体どういった種類の香木なのか。少なくとも、彼女は今までここまで強烈なものを体験したことはなかった。吐蕃よりはるかに多種類の香料を、生活の多くの場面で用いる西国にいたときも、これほどのものはなかった。では一体、ここにあるのは何だというのか。

(確か、香りは触覚以外の感覚全てに作用する。…吸いすぎると感覚も狂わされる、か。香りは浄化、攻撃、守護、刻印、誘引、それから…結界、か)

 では一体ここは何を目的としてこんなに香煙を発生させているのか。何の、ために?

 とりあえず、この香煙がこの空間に何らかの影響を及ぼしているのは間違いがなく、少なくとも二人の行動に制限を与えているのは確実である。

「消してしまいましょう」

「大丈夫なのか?」

「少なくとも、この広すぎるともいえないこの屋敷の敷地内だけの結界です。さほど複雑な結界が張られているとは思えません。何かを封印している結界ならともかく、これは空間を仕切るためだけの結界。一部が綻びれば、弱体化するはずです」

「しかし、どうやって?」

「まずは…香炉を破壊。それから、念のために凍結させてしまいましょう」

 紅珠が言いながら腰の剣を鞘ごと抜いた。それは彼女の二つ名ともなっている長短の双刀ではなく、中途半端な長さの、両刃の短剣のようで、今夜の彼女はこれ一振りしか身に付けていないようであったのが、潤には意外であった。

「いや、まて。重量もありそうだし素手で破壊するのは危険だ」

 鞘ごと振りかぶった剣を香炉の脚に向けて構えようとする紅珠を、潤が止めた。そして香炉に向けてやや離れて構えると、軽く握った両手をゆっくりとそろえて持ち上げ、目の高さで止める。全身の力が両拳に集中し、じわじわと熱く、そしてほのかに光り始める。

 潤は自分を一つの道具と想定する。大気中には無数の力の粒子が無秩序に漂っている。もちろん人間の体の中にもそれらは存在する。体内と体外の力の粒子を同調させ、体内に体外の力を引き寄せて取り込み、増幅させる。そして増幅された力を、自らの体と腕を通し、拳の先から一気に放出する。そのイメージを固定する。

「連打――炎弾!!」

気合を込めた言葉と同時に、術が発動する。合わせて前に突き出された両拳から無数の炎の弾丸が打ち出され、香炉に打ち込まれる。

 程なく脚が破壊され、盛大な音とともに香炉が地面に叩きつけられる。半円の金属器から丸太の香木や油のようなものが撥ね飛び、周囲にぶちまけられる。消えきらなかった炎は、宙を舞う油に引火し、一瞬広範囲を明るく照らした。

 そこへ、紅珠が一歩進み出る。

 握られた右の拳を顔の前まで持ち上げると、ゆっくりと掌を広げる。現れた透明なクリスタルが、炎を映して薄赤く染まった。そして軽く手を翻して指先に摘むと、そっと口付ける。

「術具『氷涙』――発動。全てを凍らせろ」

言葉と同時に紅珠がクリスタルの術具を投げる。術具が宙で砕け散りながらまばゆい光を放ち、空気を真っ白に染める。潤が思わず目を覆っている間に、真っ白な空気にびしびしとヒビ割れが走る。それは辺りを完全に包み、宙に舞った油の飛沫や丸太の香木に白く霜が走る。

 がらがらと盛大な音を立てて全てが地面に落ちたとき、そこには真っ白な氷の塊と、下草を覆い尽くす霜だけの、冷えた空間に一変してしまっていた。






 凍りついた庭を横切って再び回廊に上がると、二人は黒い木の扉の前に立った。

 他の部屋の扉が、完全に飾り気のない木の扉と、来客用の極彩色に彩られたものであるのに比べると、この扉はいかにも重厚で、威厳すら感じられた。沙南地方の建物様式では、この矸氏の屋敷はどちらかと言うとセカンドハウスなどによく見られる、来客の接待を目的とした機能の建物のようであった。その場合、住宅の表部分が応接室や来客の宿泊用の部屋に当てられ、家人の使用スペースは家の裏面や、もしくは階上部分になる。しかしその家人のスペースの中でも主人の部屋だけは来客対応も想定されていて、重要な客人はむしろ主人の部屋で迎えるのが礼儀ですらあった。そしてそういう場合、部屋の内装は分かりやすく区分されている。決して派手ではないものの明らかな高級さをもつこの部屋の構えは、間違いなくこの屋敷の主人のものであることを示していた。

 紅珠が無言で腰の剣を抜き、左手のカンテラを、確認するように握り直した。潤ももしもの時にはすぐに対応できるよう、身構える。

 そっと紅珠が手を伸ばし、扉の表面に触れる。予想していたような感触も衝撃もなく、指先が滑らかな扉の感触を確かめるように数度撫でる。それからぐっと力を込めて掌を扉に押し当てた。やはり異質な感触はなく、ただ木の扉の重量がずしりと感じられた。

「では…」

 紅珠が確認するように潤に振り向く。潤が無言のまま頷いた。頷きを受けて、紅珠が扉を開く。鍵のかかっていない扉はするりと開き、一瞬の間を空けて、黒い塊が盛大な羽ばたき音を上げて噴き出してきた。

「……うわ!」

念のため扉からやや離れて構えていた潤が思わずつぶやく。

 黒い塊が扉から出て、ぶわりと拡大する。月光に照らされて、端から散り散りと分裂し、そして闇へと溶け込んでゆく。

(なんという数の虫が……!)

 口元を覆う布の上から更に口許を押さえながら、潤が呆然とその様を見上げる。例え無害な虫であったとしても、これだけの量の中に飛び込めば、普通の人間なら気がおかしくなりそうだと思った。

 扉を開けた紅珠は開けきった扉の影から様子を確認しつつ、カンテラの光を室内へ向けた。やはりこの部屋も灯火がないらしく、部屋は完全な闇に沈んでいて、カンテラの光程度では充分に照らすことはできなかった。しかしその光の中にも、うごめく黒い影ははっきりと認めることができた。明らかに、今までの比ではない数が、この部屋の中に集っているのが分かる。

(室内だからうかつに火を出すわけにもいかない。多少の『闇』封じは考えていたけれど、この状況では場を設定するのも簡単にはできなさそうだ…)

かといってこのまま室内に踏み込めば、身動きできなくなりそうな気がする。

 どうするべきか、とっさに妙案が思いつかず考えあぐねている紅珠に潤が気付いた。

「私が火球で中の虫を焼くか?」

「いいえ、それは危険かと…」

「火力の調節はきくぞ?」

「ええ…ですが、もし中に…」

 紅珠が心配しているのは、この部屋に矸氏とその妻がいるのではないかということである。この状況ではまともに中に人がいられるのは難しいとは思いつつ、可能性が最も高いのはこの部屋だと彼女は思っていたのである。であるから、軽率な行動は取れないのである。

