1.吐蕃の緑の宝石
吐蕃皇国三公国の一つ、沙南公国の西公・珪潤の朝は早朝の祖先神への礼拝から始まる。
これは彼ら珪一族の習慣であると同時に、沙南公国の統治者・西公としての重要な行事でもある。
沙南の町の中心に位置している沙南公国府、通称「雲水城」は西公の邸宅も兼ねており、その中の最も神聖とされる中央部に礼拝所はある。
潤は捧げ持ってきた供え物――今朝は何種類かの果実と蒸留酒――を祭壇に供え、特殊な香草を一つまみ燃やす。それから祭壇の前に跪いて短い祝詞を挙げる。
子供の頃から父に教えられ、身につけてきた既に物慣れた行事。目を瞑っていても全ての所作は完璧にこなせ、意識しなくても言葉は自然と口から紡がれる。彼らの住まう土地を守り、豊穣を約束する大地の神への、日々の生活の安寧を、神と同化している祖先たちの霊への魂の平穏を祈念し、生きている子孫への守護を願う。
これは沙南公国の統治者として、その中心民族であるユン族の頭領として、この地方とこの地に住まう全ての人々を守るという、「西公」の責務であり、最も根源的な存在意義を示す行事であった。
(そうだ、私は西公。そしてユン族の頭領。この国と、この国の人民を守る責務を負う者。なのに、私は…)
くゆる香の煙の中、霊廟の朱塗りの格子の扉の正面で跪き、珪潤は祈り続ける。そして問い続ける。神に、祖先神に、そして――
(私は、何を為せばよい。私は、何を為すべきだった?)
*****
沙南公国西公・珪潤はこのところ政務に忙しくてろくに休む暇もない。
それもそのはずで、沙南公国軍大将軍であり副公でもあった珪節と宰相・景朔林を一度に喪った沙南公国政府は相当な痛手を蒙っていた。
珪節は軍の人間たちからのみならず、その明朗快活な性格が公国民たちからも広く愛されていた。そんな彼が死んだという事実は、公国民たちに深い悲しみを与えた。
加えて、景朔林を喪った公国政府は、軽い混乱すら生じていた。彼は、沙南のみならず吐蕃皇国全体の歴史に詳しく、法学にも優れた知識を有していた。また政治的な判断力に優れ、先代の西公の頃から沙南公国政府において大きな信頼と尊敬を寄せられていた人物でもあり、公国史上最も優秀な宰相と呼ばれていた。また人柄は厳しいながらも穏やかで、珪潤、節の兄弟にとっては、もう一人の父親のような存在でもあった。
そんな景朔林を欠いた沙南公国政府がそれでも今現在機能しているのは、皇公会議出席のために国を空ける間、政務が滞らないようにと景朔林が割り振っていた臨時のシステムが、機能し続けているからであった。
公国軍の大将軍にはとりあえず珪潤が就任した。この役職には、節の前には彼が就いていたので、特に職務上の問題はなかった。しかし沙南公国では西公と将軍職を兼任することは前例がなく、また現在西公本来の職務が多忙を極めており、当分それが解消されることはないと思われるため、どうしても無理は出ることと思われている。
しかし宰相の後任は、適任者が現在のところいなかった。文官の中から選ぶのが筋かとは思われるが、何しろ前任の景朔林が優秀な人物であったため、どうしても他の人物では物足りなく思ってしまい、軽々しく誰かを任命するわけにはいかなかったのである。仕方なく、現在は宰相無しで沙南公国政府は動いていた。
昨日王都・大都から、皇公会議の後最後まで残っていた沙南公国の随行の官僚たちが、皇の使者を伴って沙南へ戻って来た。副公・珪節と宰相・景朔林の遺骨を運んできたのである。
彼らの死体は死因を調べられるため、すぐには故国へ戻されることがなかった。そして、彼らが死んだのは8月の末。当然遺体を保存しておくことは困難で、また、『転送門』も既に閉ざされてしまった後であったため、陸・水路で沙南まで運ばねばならず、やむなく大都で荼毘にふされたとのことであった。
