姉への対抗心で私と結婚した夫に、さようなら。
私は指輪を置いて出て行く。
置いて行くのは指輪だけじゃないけれど。
二人の娘と三人の息子。
そして、あなたを愛した過去のすべて——。
◇
子供の頃から私はあなたが好きでした。
姉と一緒のあなたはいつも楽しそうで、私も一緒に遊んで欲しくて近くをウロウロしていた。
姉はそんな私が目障りだったから、「あっちへ行きなさい」と冷たくあしらうだけだった。
でも、あなたは、「僕とお姉さんは勉強してるんだ。大人しくしていられるなら、ここで絵を描いていてもいいよ」と言って、あなたの隣に座らせてくれた。
「ふん」と横を向く姉を尻目に、あなたは私の絵を「上手だね」と褒めてくれたの。
それは私とあなたの結婚式の絵だったのよ。
乳母にだけ教えたら、微笑んでくれた。
「お嬢様も素敵な結婚ができるといいですね」
純粋にあなたのことが大好きだった、まだ六歳の私。
あなたと姉が婚約者同士だと知るのは、そのずっと後だった。
◆◇◆
十六歳になった日に私はあなたと結婚した。
初恋のあなたと結婚できるなんて思っていなかったのに、結婚できる年齢になったら、その日に結婚させられてしまうなんて……。
教会で愛を誓った後に、公爵家の屋敷で結婚の宴が始まる。
広間に用意されていた長いテーブルには、親戚や友人たちが座っている。
ふんだんに用意された料理と酒が、この日がどれだけ人々に望まれていたのかを物語っていた。
私の友人はまだ十四、五歳の子もいて、初めての結婚の宴で気後れしてしまっていた。
七歳年上のあなたの友人は二十歳を超えた方ばかりで、広間のテーブルの友人たちからも不釣り合いな気がした。
もし、姉がいたら……。
そんな心の隙に——ギュッと手を握られた。
付けたばかりの結婚指輪がコツンッと当たる。
「フローリア、君と結婚できて良かった」
あなたの彫刻のような端正な顔が、私に微笑みかけてくれる。
ホッと温かい気持ちに満たされる。
私は、姉のことは頭から振り払って、今の幸せに浸った。
新郎新婦の上座で、二人でならんで微笑み合っている。
六歳の頃に私が絵に描いて夢見た事が叶ったのだ。
叶うはずのなかった事なのに——。
あなた——ヴァルター・ヴァルディオンは二十三歳でヴァルディオン公爵家の嫡男だった。
私はフローリア・ヴァルネ。
ヴァルネ侯爵家の十六歳になったばかりの次女だった。
本来ならヴァルネ侯爵家の長女のアウローラ・ヴァルネがヴァルターの婚約者だった——。
「あんな事があったのに、無事に結婚式が済んで良かったですわね」
「ええ、本当に」
親戚の叔母さまたちの話し声が聞こえてくる。
声を潜めることなく話している。
それは誰もが知っている事だった。
◇
四年前に私の姉のアウローラ・ヴァルネ侯爵令嬢が、ヴァルター・ヴァルディオン公爵子息との結婚式の前日に、身分の低い平民の騎士と駆け落ちしたのだった。
今日の結婚の宴に集まってくれた親戚たちは、公爵家の屋敷に着いてしばらく待たされた後に、そのまま家に帰ることになった。
前日に居なくなっていたのだが、当日には見つかるはずと、広間には長いテーブルの上に酒と料理が今日のように並べられていた。
結局それは全て無駄になった——。
私は、廃棄されていく酒と料理を痛々しく見つめた。
そして、その奥で、豊かな実りをつけた麦のように首を垂れるヴァルターから目が離せなかった。
結婚の正装が完璧なほどに、今日の落差が胸に突き刺さる。
数年前に、ヴァルターが姉の婚約者だと知って、ずっと泣いていた小さな私。
私がヴァルターと結婚する絵は、姉とヴァルターとの幸せに置き換わっていたのに、それは姉にとっての幸せじゃなかったらしい。
ヴァルターには声をかける事が出来ずに、私は侯爵家に帰った。
家に帰ってもずっと私はヴァルターのことを考えていた。
そして、ヴァルネ侯爵家で、それは私だけではなかったようだ。
父や母、叔父たちもヴァルターのことをどうするのかと考えていたらしい。
姉のアウローラ・ヴァルネとヴァルター・ヴァルディオンの婚約は家同士の政略結婚で、二人が五歳の時には決まっていたのだ。
私が産まれる前から二人は家同士を行き来して、婚約者として過ごしていた。
それほどに大事に絆を深めていたのに、姉のアウローラはあっさりと平民の男の元へ行ってしまった。
両家が何度も話し合ってまとめた婚姻の契約書も無駄になる……。
でも、ヴァルネ侯爵家にはもう一人娘がいた。
次女のフローリア——私に順番が回って来た。
「——っ!!」
一度は諦めたヴァルターへの想いが甦ってくる。
期待に胸を躍らせていたけど、ヴァルディオン公爵家がヴァルネ侯爵家との婚姻に難色を示しているという話が聞こえて来た……。
ヴァルターとの結婚は、最初から諦めていた事だったのに……もう一度、夢を見せられて、取り上げられるのは辛かった……。
ベッドに突っ伏して泣いている私。
乳母のヘルミーナがそっと毛布をかけてくれた。
婚約の話がなければ、ただヴァルター様が可哀想と思っていられただけなのに……。
また、あなたに選ばれなかった私の方が可哀想。
部屋に篭って泣いていると、父に呼ばれる。
泣き腫らした目で父の書斎の椅子に座る。
父がいつになく真剣な目を私に向けてくる。
「ヴァルター様がお前と結婚したいそうなんだ、フローリア」
「……え……」
私との婚約はヴァルディオン公爵家で反対されていると……。
「ヴァルター様がどうしてもお前と結婚したいとおっしゃって、ヴァルディオン公爵家が折れたのだ」
「ヴァルター様が……」
私の身体がキュッとしびれた。
ヴァルター様自身が私との結婚を望んでいるなんて……。
「一度受けたら断る事は出来ないぞ」
……そんな、断る事なんて絶対にないのに……。
父は何も分かっていない私に、これが家同士の政略結婚であること。
一度、姉が相手方の顔に泥を塗ったこと。
一度受けてしまえば、何があってもこちらからは断れないし、私が嫌になったと言ってもヴァルネ侯爵家として助ける事はないと言われた……。
私がヴァルターを嫌になるなんて考えられなかった。
でも、父によく考えるように言われる。
その後に、ヴァルターが会いに来てくれた。
「フローリア、僕は君と結婚したいんだ」
ずっと好きだった人に真剣に言われて断れるはずもなかった。
しばらく会わないうちに、私の知っているヴァルターよりもずっと成長して、大人になっていて……素敵で……。
そんな人に自分が求められる事が嬉しかった。
横で見ていた乳母のヘルミーナが少しだけ悲しそうな顔になった。
でも——、この気持ちは止められない。
例えヴァルターから嫌われても、それで私とヴァルネ侯爵家との縁が切れても、あなたといたい……。
周りが敵になっても一人の人を想い続ける気持ち——駆け落ちしてしまった姉のアウローラの気持ちが分かる気がした……。
ヴァルターから頬にキスをされて……それが誓いになる。
あの日、十九歳の公爵子息と、十二歳の侯爵令嬢だった。
◇
そして、二十三歳の公爵子息と、十六歳になった侯爵令嬢はベッドの上にいた。
結婚初夜だった。
乳母のヘルミーナに色々と聞いていたけど……思っていたのと違う……。
「心配しなくて大丈夫だよ、フローリア」