「しかしこの量…もしかして、ここが発生源なのか?」

 いまだにひっきりなしに扉から跳び出てくる羽虫の姿を目で追いながら、潤が呆れたように呟く。紅珠もふと虫の姿を逆に追い、すぐ脇の開口部に視線を止めた。そのとき、ちょうど止めた視界に一匹の羽虫が飛び込んできた。まっすぐ目に向かって飛んで来るそれを、紅珠は反射的に掌で叩き落とした。羽虫は空中で体制を崩したが、すぐに何でもなかったように不規則に動き回りながら飛び去っていく。

 その様子を視線で追いながら紅珠は先ほど見たものを思い返す。黒い体に半透明の翅が4枚。棘のあるやはり黒い肢が6本。そして?そこまでは、どこにでもいる、それこそ生物が生きるのに厳しい沙漠でも、他の生き物のいる場所なら必ず存在する、水気と腐肉を好む黒い羽虫。紅珠もその虫は見慣れていた。しかし今見えたものは?

「…リン様、確かめたいことができました」

 紅珠が潤に視線を向けながら言った。





 潤が慣れた仕草で掌に火球を生み出した。そしてそれを慎重に操り、かざした掌の上、30センチほどのところで止める。

「少しの間なら空中に止めておくことはできる。だが試したことはない。せいぜい3分も止めておければいい方だと思うぞ?」

「結構です。それと…それは、純粋な「火」の能力ですね?他の要素から派生させる炎ではなく」

「ああ」

ふわふわと宙に浮く火球はゆらゆらとオレンジ色の光を振り撒き、やがて潤の掌に戻ると、溶けるように消えた。

「ではいくぞ」

「いつでも」

 潤が再び構えると、今度は先程よりもやや大きめの火球が現れる。掌より少し大きめのボールのようなそれを、まるで本当のボールのように構えると、潤がくるりと身体を捻る。そしてその勢いを乗せた腕を大きく引き、掬い上げる要領で火球を部屋の中に高く投げ入れた。

 部屋の中央辺りの天井まで飛んだ火球がふわりと止まった。急に明るくなった室内で、羽虫のうなりが一際大きくなり、ばさばさばちばちと混乱して暴れる音が聞こえてくる。

 そんな室内を確認するように一瞬扉の影から覗きこんだ紅珠が、一旦呼吸を整えると、姿勢を低くしながら身体を翻して一気に室内に飛び込んだ。出口を目指して無茶苦茶に飛び回る羽虫が足下や肩を掠めていく。その不快感に耐えながら紅珠は素早く視線を室内に廻らした。やはり先ほどの部屋とは比べ物にならない数の羽虫が室内にはいたが、やはり天井付近に留まっているものの方が圧倒的に多いようであった。それも、宙に浮いたまま明々と光を放つ火球から逃げるように、じりじりと角へ寄っていく。

 その様子を確認してから、紅珠は右手を天井へ突き上げた。その手には先ほど中庭で使ったものと同じような透明なクリスタルが――今度は台座とそれにつなげられた鎖とでアクセサリーのように美しいものであったが――灯火を受けてきらりと煌めいた。

「術具――『氷涙』。邪悪のものを凍らせ動きを止めろ」

 紅珠の「命」に従い、氷結の術を封じ込められた貴石から真白な光がほとばしる。光は一瞬遅れて空間そのものを凍えさせる冷気へと変え、びしびしと音がするほどの急激さで周囲のものを巻き込んで白く凍らせていく。





 紅珠自身は氷の術を使うことができなかった。一応一通りの訓練は受けたので、術に関する知識は一般の術士に劣らないものを持っていたが、行使する適性はなかったのだと彼女は諦めている。しかし基本的に一人で仕事をする傭兵稼業を選ぶ以上、まったく術力のサポートなしというのは、この世界では著しく不利であった。そこで、彼女は多種多様な術具を所持し、戦闘のサポートとして使うようになったのである。

 この氷結の術を封じ込めた術具「氷涙」は、透明度の高いクリスタルに氷結の術士が能力を込めたもので、様々な大きさや形のものがあった。中庭で使ったものはほとんど原石に近い状態のものであったが、今使っているものは平常時に装飾品として身を飾っても全く違和感がないように作られたものであった。また、石を使った術具は、石が壊れない限りは何度でも術力を補充して使うことができるので、紅珠が一番愛用するタイプのものであった。





 ざらざらと細かい砂粒が降り注ぐような音と、びしびしと何かが裂けるような音が室内に吹き荒れる。

 局地的な猛吹雪を受けて、宙に浮く火球が不安定に炎を揺らす。

 白と赤と黒が室内をめまぐるしく彩り――そして炎が耐え切れずに吹き消えた時、凍て付く吹雪もふっと止んだ。

 おもむろに腕を下ろすと、石の様子を一瞥してからふうっと紅珠が息をついた。

 潤がカンテラを掲げながらそっと室内に入ってきた。カンテラの灯りに照らされた室内は、先ほどとは一変した姿となっていた。

 天井から壁にかけて分厚く歪な氷がそこかしこに盛り上がり、白く霜を吹いたような表面とは逆に、氷の奥には無数の黒い粒が封じ込められていて、どす黒い塊に覆われた室内は、先ほどとは多少違う意味で、やはり不気味であった。

 足下は薄く氷が張ったり霜が下りたりしていて、歩くたびにばりばりと音がしていたが、特に不便はない程度であった。しかし冷気で体の自由を奪われた羽虫たちが足の踏み場もないほど落ちていたので、やはりどう見ても不気味で気持ちの悪い部屋ではあった。

「大丈夫か?」

「はい、お気遣いいただきありがとうございます」

 紅珠が微かに微笑んで潤を見上げてきた。術を使用する場合、効果範囲内にいる人間に無差別に影響を及ぼしてしまうことが多々ある。それは行使する本人も含めての場合のことが多い。しかし今回の場合、紅珠には何ら影響は及んでいないようであった。黒い闇色の装束に頭の先から肢の爪先までを包んでいるその姿のどこにも、霜の欠片さえ付いていないようであった。

 紅珠が術具をしまい、再びカンテラを取り出して明かりを点ける。そのまま床から凍えて動きを止めた虫を一匹摘み上げると、カンテラと一緒に目の前にかざす。冷静な彼女の表情が驚きに歪む。

「リン様、これを…」

 紅珠に呼ばれ、潤も恐る恐る彼女の指先に注目する。黒なめし革の手甲に包まれた指先に摘まれた半透明の翅。通常の羽虫よりも二回りほどは大きそうなその虫は、大きさを除いては4枚翅も6本肢も黒光りする胴の形も、特に異常はなかった。しかし決定的に違ったのは、その頭部であった。

