飢えたプレデター WBAウエルター級王者 ホセ・ピピノ・クエバス (1957~)
クエバスの対戦相手が口を揃えて「棍棒で殴られたようだ」と言っているのは、誇張ではない。ウエルター級の世界チャンピオンクラスを素人がすりこぎか太鼓の撥で殴りつけたところで、動いている相手をその一撃だけでナックアウトというのはまず不可能だろうが、クエバスの左フックを浴びたボクサーは一発でマットに崩れ落ちるほどの破壊力があった。
一九七〇年代後半、『顎割りパンチャー』『ボーンクラッシャー』として勇名を轟かせたクエバスが、実際に対戦相手の顎を割ったのはたった一度に過ぎない。『顎割り』で有名なのは、むしろモハメド・アリの顎を砕いて、例の“ビッグマウス”を黙らせたケン・ノートンの方だが、ノートンは『アリの顎を砕いた男』とは言われても、顎割りパンチを専売特許とするボクサーのように扱われることはない。
また、クエバスを語る時、『病院送り』という言葉もよく使われた記憶があるが、リングで失神状態になって病院にかつぎ込まれたのも一例だけだ(試合後の検査入院は除く)。にもかかわらず、クエバスが相手を半死半生にしてしまう怪物のような扱われ方をしたのは、普通の高校生くらいの年齢で世界チャンピオンになったというミラクルボーイぶりも加味されていたからなのだろう。 十八歳六ヶ月の世界王者というのは、未だに破られていない世界ウエルター級史上最年少記録である。
ホセ・イシドロ・クエバスはメキシコシティに隣接するメヒコ州の肉屋の息子として生まれた。“ピピノ“はスペイン語では胡瓜の意味だが、ホセという名前の別称でもあるため、ホセ・クエバスかピピノ・クエバスという表記の方が正しい。
兄弟が十一人もいたので、幼い頃から靴磨きなどをしながら家計を支えていたが、年頃になるとストリートファイトの腕を鍛えるためにボクシングジムに通うようになり、一九七一年十一月十三日、十三歳十ヶ月という若さでいきなりプロデビューを果たしている。
ちなみにこの時の相手アルフレッド・カストロには二ラウンドでKOされているが、いくら生活のためといっても十三歳の中学生にプロのリングは酷である。最初の二年間の成績が七勝五敗(七KO)とふるわなかったのは、まだ身体が出来上がっていない状態(ライト級)で戦っていたからで、一七三センチ、六十六キロのウエルター級に成長してからは手がつけられなくなった。
初めて骨のある相手とやったのは、一九七五年九月二十七日、ホセ・パラシオスとのメキシコウエルター級タイトルマッチである。十ラウンドKOで見事国内タイトルを手にした時、クエバスはまだ十七歳だった。
メキシコ人は日本人と同じくらいの体格のため、軽量級は世界的にも層が厚いが、重量級となるといささか寂しいものがある。クエバスがメキシコウエルター級チャンピオンになった当時、中量級以上のメキシカンというと、ガッツ石松に二度挑戦して敗れたツリー・ピネダ(ライト級)くらいしか目立った選手はおらず、ウエルター級のハードパンチャーというのは一種の革命児といってもいいほどだった。
ウエルター級でリングに上がるようになってからは八戦全勝(六KO)と負けなしのクエバスは、一九七六年にWBAウエルター級世界ランキングの末尾に名を連ねたが、まだ国際的には全く無名だった。
一九七六年六月二日、初めて国外のリング(ロサンジェルス・スポーツアリーナ)に上がったクエバスは地元の人気ボクサー、アンディ・プライスと対戦した。プライスはこの一ヶ月後にメキシコ人初の世界ウエルター級チャンピオンになるカルロス・パロミノに初黒星をつけている長身のボクサーファイターで、まだ荒削りなクエバスの強打は不発に終わった(十ラウンド判定負け)ものの、メキシカンならではの好戦的なボクシングスタイルが受けたのだろう、程なく世界戦の話が舞込んで来た。
地元開催の世界戦とはいえ、すでに一度防衛に成功しているWBA王者アンヘル・エスパーダ(プエルトリコ)とクエバスでは経験値が違い過ぎる。エスパーダにとっては世界九位の十八歳の小僧をあしらって小遣い稼ぎをしようというくらいの気持ちだったのだろう。いくらハードパンチャーといっても十五勝六敗(十三KO)という数字だけ見る限りは、これで世界戦の挑戦者かと首を傾げたくなるほどだ。もちろん賭け率も9対1でエスパーダが圧倒的有利であった。