ヴァルターに言われて気づく。
心配が足りない……。
心配も不安もなく、私はただ嬉しいだけだった。
私はヴァルターに身を任せればいいと思った。
だって、ヴァルターが私を選んだんだもの。
うちのヴァルネ侯爵家と縁を切って、違う女性と結婚することも出来たのに、ヴァルターは私を選んだ。
四年も待って、結婚したのよ。
「僕に任せて……」
でも、ヴァルターは初めてじゃないんだ……。
……それくらいは許してあげる。
ヴァルターは、私を愛してるから——。
私も、あなたを愛するだけ……。
ただ、幸福になるための私の人生。
その始まりの夜だった——。
◆◇◆
結婚式から八年が経った。
「君と結婚できて良かった、フローリア」
ヴァルターはいつも幸せそうに微笑んでくれる。
私も良かった。
「愛してるわ、ヴァルター」
私が首に抱きつくと、ヴァルターも抱きしめてくれる。
ただ、私のお腹には負担が掛からないように。
私とヴァルターの五人目の赤ちゃんがそこにいた。
結婚式の日に、幸福を約束された人生だと思った私の勘は間違っていなかった。
だって私はヴァルターがずっとずっと大好きなのだから。
乳母に連れられて子供たちが全員、私の部屋に集まった。
普段は乳母が子供たちを育てていて、私が妊娠していなければ、みんなのところに顔を出すのだけど、妊娠中はそうもいかない。
七歳になった長女には勉強や習い事がたくさんあるから、子どもたちが全員集まれる日は限られるけど、出来るだけ会うようにしている幸せな時間だ。
私も乳母のヘルミーナに育てられて、結婚の時まで一緒だった。
乳母の方が母より絆が強い気がしたけど……子供を産んで違うと分かったわ。
父にも母にも、十分に愛されていた。
ずっとそばで見守っていてくれる乳母とは愛情の示し方が違っただけ。
ヴァルターは仕事で子供たちには殆ど会えないけれど、それは子供たちも分かっているわ。
乳母が言い聞かせているし、私もヴァルターの——子供たちの父親の素晴らしさは伝えている。
臨月を迎える頃に、つわりが酷くなる。
一人目も酷かったけど、二人目、三人目と楽になっていたから、五人目の酷さに参っていた。
子供たちに会えない日々が続くのが何より辛い。
ヴァルターが労ってくれるのが唯一の救いだった。
仕事が忙しいのに私の様子は見に来てくれる。
「大丈夫かい、フローリア」
ベッドに張り付けられたように動けない私をヴァルターが覗き込む。
「君に何かあったら、僕は……」
ヴァルターが涙を流しそうな勢いで、私を見下ろす。
「大丈夫よ。心配しないで……」
私はなんて幸せなんだろう。
つわりの気持ち悪さより、心の方が満たされる。
今度産まれて来る子は侯爵家のものになる。
婚約時の契約で最初の二人は公爵家のもので、その後は交互に侯爵家と公爵家のものになる事が決まっていた。
跡取りになる男の子は、どちらにも一人ずついるから最低限の義務は果たしてる。
お腹の子が男の子で、次も男の子ならみんなもっと喜んでくれる。
それが何より嬉しい。
「フローリア様」
五人目の子がいつ生まれてもおかしくない状況だった。
けれど、乳母のヘルミーナが私に会いたいという。
私が結婚してからは、自宅で自分の子や孫の世話をしているヘルミーナだけど、私にとっては、実の両親より近い存在で何か有れば真っ先に相談する人なのは変わらなかった。
そのヘルミーナが、私が大変なことを分かっていて会いたいなんて言うのは……。
妊娠中の私は遠いヘルミーナの家には行けないけど、公爵家の近くの宿で会えるように手配した。
つわりはだいぶ楽になっていたから、久しぶりに外に出るのも悪くなかった。
宿に着くと、ヘルミーナと女性がいた……。
——姉の、アウローラだった。
私がヴァルターと結婚する四年前に平民の騎士と駆け落ちした人……。
——ヴァルターの本物の婚約者……。
十二年振りに会ったのに……感激するより、何故という疑問でいっぱいだった。
「ただ、会いたかっただけよ……」
一歩引いて見ている私に、姉が自嘲気味に言う。
顔は黒ずんで皺が見える。
十二年ぶりでも、ヴァルターと同い年の姉はまだ三十一歳のはずなのに、一回りは年上に見える。
平民の女性を思い出すと、姉のような様子の人が多かった。
あの人たちは、思ったより若かったのかもしれない。
姉のみすぼらしい姿に、ヴァルターを取られるかもという心配は無くなった。
少し落ち着いて姉の話が聞けた。
「私が侯爵家を出てから色々あったのよ。駆け落ちなんてしなければ良かったと後悔してばかりだったわ」
そうじゃないかと思っていたわ。
親戚や使用人が時々そんな話をしているのを聞いた。
姉は侯爵家にいる時から私に冷たかったし、私も姉が幸せになって欲しいなんて思ってなかったけど……。
根を上げて戻って来てもらっては困ると思っていた。
私は、正式にヴァルターの婚約者になっているから、姉が戻って来たからといって、婚約者の地位を奪われることはないけど……。
ヴァルターの気持ちは違うでしょう。
姉が戻って来たら——ヴァルターは……いえ、ヴァルターが選んだのよ、私を。
「でも、今は幸せなのよ。平民の暮らしにも慣れて、八年前に娘が生まれて、それからはずっと幸せ」
私が結婚してからだ。
「幸せになったら、私の代わりをさせてるあなたが気になってきたの。ヴァルターが好きだったあなたは気にしてないでしょうけど。私は、子供の頃から自由なあなたが羨ましかったのよ……」
私に冷たくて駆け落ちまでしてしまった姉だ。
私と一緒に住んでいた時にはずっと不満だらけだったんだろう。
「あなたはきっと幸せなのね。……本当は、あなたを心配って言いながら、ただ会いたかっただけ。お父様やお母様には会えなくなってしまったけど……フローリア、あなたにだけでも会えて良かった」
「アウローラ……お姉様……」
涙を流す姉。
本当に姉は幸せになっているんだと思った。
ただ、その幸せの形が私たちとは違っていただけ。
お父様とお母様は、ヴァルディオン公爵家に泥を塗ったお姉様を絶対に許せない……。
一見した時にはわからなかったけど、やはり姉は美しいままだった。
「王都に戻ったのは十二年ぶりね。辺境にずっと住んでいて、夫のアレスが王都への荷物の輸送の仕事をするようになったから、娘を預けて来たのよ。ヘルミーナが夫の荷下ろしする場所の近くに住んでいるのを知って、一度だけでもフローリアに会えないかと思ったの。夫は定期的に王都に荷物を届けに来るけど、私はもう来ないわ」
姉の事情を知って、もう会えない事が分かった。
辺境に私が会いに行くなんて出来ないもの。
でも、姉の夫のアレスのことを知れただけでもつながりを感じた。
「会えて良かったわ、アウローラお姉様……」
私と姉は抱き合って別れた。
「ヘルミーナも姉を連れて来てくれてありがとう」
別れ際に言う。
「姉妹が会えないのは可哀想で……でも、会わない方が良かったのかもしれません……
ヘルミーナは私と姉の再会を喜んでいるはずなのに、少し辛そうで……。
◇
妊娠中の私は侍女を数人連れて来ていた。
姉と会った宿の玄関ホールにヴァルターがいた。
後ろ姿を見ただけで、すぐに何処かへ行ってしまう。
