嘘。嘘。嘘。
ひとつめの嘘は、母についた。
「うん、一人で暮らしてる。ちゃんと食べてるよ」
スマートフォンを耳に当てたまま、私は流しに溜まった泡を指先で潰した。蛇口から落ちる水の音が、母の声に混ざって少し遠くなる。
水切りかごには茶碗がふたつと、箸が二膳。マグカップもふたつ伏せてある。ひとつは白地に青い線が一本入っただけのそっけないもので、それは私のだ。もうひとつは若草色で、縁が小さく欠けている。そっちが透のものだ。
欠けたところで唇を切るよ、捨てればいいのに、と一度だけ言ったことがある。透は、まだ使えるからと言って笑った。飲む時にカップをくるりと回して、欠けていない側に口をつけて。その仕草があんまり自然だったので、私はそれ以上何も言えなかった。
まだ使えるものを、捨てられない人なのだ。あの人は。
私のことも、多分。
「あんた、いい人いないの。もう二十九でしょう? お母さんがあんたの歳の頃には、もうあんたが小学校に上がってたんだから」
「知ってる」
「知ってるなら」
「いないよ」
口にしてから、これはふたつ目の嘘になるのだろうかと考える。考えて、いや嘘ではないのかもしれないと思い直す。
透は「いい人」ではない。少なくとも、母の言う意味では。
母の頭の中にいる「いい人」は、きちんとした会社に勤めていて、ネクタイの結び方を知っていて、休日には車を出してくれて、いずれ小さな箱に入った指輪をくれる男の人のことだ。母は生涯をかけてそういう男の人を探し、そのたびに少しずつ違う男の人をつかまえては、少しずつ違う形で失ってきた。
透は週に四日、港の冷凍倉庫で働いている。マイナス二十五度の庫内で、発泡スチロールに詰められた魚をパレットに積む仕事だ。車は持っていないし、ネクタイは一本も持っていないし、指輪なんて考えたこともないだろう。
それに、そもそも私たちは恋人ではない。
じゃあ何なのかと訊かれても、私には答える言葉がない。言葉がないものは、この世界ではないことにされてしまう。辞書に載っていない関係は存在しないのと同じなのだ。
だから私は、自分から無いことにしておく。先回りして無かったことにしておく。そうすれば、誰かに取り上げられる前に自分の手で隠しておける。それがいちばん、誰も傷つかない方法だと思っていた。
「今度そっちに遊びに行こうかしら」
「来なくていいよ。狭いし、何にもないから」
「海があるじゃない」
「海しかないの」
母はころころと笑い、じゃあまたね、ちゃんと食べるのよ、と言って電話を切った。今の恋人とうまくいっている時の、機嫌のいい声だ。母の声の温度で、私は母の恋の天気を知ることができる。子どもの頃からずっとそうだった。
スマートフォンを置いて顔を上げると、ベランダで透が洗濯物を取り込んでいた。
夕方の風が潮の匂いを運んでくる。この町の風は、いつもほんの少しだけ塩辛い。物干し竿にかかった透の白いTシャツが、ばたばたと旗みたいに鳴っていた。背の高い透は、竿に手を伸ばす時に背伸びをしない。その代わり、私の分のタオルを取る時だけ少し身を屈める。私が干したものは、私の背の高さに揃っているから。
「お母さん?」
窓を開けて透が訊いた。腕に抱えた洗濯物から、日なたの匂いがする。
「うん」
「なんて」
「元気かって。だから元気って言った」
透は、そっかと言ったきり、それ以上は何も訊かなかった。
私の「元気」にどれくらい嘘が混じっているのか、この人はいつだって正確に知っている。空が曇るより先に、雨の匂いを嗅ぎ当てるみたいに。知っていて訊かない。訊かずにただ洗濯物をたたみ始める。私のTシャツは三つ折りに、自分のは適当にふたつ折りに。
その優しさに、私は十四歳の時から寄りかかって生きている。
◇