「何だこれ…!人間!?いや、人間ではないが、いやしかしこれは……」

 黒光りする胴体とは明らかに異質な肌色の頭部に、ぎょろりと見開かれた、恨めしささえ感じさせるような眼は、黒目の昆虫のものであったが、今にも瞼を落としそうなほど、その形状は人間の顔に似ていた。口許は皺を寄せながらすぼまっていたが、口の隙間から覗く湾曲した黒い歯はむしろ羽虫の面影を残していた。頭頂部付近には短い黒い毛のような触覚のようなものがまばらに生えていて、左右横側には人間の耳のような形の器官も付いていた。そういった中途半端な融合具合が、尚更その虫の気持ちの悪さを増していた。

「ここで断言するのは危険かもしれませんが…間違いなく、これは自然の生き物の姿ではありません。闇によって不自然に生み出された生物……」

 紅珠の声はあくまでも冷静に紡がれていた。しかし表情は堅く、顔色も悪かった。

「お前の言う、「闇の眷属」のもの、ということか?」

潤の言葉に、紅珠は無言で頷いた。

「…やっかいだな」

潤の呟きは同意を求めているもののようにも、独り言のようにも、どちらにも取れるものであった。紅珠は黙っていたが、胸の中はいいようのない不安感に苛まれ、本当は居ても立ってもいられなかった。本能に正直に従うならば、一目散にこの場所から逃げ出したいところであった。彼女をここに留めるものは、ただこの事件の真相を暴きたい、暴かねば、その使命感だけであった。

「…そう言えば、この部屋には結局誰も居なかったな」

 潤の声に、はっと紅珠が顔を上げた。明らかに言葉の調子を変えた潤の意図は、すぐに紅珠にも伝わった。

「そうですね、リン様の火球でも、この部屋に人影は見当たらなかった。収納も特に見当たりませんから、隠れる場所というのもなさそうですね」

「では、この奥…か?」

言いつつ、潤が自分のカンテラを部屋の奥に向けた。

 二人が立っているのは部屋の入口近くに設けられた椅子やベンチなどの置かれた、来客との会談に使用されているのであろうスペースであった。

 そのスペースとの境を示すためか、細い衝立が置かれ、その向こうに重厚な紫檀のテーブルと布張りの椅子が備えられているのが見える。近付いてみると、筆記具や何かの書類、何巻もの書籍が積み上げられており、恐らくこれがこの家の主人、矸氏の書斎であろうと推測できた。紅珠は無言で机の上の書籍を一つ手に取った。西方のものか、あるいは大都のものか、厚い表紙が付いた綴じられた本であった。軽く中身をぱらぱらとめくった後、再び紅珠は表紙をじっと見つめる。どうやらどこかの国の見聞録のようであった。

 そのとき、ごとりと籠もった音がどこからか聞こえてきた。

 二人の間に一斉に緊張が走る。素早く紅珠が音のした方に視線を遣り、更に奥の部屋に続く扉を見つけ出した。

「――誰かいるのか?」

 軽く扉を叩いて中に呼びかけるが、返事はない。そっと紅珠が扉の取手に手を伸ばし、一気に引いた。





 奥の部屋は明るかった。油皿、というよりも燭台に近い物が部屋の四隅に置かれ、そこに明かりが灯されていた。他の部屋の様子に比べると、その明るさはむしろ異常なほどであった。虫もいるにはいたが、数は少なかった。もっとも、先ほど隣の部屋を凍りつかせた冷気がこちらの部屋にも影響を及ぼしてしまったようで、寒さに弱いらしい虫の力尽きた姿が床の派手な柄の敷物の上に無数に落ちていた。

 部屋の真ん中には大きな寝台が設置され、品の良い薄絹が天蓋として掛けられていた。恐らくこれが夫婦の寝室ということになるのだろう。そしてその寝台の脇に、女が一人倒れ伏していた。





 潤と紅珠二人がかりで女を部屋の外へ担ぎ出し、吹き抜けの中庭に面した回廊に座らせた。

 女はなかなか品の良い装いの、ふくよかな女性であった。年齢は量りがたいが、多分初老といった年齢ではあるように思えた。矸氏の奥方は若くて小柄で細身の美人だというもっぱらの噂であったから、少なくとも彼女ではないことは確かであった。ではそれ以外で、上品で都風の装いの抜けきらない女といえば誰か。奥方の結婚の際について来た侍女ではないかと考えるのは、ごく自然なことであった。

 しばらくして目を覚ました彼女に身元を問うたところ、やはり奥方の乳母であり、結婚の時に一緒に沙南公国にやってきた人であった。

 事情を聞こうとする潤であったが、彼女は弱々しく泣くばかりで肝心なことには口を開かなかった。

(さすがだ。ある意味従者の鑑ではあるな)

そう紅珠は思う。しかし返せばそれは、矸氏夫妻に、矸氏の妻に、人には言えないほどの何かがあるということでもあった。それさえ分かれば今は充分だと彼女は思う。

「リン様、行きましょう。後は恐らく奥方の部屋です」

紅珠の言葉に、女性の肩がびくりと震える。紅珠はそれを見なかったふりで再び部屋に戻ろうと踵を返す。

「いや、少し待ってくれ。彼女をここにこのまま置いていくわけにはいかないだろう」

しかしそんな紅珠を潤の言葉が止める。

「…大丈夫でしょう。彼女はこの家の者です。身の処し方は私たちより心得ているはずです」

「そうかもしれん。だが彼女は現に今動けない。お前も言っただろう。ここでは今何が起こるかわからない。彼女の保護は必要だ」

 潤の意志は固かった。彼としては理由は様々にある。だがどういう者であれ、この沙南に住んでいる者は、彼にとって護るべきものであった。彼は西公であったから。それは彼にとって決して譲れないものであった。

 紅珠が眉を顰めながら、しばらく何かを思案していた。やがておもむろに腰のポーチの一つを探るといくつかのものを取り出した。そして何をするのかと見つめている潤に言った。

「申し訳ありませんが、あなたのカンテラをお返し願えますか」

 潤からカンテラを受け取ると、紅珠は一旦火を消し、油壺を取り出した。そして小さなナイフの先をそれに浸すと、それでいまだ床にへたり込んでいる女性の回りにぐるりと円を描いた。最後にそのナイフを床に突き立てると、再びカンテラに火を点け、円の中、女性のすぐ側に置いた。カンテラの上蓋は開けられ、自然勢いよく炎が燃え上がる形となる。