ここは公爵家から近い宿で、ヴァルターが仕事の関係者を泊めたり、いつも利用している場所なのは知っていた。
姉をここに呼んだのは間違いだったかもしれない。
侍女の一人に、ヴァルターが宿に来ている事を伝えに姉のいる部屋に戻ってもらう。
私もヴァルターに見つからないように慎重に公爵家へ戻った。
その日の夜に五人目の女の子が産まれた。
「ありがとう、フローリア、君と結婚できて、僕は誰よりも幸せだよ」
私も幸せだと思った。
姉と会った後だから、姉と私の幸福の違いが鮮明になる。
でも、幸せだと言った姉の姿と私自身の姿は同じ。
比べるものではない……。
『僕は誰よりも幸せだよ』
だから、ヴァルターの言葉が引っかかってしまう……。
ただ、この瞬間に誰よりも幸せだと言っているに過ぎない。
よくある言い回しだ。
純粋に幸福を噛み締めているだけよ。
今日は五人目の赤ちゃんを迎えた日なのだから。
◆◇◆
五人目を産んですぐはゆっくり休んでいた。
けれど子供たちが順番に訪ねてくるから、休めなかった。
乳母たちが子供の面倒を見て、私に会いたがると何度かは止めてくれているようだった。
ただ、会いに来てくれる事はとても嬉しかった。
このままずっと子供たちといたいと思ったの。
でも、私は公爵子息の妻で、子供を産むことが仕事だった。
公爵家には一人の女の子と二人の男の子を残せている。
侯爵家には一人の女の子と一人の男の子。
侯爵家には、あと一人男の子がいると、侯爵家とは別にある領地の跡取りが出来て都合がいいのだと言う。
一人目の跡取りほどに熱望されてはいないけど、まだ二十四歳の私は産めると思われていた。
けれど、次に妊娠しても六番目の子は公爵家のものだ。
だから、あと二人、七人目までは産むことを期待されてる。
……これが政略結婚の取り決めだった。
家同士の同盟関係とそれをより強固にする子供たち……。
姉が逃げ出したのも分かる。
私がヴァルターを愛していて、ヴァルターも私を愛している。
だから、子供を産むことは気にならない。
義務の前にヴァルターがいるから。
でも、私が子供たちと落ち着いて向き合える日はずっと先になる。
それでも、ずっと幸せを感じてる。
◇
「フローリア、君は妊娠中に宿に行かなかったか?」
産後の身体が回復した頃に、ヴァルターに聞かれた。
私が見たヴァルターは後ろ姿だけだったけど、ヴァルターも私を見ていたんだ。
「乳母のヘルミーナが私に会いたいと呼ばれたのよ」
予想外に姉がいただけで、嘘じゃない。
「そうか……」
ヴァルターの顔が曇る。
「……疑っていた訳じゃないんだ……君は妊娠中だし……」
「え?」
どういう事?
あ……ヴァルターは私が男性と会っていたと思ったの……?
「乳母か……」
ヴァルターはそう言って納得してる。
「そんな事、考えてもみなかったわ……」
私がヴァルター以外の男性を好きになることなんて絶対にないのに。
「そうだね。僕も、ずっと君を疑ったことなんてないよ。だから、仕事の途中で君を見かけて、一瞬でもそんな事を思って驚いたんだ……君は妊娠していたのに」
宿になんて自分一人で行ったことなんてないし、見かけたら浮気を疑われるのも自然なのかもしれない……妊娠中だったから、絶対にありえないし、ヴァルターもすぐに違うと分かったのだけど……。
全く考えていない事だったから、笑ってしまう。
「ふふ、もう勘違いさせるようなことはしないわ。私がヴァルター以外を好きになるはずないってことは、覚えていてね」
「当然……知ってるよ。君はアウローラとは違う」
にこりとヴァルターが私を見た。
私は、その笑顔が大好きだった。
その笑顔を見るだけで、幸せになれる。
でも、アウローラって……。
◇
姉の名前をヴァルターから聞くことなんてなかった。
姉の代わりに結婚したようなものだったのに……。
いえ、違う……ヴァルターが、婚約者だった姉が駆け落ちした後に新しい婚約者を必要としていたのは確かだけど、妹の私を選ぶ必要なかった。
むしろ、妹を選ぶことは止められていた。
それなのに、ヴァルターが私を選んでくれたのよ。
ヴァルターは姉より私が好きだったの。
親に決められた政略結婚で姉のアウローラと婚約していたけど……ヴァルターは私が好きだった。
だから、公爵家を説得して、私と結婚することを勝ち取ったの——。
だから、その後にアウローラの名前なんて出す必要がなかった。
ずっと前に取り除かれた、障害だから……思い出す必要もヴァルターにはなかった……。
なのに、何故、今になってアウローラの名前がヴァルターから出てくるの……。
十二年ぶりにアウローラに再会して、姉も別の形で幸せになっていると、嬉しく思ったばかりなのに……。
完璧な幸せに影が落ちる——。
でも、まだ幸せの形はそのまま……私はまだ幸せでいられる——。
◆◇◆
六人目の子供はなかなか出来なかった。
五人目を産んでから一年が経って、私は二十五歳になっていた。
「お母様、抱っこ」
相変わらず子供たちの世話は乳母に任せっきりだったけど、毎日会って膝の上に抱いて話が出来た。
まだ赤ちゃんの五人目も、言葉が少し出てきて可愛い。
でも、すぐに引き離される。
公爵夫人の仕事は妊娠だけじゃない。
一人でお茶会に招かれたり、夫婦で夜会に行ったり。
十六歳で結婚してしまった私には夜会で相手を探す令嬢たちが眩しく見える。
今一番人気のある男性は結婚してしまった王太子以外の三人の王子様らしい。
二十二歳、二十歳、十八歳の王子様は女性に囲まれて見る事ができない。
王子様を手に入れる為にはあんな風にしなければいけないのね。
でも、私はもうずっと王子様と一緒だった。
ヴァルターの腕に手を置いて夜会を過ごす。
私は、幸せ。
けど、帰りの馬車の中ではヴァルターと離れて座っていた。
昔は、そうじゃなかったけど……。
妊娠期間を挟まず一年間をずっと一緒に過ごすと、距離を置きたい時間も増える。
夜会では必要以上に夫婦仲をよく見せないといけない。
家に帰ったら——愛し合うのに……。
それは、子供を産まなくちゃいけないからで……。
◇
ヴァルターの書斎に入る。
八歳になった長女がとある思想家のことを話題にしたからだ。
もうそんなところまで勉強しているなんてすごいわ。
私はその本を持っていないから、ヴァルターの書斎にならあると思ったのだ。
執事に頼んで入れてもらって探してもらう。
待っている間に、書棚に古い封筒の束がまとめられている場所を見つけた。
その横には新しい封筒がある。
似たような封筒や書類のまとまっている箇所はあるけど、ここだけ少し荒い。
何度も取り出して、戻して、また取り出して……何度も繰り返しているように、並べられた封筒は痛んでいるし、曲がって浮いて押し込められているものもある。
だから、興味本位で一つだけ引き抜いた——。
何かを探していたわけじゃないのに、それはここ一年間、ずっと探していたものだった——。
◇
——『アウローラ・ヴァルネに関しての報告書』
私は息が止まった。
日付は十三年前で、姉が駆け落ちした後だ。
あなたが、私を婚約者に選んだ頃——。
『辺境の地で、地元の老夫婦の営むケーキ屋に身を寄せている』
『駆け落ちした騎士アレス・ケネスとの仲は悪く、いつも言い争って泣いている姿が見える』
——!
