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捨てられた令嬢は、その夜に最強になった

作者: 夏目優希
掲載日:2026/08/14

夜会の中央で、噴水の水音だけがはっきり聞こえていた。


白い石の縁に触れた指先が、少し冷たい。淡い灰色のドレスの裾が、わずかに床に触れている。エリオットが選んだ色だ。華やかなものを着せることを、彼は最初から避けていた。


「リリア・アッシュフォード。今日で婚約を破棄する」


声は澄んでいて、感情がなかった。周囲の視線が一斉に集まる。侯爵家の嫡男として誰もが認める男が、今、私を切り捨てようとしている。


「お前には特筆すべき能力がない。スキルも弱い。容姿も平凡。話していても退屈だ。私はもっと相応しい相手を選ぶ」


隣に立つ金髪の令嬢が、小さく微笑んだ。彼女のドレスは深い青で、首元には小さなダイヤモンドが輝いている。私のドレスは灰色だった。


「……わかりました」


胸の奥が痛んだが、涙は出なかった。最初からわかっていた。エリオットは「価値のないもの」を隣に置かない男だった。私のスキルは「微弱な直感」程度で、実用性に乏しいとずっと言われてきた。周囲の囁きが耳に入る。


「ようやく捨てられたか」「最初から見どころがなかった」「よく二年も持ったものだ」


噴水の縁から手を離したとき——頭の中が、白く弾けた。


内側から熱いものが一気に溢れ出す。薄い膜が音を立てて裂けていく感覚。視界が完全に白くなり、耳鳴りがして、足元の感覚が遠のく。次の瞬間——聞こえた。全部、聞こえた。


会場にいる人間の心の表面が、嵐のように流れ込んでくる。恐怖、好奇、嘲笑、軽蔑。そして、もっと遠くから——森の方から、大量の殺意と飢餓が押し寄せてきていた。


『くる』『はらへた』『ころす』『おれたちのえさ』


北側の窓の外で、鳥たちが異常な勢いで飛び立っている。馬小屋では馬が狂ったようにいなないている。ただの予感ではない。生の感情が、熱を持って流れ込んでくるのだ。


「森から魔獣の群れが来ます。今すぐ北側を固めてください。規模は大きい。複数の群れが同時に動いています」


私の声は、自分でも驚くほどはっきりしていた。護衛の隊長が目を見開く。エリオットが後ろから嘲るように言った。


「また根拠のない妄想か。微弱な直感で何がわかる。データと報告に基づいて判断するのが正しいやり方だ」


しかし隊長は、私の目を見て判断した。彼の表情が、一瞬で変わった。


「全員、警戒体制に入れ! 北側を優先しろ! 非戦闘員は建物の中へ! 急げ!」


指示が飛んだ数分後、森の端から魔獣の群れが溢れんばかりに出現した。もし遅れていれば、夜会は壊滅していただろう。咆哮が夜気を震わせ、地面が微かに揺れる。


最初の火球が私へ飛んできたとき、反射的に手を上げた。


火球は、私の体に触れる直前で消滅した。完全に。何の抵抗も、痛みも、熱もない。ただ、消えた。次に飛んできた氷の槍も、雷撃も、毒の霧も、私に触れた瞬間に消えていく。剣を持った魔獣が振り下ろした刃すら、私の肌に触れる前に力が抜けるように止まった。


「攻撃が消えている!」「防御壁なしで無効化だと!?」「何だと……!」


戦場の向こうから黒い制服の男が走ってきた。王直属騎士団の団長、カイル・ヴェルディアだ。魔獣を一蹴しながら私の前に立ち止まり、鋭い目で私を見る。彼の気配は、周囲の兵士たちとは明らかに違っていた。安定していて、熱く、そして静かだった。


「今の無効化……お前か」


私は自分の手を見下ろした。指先が、わずかに震えている。「わからない。突然、何かが壊れたみたいで。頭の中に、全部が流れ込んでくるんです」


カイルは私の目を見つめたあと、はっきりと言った。「潜在能力が開花したんだ。しかも並の開花じゃない。規格外だ。お前は、何も持っていない人間ではなかった」


戦いは予想より早く終わった。私の無効化が戦場の中心で機能し続けたせいで、魔獣たちは次第に混乱し、兵士たちの反撃が容易になった。最後の一体が倒されたとき、重い沈黙が流れた。先ほどまで「見どころがない」と囁いていた人々が、今度は別の色の視線を向けている。