二人の遺骨を受け取った珪潤は、しかし単純に悲しむわけにはいかなかった。二人にかけられた嫌疑は有耶無耶にされたとはいえ、それはつまり完全に晴れたわけではないということで、であるからこそ、正式な手続きも踏まず、骨だけが故国に届けられたのである。当然盛大な葬式を挙げることも叶わない。かといって、犯罪者を扱うようにもできない。それは、沙南公国として彼らの罪を、ひいては西公の謀反心を肯定することとなってしまう。
それで丸く収まるとする意見がないではない。しかし、西公として、珪潤として、それだけは決してできなかった。
「節も朔林も、そのような邪な心を持った者ではない。例え、万が一、琇倫殿の誘いを受けたのだと仮定しても、決して、節も朔林もそのような話には乗らぬ。彼らは潔白だ。これだけは、譲れぬ」
皇の使者を戻した後で、潤は政府内の主だった官僚を集めた席で、そう語った。
「節と朔林の名誉のため、ひいては沙南公国のため、私は決して彼らを、そしてこのたび命を落とした者を、決して罪には問わぬ。そしていつか、彼らの名誉が取り戻されることを…願う」
潤の声音は抑えられたもので、決して内心の悲嘆をうかがわせるものではなかった。しかし抑えられた冷静な声であるからこそ、その秘められた激情は威圧力となり、その場にいた全ての人間の心を捉えた。
言葉を切った西公に、その場にいた全ての人間が無言で最敬礼した。それは、この歳若い西公に、改めて全員が忠誠を誓った証しでもあった。
その後、通常の政務報告が交わされた。
政府役人の欠員補充について発言していた文官筆頭の珪髄が、ふと思いついたように、そういえば、と言った。
「少し前から矸氏が登庁してきておりません」
「矸氏?ああ、そういえばここ最近ずっと、体調が悪いと言っていたな」
矸氏というのは沙南公国の文官であった。沙南公国の古い名門貴族の家柄で、代々沙南政府に仕えてきた。現在の頭首は初老の人物で、特に際立った才能があるわけではないが、生真面目な性格と堅実な仕事振りから、珪潤も彼のことは高く評価していた。
矸氏は夏の初め頃から体調不良を訴えていた。潤も彼の姿を何度か見かけたが、顔色も悪く、どことなくぼうっとした表情をしていたため、気にはなっていたのである。
一応、体調不良のためしばらく休暇がほしい、との届出はあったとのことで、特に不審なことがあるわけではないが、一応お伝えしておきます、と珪髄がその話は締め、それも含めた欠員補充を行うことの承認を西公に求めた。西公・珪潤に否やのあるはずもなく、許可を与えた。
***
その夜、珪潤が屋敷を抜け出したのは単なる気まぐれだった。しかし彼が「単なる気まぐれ」が似合わない人物であり、そういった意味の警戒が薄かったため、彼自身意外に思うほど、街に出るまで何の妨害も受けることがなかった。
沙南の夜は王都・大都ほどではないが、かなりの賑わいがある。というのも、この国は交易路の一つである「砂漠の道」の東側の終点に当っており、年中たくさんの旅人が行き来しているからである。
都市の防衛上、夜間には城門は閉ざされる。しかし沙漠を旅する人間には夜が明ける前に出発する者がいたり、夜通し沙漠を歩いて沙南に辿り着いたりする者も多い。彼らを全て門によって締め出してしまっては、反対に治安も保てなければ、沙南の主要な経済活動である商業も発展しない。そこで、沙南公国では、城壁が基本的に二重構造になっている。
沙南の町の中心に「雲水城」、この周囲を大きな楕円形の土壁が囲み、更にその周囲を三重の堀が囲んでいる。その堀で区切られた区画毎にエリアが分かれていて、内から住居区、商業区、農耕区、となっている。この農耕区と商業区の間に、もう一つの壁がある。この壁は堀の中に造られており、更に壁の中が回廊になっていた。夜間に沙南に入国しようとする者は、この壁の中の回廊に迎えられ、そこで朝を待つのである。