透と私は一年だけ兄妹だった。
私が中学二年生になった春、母は透の父と再婚した。母にとっては、三度目の結婚になる。相手は市役所の近くで小さな印刷所をやっている人で、日に焼けた太い腕をしていて、初めて会った日に私の頭を撫でようとした。
私は反射的に身をすくめ、その人の手は宙で止まった。母が慌てて、この子人見知りなのよと笑ったが、違う。ただ、大人の男の人の手が、上から降りてくるのが怖かっただけだ。
その人の後ろに、学生服を着た背の高い男の子が立っていた。透という名前の高校二年生で、私を見てほんの少しだけ頭を下げた。挨拶というより、ここにいてすみません、というような下げ方。
川沿いの古い借家で、四人の暮らしが始まった。
新しい家族、という言葉の中に含まれている明るさのようなものは、最初の一か月で使い果たされた。母はもともと、家にじっとしていられない人だ。再婚しても、それは変わらなかった。スナックでのパートはいつの間にか週六日になり、帰りが深夜を回ることもあれば、朝になることもあった。
透の父はお酒を飲む人だった。飲まない時は無口で、少し不器用なくらいの人なのに、飲むと何かがその人の中で裏返った。最初は言葉だった。次は、テーブルを叩く音。そのうち物が飛ぶようになった。灰皿。リモコン。湯呑み。
あの家の台所には、若草色のマグカップがあった。後で聞いた話では、透が中学の修学旅行で買ってきたものらしい。ある夜、それが壁に投げつけられた。
その日のことを私は今でもはっきり覚えている。
母は仕事でいなかった。居間から何かを怒鳴る声と、物がぶつかる音が聞こえてくる。私は自分の部屋の押し入れに潜り込んで、布団の間で膝を抱えていた。息をするとその音が向こうに聞こえてしまう気がして、口を手で押さえて。
どれくらいそうしていたか分からない。やがて居間の音がやんで、廊下を誰かが歩いてくる気配がした。足音が、私の部屋の前で止まる。私は手のひらの下で息を止めた。
「七瀬」
透の声だった。襖は開かなかった。
「大丈夫だから」
大丈夫なことなんて、何ひとつなかった。私はそれを知っていたし、透もそれを知っていたはずだ。それなのに透は、襖の向こうで、ずっと小さな声でそう言い続けた。
大丈夫だから。
大丈夫だから、ここにいるから。
透は一度も、襖を開けようとはしなかった。開けて私を引っ張り出して、もう平気だよと言うことだって出来たはずだ。でもそうはせずに、私が自分で出てくるまで、ただそこに座って声だけを届けてくれた。
後になって思えば、それはあの家で私が受け取った、たったひとつのちゃんとした優しさだった。自分の場所に閉じこもっている人を、無理にそこから出そうとしない優しさ。
明け方、押し入れから這い出して襖を開けると、廊下の壁にもたれて透が眠っていた。膝の上に、欠けた若草色のマグカップを抱いて。
その年の冬の終わりに、母と透の父は別れた。理由はいろいろあったのだろうけれど、私には何ひとつ説明されていない。ある日学校から帰ると、母が段ボールに荷物を詰めていて、明日引っ越すからね、とだけ言った。
最後の朝、玄関で靴を履いていると透が見送りに出てきた。私たちはあの一年、必要なこと以外はほとんど口をきかなかった。おはようとおやすみと、醤油取ってくらい。
だから透がその時に言ったことを、私は十四年間ずっと持ち歩くことになる。
「七瀬、ひとりで大丈夫?」
私は頷いた。頷くことしか出来なかった。大丈夫じゃないとは言えない。十四歳の私は、まだ、本当のことを言うやり方を知らなかったから。
そうして私たちは、他人に戻った。
戻ったはずだった。
◇
それからの十四年を、うまく説明することはできない。