「至る所結界だらけのこの中でどれほど効果があるかは分かりませんが、ないよりはましでしょう」

 紅珠が言って、潤を見上げる。潤としてはまだ心配ではあったが、確かに今ここでぐずぐずしているより、やるべきことがあるのは分かっていた。

「いいですか、ここにいてください。必ず戻りますからね。動いては駄目ですよ」

もう一度女性に言い含めると、潤は立ち上がり、紅珠の後に続いて部屋に戻った。




 寝室の奥の小さな扉から出ると、そこは再び薄暗い場所となっていた。ただ、所々に小さな明かりが灯されており、どうやら細い廊下であるらしいことは分かった。

「奥方の部屋はどこだと思いますか?」

「普通に考えるなら、主人の部屋の隣か、もしくは建物の正反対側――というのが一般的なのだが」

「裏からでは、見た目では分からなそうですね…手当たり次第開けていくしかないのでしょうか」

 二人がいるのは、従業員用のいわゆる裏通路であった。普通客人はもちろん、通常は家人すらも使用することはない、完全に下働きの者だけが使用する通路であるため、沙南の住宅には慣れている潤でも、勘が働かなかった。かといって、手当たり次第に開けていくのも時間がかかるし、なによりまた虫の大群に襲われるかと思うと、あまり歓迎できなかった。しかしそう言っていても埒が明かない。

「リン様、術力はまだ大丈夫ですか」

「ああ、大したことはない」

「では、申し訳ありませんが、灯りの代わりのためにも、いくつか火球を飛ばし続けていただけないでしょうか。清浄な、純粋な炎を示し続けることで、不浄なものを寄せ付けなくすることはできましょうし、結界の代わりにもなりましょう」

紅珠の言葉に、潤が引っ掛かりを覚える。

「そういえば、その清浄な、とか純粋な、というのは何のことだ?どうやらここの屋敷に用いられている結界も炎が関連しているのだろう?違いが分からないのだが」

 潤の疑問はもっともなものであった。しかし、紅珠としても今はあまり余裕がなかった。

「これが終わりましたら――ご説明いたします。と申しましても今は私も推測の段階です。この事件の当事者が捕まりましたら、もちろんその者に白状してもらう方がよろしいでしょうが」

紅珠の言葉は珍しく笑み交じりのもので、何となく潤の口許も弛んだ。笑う余裕を持ったことで、潤は気持ちが切り替わったのを感じた。





 潤の操る火球のおかげでやや明るくなった廊下を歩むうち、紅珠はふと周囲のにおいが変わったような気がした。

 焚き染められた香のにおいはどこまで行ってもなくなることはなかった。先ほど中庭の香炉は破壊したが、それ以外の場所でもきっと焚き続けられているのだろうということは分かっていた。しかし一つずつ消していってもどうしようもないだろうと紅珠は思っていた。なぜなら結界は今も『閉じられた』ままであるし、また、発生した香煙はそうそう消えはしない。恐らく、香そのものが何らかの術、もしくは結界そのものである現状、即この状況を改善させる策はないのである。できるのはせいぜいが、自分自身がその術に惑わされないようにすることくらいである。

 しかしそんな香のにおいの中に、ふと異質なにおいが混じっているような気がしてきたのである。

 紅珠はしばし迷った末、そっと口の中の石を取り出した。それから慎重に息を吸い込んでみる。

 煙の成分が喉と鼻の粘膜を強烈に刺激する。これを普通の人間が吸い込んだら、一瞬で呼吸系統が爛れてしまうのではないかと紅珠は思う。しかし幸か不幸か、彼女はある程度の毒性に対応する身体を持っていた。別に特別ありがたい体質だと思ったことはなかったが、常に戦場に身を置く職を選んだ時には、初めてありがたいと思ったものであった。

 粘膜を刺激する成分は、植物から抽出される成分がほとんどであるようだった。その中にある一種の粘性を伴った感触は、恐らく獣脂の燃えた成分であろう。そしてそれによく似ているが、ある意味全く似ていない臭いが、確かに感じられた。香のにおいほど強烈な刺激はないものの、ひどく不快で嫌悪感を催す臭い。その臭いを発するものの正体を連想して、紅珠は喉の奥で苦い息を飲んだ。

 意識を集中すると、一見閉鎖されて澱んでいるようにしか思えない空気に、微かな流れがあることに気が付く。それは、移動し続けている自分たちが起こすものだけではない。確かに、向かう廊下の先から、ほんの僅かに空気が流れ込んでくる。そして、紅珠の気になる臭いは、その空気に僅かに混じってきているのである。

 紅珠は数歩後ろを歩いている潤に、目的地が分かったと告げ、歩みを速めた。





 廊下の角を曲がるとすぐ目の前が突き当りであった。そしてそこに小さな扉があった。

 紅珠は石を再び口の中に戻し、剣の柄に片手を掛け、何があってもすぐに対応できるよう身構えた。潤には火球の数を増やして周囲に漂わせてもらうことにした。更に潤は意識を集中し、両の手に術力を貯めておくことにした。

 紅珠の黒革の手甲に包まれた指がそっと伸び、慎重に扉を開けた。

 扉が開け放たれた瞬間、濃厚なにおいがほとんど空気の圧縮された塊となって廊下に噴き出てきた。水気と粘性の伴った、薄白く煙った刺激性の強い、甘く苦く、そして――もう疑いようのない、生臭さと腐臭の混じった、凶暴なにおいの塊。

「誰だ!?」

 鋭い――とはとても言えない、しわがれた、しかし、聞く者の鼓膜を不愉快にこする、誰何の声が上がる。潤は一瞬、それが誰の声なのか分からなかった。しかし、すぐにそれが政務中に何度かは聞いたことのある、矸氏のものであることに思い至った。そしてその声に含まれる、記憶には全くない濁った陰鬱な響きに、背筋を走るものを覚えた。

 潤が立ちすくむ内に、紅珠がまるで平然とした足取りで室内に踏み込む。一瞬唖然としかけたが、潤もすぐに気を取り直して慎重に部屋の中に入った。

 室内は明るく、先ほど奥方の乳母が倒れていた部屋とよく似ていた。部屋の四隅に燭台が備えられ、オレンジ色の炎が揺らめいている。部屋の中央には天蓋付の寝台が備えられている。そして垂れ落ちる天蓋の布を透かして見える寝台の上には、人が横たわっていた。たくさんの花や植物、一見しては何かよく分からないたくさんの物がその人物の周囲を囲んでいるようであった。そして寝台の向こう側で、立ち上がる黒い影がある。寝台を回りこんで姿を現わしたのは、初老の男、潤の記憶違いでなければ、この家の主、矸氏その人であった。