現在この回廊城壁はちょっとした町のようにも発展している。城壁であるため、門以外の窓や開口部はあまり大きくとられてはいないが、絶妙に取られた明かり採りからの外光と、昼夜問わず灯される明かりで内部は意外なほど明るい。宿屋や医療機関などもきちんと整えられているが、眠らない商人たちによって、商談が行われていたり、むしろを敷いたスペースで商売を行っている者もいる。そして沙南の住民のみならず、周辺の町や村からやってくる人々相手にも普通に商業活動が行われていたりするのである。
回廊城壁だけではなく、城壁内の商業区でも、繁華街は深夜遅くまで賑わっている。ただ、こちらは回廊内とは違って終夜営業は許可されていない。潤がふらりと紛れ込んだ街は、完全に出来上がった機嫌の良い酔客や路上でパフォーマンスを見せる芸人たち、細々したものを路上に並べて売る商人たちで、混み合っていた。
地味な平服の潤は、ぶらぶらと街路を歩いた。
繁華街に来たからといって、特に彼に目的があるわけではなかった。また、しばしば市内を視察している彼は、特にこの沙南中で珍しいところがあるわけではなかった。
ただ、眠れなかった。しかし余計なことは何も考えたくなかった。
無性に、顔見知りに会いたくなかった。
完全な衝動で、しかし人の気配だけは恋しくて、だから繁華街に引き寄せられたのかもしれなかった。
陽気な酔客の集団の脇をすり抜け、ほのかな明かりのランプを灯した露天商の前を通り、おいしそうな匂いと喧騒が漏れる酒場の前を抜け、ふと気がつくと潤は、道の交わる場所に設けられたちょっとした広場にたどり着いていた。
しゃらりん
不意に潤の耳に涼やかな音が響いた。
音の方に目をやると、数人の人が見つめる中心で、一人の芸人が舞を披露していた。
幅広の剣がきらりとどこかの明かりをはじいて煌めく。
ひらりひらりと空を切り、硬質な金属が優雅に弧を描く。
たん、と足が地面で拍を打つと同時に、りりん、と甲高い鈴の音が鳴る。
夜闇の石畳に映える白い足首に金色の小さな鈴のたくさん付いた輪が揺れる。
くるりとターンをするとひらりと衣装の裾が翻り、ふわりと脚を覆う。
くい、と傾けられた顔が潤に向けられる。一瞬ぎくりとしたが、すぐに偶然だと潤は内心自身を哂う。
弱い明かりに照らされた陰影の濃い表情は、白い肌の色を際立たせ、揺れる長い髪の毛が乱れて双眸を隠す。しかし垣間見える大きなくっきりした瞳の影の深さが、妖艶さすら醸し出していた。
(剣舞…というやつか?これが)
伴奏も唄もなかった。女は一人、夜の石畳の広場で、ただ舞っていた。
腕や足を振るたびにしゃらしゃらと鈴が鳴り、それが舞に合わせた音楽を紡いでいた。
じゃらん
一際高い音で女の体に付いた鈴が鳴り、しん、と女が動きを止めた。
ぱちぱち、と広場中から拍手が鳴る。俯いて動きを止めていた女がゆっくりと顔を上げた。
白い顔の中の、硬質な美貌がゆっくりと瞼を開ける。濃色の瞳は、ガラスのように光をはじいて見えた。やや肉厚の形の良い唇が、きれいな紅に彩られていた。長い黒髪がやや乱れて顔に、身体にまとわり付いていた。
黒いチュニックは体のラインをきれいになぞり、その裾から柔らかそうな布が足首まで垂れ下がっていた。
胸元や腰、脚や腕、至るところに金色の細い鎖や玉、鈴などをつらねた装身具が光っていた。
(そうか、砂漠の民の芸人か)
沙南公国では「砂漠の民」はあまり珍しい存在ではない。何といっても、吐蕃皇国内で最も沙漠地帯に近い土地であり、商人や旅人と同じくらい、砂漠の民も沙南公国を通って、吐蕃皇国を出入りし、彼らの商売をしているのである。