母は二年後に四度目の結婚をし、三年後にはそれを終わらせている。私は高校を出てすぐ家を出て、地方都市の雑貨店で働き始めた。人の顔色を読むのは得意だ。母の声の温度で天気を読んできたのと同じやり方で、店長の機嫌も、お客さんの欲しいものも、先回りして察することができたから。
よく気がつくね、それは褒め言葉として言われたけれど、私にとってはただの生き延び方だった。
二十四歳の時に圭介と出会った。
圭介は、母が見たらきっと「いい人」と呼んだだろう。地元の信用金庫に勤めていて、ネクタイの結び方を三種類知っていて、休日にはいつも車を出してくれる人。私が寒いと言えば上着を貸してくれたし、私が疲れていると言えば、仕事なんか辞めればいいよと言ってくれた。
辞めればいいよは、そのうち「辞めなよ」になった。辞めなよは、「辞めてほしい」になり、辞めてほしいは、「なんで辞めないの」になった。
圭介は私の服を選び、私の友達を選び、私が一日に何回スマートフォンを見るかを数えた。全部、七瀬のためを思って言ってるんだよ、と言いながら。私はそれを信じた。信じようとした。誰かに大切にされるというのは、きっとこういうことなのだろう。私はそれまで、誰かに大切にされたことがあまりなかったから、比べるものを持っていなかった。
ある夜、私は圭介の部屋のクローゼットの中にいた。どうしてそこにいたのか、はっきりとは覚えていない。
圭介が何かに怒っていて、声が大きくなって、私は気がつくとクローゼットの扉を内側から閉めて、コートの間で膝を抱えていた。手のひらで口を押さえて。
その時、分かった。
十四歳のあの押し入れから、私は一歩も出ていなかったのだ、と。
扉の向こうで圭介が、七瀬出ておいで、怒ってないからと言った。優しい声で。けれどその声は、私が出ていくまで待ってはくれなかった。扉は外から開けられ、明るい光の中で圭介が笑っていた。ほら、怒ってないだろうと。
三日後、私は圭介が仕事に行っている間に、ボストンバッグひとつで部屋を出た。行き先は決めていない。駅で路線図を見上げて、いちばん海に近そうな名前の駅までの切符を買った。
そうしてたどり着いたのがこの町だった。
三月だったのに雪が降っていた。海沿いの町に降る雪は、内陸のそれより湿っていて重たい。駅前の古い商店街は、半分くらいシャッターが下りていて、どこか泊まれる場所を探さなければと思いながら、私は自動販売機の前で立ち止まった。財布を開けて何を買おうか迷っていると、後ろから声をかけられた。
「七瀬?」
振り向くと、紺色の作業着を着た背の高い男の人が立っていた。
十四年ぶりだった。記憶の中よりずっと大人になって、肩幅が広くなって。でも目だけは、あの家の廊下の壁にもたれて眠っていた時と同じまま。
透は私のボストンバッグを見て、私の顔を見て、何も訊かなかった。ただ、痩せたねとだけ言って、自動販売機に小銭を入れ、缶コーヒーを買ってくれた。
温かい、ミルクの入った甘いカフェオレ。十四歳の子どもに選ぶみたいな。
私は両手でそれを包んだ。指先がじんじんと痛む。それで初めて、自分の手がどれだけ冷えていたかを知った。
「透くんは、どうしてここに」
「港で働いてる」
「いつから」
「三年くらい前から」
どうしてこの町に来たのかは、言わなかった。何から逃げてきたのかも。私も訊かなかった。訊かないことが、私たちの間の、いちばん古い約束のような気がしたから。
「泊まるとこ、ある?」
私が首を横に振ると、透は少し考えて、それから言った。
「うち来る? 狭いけど」
それから、なんとなく一緒に住んでいる。
透の部屋の台所に、若草色のマグカップがあった。縁が小さく欠けている。私はそれを見て、声を出さずに泣いた。透はやっぱり何も訊かなかった。
◇