「あの令嬢が夜会を救ったのか……」「エリオット侯爵嫡男は、何を見ていたんだ」


落ち着いた後、カイルは私の前に改めて立った。呼吸は少し乱れていたが、目は真剣だった。


「リリア・アッシュフォード。お前を保護する。嫌なら断れ。だが少なくとも今夜は俺の側にいろ。お前みたいな規格外を、また誰かに『不要』などと言わせたくない」


その声には、演技がなかった。私は少しだけ目を伏せてから、頷いた。「お願いします」


カイルは私の手を引いて歩き出した。振り返ると、エリオットがこちらを見ていた。彼の口元が、小さく歪んでいる。何か言いたげだったが、結局声は出なかった。隣の金髪の令嬢も、戸惑ったように彼の顔を見ていた。彼女の目には、明らかな動揺があった。


会場の端で、誰かが小さく囁いた。「捨てた相手が、実は規格外だったのか」


---


それから数ヶ月が過ぎた。


カイルは毎日、私の様子を見に来た。朝早くに顔を出し、短く聞く。「調子はどうだ」「無理はするな」「何か変わったらすぐに言え」


彼は決して「すごい」とは連発しない。ただ、事実として受け止めて、行動で守ろうとする。茶の温度を私の好みに合わせ、報告を受ければすぐに対応を指示し、周囲に「彼女に失礼なことをするな」と明確に告げる。


ある朝、茶を淹れながら彼は言った。「熱すぎないか。前回、少し熱いと言ったな」「はい。ちょうどいいです」「なら、いい」


そのやり取りが、日課になっていった。


ある夜、庭で二人で座っていたとき、私は小さく言った。古い薔薇の匂いが、夜気に混じっている。「……本当に、これでいいんですか。私はついこの間まで、何もない人間だと思われていました。能力が開花するまで、誰も私を見向きもしなかった」


カイルは静かに答えた。「何もない人間だったなら、あの場で動けなかった。お前は動いた。能力が開花する前から、な。俺はそこを評価している。能力が目覚める前の、お前の判断をだ」


彼は私の手を握った。大きな手で、剣を握り続けてきた堅さがある。「能力もお前の一部だ。切り分けて考えるな。全部含めて、お前を守る」


その温度は、エリオットの冷たさとは対照的だった。胸の奥で、何かがほどけていくのがわかった。


そしてある日、庭で静かな夕方に、彼は片膝をついて私の手を取った。薔薇の花弁が、風で少し揺れている。


「リリア。俺と結婚してくれ。能力も、性格も、全部含めて溺愛すると誓う」


私は頷いた。「はい。お願いします」


彼は立ち上がると、私を強く抱きしめた。「もう誰にも渡さない。嫌になっても逃がさん。覚悟しろ」「逃がしてほしいとは思いません」「正解だ」


一方、エリオットの方は、状況が急速に悪化していた。「見どころがない」と切り捨てた元婚約者が規格外だったという事実は、すぐに広まった。社交界では「判断を誤った」という評価が定着し、彼に近づく人間が減っていった。次に選んだはずの金髪の令嬢も、静かに距離を置いた。「あの方は、自分より優れたものを認められない」と周囲に漏らしたらしい。


ある夜会で顔を合わせたとき、エリオットは無理に笑って近づいてきた。「リリア、久しぶりだな。あの夜のことはお互い様だったわけだし」


カイルが、自然に私の前に半歩出た。「用があるなら俺に言え。彼女に直接話しかけるな」


エリオットの顔が強ばる。「婚約破棄はお互い様だったはずだが。彼女も同意したんだろう」


「お互い様? 一方的に『不要だ』と言って捨てておいて、よく言う。同意などしていない。ただ、反論する気力を失っていただけだ」カイルの声は低かった。「彼女の能力がどれほどのものか、あの夜で証明された。それを『見どころがない』で切り捨てたお前に、彼女の時間を使う価値はない。二度と近づくな」


エリオットは何も言えずにその場を離れた。後で聞いた話では、彼は「なぜだ」と繰り返していたらしい。正しい判断をしたつもりなのに、なぜ皆が離れていくのか理解できない、と。最後まで、自分が間違っていたとは思っていないようだった。誰も彼に答えを教えてあげなかった。ただ、静かに距離を取っただけだった。


社交界の片隅で、誰かが小さく言った。「捨てた相手が最強だった、か。彼の『正しさ』は、結局何も守れなかったな」


ある朝、窓辺で猫を撫でていると、後ろから大きな手が頭に乗った。「また猫か」「心が静かなんです。この子の。『あったかい』『ここにいる』って言ってます」「俺の心も聞いてみろ。『お前が大事だ』しか言っていないぞ。朝から晩までな」


私は笑って、その手に自分の手を重ねた。「聞こえてます。温かいです」「なら、いい」


彼は私の髪に顔を埋めて、低く笑った。猫が少し身じろぎして、また喉を鳴らし始めた。


灰色のドレスは、もう着ていない。


今の私のそばには、色を選ぶ自由がある。そしてどんな色を選んでも、隣に立つ男は変わらない目でこちらを見る。


捨てられた夜に始まった物語は、思っていたよりずっと、深く、温かいものになっていた。この腕の中だけは、確かに熱い。

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