沙漠地帯に住む人間と同様、沙南公国の人間は一般に砂漠の民に対して、一種の畏敬の念を抱いている。それは、その集団の力に対する無意識の恐怖心は否定すべくもないが、それ以上に、厳しい環境の中であえて生き、かつそこで生き抜く知恵と技術を身に着けた彼らに対する尊敬心の方が強かった。そして様々な場面で周辺の住民と係わり、時にその生活の中で編み出した様々な技術や知識を提供してくれる彼らに、親愛の情も抱いているのである。
沙南公国と沙漠の周辺の集落は、吐蕃皇国の中でも最も「砂漠の民」に対する抵抗心の小さな地域なのである。
現に、潤の祖母も砂漠の民から嫁いできた人物であった。
そして潤は吐蕃皇国の重要な官吏として、また沙南公国の頭領として、砂漠の民の主要な人物の幾人かは把握していた。そして、彼女の容姿と剣の形、そして舞を能くすること、その条件を満たす人物に心当たりがあった。
(そうか、彼女が砂漠の民の傭兵、『沙漠の女戦士』紅珠か)
しゃらりん、再び夜空に澄み切った鈴の音が鳴り響いた。
くるりと翻る長い髪の毛が、きらきらと光を反射して、まるで光の帯のようだった。
剣を持った腕がだらりと下がり、全身がゆらりと風にしなる柳の枝のように揺れる。その軌跡が、まるで赤い陽炎のように潤の眼に残像を残した。
まるで炎のような人だ、と潤は思った。
(ああ、なるほど、噂通りに―――美しい)
*****
深夜の沙南の街はしんと静まりかえり、しっとりとした闇に包まれる。
沙南の夜の灯火は、日が暮れて四時間もすれば落とされて物音も控えられる。緊急時以外は錠をかけられることのない回廊城壁は、例外的な場所なのである。
夕餉の匂いも一家団欒の賑わいも収まった一般住宅街を、音もなく一つの影が歩いていた。
柔らかな夜風になびく、黒い外套、脚の形をぴったりとなぞる黒革の長靴、頭部を隠すように巻かれた黒絹の布。細身のその姿は、夜の闇の一部のように、静かに、街路を進んでいた。
ふと、黒い影が足を止めた。目元を覆う布をずらしながら、油断なく視線を動かす。
(今、物音がしたと思ったが…)
表われた紫色の瞳が、ゆっくりと周囲を見る。強い視線は目に映る全てを記憶に焼き付け、更には見えないものまでをも見出そうと、全ての感覚を鋭敏にし、張り詰めさせる。
しばらく彼女はその場で周囲をうかがっていたが、ややあって、ふ、と軽く息を吐いて、緊張を少し解いた。
(気配が散らばりすぎている…やはりこれは無理があるだろうか…)
思わず天を見上げてため息が漏れる。晴れ渡った夜空に浮かんだ、微かに欠けた月が、彼女の濃い紫の瞳を美しく煌めかせた。
吐蕃皇国首都・大都を脱出して以後、彼女――紅珠は吐蕃皇国内であるものを探し、調査し続けていた。いや、実際に調査を始めたのは、それよりも以前――今年の3月に沙漠周縁の街、禾峯露でとある事件に巻き込まれて以来であった。
禾峯露に通常の仕事の途中で訪れた紅珠は、そこで思いがけないものに出会った。一見蝙蝠の姿に似た、凶暴な三つ目の化け物“三眼飛鼠”である。
彼女はその存在のことを知っていた。知ってはいたが、そんなものを実際にこの目で見ることができるなど、考えたことがなかった。知ってはいたが、そのような存在が実在するとは確かに聞いていたが、本当のことだとはどこか信じていなかったのかもしれない。まるで悪夢が現実になったかのような気分、というのがその時の心情を最も的確に表している言葉であったろう。
なんとか三眼飛鼠の襲撃を収めた後も、彼女の中に疑問が残った。
なぜ、こんなものが現れたのか?
なぜ、この土地に現れたのか?
そして、最も深刻な疑問。
「誰」が「何の目的で」こんなことを起こしたのか?