私たちの暮らしには、特別なことは何もなかった。
透は朝の四時に起きて港へ行く。私は七時に起きて、商店街のクリーニング店へパートに出る。昼過ぎに帰ってきた透は、少し眠ってから夕飯を作る。料理は透のほうがうまい。冷凍倉庫でもらってきた規格外の魚を、煮たり焼いたり、ときどき刺身にしたり。私は洗濯と掃除をする。取り決めたわけではなく、自然と。
冬の間、透の手はいつも冷たかった。マイナス二十五度の庫内で何時間も働くと、指先の血の巡りがおかしくなるのだと透は言った。缶ビールを開ける時も、プルタブに指がうまくかからなくて、何度かかりかりと爪で引っかく。
私はそれを見るたびに、あの三月の雪の日の、缶コーヒーの温かさを思い出す。あの時透は、自分の手がこんなふうに冷たいのに、その温かさを全部渡してくれたのだ。
夜は、六畳の和室に布団をふたつ並べて眠った。
布団と布団の間には、畳の目ひとつぶんくらいの隙間がある。それは最初の夜に、透がそうやって敷いたものだった。私もそれをそのまま守ってきたから、一年たっても、隙間は変わらずそこにある。
触れようと思えばいつでも触れられる距離。でも、触れたことは一度もなかった。
それを不自然だと言う人も、きっといるのだろう。若い男と女がひとつ屋根の下で暮らして、何もないなんて。あるいは何もないのなら、どうして一緒にいるの、と。
けれど私たちにとっては、その距離がいちばん自然なのだ。近づきすぎれば何かが壊れてしまいそうで、離れすぎれば息ができなくなる気がして。布団と布団の間の、畳の目ひとつぶんの隙間。私たちはそこに、名前のない何かを置いて眠っていた。
ときどき夜中に私が目を覚ますと、透も起きていることがあった。暗がりの中で、天井を見上げて。
「眠れない?」
「うん。七瀬は」
「夢を見た」
「どんな」
「押し入れの夢」
透は少し黙って、それから畳の上に手を置いた。私の布団のほうへ隙間のぎりぎり手前まで。触れはしない。ただ、そこに手があることが分かる距離に、置いただけだった。
「大丈夫だから」
十四年前と同じ声。私はその手を見つめながら、もう一度目を閉じた。今度は夢を見なかった。
恋じゃないと、私は思う。
恋というのはもっと熱くて、もっと欲しがりで、もっと相手を自分のものにしたがるものだ。圭介が私を欲しがったように。母が男の人たちを欲しがったように。私は透を欲しがってはいない。ただ、透がこの世界のどこかで息をしていてくれればよかった。できれば、襖一枚ぶんくらいの距離のところで。
家族でもない。家族という言葉には、あの川沿いの家の、灰皿の飛ぶ音がこびりついている。友達という言葉は軽すぎる。
名前のないただの私たち。
私はそれで、じゅうぶん幸せだった。
幸せという言葉を生まれて初めて、嘘ではなく使えた気がした。
◇
ふたつめの嘘は、パート先の佐伯さんについた。
佐伯さんはクリーニング店の奥さんで、五十代半ばくらいのふっくらとした人だった。この町で生まれて、この町で結婚して、この町で子どもを三人育てた女性。商店街の人たちのことなら、誰がいつ入院して誰の息子がどこに就職したか、全部知っている。
「七瀬ちゃん、この前スーパーで一緒にいた背の高い人、彼氏?」
受付カウンターでワイシャツのタグを付けながら、佐伯さんは目を輝かせていた。
悪い人ではない。それは分かっている。私がこの町に来て職を探していた時、履歴書の空白の多さに何も言わずに雇ってくれたのは佐伯さんだった。冬に風邪をひいた時には、大根と柚子の入ったお粥を鍋ごと持ってきてくれたこともある。
この町の人はみんな悪い人ではない。
ただ、分からないものを、分からないまま置いておくことができないだけだ。
元義理の兄ですと言えばどうなるか、私は知っている。