どうして……ヴァルターがこんなものを……。
十二年前……十一年前……十年前……。
報告書はずっと続いていた。
けれど、九年前で一旦途切れている……。
九年前は私が十六歳で、ヴァルターと結婚した頃だ……。
——……ヴァルターは姉に未練があったんだ……。
私と婚約したのも、私を好きなんじゃなくて……姉の面影を追っていただけ……。
……っ!
……あ……っ! ああっ!!
胸が張り裂けそうだった。
涙が溢れる。
私が信じていた事は全て……間違っていた……。
「若奥様」
私の様子に執事が気づく。
「それは……! ヴァルター様は……もう、忘れております……」
「あなたは、知っていたのね……」
みんな、知っていたのね……。
十二歳の時のヴァルネ侯爵家でお父様に、聞かれたわ。
ヴァルター様の結婚を選んだら後戻り出来ないと……。
十二歳の私には分からないわ、こんな事……。
乳母のヘルミーナが悲しそうな顔をしていたことを思い出す。
ヴァルター自身が私を選んだと思っていた、あの時に。
でも、この報告書は九年前——私とヴァルターの結婚式の年に終わっている。
……ヴァルターはそこから、本物の愛を私と育んでくれたなら……それは、もう本物よね……。
——では、この新しい封筒は……?
「新しい封筒のことも知っていたの? これは何……?」
執事に聞く。
「それは……」
答えないなら中身を見るまで。
『アウローラ・ケネスに関しての報告書』
苗字は変わっているが、見るまでもなく姉の報告書だと予想した通りだった。
日付は一年前……。
私がアウローラと宿で会って、その後にヴァルターから宿にいた理由を聞かれた頃だ……。
私の浮気を一瞬疑ったと言うヴァルターが、『君はアウローラとは違う』と言った日。
あの日から、ヴァルターはまた姉を調べ出したんだ……。
報告書の姉は幸せそうで……私に話してくれたことは間違いなかったんだと思った。
それを知ってヴァルターが何を思ったのかは、報告書と封筒が教えてくれる。
クシャッと手で潰されたような跡が残っている。
姉の幸せを知ってヴァルターは憤ったの……。
自分を捨てた姉は不幸でなければいけなかったのね……。
姉の完璧な幸せが、あなたを傷つける——。
ただ、私は報告書に気になる所を見つける。
『アウローラは今日も一日中、娘のそばを離れなかった』
平民になった姉は子供を乳母に任せるわけにいかないから、ずっと一緒にいるはずだけど……。
一日中……娘は九歳のはずで……平民なら一人で遊びに行く事もあるはず……。
九年前……一旦途切れる前の最後の報告書。
私とヴァルターの結婚式の年だけど、姉に娘が産まれた年でもある——。
——『アウローラが誰の助けも借りられずに産んだ娘は、床に大きく叩きつけられていたようだ。医者に連れて行った時にはもう、両足が動かなかった』
——え……。
姉の娘は、足が動かない……歩けないの……。
ニヤっと笑うヴァルターの姿が見えた。
十九歳のこの報告書を受け取ったヴァルターが笑った。
姉は駆け落ちして一人で出産したせいで、娘の足を失った——。
永遠にその罪に苦しめ——!
……。
暗い声が聞こえた気がした……。
◆◇◆
私はヴァルターとの夜を拒否した。
六人目、七人目の子はヴァルターとの愛があるから望んだの。
ないなら……。
でも、そんな考えは良くなかった。
子供たちに会いにいくと、ヴァルターの影が見えた。
貴族の義務だとしても、それで産んだわけじゃない。
ヴァルターとの愛の結果なのに……そこに愛はなかったのかもしれない……。
ヴァルターが仕事を理由に子供たちに会わないのは……愛なんてないから。
「お母様」
いつものように私を見つめる屈託のない笑顔が……辛い。
幸せに影がかかって、色を失っていく。
子供たちの顔にも影が落ちる。
子供たちは、私の歪んだ顔を写す鏡だった。
「手紙を書きます。子供たちへ、毎日手紙を書くわ」
「フローリア様……」
私は、涙を目に溜めて乳母たちに伝えた。
手紙なら、暗い顔も、悲しい声も、隠しておけるから。
子供たちにすら会えない日々が続く——。
◇
でも、夜会では仲のいい夫婦を演じた。
帰りの馬車の中で、ヴァルターが私のそばに寄ってくる。
「僕を避けてるね。僕は君と結婚できて幸せなんだ、早く機嫌を直して」
ヴァルターが私に甘く囁く。
ヴァルターはいつも「君と」と言う。
それは別の人がいて比較している言葉だ。
『アウローラより、君と結婚できて——』
それは姉と比べるための言葉だった。
「私は、あなたと結婚して不幸だわ——!」
本心ではなかったの。
幸せな時だってあったもの、全てが間違いだったとは思いたくない……。
でも、口をついて出てしまった。
ヴァルターの顔がみるみると変わる。
甘く優しい表情が消えて、見た事もない険しい顔になった。
「……そんな事を言うのは許さないよ。君を幸せにする為に、僕がどれだけ耐えてきたのか——!」
ヴァルターが言う。
耐える……私といて何を耐えるの……?
「アウローラより君を幸せにして、僕を選ばなかった事がどれだけバカな事だったのか……見せつけなければいけないのに」
……え……。
「……君が死んだらと思うと、妊娠中はどれだけ心配だったか……。それでも、幸せになる為に、完璧な公爵家と侯爵家の為に、産んでもらわなければいけない……どれだけ耐えていたのか……」
五人目の妊娠中に、ベッドに横になる私を見つめるヴァルターを思い出す。
泣きそうな顔をしていたヴァルター。
『君に何かあったら、僕は……』
僕は……?
——『アウローラより、不幸になってしまう!』
……そういう、意味だったの……。
「僕が、君を傷つけるような事をした事はないはずだよ。ただ、君は僕のそばで幸せでいてくれたらいいだけだ……」
ヴァルターの唇が呆然とする私の唇に重なる。
ゾッと悪寒が全身に走った。
汚い……汚らしい!
あんなに好きだったのに……ヴァルターの整った顔が遠く歪んでみえる。
「あなたの書斎で、報告書を見たのよ」
「執事に聞いたから知っている」
ヴァルターは悪びれることなく答えた。
「お姉様に対抗する為に私と結婚したの!? そんなのあなた自身が不幸じゃないっ!」
「……それは、君の基準でだろう。狭い世界でしか生きていないから、恋愛だけが基準になるんだ。公爵の地位を維持する事がどれだけ大変か……社交界にろくに顔も出さないからそれが分からず、駆け落ちなんてするんだ。妹の君も同じだろう」
ヴァルターが見下すように言うけど、社交の場に顔を出せなかったのは妊娠していたからでもあるのよ……。
「アウローラは、公爵家の嫡男の僕の顔に泥を塗ったんだ。十四年間も婚約者としての地位を享受していたのに、完璧な人生をめちゃくちゃにしたんだ! 不幸で居続けなければいけない……!!」
恋愛ではないと言っても、ヴァルターにとっては全て姉が基準で、不幸になってるのはあなた自身でしょう……!