「…あなたが、矸氏ですね?」

 潤が何か言うより早く、紅珠が人影に問いかける。

「いかにも。わしはこの家の主人だ。お前たちは何者だ?お前たちのような客を呼んだ覚えはない。どこから入ってきた?」

 確かに声そのものは矸氏のものに違いないと潤は思った。全員、とまではさすがにいかないものの、潤は役人の名前と容姿、話し声程度は大体覚えていた。前西公であった彼の父がやはりそうしていて、そうやって部下を把握することが、彼らを大事にすることの第一歩だと教わってきたからであった。だから潤が西公を継いだとき、まず真っ先に役人全員を把握することから始めたのである。

 矸氏は確かに役職はさほど高くはなく、従って西公と矸氏が直接政務の上で対面することはそうなかったが、何といっても古い名門の貴族である矸氏とは、仕事以外でも関わる機会はあり、当然のことながら面識は随分あったのである。

 しかし、今目の前にいる男は、潤の記憶にある矸氏とは違う男のようですらあった。侵入者を誰何する声は耳に響くほどの大声であったが、驚くほどに生気が感じられず、恐ろしいほどに陰々滅々とした声音であった。

 表情にも驚くほど精気が感じられなかった。よく言えば無表情。より正確に表現しようとするなら、無感情。少し前までは、多少の皺やたるみはあっても肌艶のよかった顔は、今は眼の周りがどす黒く落ち窪み、無精髭の生えた頬と口許はげっそりと削げ、隠しようのない深い皺が刻まれていた。

「何があった…!」

 思わず潤は叫んでいた。紅珠に身分を偽っていること、そして何より西公という沙南の重要地位を帯びている以上、この件で目立つことはするまいと堅く心に戒めていたはずであったが、状況のあまりの異常さに、行動を抑えることができなかった。しかしそんな潤の耳に、更に信じられない言葉が飛び込んできた。

「……誰ですかな?ここは我が屋敷。しかもここは我が屋敷で最も神聖なる場所。招かれもせぬ客人がいてよい場所ではない。早々に出て行かれよ」

「な………!!」

 思わず絶句してしまった潤の視界に、紅珠の背中が割り込んでくる。

「お前は、何者だ?」

紅珠の言葉に、潤は一瞬何を言っているのか分からなかった。潤の気持ちに同調するように、嘲るような声が返る。

「我の話が聞こえていないのか?それとも理解できないのか?」

「黙れ。偽りの言葉などいらん。お前には残念なことだが、私は『お前』を知らん。『お前』の身分が何であれ、そもそも私には関係がない。『お前』が振りかざそうとしている権力など、はなから私には通用せぬ。私にとって『お前』は少し歳をとった唯の男だ。それ以上の意味などない」

潤は思わずまじまじと紅珠を見つめてしまった。確かに彼女は砂漠の民の一員であり、彼らは世俗の常識から少し離れた世界で独自のルールの中で生きている。それは理解していたつもりであったが、改めて目の当たりにすると、その「砂漠の民」としての姿勢は、思っていた以上に異種のものであった。

「――小生意気な小娘だ」

 男の表情が初めて歪んだ。どす黒く染まった顔が憎々しげに眉と口許を顰める。錯覚ではあるが、まるで黒い瘴気がその体から発散されているように、潤には見えた。

「――そもそも、なぜこのようなところへ来た。どうやって入り込んできた。ここは神聖な場所。わしと我が妻の二人だけの場所だ。何人も入る許可を与えた覚えはない。早々に立ち去れ」

「―――神聖な、場所?」

紅珠が静かな声で言葉を返した。

「そうだ。可哀想に、今は眠ることしかできぬ。だが、もう心配はない。術は間違いなく執り行われた。直に妻は目覚める。そうしたら妻に笑顔も戻る。それで全て元通りになるのだ」

潤には彼が何を言っているのかよく分からなかった。だが、無意識に不吉な予感を覚えた。自然と視線が、天蓋に覆われた寝台へと向く。寝台に横たわった人物は、周囲でこれだけ騒がしくしているにもかかわらず、ぴくりとも動く気配がなかった。

「―――元通り?」

再び紅珠の静かな声が紡がれる。

「そうだ。長かった――。妻は美しかった。花の様な笑顔が、何よりもよく似合った。わしは妻のためなら、何でもやった。妻の部屋も、都の職人を呼んで作らせた。衣裳も大都で一番人気の職人を呼んできた。食べ物の味が合わないと言うので、料理人も変えた。妻が火晶様に憧れていたので、香料も買い集めた。屋敷中に香炉を置くことも許可した。香の焚き方を教わるための教師も呼び寄せた。妻が活き活きとし、笑顔でいることがわしの喜びであったのだ」

「――――火晶、様?」

「そう、火晶様だ――妻は、大都にいるときから御妃様に憧れていた。衣裳も、髪型も、お好きな遊びも、全部真似したいと言っていた。髪の色まではさすがに似せることはできなんだが。だが、華やかに装った妻は、火晶様よりも、わしにとっては美しいものであったのだ」

「――そんな、大事な妻を、おまえはどうしたんだ?」

 淡々とした問答に耐え切れなくなった潤が、声を上げた。紅珠が一瞬驚いた表情をしたが、すぐにその表情は消えた。

「―――妻は、眠ってしまったのだ」

「眠った?」

今度は間髪をいれず、紅珠が返す。

「そうだ――可哀想に。あんなに楽しみにしていた祭にも行くことができなかった。だから、せめて、たくさん花を持ってきてやった。大好きな火晶様のお話も聞くことができなかった。だから、御妃様がお好きだというものは何でも取り寄せた。御妃様が新しい衣裳を披露されたというので、同じものも作らせた。眠ったままの妻に、着せてやった。火晶様もたいそうお美しいと聞くが、わしの妻はそれ以上に美しいのだ」

 潤は、微かに透ける天蓋を、今度はじっと凝視した。萎れた花束、西国か北方か、少なくとも精巧な技術で作られた金属器らしきもの、装飾品。それらに囲まれて、華やかな彩りの布の塊。そして――布に埋もれるように、覗く、どす黒い、色――?