え、それってどういうこと? と佐伯さんの眉がほんの少しだけ顰められる。それから、ああ、そうなのと笑顔に戻る。その笑顔の下で、何かが計算される。そしてその日のうちに、話は商店街の端から端まで届くだろう。魚屋の奥さんに、パン屋のおばあちゃんに、郵便局の窓口の人に。
兄妹で暮らしてるんだって。
血は繋がってないんだって。
それって、ねえ。
ねえ、の後に続く言葉を誰も口にはしない。口にしないまま、みんなが同じものを思い浮かべる。それがいちばんたちが悪い。
「はい、彼氏です」
私は笑って答えた。
佐伯さんは満足そうに、いいわねえ若いって、と言った。優しそうな人よね、背も高いし。私は、はいと答えた。
クリーニング店で働いていると、染みのことをよく考える。
醤油の染み、ワインの染み、血の染み。染みにはそれぞれ落とし方があって、薬剤を選んで、温度を選んで丁寧に叩き出していく。けれど、どうしても落ちない染みもある。そういう時、佐伯さんは伝票に「シミ残り」と書いた紙を付けて、お客さんに返す。申し訳ございません、こちらは落としきれませんでした、と。
私は、自分たちが「シミ残り」の札を付けられるのが怖かった。
だから、正しい箱に正しくないものを押し込んで蓋をし、分かりやすいラベルを貼った。「彼氏」。そうすれば、みんな安心する。分かりやすい名前がついたものは、それ以上詮索されない。
その日、家に帰って夕飯の支度をしていた透に言った。
「今日、あなたのこと彼氏って言っちゃった」
透は鍋の火を弱めて振り向いた。それから冷蔵庫から缶ビールを出して、まだ冷凍倉庫の冷たさが抜けきらない指で、かりかりとプルタブを引っかく。
「そっか」
「ごめん」
「なんで謝るの」
「勝手に、そういうことにしたから」
透はようやく開いた缶に口をつけて、それから少し考えるように、天井のほうを見た。
「じゃあ、そういうことにしとこうか」
「いいの?」
「べつに。七瀬が楽なら」
七瀬が楽なら。
透の世界の真ん中には、いつもそれがある。十四歳のあの夜から、ずっと。襖の向こうで大丈夫だからと言い続けてくれた夜から、ボストンバッグを抱えた私にあたたかい缶コーヒーを買ってくれた日から、ずっと。
私はそれが嬉しくて、同じくらいそれが怖かった。
人はそんなふうに、自分以外の誰かを真ん中に置いて生きていけるものなのだろうか。自分の足元を空っぽにしたまま、誰かのために立っていられるものなのだろうか。そして置かれたほうは、その重さにどう応えればいいのだろうか。
私は透の真ん中に、何を置いてあげられるのだろう。
その夜、布団の中で透の寝息を聞きながら、天井の木目を見ていた。畳の目ひとつぶんの隙間の向こうで、透は背中を向けて眠っている。その背中は十七歳の時と同じ形をしていた。
◇
夏の終わりに、港の近くの神社で小さな祭りがあった。
佐伯さんに、彼氏さんと行ってらっしゃいよと言われて、私たちは初めて一緒に祭りに出かけた。透は面倒くさそうにしていたけれど、私が浴衣を着ると、少しだけ目を逸らした。その浴衣も、佐伯さんが娘さんのお古だと言って貸してくれたものだ。
参道には提灯が並んでいて、焼きそばとりんご飴とイカ焼きの匂いが混ざっていた。人混みの中で、下駄を履き慣れていない私が何度かよろけると、透は黙って自分の作業着の上着の裾をつかませてくれた。手ではなく、上着の裾を。
境内の端の石段に座って、ふたりでラムネを飲んだ。ビー玉がからんと鳴る。遠くで、子どもたちが金魚すくいの前で歓声を上げていた。
「透くん」
「ん」
「私たちって、何なんだろうね」
言ってから、しまったと思った。それは私たちがこの一年半、一度も口にしなかった問いだった。畳の目ひとつぶんの隙間に、そっと置いておいたもの。