何を言ってもヴァルターにはもう届かない。
「君が、アウローラになど会わなければ良かったんだ……乳母が会いたいだけで臨月の夫人を呼び出すわけがない……!」
……それで疑ったのね……。
それがヴァルターの本音なのかもしれない。
アウローラの存在を再び調べる気にならなければ、ずっと姉が不幸だと思い続けられたんだ——。
別れ際の乳母のヘルミーナの悲しい顔を思い出す。
彼女にはこの結果が見えていたの……。
「もう、子供はいい。五人もいれば完璧だろう。ただ、僕といる事が、君の幸せなんだ……」
ヴァルターの声が一人の部屋に戻っても、頭の中で繰り返された。
私がこの屋敷で九年間、幸せだったのは本当だ。
でも、もう違う。
私には、姉のようにちゃんと愛してくれる人さえいない。
私の部屋のテーブルに手紙が置かれていた。
乳母からの子供たちの様子と、子供たちの手紙や絵だ。
……ちゃんと私にも愛してくれる人がいる——。
もうしっかり手紙が書ける長女にはしっかりと私も返事を書かないと。
長男もちゃんと自分のことを手紙に書けている。
次男の絵はいつも元気で、三男も絵が描けるようになったのね。
次女がどんな絵を描くのか楽しみだわ。
子供たちに会えない時は言葉が溢れてくるのに……。
会えば、ヴァルターとの日々が重なって……後悔の結晶に見える。
もう、ずっと子供たちには会えていない。
会えば……違う感情が生まれて来るかもしれない。
この屋敷で……ヴァルターと一緒でも、子供たちと一緒なら、私は幸せ——。
黒い感情が込み上げてくる。
私が、ここで幸せになったら、ヴァルターが幸せになる。
姉との比較でしか、幸せを感じられないヴァルターが……!
——。
私は、この屋敷で、幸せになれない。
それに、子供たちをも巻き込んでしまう——。
◇
私は指輪を置いて出て行く。
置いて行くのは指輪だけじゃない。
二人の娘と三人の息子。
結婚の契約で子供たちは公爵家と侯爵家のものだった。
一緒に連れてはいけない。
お父様は十二歳の私に、このことを伝えていたんだ。
でも、だからこそ子供たちは幸せでいられる。
ヴァルターだけではなく、両家がしっかり子供たちを見てくれる。
私が乳母のヘルミーナを慕っているように、子供たちも乳母を実の母のように慕うだろう。
……私は、手紙を書くから。
遠くから想うなら、余計な感情は入らない。
ただ、愛情だけを向けられる。
ヴァルターがそれで幸せになるならなればいい。
きっと、ヴァルターは私がいなくなれば永遠に幸せを感じられないでしょうけど。
でも、そんな事どうでもいいのよ。
あなたのように、あなたが不幸でいることを、自分の幸せの基準にしたくない。
そんな惨めな人生には付き合えない。
だから、あなたを愛した過去のすべてを置いていく。
私の幸せに、あなたはいらないの。
さようなら、ヴァルター。
◇
私が去った後に、ヴァルディオン公爵家では、ヴァルターが公爵に相応しくないと判断した。
現公爵が引退せずに公爵を続けることになる。
そして、十二年後に十八歳になった私の長男に公爵の地位が譲られる。
私とずっと手紙のやり取りをしていた子供たちは、相談した後で、ヴァルターを追放して、辺境の地で幽閉同然の生活をさせる。
そこでヴァルターは、私と姉の幸せな結婚を一生外から惨めに見続けることになった。
それは、ずっと後の話——。
◆◇◆
私は乳母のヘルミーナの元へ向かった。
姉の夫のアレスに会えると思ったから。
「……申し訳ありません。私がアウローラ様と会わせたばっかりに……」
ヘルミーナが泣いて私に謝るけど、ヴァルターの気持ちが分かって良かったと思う。
初めて会った姉の夫のアレスは想像と違っていた。
「辺境まで長旅になるが、俺が気の利いた事が出来るなんて思わないでくれ。アウローラみたいに文句ばかりなのも困るが、何も言わないで察してもらえると思うなよ」
平民で——貴族でも、こんな口の利き方をする人には会った事がない。
でも、本人がいうほど気が利かない人ではなくて、姉と娘は幸せなんだろうと思った。
辺境に向かうアレスの馬車から麦畑が見えた。
豊かな実りをつけて首を垂れている。
いつか見たヴァルターの姿を思い出す。
あの日、立派な正装に身を包んだヴァルターは完璧だった。
姉はいなくなったけど、あなたを純粋に想う女の子がいたの。
気づいたのなら、本当に完璧な公爵でいられたのに——。
私の絵を褒めてくれたあなたのままで
——。
※ここから番外編です。
◆◇◆
公爵家を出て、姉を頼って辺境の地に来てから一年が経とうとしていた。
私、フローリアは二十六歳になっていた。
ヴァルターと結婚した日から、十年が経っていた。
姉とアレスを最初に助けてくれた老夫婦の営むケーキ屋さんで、私も雇ってもらえた。
ただ、姉たちを助けた時に比べて、老夫婦はさらに歳をとってしまって店を閉めようと考えていたところだったらしい。
私がケーキの作り方を覚えてからは、一人で店を切り盛りしていた。
素人同然の私のケーキでは常連客の足は少し遠のいているけど、別のお客様が出来ていた。
「アレス、おはよう」
姉、アウローラの夫のアレス・ケネスが毎日来てくれた。
「アリアンナの足の具合はどう?」
「だいぶ良くなったよ。もうそろそろ歩くことも出来そうだ」
「本当に! 良かったわ……」
アリアンナはアウローラとアレスの娘で十歳だった。
生まれた時の事故で歩けなかったが、王宮に仕えていた魔道士のおかげで治りそうなのだという。
これも、アレスが騎士に復帰できたおかげだ。
一年前——。
私がアレスの馬車に乗って辺境に向かっている時だった。
森の中の道で、目の前に豪華な馬車が止まっていて、護衛の騎士たちが数人倒れていた。
魔獣を連れた盗賊が、馬車を襲っていた。
「またか……」
アレスが呆れたように言う。
辺境に着くまでの道には危険があるとアレスには聞いていたけど……。
立派な騎士が数人も倒れているのよ……!
『またか……』で済ませられる状況じゃ……。
そう考えている間に、アレスは魔獣を倒して盗賊を追い払ってしまった。
「またお前か! 覚えてろー!」
盗賊たちが捨て台詞を残して去って行ったけど……アレスとは知り合いなの……?
「待て! 逃すな! 追いかけて捕まえないと、また犠牲者が出るだろう!」
豪華な馬車の中から若い男性が出てきてアレスに抗議した。
私も彼と同じ意見だった。
知り合いになるほど盗賊と出会っているなら捕まえればいいのに。
「荷物を運んでいる途中なんだ。捕まえている間に別の盗賊に荷物を狙われたらどうするんだ。俺みたいな運送人に期待するより、自分の連れてる騎士に頼め」
アレスは高貴な身分の方にも全く怯まない。
けど、騎士たちは倒れているし無理な事だ。
「アレス、騎士たちの目が覚めないとこの道は通れないんじゃないの?」
ひっくり返った豪華な馬車と、倒れた騎士と馬たちが道を塞いでいた。
「待ってる間に捕まえられないの?」
「その間に、別の盗賊に襲われたらどうするんだ。コイツらは全く頼りにならないぞ」
言われてみればそうだけど……。
「……え? あなたが、どうしてここに……!?」
若い男性が急に声色を変える。
アレスが元騎士だと気付いたの?
私は知らないけれど、これだけ強いのだから、昔は名の知られた騎士だったのかもしれない。
「……金を払うなら、後で戻ってきて盗賊を退治してやってもいい」
アレスが若い男と交渉している。
「なんで運送人如きがこんなに偉そうなんだ」
ん? アレスが元騎士だと気づいたわけじゃないの?
でも、アレスの実力を認めたようで交渉は進んでいた。
「俺は、これから不在になっている辺境伯を継ぐことになっている。辺境には、お前のような騎士が必要だ。今回限りの端金ではなく騎士になれ」
辺境伯を継ぐって……。
辺境伯が子供を残さずに亡くなったから、遠縁に当たる王家の者が継ぐと聞いていたけど……。
ヴァルターと行った夜会で女性たちが群がっていた三人の王子たち。
姿は見えなかったけど……この方が、王子様!?