「眠って、しまったのだな?」

紅珠の声が、響く。張り上げても、荒げてもいない。しかし不思議にどきりとするような凛とした声音が、その場の空気を変えようとすらするようであった。

「そうだ――眠った。眠ってしまった、のだ。笑、顔、が。もう。眠っ、て眠り、につ、い、て。はな、が。あ、か、ね、むってしまっ、て。妻は、眠って。おこっ、て。ねむ、だか、だか、わし、お、こす、た、ねむ、つま、が、つ、まを―――」

「―――妻を?」

紅珠の声がその場に響く。冷たく、涼やかに、そして何者にも犯されぬ、厳しさと気品すら漂わせて。

「う、う、つま、ね、え、あ、あ、ご、う、う、ウ、う、うえああああああアアアああああアオおお!!!!!」

 ばりばりばり、と何かが破れる。声にならない音が悲鳴となって空気を引き裂く。びりびりと何かが破れる。怒号が空を裂く。ばりばりがりがりと何かが裂ける。声にすらならない咆哮が室内の調度をがたがたと震わせる。

 潤は自分の目が信じられなかった。目の前の男の顔が真ん中から裂けていく。人間の肌がまるで粗悪な紙のように不規則に引き伸ばされ、ぶちぶちと繊維の引き千切れる音がする。人間の体がありえない形に膨れ上がり、みちりと引き千切れた皮膚がびちゃりと床に落ちる。ぎりぎりと何かが軋み、どこかでごりり、とくぐもった音が鳴る。

 ばりばりばりばり。人の皮が剥がれ落ちる。そして替わりにそこに現れたのは、暗緑色にぬめるつるりとした肌。ヒビ割れのように連なる、肌に刻まれた溝。鼻先へ向けてなだらかに細まる顔の輪郭、小さく開いた二つの鼻穴。楕円形にぱかりと開かれた瞼のない眼。濁った黄色の、真ん中に細く針のような瞳孔の、双眸。かぱりと開いた唇のない口から覗く、紐のように細く、毒々しいほどに赤い、先が二つに分かれた、異常に長い舌。そう、それは既に人ではない。

「へ……ヘビ!?」

 思わず潤が悲鳴を上げる。自分自身の悲鳴が耳に入ってから初めて、それがみっともないほどに裏返っているのに気が付き、これ以上はないほどに屈辱を感じる。かあ、と体中に走る熱で、潤は冷静さを取り戻した。

「ナまいキナコむスめがあアアアアアア」

奇妙な音がヘビの口からほとばしる。鋭く水蒸気の漏れるような音が立て続けに起こる。

 蛇頭の男が強く床を蹴って跳びかかる。潤がとっさにその場を飛び退る。壁際まで下がって、彼は意外なものを見た。紅珠が一歩も動いていない。棒のように立ち尽くす紅珠に、宙に躍り上がった蛇頭の男の腕が伸びる。大きく振りかぶった腕が横なぎに紅珠を殴り飛ばす。

「!紅珠!!」

吹っ飛ばされた紅珠の体が、しかし数歩たたらを踏んで踏み止まる。その眼前に男が着地する。反対の腕が再び横なぎに唸り、紅珠の頭部を狙う。寸前で紅珠が屈む。空を切った腕が、向きを変えて再び紅珠に襲い掛かる。しかしそのとき既に紅珠は身を低くしたまま床に跳び、ごろごろと転がってその場を脱する。寝台の足にぶつかって止まった紅珠が、素早く立ち上がる。しかしそのときには既に蛇頭の姿が彼女の目の前にあった。

 とっさに紅珠は後ろへ跳んだ。天蓋の布が巻き込まれ、ぶつりと千切れて床に落ちる。

「オオオオオオオおおおおおお!!!!!!!!」

蛇男の口から奇怪な咆哮が上る。

「何をする何をする、何をををおおおおおおおお!!!!!」

寝台の上で一回転して、紅珠は身体を起こした。ひどい臭いに息が詰まる。足の下に幾重もの布の感触。そしてゴリゴリとした何か細長い、堅いもの。

(ああ、やはりそうだったか)

紅珠は一瞬だけ強く目を閉じた。そしてゆっくり視線を横に向ける。

 赤、桃、黄色、緑、青。彩り華やかな綾錦。牡丹、薔薇、藤に極彩色の鳥模様。室内の灯火を受けて美しい光沢に輝く、豪奢な衣裳の山のその向こうに、黒く波打つ長い髪。その中に埋もれる、土気色の、人の顔。

「やめろやめろどけえええええええエエエ!!!!!!」

凶悪な怒号が部屋をびりびりと震わせる。床を踏み鳴らす音、天蓋であった布の引き千切れる音。しかし男は寝台の上の紅珠には手を出してこない。視線を合わせただけで相手の息の根を止めんとする勢いだが、寝台には手を出せないのだ。なぜなら、そこが「矸氏」にとっての聖域であったから。

 土気色に萎びた人間の顔。元は美しく化粧が施されていたものか、所々に剥げた白粉や頬の辺りに残る桃色の跡。落ち窪んだ眼窩は虚ろに黒々と闇を湛えている。半分溶け落ちた唇の隙間からは、白い歯列がのぞいている。きっと、生前はたいそう美しかったのだろう。整った顔の造作は、腐敗の始まった今でさえ、端整さを損なっていない。

「――お前は、妻を蘇らせたかったのだな」

 紅珠の静かな声が密やかに響く。蛇頭の男が限界まで開いた喉の奥から奇怪な音を迸らせる。壁際に立った潤は、ただ呆然とその様子を眺めていることしかできなかった。

「おおおおおおおオオオオオオをウォをオオオオオオ……!!!」

 男の怒号に奇妙な音が混ざり始める。

「ドけええエエエエエエ!!!!!!!!」

男が腕を振る。空を走りながら腕が異様に長く伸びる。紅珠が仰け反るようにかわし、そのまま後方に宙返り一回転で床に着地した。その姿に向かって、男が床を蹴って跳ぶ。寝台を飛び越えながら振りかぶった腕が再び異様に伸びながら紅珠を狙う。しかしそのとき既に紅珠は寝台から離れて充分間合いを取っていた。ぐっと腰を落として身体が半身に、両手で腰の剣を掴んで構える。

「おおおおおおお!!」

 紅珠が細く息を吐きながら気合を吐く。

「おおおおお!!」

低いところから高いところまで跳ね上がった声と共に息を吐き切る、その瞬間に剣を構えた手が素早く動いた。下段から逆袈裟に紅珠の剣が鋭く走り、確実に空中の男の身体を捉える。

「ああああああ!!!」

最後の気合を吐き切りながら、紅珠が思い切り剣を振り抜く。踏み込んだ右足が力一杯捻った身体を支え、残身をとる。

 鋭い悲鳴を上げながら宙で男が吹っ飛び、寝台で一回跳ね、飛び越えて向こう側へ落ちる。遅れて血の帯が床の絨毯から寝台のシーツに飛び散る。

 床で動かない男に、潤が油断なく近付く。片手は腰の剣にかけ、すぐにでも抜ける体勢である。

 数歩の間合いからそっと仰向けに倒れている男をうかがう。元矸氏であった蛇頭の男は、びくびくと全身を痙攣させていた。右の腰から左肩まで真一文字に切り裂かれた衣服には、どす黒い血が滲んでいた。致命傷ではなさそうだが、決して無視できないダメージを与えているであろうと潤には思えた。