透はラムネの瓶をくるりと回して、中のビー玉を見ている。長い沈黙の後で透は言った。
「何でもいいんじゃない」
「何でもいい?」
「名前、なくても。俺は七瀬がいればそれでいい」
それは、私がいちばん欲しかった言葉だったのかもしれない。そして同時に、いちばん聞くのが怖かった言葉でもあった。
花火が上がった。小さな町の、小さな花火だ。三発に一発くらい、湿気た音を立てて途中で消えてしまう。それでも私たちは、最後まで石段に座ってそれを見上げていた。
その時、石段の下から誰かがこちらを見ていたことに、私は気がつかなかった。
◇
噂が泳ぎ始めたのは秋の初めだった。
最初に気づいたのは、佐伯さんの目。ある朝、私がいつものようにおはようございますと言うと、佐伯さんは、おはようと答えた。いつもと同じ言葉で、いつもと同じ笑顔。
けれど、その笑顔の奥に、ほんの少しだけ何かが沈んでいた。水の底に落ちた小石みたいに。
魚屋の奥さんが私を見て、隣の人と何かを囁いた。パン屋のおばあちゃんがお釣りを渡す時、私の手に触れないようにした。郵便局の窓口の人が、あら、と言ってから何も続けなかった。
ねえ、の後に続く言葉を誰も口にしない。
口にしないまま、みんなが同じものを思い浮かべている。
ずっと後になって知った。
夏祭りの夜、港に荷物を運んできたトラックの運転手が、境内で私たちを見かけたのだという。その人は、透の父の印刷所があった町の出身だった。あの川沿いの家のことを、あの一年のことを、覚えていたらしい。
あの二人、昔きょうだいだったんだよ。親が再婚して。
女の子のほうは、まだ中学生だった。
それが今一緒に住んでるんだって。
たったそれだけの話だった。嘘はひとつも含まれていない。けれど、本当のことだけで組み立てられた話が、いちばん残酷な嘘になることがある。その話は尾ひれをつけて、背びれをつけて、この小さな町の商店街を泳ぎ回った。そうしてたどり着いた先で、それはもう、私の知っている私たちとは似ても似つかない、醜い生き物になっていた。
あの人、あの子が子どもの頃から。
ねえ。
私のことならまだよかった。私は慣れている。誰かのシミ残りの札を付けられるのには、母の娘として生まれた時から慣れている。
けれど、それは透に向けられていた。
襖を一度も開けなかった人に。私が自分で出てくるまで、廊下の壁にもたれて待っていてくれた人に。畳の目ひとつぶんの隙間を、一年半の間一度も越えなかった人に。
透が町を出ると言ったのは秋の終わりだった。
夕飯の後、洗い物をしていた私の背中に、透はいつもと同じ声で言った。
「北のほうの漁港で、住み込みの仕事があるんだって。倉庫の先輩の紹介で」
私は蛇口を止めた。
「給料がいいんだ。今の倍くらい」
嘘だ、と私は思った。
透はお金のために動く人じゃない。五年近くこの町の冷凍倉庫で働いて、主任にならないかという話を断ったことを知っている。人をまとめるのは苦手だから、と。そんな透が住み込みの、知らない人ばかりの漁港に行くはずがない。
「佐伯さんになんか言われた?」
透は答えなかった。
答えないことが、答えだった。
「私、気にしてないよ。噂なんてそのうちみんな忘れるよ」
「うん」
「だから行かなくていいよ」
「七瀬」
透は私の名前だけを呼んで、それ以上は何も言わない。でもその声で、私には分かってしまった。
噂が私の耳に届く前に。いや、届いてしまったとしても、それが私をこれ以上傷つける前に。透は自分が消えることを選んだのだ。自分がいなくなれば、話はそこで途切れると。
七瀬が楽なら。
馬鹿だ、と思った。ほんとうにばかだ。