「偉そうに言うな。俺を頼らなければ盗賊も退治できないような無能が辺境伯になるからと命令できるようになると思うな」
「ア、アレス……!?」
流石に王子様に言い過ぎよ!
私は馬車を降りてアレスの腕を掴んでいた。
こんな所で王子様と喧嘩して、姉とその娘にどんな迷惑がかかるか……。
「な、なんで! ヴァルディオン公爵夫人が、う、運送人のところに……!」
え? 王子様が私のことを知ってる?
ヴァルターのヴァルディオン公爵家なら王家とも交流があって、結婚したばかりの時には王と王妃に挨拶に伺ったけど……その後の私はいつも子供がお腹にいて、社交の場にはほとんど縁がなかった。
少ない社交の場に出た機会に、どこかでヴァルターと私が一緒なのを見て覚えていてくれたのね。
ヴァルターは公爵子息でまだ公爵ではないのだけど。
「ゆ、誘拐したのか、お前が!? 公爵夫人を!?」
え? 誘拐って……そうか、離縁して出てきたことは知られていないから……!
「ち、違います! 王子様!」
私は慌てて二人の間に入った。
◇
夜会で見かけたヴァルディオン公爵と一緒にいた女性……。
一目惚れした瞬間に、愛妻家で有名なヴァルディオン公爵の妻で五人の母だと知った。
まさか、辺境への街道で盗賊に襲われているところで会うなんて……!
一緒にいた態度の悪い男は彼女の姉のアウローラの夫のアレスだという。
実は調べさせたから、彼女の家の事情は知っていた。
彼女にとりなして貰って、アレスに盗賊退治をさせると騎士になるように説得するのも手伝って貰う。
「アレス、騎士になれば家も貰えるし使用人も雇えるわ。お姉様も楽になるし、アリアンナの足の負担も少なくなるかもしれないわ」
アリアンナというのはアレスの娘で出産の事故で歩けなくなっているのだという。
「事故なら……俺について来た魔道士に治せるかもしれないな……」
「本当か!!?」
何気なく言った言葉にアレスが食い付いてくる。
娘の足の治療を魔道士がする事を条件にアレスが辺境伯の騎士になった。
「アレスを騎士に出来たのはあなたのおかげです、フローリアさん」
「姪の足も良くなるそうですし、アレスを騎士として雇っていただいたことに感謝するのは私の方です、ローレンツ王子」
彼女が僕の名前を呼んでくれる。
王家の四男の十九歳の第四王子が俺だ。
彼女にはアレスのことで世話になったからと、毎日ケーキ屋に通う理由にした。
「いつもありがとう、ローレンツ様」
護衛にアレスを連れて行くと、笑顔で迎えてくれる。
「アレス……ちょっと相談があるの。少し話してもいいですか? ローレンツ様」
フローリアは姉の夫のアレスには警戒心無く色々と相談していて、アレスは護衛というより彼女の現状を知るために連れて来ている。
「縁談の話が来たんだけど……断ろうと思って」
「それは、いい話しじゃないなら断ればいいだろう」
「そうよね……」
それ困る!
「ケーキを作り続けるなんて大変ですよ。縁談は受けるべきだと思います!」
俺は口を挟んだ。
「そう? それは……心配なのよね……やっぱり、私なんかを選んでくれたんだもの、受けるべきよね……」
「はい! そう思います!」
「ありがとう。七人も子供がいる方の後妻になるのは不安だったけど、頑張ってみるわ」
ん?
七人も子供がいる……後妻ぃ!?
「十九歳の青年からの縁談では……?」
「ローレンツ様、よく知ってますね。それは、お話を頂いてからすぐに断ったんですよ」
そんなバカな……!
「な、何が不満なんですか!? 七人も子供がいる男より絶対にいいでしょう!?」
必死な俺の様子に、アレスが察してニヤつく。
うるさいっ!
「十九歳の男なんて大嫌いですから」
そんなピンポイントで……!?
周囲の説得なんて後にして、十八歳のうちに申し込めば良かった……。
◆◇◆
「絶対にその縁談は断って下さい!」
「え? ローレンツ様が受けた方がいいって……」
「それは、相手が十九歳の青年と思っていたからで……」
ローレンツが訂正するけど、何故十九歳の青年ならいいんだろう?
「七歳も歳が離れていたら相手の人が嫌でしょう」
「全然嫌じゃありません!」
……どうしてそう言えるのかしら?
きっと、ヴァルターは七歳も年下の子と婚約なんてしたくなかった……。
「……でも、後妻になるのも止めるわ。私の子供たちに手紙を書く時間がなくなってしまうもの……」
置いて出て来たのに、いまだにお母様と慕ってくれてる子供たち……。
きっと乳母たちが上手く伝えてくれているのね。
「お菓子を手紙と一緒に届けているんだろう? 最初は酷かったがアリアンナも最近は美味しいと言っているから自信持っていいぞ」
「え? アレス……最初、そんなに酷かった……?」
綺麗に焼けたのが嬉しくて子供たちに大量に送っちゃったわ。
そういえば『お菓子が作れるお母様はすごいです』とか、お菓子が作れる事を褒められて、味の感想はなかった気がする……。
嘘……っ!
「味見してないのか?」
「したけど……大量に色々な種類を作っていた頃だから……失敗もあったし……食べられるか食べられないかが基準になっていた気がする……」
「フローリアさんの作るお菓子は、最初から全部美味しかったです!」
「ローレンツ様……ありがとうございます……。でも、子供たちには謝罪の手紙を書かないと……!」
◇
フローリア……か、可愛すぎるっ!
子供たちに失敗したお菓子を送ってしまったと落ち込んで、本気で謝罪の手紙を書こうとしてるの……可愛すぎるっ!!
俺の、イメージとしては、少し年の離れたお姉さんが妹や弟にお菓子を作ってあげて失敗してしまったような感じだ。
でも、実際にはフローリアは五人の子供の母親で、子供たちを深く愛している。
だから十九歳の男となんて結婚を考えるはずもなくて……。
気分がズンと沈む。
フローリアと会った後はいつも幸せな気分でいられたのに……周りを説得して縁談の話が出来るようになったら即効で断られてるとか……。
でも、五人も子供がいる女性なら十九歳の貴族より、七人の子持ちと再婚する方がずっと現実的な判断だ。
貴族の結婚では子供を産むことが女性の仕事なんだから。
でもそこまで分かっていて、きちんと子供を産んでいたフローリアが、何故ヴァルディオン公爵と離縁なんてしたんだろう。
ヴァルディオン公爵——ヴァルターはまだ爵位はついでいないらしかったけど、公爵家の仕事を完璧にこなしてほとんど公爵とみなされていて、見目も麗しく、美しい夫人が五人も子供を産んでいるとなれば、非の打ち所がなかった。
似たような公爵たちはいても、それぞれが一つくらい欠点を持っていた。
仕事も完璧で見目も麗しいとある公爵の夫人には子供が出来ずに、弟夫婦の子が爵位を継ぐと決まっていた。
それでも、この公爵夫婦は愛し合って一生を共にするという。
その公爵夫婦以上に、ヴァルターとフローリアは、お互いに不満なんて持ちようがない完璧な夫婦に見えるのに……。
——でも、
俺が調べさせたところによると、ただ一点だけ、ヴァルターには汚点があった。
過去に婚約者に結婚式の前日に逃げられているのだ……。
その婚約者と駆け落ちしたのが、誰にもかしずかない平民の騎士のアレスだった。
アレスの娘の足を治すために、俺も魔術士との治療に同席してアレスの奥さんのアウローラに会った。
この人がヴァルターより平民の騎士を選んだ人なのかと、観察してしまう。
貴族の令嬢だっただけあって、俺の前では完璧に振る舞っていた。
ただ、魔道士に失礼な態度のアレスには文句を言いながら話す様子が騎士の気の強い妻として自然だった。
貴族の男に大事にされて満足しているような女性ではないと思った。
アウローラが、ヴァルターと結婚していたら早々に離縁していたような気がする。
ヴァルターは、婚約者に駆け落ちされたから、フローリアという完璧な公爵夫人が手に入ったのだ。
結果を見れば、婚約者に駆け落ちされた事はヴァルターの汚点ではなく幸運だったのだと思う。
それがどうして離縁なんて……。
◇
フローリアの店を出て、アレスにフローリアの離縁の理由を聞く。
「さあな。俺が知ってるのは、フローリアの乳母のヘルミーナとアウローラがどっちも自分のせいだと言っていた事だけだ」
「姉と乳母が? 接点がないだろう?」
「アウローラが、乳母だったヘルミーナを通して、フローリアに会いに行った事があったんだ。俺が運送人になって王都に行くようになって、アウローラは懐かしくなったんだろうな」
「……それ、ヴァルターにバレたら最悪だろう……妻が自分を裏切って自分を捨てた姉と会ってたんだから」
だからフローリアは離縁されたのか?