そう、彼女が追っているのは、最近吐蕃皇国内で頻発している異形の化け物、「闇」に関する事件なのである。
禾峯露の事件の後始末を終えた後、彼女は吐蕃皇国領内を歩き回った。まずは沙漠地帯の街やムラ。「砂漠の道」を東から西へ辿って、吐蕃皇国領を出た先、ほとんど南の商業国家カジャルの勢力範囲であるアーシェバードにも足を運んだ。そして今度は黄白山脈の西側を抜けて北の草原地帯へ出て、同じく大陸横断通商路である「草原の道」を辿り、4月の終わり頃に中央の吐蕃王国、首都・大都へ入った。
どこも異常気象に見舞われていた。そして――異常な事件が起こっていた。その規模や影響は大小あれど、いずれも「妙な事件があった」程度ではあった。しかし一点、不可思議なこともあった。
紅珠は、その疑問を抱えたまま6月初めに大都を出て、再び沙漠に入った。それから再び旅を続けて、沙南公国へ入ったのは9月の初め。それからしばらく彼女はこの国に拠点を置いて調査を続行していた。
「それにしても…」
気配を探るのを諦めた紅珠が、ふっと視線を和らげた。
「沙南というのはなかなか良い国だな」
改めて言うのもなんだとは彼女自身思うが、こんな夜でさえ、穏やかな気持ちにさせられる都市は、なかなかないと彼女は思う。
沙南公国は吐蕃皇国でも有数の豊かな国であったが、また同時に治安の良さでも有名であった。それはこのような、交易で潤い、かつ多民族の出入りの激しい国としては、珍しいことであろう。おそらく、元々の住人の性質が穏やかであることや、回廊城壁のような施設にも見られるように、居住環境の安全性と旅人の利便性の双方が考えられた国づくりが、上手く機能しているというのが、現在の穏やかな沙南公国を形成している理由といえよう。
実際、沙南公国は安全で穏やかな土地であった。紅珠が本業の傭兵ではなく副業――というよりは特技である踊りをこの土地での飯の種にしているのは、この国ではあまり傭兵の需要がないためであった。
紅珠はそもそも定住地を持たない移動民族である、「砂漠の民」の一員である。
砂漠の民は定住地も持たなければ国籍も持たない。民族全体の定職もない。砂漠生まれの生粋の砂漠の民も勿論いるが、ほとんどは様々な土地から様々な事情で流れてきた人間である。彼らの多くは、以前の生活で身に付けた技能を自らの生業として、各地で生計を立てている。しかし最も多いのは、傭兵であった。そして紅珠もその一人なのである。
彼女は幼い頃拾われて、砂漠の民の一員となった。
まだ幼かったため、当然何の技能もない。そういう場合、女なら芸能を身に付けるか、製薬の知識を身に付けて薬師となることが多いのだが、紅珠は自ら強く望んで、戦闘技能を身に付けた。男女の体のつくりの違いによる純粋な筋力の不足を補うため、術力を鍛えることも検討されたが、それは適わなかった。
術士となる人間は、ごく一部の先天的な能力者以外は、訓練次第でほとんどの人間が術を使うことができるようになる。ちなみに最も使用者の多い能力は「炎」で、一般家庭でも炊事や灯りを点けるのに気軽に使う者も多い。しかしそれを戦闘力にまで高めることができるのは、それ相応の高度な訓練が必要となるため、やはり限られた人間ということになる。
紅珠は、術を身に付けることができなかった。全く術力がなかったわけではなかったが、それは戦闘補助には全く不向きなものと判断された。
そこでその代わりに、様々な術具で全身を護り、適宜戦闘補助の術を込められた術具を使用する戦闘スタイルを確立させていき、現在の「沙漠の女戦士・紅珠」が出来上がったのである。
一方で、その容姿のよさと先天的な音感のよさ、戦闘訓練によって鍛えられた筋力による動きのよさから、舞の能力もすぐに身に付けることができた。そこで、身分を隠さなくてはならないときや、傭兵の仕事がないときには、舞で生計を立てているのである。
傭兵として、あるいはボディーガードとして、旅人や商人に従って各地を渡り歩き、戦う「沙漠の女戦士」。時に雇われて、ムラやマチを守るために戦い、或いは素性を隠して潜入する。必要に応じて舞いも披露すれば楽も奏する。目的を達成するためならたいていの武器は使う、それが紅珠の生き方であった。
***
祭がなくとも芸人で賑わうのは、大都も沙南も同様である。