私が楽なはずがないのに。あなたがいなくなって、私が楽になれるはずがないのに。この人はいつも、自分の真ん中を空っぽにしたまま、私のために立っている。
後になって佐伯さんから聞いた。
透は町を出る数日前、ひとりでクリーニング店に来たのだという。作業着のまま帽子を取って、カウンターの前で深く頭を下げたのだという。
「俺が勝手に転がり込んだだけです。あいつは何も悪くないので。あいつのこと、これからもよろしくお願いします」
転がり込んだのは私のほうだった。透は、嘘をついたのだ。私のために。私が三つの嘘をつく間に、透はたったひとつだけ、いちばん大きな嘘をついていった。
佐伯さんはその話をしながら泣いていて、ごめんなさいね、ごめんなさいね、と何度も言った。私、何にも分かってなかったのよ、と。
私は、いいんですと答えた。本当はちっとも良くないのに。でも佐伯さんを責めても、何も戻ってはこない。分からないものを分からないまま置いておけない人たちを、責めることはできない。私だって私たちのことを、ずっと分からないまま置いておくことが、怖かったのだから。
◇
透の荷物は、小さなボストンバッグひとつきり。
五年近くこの町で暮らした人の荷物にしては、余りにも少なかった。まるで最初から、いつでも出ていけるように暮らしていたみたいに。私がこの町にたどり着いた時と、同じ大きさのバッグだった。
若草色のマグカップは、水切りかごに伏せたまま置いていった。
まだ暗いうちに、朝一番の電車に乗るのだと透が言うので、私も起きて玄関まで見送りに出た。
透が靴紐を結んでいる。しゃがみ込んだ背中が、十七歳の時と同じ形をしていた。あの最後の朝、川沿いの家の玄関で、靴を履く私を見送ってくれた時と。あの時とは立っている場所が逆になっていた。
行かないで、と言えばよかったのかもしれない。
噂なんてどうでもいい。この町なんてどうでもいい。佐伯さんも、魚屋の奥さんも、パン屋のおばあちゃんも、どうでもいい。私はあなたがいないと息ができない。恋じゃなくても、家族じゃなくても、名前なんてなくても。あなたがいないと、私は押し入れから出られない。
それは全部本当のことだった。けれど本当のことほど、口にすると嘘みたいに響く。
言葉にした瞬間に、それはどこかで聞いたことのある安っぽい台詞になって、ドラマの中の誰かのものになってしまう。私の本当は、私の喉の奥で、いつも言葉になる手前で固まってしまう。
そして何より、私が本当のことを言えば透はきっと行かないでくれるだろう。私のために。また、自分の真ん中を空っぽにして。
だから私は、みっつめの嘘をついた。
「七瀬、ひとりで大丈夫?」
靴紐を結び終えた透が、振り向かずに言った。
「大丈夫だよ」
透が振り向いた。
私の大丈夫にどれくらい嘘が混じっているのか、この人はやっぱり正確に嗅ぎ当てる。空が曇るより先に。そして少しだけ笑った。襖の向こうで、大丈夫だからと言い続けてくれた時と、きっと同じ顔で。
「うん。大丈夫だ」
それがどちらの嘘に対する返事だったのか、私には分からなかった。私の嘘を、嘘のまま受け取ってくれたのか。それとも透自身の嘘だったのか。
ドアが閉まる。外廊下を歩いていく足音が、少しずつ遠ざかる。階段を下りていく音。それから何も聞こえなくなる。
潮の匂いがした。
私は玄関に立ったまま、しばらく動けなかった。やがて部屋に戻ると、和室には布団がひとつだけ敷いてあった。透の布団は、きちんとたたまれて押し入れに仕舞われている。
畳の目ひとつぶんの隙間のところに、私は手を置いてみた。そこにはもう、何もない。
◇
冬が来た。
私は今も、同じ部屋に住んでいる。
母からは相変わらず電話がかかってくる。今の恋人とは上手くいっているようで、声の温度はずっと高いままだ。