「駆け落ちしたのなんて十年以上前だったんだ。そこまで一緒にいたフローリアの方を信用できないなら、その公爵が悪い。離縁はフローリアから言い出したらしいが」
「違うのかよ!」
アレスは本当に真相を知らないらしい。
だから、俺は王都に戻る予定がある日に乳母のヘルミーナを訪ねた。
ヘルミーナは王子の俺が急に訪ねて行ったから驚いていた。
「十九歳……」
と、何か不吉なことのように呟いていた。
「フローリア様はずっとヴァルター様が大好きだったんです。六歳の頃には自分とヴァルター様の結婚式の絵を描いて、『大人になったら結婚するの!』と無邪気に喜んでおられました。
ヴァルター様がアウローラ様の婚約者でフローリア様と結婚できないと知った時にはずっと泣いていました」
俺の知っているお菓子を子供たちに送ると無邪気に微笑むフローリアと重なった。
子供の頃から変わらないんだと思うとますます好きになる。
けど、あの笑顔が失われたのかと思うと胸が痛む。
「でも、フローリア様が十二歳の時に姉のアウローラ様が駆け落ちされて、ヴァルター様に望まれてフローリア様が婚約者になれたのです。フローリア様が喜んだのはいうまでありません。
ただ、ヴァルター様がアウローラ様への当て付けでフローリア様に執着していることに、大人たちは気づいていました……」
俺はフローリアの笑顔をまた思い出す。
純粋に喜んだんだろう……それはヴァルターを愛していたからで……さっきと別の意味で胸が痛む。
この時のヴァルターが十九歳で、フローリアが七歳下だった。
「それでも、両家にとって一番都合が良かったのがフローリア様とヴァルター様の結婚だったので、ヴァルター様のアウローラ様への歪んだ思いが露見しなければ、二人の結婚は完璧なままでした……。
それを、私がアウローラ様とフローリア様を合わせることで壊してしまったんです」
ヘルミーナが涙を流した。
「ヴァルター様がフローリア様とアウローラ様が会った事を知っても、アウローラ様に執着せずに忘れていてくれたらと思ったのです。私が純粋なフローリア様を騙してしまった罪を軽くしたかった……」
フローリアが純粋のヴァルターに愛情を向けていた様子が思い浮かぶ。
それは、俺がいつも見ている可愛いフローリアと同じで……裏切られたと思った絶望にどれだけ傷ついたんだろう……。
俺があの笑顔を守りたいと思った。
でも、ヴァルターの気持ちも分かる。
駆け落ちとは違うが、俺自身、辺境伯を継ぐことが決まってから、王子だったら結婚したのにと言われて、周りにいた女性たちが消えて行った。
その時は彼女たちを見返したいと思いもしたから。
ただ、女性がついて来てくれなかったから、フローリアに全力で向かっていける。
一度は諦めた人が離縁して俺と同じ辺境にいてくれるなんて……!
俺は運がいい。
誰かを見返したいあまり、見返したい相手より幸せでいることが自分の幸せになってしまうのは不幸だ。
周りもその基準に巻き込まれてしまう。
俺は、俺自身の幸せに、フローリアを巻き込みたい!
◇
辺境に戻ってすぐに俺はフローリアのところに行く。
「フローリアさんが断った、十九歳の男との縁談って、相手は俺です! 俺でもダメですか!?」
「……ローレンツ様が……。それならますます断るしか……」
「どうして!? 俺はあなたを愛してるんです! 結婚してください!!」
俺が夢中で伝えると、フローリアは真っ赤になっていた。
「ヴァルター以外の人に言われるなんて……初めてで……」
フローリアが赤くなった顔を両手で抑えてる。
か、可愛い!
「じゃあ、俺と結婚してくれますね!」
「……それは、無理よ……私は七歳も年上だもの……」
まだ、ダメなのか!?
◆◇◆
ローレンツが私と結婚したいって……顔が真っ赤になってしまう……。
無、無理だから!
私は子供が五人もいて、離れているからと言っても大切なことには変わりがなくて……。
十九歳のローレンツと結婚したら子供を期待されるし、産めない歳じゃないから……結婚したら産むしかなくて……。
そこで新しく生まれた子と一緒に住んでたら、仕方なく五人の子供たちを置いて来たなんてどんなに手紙で書いても子供たちに伝わらなくなる。
ただでさえ、私の気持ちの問題なのに!
ヴァルターと結婚したまま同じ屋敷で子供たちに会わずに手紙だけで愛情を伝える方法もあったけど、それを私は選ばなかった。
同じ屋敷にいて会わないくせに愛情があるなんて言ったところで、会ってくれないことのほうが重くなる。
だから、物理的に距離を置くことで愛情が伝わる方を選んだのに。
「私には子供たちがいるので、ローレンツ様と結婚することは出来ません」
「子供たちが望んでいるなら?」
「え?」
「あなたの子供に会って、俺が君たちのお母様と結婚して、ここに連れて来たら嬉しい?って言ったら『よろしくお願いします』って言われた」
「ええ!?」
ここに連れて来るってどこ!?