「リン様、油断はしないで!」

 紅珠がやはり油断なく剣を構えながら寝台を回りこんで近付いてくる。その姿に潤が一瞬視線を遣った、その瞬間。奇怪な声が部屋中に響き渡った。ばさりと布の翻る音がして、蛇頭の男が跳ね起きていた。

 紅珠が瞬時に間合いを詰めて剣を繰り出す。首筋を狙った剣筋は僅かに男が避けるのが早く、浅く切り裂くだけだった。しかし再び男の奇声が迸る。横合いから潤が切りつけたのである。左肩を深く切られた男は、再び床を蹴って逃げる。一瞬にして二人の間合いから逃れた男は、しかしさすがに平気というわけではなさそうであった。

「覚えておれええエエエエエエエエエ!!!!!」

 ぐっと一瞬身を屈めた男が、床を蹴って跳ね上がり、天井を破って外へ飛び出した。人間ではありえない跳躍力と破壊力を見せた異形の男は、奇怪な鳴き声を残しながら、二人の前から姿を消していった。





***





 後日、正式に矸氏の屋敷に沙南政府の調査が入った。その結果、矸氏の妻が、寝室で遺体となって発見された。遺体の状態はひどく傷んでおり、少なくとも死後3~4ヶ月は経っているであろうと見られた。死因は、結局わからなかった。腐敗の進んだ遺体に新しい衣裳が着せられていたり、寝台に横たえられた遺体の回りをたくさんの花や装飾品が囲んでいたりしたのは、妻が死んだと認めたくない夫の愚かな、しかし哀しい行為だと推測された。屋敷中には息苦しいほど香が焚き染められていたが、それは恐らく遺体の腐敗臭を隠すためのものだったのだろうと思われた。

 矸氏の姿はその後どこにも見つからなかった。沙南の街中はおろか、周辺の山狩りまで行われたものの、行方は知れず、完全に足取りは消えていた。事件の起こった夜、屋敷の屋根の上で奇怪な悲鳴を上げる男の姿が周辺の住民によって目撃されていたが、それはとても矸氏の姿には見えなかったと、証言者たちは声を揃えて訴えた。人間であったとすら思えない、何らかの化け物であったに違いないと。しかしいかんせん何の証拠も見つかっておらず、その正体を調べることは困難であった。確かに屋敷の屋根の上にはどす黒い血痕が残っていたが、それだけであった。

 矸氏の屋敷に勤めていた者たちは、事件後まるで何かの憑き物が落ちたかのように呆然としてしまっていた。数日後、ぽつぽつと正気に戻った者たちから事情を聞き集め、ようやくここ数ヶ月矸氏の屋敷内で起こっていたことが明らかになっていった。

 矸氏の妻が屋敷内で姿を見られなくなったのが、今年の5月の始め頃。はっきりとした日付は、誰にも分からなかった。矸氏はしばらく陰鬱な様子であったが、しばらくすると急に活き活きとし始め、何やらたくさんの物品を取り寄せ始めた。いずれも矸氏自身が直接注文をしていたようで、屋敷に勤める人間たちは、荷物を受け取って初めて、矸氏が何かを購入したことを知る有様であった。

 またこの頃、奥方の乳母も行動が奇妙であったと、幾人もの証言があった。元々奥方を大変可愛がっていた乳母は、彼女の趣味に相当付き合っていたようで、衣裳の工夫や香の使い方なども、奥方と二人一緒に楽しんでいたことが分かっている。奥方が姿を見せなくなってから、乳母もほとんど人前には姿を見せることがなくなっていた。たまに屋敷の表に出てくるときは、たいてい矸氏と一緒であった。

 尚、この乳母は、事件後、屋敷の中で無事保護された。しかしついに一言も口を開くことはなく、一週間ほど後、自殺しているのが発見された。彼女が何を知っていて、具体的に何を為していたのか、とうとう何もわからずじまいとなってしまったのである。

 今後も姿を消した矸氏の捜索と、屋敷内の調査は続けられることとなったが、何とも言えず後味の悪い、不気味な事件であった。




     *****




 その日、紅珠は珍しく完全に休暇日であった。とはいえ、何もやることがないわけではない。

 先日の事件で使った武器の手入れや術具のメンテナンスもしなければならないし、物資の買出しも必要である。幸い身体的な怪我は異形の男に殴られたところくらいであり、それも寸前で殴り飛ばされる方向へ自ら跳んだために、ジャストミートしなかったことが幸いであった。軽い打撲程度の傷は、すぐに治るであろう。

(打撃と言えば……やはり、まだまだ私は駄目なままだな………)

自嘲の笑みに紅珠の唇が歪む。

 あのとき、紅珠は全身が竦んでいた自分自身を、しっかり認識していた。目の前で『闇』の本性を文字通り現わした敵の姿に、紅珠は身体が動かなくなっていた。意識はかろうじて正常を保っていたから、すぐに逃げなければいけないこともきちんと分かっていた。しかし意志の力ではどうしようもない不可解な恐怖感が、身体の自由を奪っていたのである。

 実は彼女がこうなってしまうのは、今回だけのことではない。以前、外法の術士と戦った時も、一瞬体が竦んでしまい、食らわなくてもいい攻撃を食らった経験が、彼女にはある。

(一体何だと言うのか。確かに闇神の眷族は怖いけれど。たかが虫や爬虫類など怖いと思ったことなど今まで一度もないのに)

 確かに『闇』は怖い。だがなぜ怖いのか、彼女にはその原因が分からなかった。かといって戦うたびに身体が竦んでしまっていては話にならない。事件の真相を突き止める前に、彼女の命の方が危なくなってしまうであろう。

(何とか対処法を考えねば…)

 彼女がそう思っているところへ、部屋の扉がノックされた。決められた合図で叩かれる音に、紅珠は多少の警戒をしながら扉に近付く。そっと扉を開けると、そこには今回の事件の依頼人の姿があった。





「すまんな。休んでおったのか?」

 部屋に入ってきた潤が、外套のフードを脱ぎながら紅珠に微笑んだ。

「いえ、それよりよいのですか、こんな時間に」

紅珠が椅子を勧めながら、ちらりと窓の外に目を遣る。外は明るい。やっと昼近くなった頃であろうかと思われる。いつもリンと名乗ったこの依頼者が紅珠の部屋を訪ねて来るのは日も暮れきった深夜であったため、こんな明るい時間に顔を合わせるなど、恐らく初めてのことであった。