「あんた、いい人いないの」
「いないよ」
佐伯さんはあれから私に、前よりも少しだけ優しくなった。噂は、私がひとりになったとたんに、嘘みたいに消えた。泳ぎ疲れた魚みたいに、どこかの海の底に沈んでいったのだろう。魚屋の奥さんも、パン屋のおばあちゃんも、今では普通に私に話しかけてくる。まるで何もなかったみたいに。
「彼氏さん、元気?」
ある日佐伯さんが遠慮がちに訊いた。私がついた嘘を、この人はまだ守ってくれている。
「遠くで働いてるんです」
私は笑って答えた。
嘘。嘘。嘘。
私はずっと、嘘ばかりついて生きてきた。正しい言葉で説明できないものを守るために。世界が私たちに名前をくれないから、私は嘘でそれを包んで、誰にも触らせないようにしてきた。包装紙を何重にも巻いて、リボンをかけて、中身が見えないように。
でも、ときどき思う。
本当に嘘だったのは、どれだったのだろう。
ひとりで暮らしてる。
それは今、本当になってしまった。嘘をつき続けていたら、いつの間にか世界のほうがそれに合わせてしまった。
彼氏です。
それは最初から嘘だった。でも、ほかのどんな言葉よりも近かったのかもしれない。いちばん近くにある、いちばん違う言葉。
大丈夫だよ。
それだけは、いつまでたっても本当にならない。
水切りかごの若草色のマグカップに、私は毎朝コーヒーを淹れる。
飲む時は、カップをくるりと回して、欠けていない側に口をつける。透がそうしていたように。一度だけ、うっかり欠けた側に口をつけて、唇の端を少し切った。血の味がした。それでも、捨てる気にはなれない。
まだ使えるから。
まだ使えるものを捨てられないのは、どうやら私も同じらしい。
透からは一度だけ葉書が届いた。北の漁港の写真がついた、観光地の絵葉書。裏には、ボールペンで一行だけ書いてあった。
元気でやってる。
その元気にどれくらい嘘が混じっているのか、私には分かった。一瞬で。雨の匂いを嗅ぎ当てるみたいに。
私たちは嘘をつくのが下手なのだ。
お互いの嘘だけは、いつも正確に見抜いてしまう。
それなら、どうして。
どうして私たちは、本当のことだけを言えないのだろう。
◇
窓の外で雪が降り始めた。海沿いの町に降る、湿っていて重たい雪。あの日と同じ、三月みたいな雪だった。十二月なのに。
私は和室の畳の上に座って、スマートフォンを手に取った。連絡先の一覧を指でなぞる。登録したまま、一度もかけたことのない番号。同じ部屋に住んでいたから、かける必要がなかった番号。
しばらくそれを眺めていた。
押し入れの夢を、あれからまた見るようになった。夜中に目を覚ましても、隣には誰もいない。大丈夫だからと言ってくれる声もない。暗がりの中で、私は自分の手で口を押さえて、朝が来るのを待っている。
でも分かったこともある。
透は一度も襖を開けずに、私が自分で出てくるまで待っていてくれた。十四歳のあの夜も、この町で暮らした一年半も、そして多分、今も。北の漁港の、知らない人ばかりの宿舎の片隅で。
だとしたら、襖を開けるのは私の仕事だ。
ずっとそうだった。透はいつも、向こう側で待っていてくれた。私が自分の手で開けるのを。私が自分の口で、本当のことを言うのを。
今度こそ本当のことを言おうと思う。口にした瞬間、安っぽい台詞みたいに響いてしまっても。ドラマの中の誰かのものみたいに聞こえてしまっても。
私は通話のボタンを押した。
まだ仕事中かもしれない。マイナス二十五度の倉庫の中で、かじかんだ指でパレットを運んでいるのかもしれない。それでもいい。
息を吸う。手のひらで口を押さえたくなるのを、ぐっとこらえる。
「——透。私、ぜんぜん大丈夫じゃない」
呼び出し音が、遠い海の音みたいに鳴っていた。