長女が九歳で長男が八歳……末っ子の次女はまだ二歳で……。
「そんな、まだ小さな子に母親の再婚の事なんて分かるわけないのに……」
十二歳の私にだって、ヴァルターの気持ちが分からなかったのに。
「でも、王子の俺と結婚しないと、王宮に呼び寄せた子供たちに会えませんよ。子供の後見人の、公爵と侯爵のお祖父さん二人に、王から呼び出してもらいました」
「王様まで巻き込んで……なんでそんなことを……」
「あなたを愛してるからです」
また顔が赤くなる。
あまりの出来事に血の気が引いていたのに。
「あなたと結婚できなかったら辺境伯は継がないと言ってきたので、断ったら王家の者が順番にあなたを説得しにきます」
「説得じゃなくて脅そだわ……」
「その時は、俺が横で一緒に追い返します」
「え……なんで……?」
「このケーキ屋は俺が買い取りました。前オーナーの老夫婦は王立の養老院に入れるように手配してとても感謝されているので、すぐにでも俺がオーナーとしてここに住むことができます」
「……え……」
…………え……。
「そんな、おかしい……私を追い詰めてるのはあなたなのに……子供たちに会えるって言われたら、断れないのに……」
ローレンツは首を振った。
「嘘です……子供たちには、俺と結婚しなくても会えます。ヴァルディオン公爵とヴァルネ侯爵を説得したので、夏の間は辺境に子供たちが避暑に来ることになりました……。
あなたが王都に行く事があれば子供たちにも会えるそうです」
「……なんで……」
「ヴァルターがアウローラに執着して見返す為にあなたと結婚したことは、公爵も侯爵もみんな知っていたんです。だから、純粋にヴァルターを好きだったあなたを騙したことを後悔していました。
アウローラが駆け落ちなんかして幸せになることはないから問題ないと思っていたようです。……アレス、アイツがおかしい……」
「……お父様たちが……」
分かってはもらえないと思ってたのに……。
「ありがとう……ございます……ローレンツ様……っ」
私はそれからしばらく泣き続けた。
なんで、ローレンツはこんなに私のことを分かってくれるんだろう……」
「ローレンツ様、店を閉めます。本当に今日はありがとうございました」
ケーキ屋は朝が早い分、閉店時間も早い。
「分かりました」
ローレンツは私が泣いている間、見守ってくれていた。
子供たちにも会えるようになったし、どう感謝したらいいか分からない……。
店を閉めて、住居部分に行く。
誰かが椅子に座ってる……。
「え……ローレンツ様? 帰ったんじゃ……オーナーになったって言うのは嘘だって」
「子供と会わせないのが嘘なだけで、他は全部本当のことです」
……え……。
「ええ!?」
「王家の使いは、俺も一緒に断りますから」
◇
俺はケーキ屋のオーナーとして二週間程を過ごした。
フローリアが俺を警戒して、部屋を移動するたびにキョロキョロ見回して、走って廊下を渡っている。
後ろにいる事に気付いていない。
可愛い……!
フローリアは俺より七歳年上なことを気にしているけど、全然そんな風に見えない。
ケーキを朝早くに起きて作って、作り終わってから朝食を食べるのが日課になっている。
俺が朝食を作って待ってると、フローリアが驚いていた。
「ローレンツ様が朝食を!?」
「オーナーになるにあたって練習して来たから、毎日朝食も夕食も作ります!」
昼食には売れ残りのケーキを食べているのは調査済みだった。
「わ、私が作ります!」
「作れるんですか?」
フローリアがしゅんとする。
老夫婦に作って貰っていたのは調査済みだった。
侯爵令嬢で公爵夫人だったんだから、ケーキ屋やってるだけで偉い!
俺もフローリアの横に座って朝食を食べる。
一日目は、フローリアは、俺が動くだけで、ビクッと身体を震わせる。
三日目に、俺が動いても反応しなくなる。
五日目に、頭を撫でてみる。
七日目に、顔に付いたゴミを取る。
「じ、自分で取るから」
顔を真っ赤にして嫌がる。
頭はいいけど顔はダメらしい。
八日目、髪を撫でる。
九日目、肩に触る。
十日目、肩を抱く。
十一日目、腰を抱く。
十二日目、抱き寄せる。
「た、食べられないわ……」
真っ赤になって俺に抗議する。
十三日目、膝に乗せる。
十四日目、キスする。
「やっとキスできた」
「……別にもっと早くても……」
その日、王家の使いが来る。
「辺境伯が不在のままでは、街道の警備が出来ません。フローリア様のお子様たちが避暑に来るにしてもう、安全は保証できません」
「え……」
王家の使いは最初から痛いところを突いてくる。
俺だって、このまま本当にケーキ屋のオーナーが出来るとは思ってない。
あと、二週間はいられると思っていたけど。
「分かったから、俺は辺境伯に戻るから、ちゃんと子供たちを連れてきてくれよ」
王家の使いに言って、辺境伯の城に戻った。
◇
ローレンツが出て行った。
……。
……さみしい。
ただ、二週間も一緒にいたからそう思うのかもしれない。
一緒にいただけで、キスしてしまった……。
もっとして欲しいと思うなんて……。
せっかく子供たちが会いに来てくれるのに——。
「お母様!」
子供たちがケーキ屋に来てくれた。
私が朝から焼いたケーキをそれぞれが選んでいる。
「最初に送って貰ったクッキーは個性的な味だったけど、このケーキは売り物みたい!」
「お母様にしか作れないクッキー!」
クッキーも売り物だったんだけど……。
この後はローレンツが貸してくれる辺境伯の別邸に子供たちと一緒に私も行って、避暑に来ている間は一緒に過ごす。
ケーキ屋は、任せられる夫婦が見つかったから、オーナーが権利を譲った。
私がケーキ屋に戻る場合は、この夫婦に雇ってもらう側になる。
でも——。
「お母様が、ローレンツ様と結婚する事を許して」
別邸で私は子供たちに頭を下げた。
二歳の次女は何もわかってないけど、
「僕とお姉様は最初からそのつもりだよ、お母様」
「そうね」
八歳の長男と九歳の長女が顔を見合わせている。
ローレンツ様が前に話に行ったからね。
どこまで子供たちが事情を飲み込めてるのか分からないし、許可されたからと子供に責任を押し付ける気はないけど、一応は話しておくのが筋だと思った。
私はあなたたちと離れて幸せになる。
それでもあなたたちが大好きだって伝え続けるわ。
「お父様もきっと離れた方がいい」
「え?」
「そうね。お父様は、周りの期待に応えられてしまうから、いけないの」
長女と長男が話してる……。
「お祖父様はお父様を手放す気がないけど、僕がお父様を自由にしてあげる」
「うん、その後はお父様次第だけど……頑張るわよ」
……どこまで事情を飲み込めてるかわからないけど……。
私はその夜に、子供たちが眠った後に辺境伯の城に向かった。
まだ、ローレンツは起きてるだろうけど、こんな時間に訪ねて行くなんて非常識だった。
でも、すぐにでも伝えたくて。
城の門番に伝えると、急いでローレンツに私が来たと伝えに行ってくれる。
その間に門で待っていると、アウローラとアレスと娘のアリアンナが歩いて来た。
「アリアンナ! 歩けるの!」
「今日やっと歩けるようになって、歩く練習をしていたらこんな時間になってしまったの」
アウローラが嬉しそうに話す。
ここまで歩いて疲れたアリアンナをアレスが抱き上げてる。
アレスは少し涙目になってる。
普段はあんな感じなのに姉と娘のことになるとアレスは涙もろくなるらしい。
「だから、私は幸せでいるしかないの」
姉の笑顔が眩しかった。
「ローレンツに会いに来たのか?」
アレスがいつもの調子でニヤッと笑う。
「あのね、フローリアお姉様」
アリアンナが私に話しかけた。
「私にも幸せにしたい人がいるの」
「そうなの?」
ハッとアレスの息を飲む音が聞こえる。
娘の結婚式ではきっとアレスは号泣すると思う。
「フローリアお姉様と交換ね」
? どういう意味……。
「フローリアっ!」
ローレンツが走って門に来る。
言わなくても何しに来たか伝わってるらしい。
強く抱きしめられて苦しい。
ローレンツが泣いてるみたいな呼吸を首筋に感じて、どれだけ私を待っていてくれたんだろ……。
「ありがとう、ローレンツ様……私と結婚してください!」
「はい」
暗い夜の月が二人を照らしていた。
「良かったな」
「そうね……」
「お母さんが泣いてる……」
遠くでアウローラたちの声が聞こえた。
「じゃあ、私は子供たちのところに戻るから」
「え? 朝までに帰ればいいだろう!?」
「……そんな恥ずかしいことできないわ……」
なんだか妙に鋭い気がするし……。
「じゃあ、俺も行く!」
「もっと、ダメ!!」