大都よりもかなり南方に位置する沙南は、年間通して湿潤で穏やかな土地柄である。もちろん冬は相応に寒くなるが、大都ほどには寒くならない。ましてや夏の終わりの今は、日中はなかなか去らない暑さにうだり、日没後は少しだけひんやりした空気にしばしの涼を楽しむ、そんな毎日であった。
とはいえ今年は例年に比べて雨が多く、沙南の郊外や山中では豪雨による土砂災害の報告が相次いだり、畑の作物の成長に影響が出たりといった異常はあったが、それでも全体的にやはり沙南公国の人々は穏やかでのんびりとしていた。
街角で舞を披露する紅珠の噂はぽつぽつと口づてに広まり、徐々に観客も増えていた。
とはいえ、大都の春祭「春の燔祭」での大騒ぎのようなことにはならなかった。それは当然のことで、むしろこれくらいが普通だろうと紅珠は思っている。更に言えば、時間も場所もその日の気分で移動し、演目も、剣舞ということ以外はその時の気分によって変える、下手をすれば即興の荒削りな舞もある、とくれば、なかなか固定客などつかないだろう。もちろんそれを見越しているわけだから、それで構わないのである。大都のときのように目立ってはあまり好ましくないのである。
それでも観客の中に見慣れた顔がぽつぽつでき始めた10月の初め、さすがに冷えた風に秋の気配を感じ始めたある夜。
紅珠は一人の男に声をかけられた。
その男に声をかけられたとき、紅珠は内心驚愕していた。
その男が少し前から観客の中にいたのには気が付いていた。
何しろ異質であった。身なりこそ普通の庶民の着物に頭巾で、確かに目立っていたわけではなかった。よくいる酔っ払いでもなかったし、時折絡んでくるマナーの悪い客でもなかった。遠目から静かに舞を眺めている行儀の良い観客の一人である。
しかしいかんせん、挙措の節々に育ちの良さが現れていた。もちろん、これといって何があったわけではなかったが、商売柄、様々な人間に触れてきた紅珠からすると、その異質さは目立っていた。
簡単な言葉で言ってしまえば、「お忍びで庶民の中に紛れている貴族の若様」であったのである。
(それにしても意外に大胆な人だったのだな…)
舞を終えて引き取ろうとした紅珠を呼び止めた男の顔を見上げて、紅珠は内心の驚愕を押し隠したまま、とりあえず話のできる場所ということで、宿へと移動した。
「あなたを有名な『沙漠の女戦士』紅珠と見込んで、依頼したい仕事があります」
紅珠が沙南公国に滞在している間、定宿にしている宿の酒場で、男は重い口を開いた。
話しかけてきたときの男の様子から内密な用件であろうと判断して、酒場でも隅の、あまり他人に話を聞かれない場所に案内したものの、なかなかストレートな切り出しに、紅珠は少し固まった。
「…確かに私は紅珠ですが。今は多少事情があってお話の内容如何では依頼をお引き受けできかねます。それでもよければこの先のお話も伺いますが」
そしてどうしますか?という視線で相手を見据える。
相手の真意はどこにあるのか、見極めなければならないと彼女は思った。
深刻に助けを求めているにせよ、気まぐれにからかっているにせよ、対応には細心の注意を払わねばならない相手だと分かっていた。むしろからかいならある意味付き合いやすい。深刻な内容の方が様々に考慮せねばならないことが多い。内容を聞いてからでなければ自分の対応を決めることもできない。
「それと…あなたのお名前をうかがってもよろしいですか?差し障りがあるなら強要は致しませんが、名前も知らないままでは会話もしづらいので」
紅珠の言葉に、相手ははっと表情を動かしたように見えた。
「ああ、すまない…俺のことは、リン、と呼んでください。実はここ最近、この沙南の街中で変な噂が流れておりまして…それがどうにも気味が悪いものですから、調査をしてほしい、できればその原因を取り除いてほしい…と、そう思っているのですが」
そう言って、リンと名乗った男は、じっと卓を挟んだ向かいの紅珠の目をじっと見つめてきた。なかなか端整な顔立ちに、ややきつい印象のはしばみ色の瞳。年の頃は30代前半といったところだろうか。表情に影を落とすのは依頼内容に関するものであろうか、心に何らかの負荷を抱えていることを感じさせて、やや憔悴したようなのが、紅珠の気にかかった。