「ああ、今日は私も休みなのだ。何しろここ数ヶ月ほぼ休み無しであったからな。侍医が怒って仕事禁止令が発令されてしまったのだ」

 潤の言葉に、紅珠は瞬きをする。

「…お怪我でも?」

「いや、働きすぎなんだそうだ。せめて一日は安静にしていろと言われた」

いっそ朗らかに言う潤に、むしろ紅珠の方が頭痛を覚えた。

「――で、一日安静の方がなぜここにいらっしゃるのですか」

「仕方ないであろう。今日を逃したらまた自由な時間などなくなる。そなたにはきちんと会っておきたかったのだ」

潤が紅珠を正面から見つめる。一瞬で表情を変えた潤は、明らかに深夜の繁華街で声をかけてきた「お忍びで遊びに来た貴族のぼんぼん」ではなくなっていた。

「――今更、と思うかも知れぬが。聞いてよいか」

「どうぞ。私に答えられることでしたら」

「いつから、気付いていた?」

「初めからです。声をかけられたときに」

 簡潔に省略されすぎた質問に、やはり簡潔に紅珠が答える。

「……なぜ?」

「なぜと言って…あなたはこの沙南の街では有名人ですから。公式な視察もたびたび行われていますね。そしてよく市井の言葉を政治の場まで汲み上げている。西公・珪潤といえば沙南の市民に、それから周辺の村人たちに大層人気がありますよね。私も何度か街中にいるあなたをお見かけしたことがあります」

「ではなぜ、言わなかった?」

「あなたにはあなたなりのお考えがあるのだろうと思いましたから。それが例え、私を試すことであったのだとしても、それならそれに乗ってみようと思いました」

「……そうか」

 確かに潤は紅珠を試していた。噂ではたびたび聞いたことのある、砂漠の女戦士、紅珠。今まで引き受けた仕事はいずれも完全に成功させ、今では彼女一人を旅の供とすることができれば、どんな悪党の巣でも野獣の棲息地でも無傷で切り抜けられるとさえ言われている。傭兵稼業に身をやつす数多の人間たちの中で、彼女の評判はとび抜けて高いのである。だから、一度でよいからこの眼で評判の戦士の仕事を見てみたいと思っていた。そしてできるなら、自分の、西公の、ひいては沙南の力になってもらいたい。そう考えてもいた。

「しかし、それはお互い様でもあるのだろう?」

 潤が微かに笑った。

「そなたも私を試していたのではないか?」

「なぜ、そう思われますか?」

「何となくだ。――そうだな、強いて言えば、何度も私に意見を求めてきた。そなたの行動の、決定権を私に与えていた。そなたの普段の仕事振りを知らないのに勝手なことを言っているかもしれないが、そなたにはそなたで、もっとやりやすい方法があったであろうに。むしろ、私を現場に連れて行かない方がもっとそなたの仕事もやりやすかったであろうに。確かに私は行きたいと希望はした。だが、それを押し切ってそなた一人で行くことはできたであろう。違うか?」

紅珠は明確に答えなかった。だが微かに微笑んでいるところを見ると、恐らく潤の言っていることは見当違いではないのであろう。

「――で、どうだった?」

「――さあ、どうなのでしょうか」

紅珠が笑う。

「少なくとも、一日安静を言い渡されているのにこんな町外れまで忍んでいらっしゃるのは、自己管理ができていないということになるかと思いますよ。人の上に立つ者としては、下の者を大事にすることはもちろん大切なことですが、それ以上に自分自身が健康でいないと、結局部下を困らせることになりますからね」

紅珠の笑顔は、今まで彼女からは見たことのない類のものであった。整いすぎるほどに整った顔が、自然に弛む。明るいところでよく見ると瞳が紫色で、その不思議な色合いはただ見ているだけで引き込まれそうに思えた。白いシンプルな異国の上着を簡単にはおるように着崩して、下は市井の女性がよく着ている柔らかな素材のズボン。黒い衣装しか見たことのなかった彼女のその姿は、彼にとっては大層新鮮で、そしてより好感が持てるものであった。

「――私は、あなたのことが気に入りましたよ」

 だから、潤は素直に告げることにした。

「――それは、どういう意味で?」

紅珠が密かに口調を変えた。じっと形の良い双眸がまっすぐに潤を見詰める。一見すると黒く見える彼女の濃い紫色の瞳は、例えようもなく綺麗だと思えた。この世界に存在するどんな宝石よりも澄んで美しく、常に凛とした、強い意志の籠もった視線は、聖山の高峰に棲むと言われる女神もかくやと思わせる魅力と気品を感じさせた。

「あなたともっと一緒にいたい。あなたのことを、もっと知りたいと思っています。できるならば…」

卓の上で組まれていた潤の右手がすうっと動き、やはり卓の上に乗せられていた紅珠の手を取った。軽く掴んで持ち上げて、そのまま手の位置を入れ替えて、上向けた掌を彼女の掌と重ね合わせる。そして軽く力を込めて合わせた手を握った。

「近い位置で」

紅珠が口角を僅かに上げた。そして潤に手を握らせたまま席を立ち、静かに彼の横に歩み寄る。潤が見上げると、見下ろしてくる紅珠と視線が合った。紅珠の長い黒髪が肩から流れ落ち、さらりと潤の肩に触れる。僅かに翳った顔は柔らかく微笑んでいる。紅珠の自由な方の手が優しく潤の肩に触れる。そうしておいて、紅珠が軽く身体を傾けた。陶磁人形のような女の顔が潤の視界の至近にある。しかし陶磁人形にはない熱と柔らかさが、その女にはあった。

 一旦離れた唇が、再び近付いてくる。今度は角度を変えて、微かに湿った柔らかさが潤の唇に押し付けられる。肩に乗せられていた手がするりと滑って、潤の後頭部に巻き付けられるように移動し、軽く力が込められる。潤の足の脇に、柔らかで温かい感触が割り込んでくる。椅子に座る潤にのしかかるような姿勢で、紅珠が口吻けを重ねる。より密着した体を支えるため、潤は握っていた手を離し、両腕で彼女の腰を抱いた。

「……こういう意味で、間違ってなくて?」

 唇が触れそうな位置で紅珠が鮮やかに笑む。

「……間違っていないどころか」

潤も彼女に笑い返す。

「察しがよすぎて思う以上だよ」

 潤が紅珠の身体を引き寄せる。柔らかく舌を絡ませ、深く唇を重ねていく。紅珠の指が潤の頭をなぞり、結った髪の根元から首筋へと滑らせる。潤の腕が強く紅珠の腰を引き寄せ、もう一方の手がその形を確かめるように、彼女の背中をゆっくりと撫で上げていった。






     *****






 一週間後。沙南公国の新役員体制が発表された。

 軍制にも多少の変化があった。中でも注目を集めたのは、傭兵を集めた軍団が正式に沙南軍の一師団としてつくられたことであった。そしてひとまずその団長として任命されたのは、砂漠の女戦士として名の知られた、紅珠であった。

 後に沙南公国第18師団、別名光華隊と呼ばれるものの、これが始まりであった。

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