いざ試合の蓋を開けてみると、挑戦者コーナーから飛び出してきたのは飢えたライオンだった。臆することなく大きなストライドでぐいぐいと前に出てパンチを振るう挑戦者は、本能的に自らがジャングルの生態系の頂点に立つ存在であることを認識しているかのように、獲物を狩ることだけに集中していた。少々抵抗したところで、捕食される方の動物が捕食獣を倒すことなど自然界ではありえない。
相手の左をヘッドスリップでかわしざまの左ロングフック、返しの右クロスで距離を縮めてゆき、ショートレンジからの左右のアッパーがボディを抉る。ガードが下がれば、そこに左ショートだ。
ボディへのアッパーはサラテやサモラ、オリバレスのようなメキシコ軽量級のモンスターたちの十八番だが、これを中量級のクエバスがやるのだから、迫力も凄い。身長がほぼ同じのサラテもクエバスとスパーリングしたら内臓破裂は免れないだろう。
エスパーダはほとんど抵抗できないまま、二ラウンドに三度もダウンを奪われ、レフェリーストップのKO負け。無名の十八歳の破壊的強打が世界を震撼させた瞬間だった。
カルロス・パロミノがWBCウエルター級チャンピオンになってから一ヶ月も経たずに、同じメキシコ人がWBA王座に就き、かつては鬼門だったウエルター級タイトルを独占したことは、国内でも大きな話題になったが、やはり「十八歳の少年王者」というインパクトは絶大だった。
檻から放たれたヤングライオンが再びその姿を現したのは、遠く離れた日本の金沢だった。
一九七六年十月二十七日、金沢市実践倫理会館で待ち構えていたハンターは辻本章次(世界8位)、日本中量級のプリンスである。
辻本はプロ入りに際して多数のジムがスカウト合戦を演じたトップアマで、日本ライト級チャンピオン辻本英守の実弟でもある。芸能人ばりのルックスの良さもあってデビュー前から大変な人気だったが、若い頃は安全運転が目立ち、順調に日本ウエルター級タイトルは獲得したものの、その頃はまだとても世界の器ではなかった。
次第に倒すコツを覚え好戦的になったのは、元チャンピオンのエディ・パーキンスを破って世界ランキング入りした一九七五年頃からである。輪島功一というJ・ミドル級の世界チャンピオンがいても、ジュニアがつく水増し階級と伝統ある正式階級では選手層も重みも違う。
現在まで日本人の世界ウエルター級チャンピオンが生まれていないことからもわかるように、日本人はこの階級を避けて、J・ミドルで世界を目指すのが常道だったのだ。実際、辻本も減量苦から一時はJ・ミドル級への転向を考えていたが、思い直したのか、日本ウエルター級タイトルを九度防衛し、ムサシ中野以来、世界を目指せる日本人ウエルター級ボクサーとして世界挑戦のチャンスを待ち続けてきた。
パンチ力は断然若き王者に軍配が上がるとはいえ、まだ経験が浅く未知数なところも多いため、試合巧者の辻本にも期待が寄せられていた。
初回からクエバスはKO狙いで飛び出してきたが、リーチが長くサウスポーからの右ジャブの切れ味が鋭い辻本が左に回り込みながら得意の左強打を巧みに回避するという試合運びは見事だった。焦りからクエバスが直線的に前に出れば、左ストレートをビジビシ決め、五ラウンドまではイーブン。むしろ五ラウンドはクエバスの方が狙い打ちされている感が強かった。
ところがこの若きライオンは想像以上に狡猾な捕食者だった。ラッシュ戦法が効かないと見るや、少し攻撃の手を休めて、それまでカウンター狙いで防御に徹していた相手にアグレッシブに攻めさせるのである。野生の猛獣も銃弾を喰らった後、死んだふりをしてハンターが至近距離まで近づいた瞬間に襲いかかることがよくあるが、クエバスもそうで、五ラウンドにいけると手ごたえを感じた辻本が六ラウンドに打ち合いに応じてくれるのを待っていたのだ。
果たして六ラウンドは派手な打ち合いになり、辻本も意外なほどのタフネスを見せて打ち返していたが、一発一発の重みが違っていた。しかもクエバスは顔面よりもボディに照準を合わせて、ロングレンジからでも迫力満点の左右フックを執拗にボディにねじ込んでくるため、さすがの辻本も脇を締めてガードを下げざるをえなくなってきた。そこに待ってましたとばかりの左ショートフックが炸裂し、挑戦者はついに膝を付いてしまう。
ボディが相当に効いているので、辻本はもう足は使えない。一方的な集中打を浴び、さらにダウンを二度追加されたところで、レフェリーストップ。二十八歳の経験豊富なベテランも十八歳のメキシコ人少年に勢いを止めることは出来なかった。
クエバスが最も苦戦したのは、辻本戦から一年後の一九七七年十一月十九日に行われた前王者エスパーダとのリターンマッチ(四度目の防衛戦)であろう。
前回、油断して負けたことで慎重になりすぎていたのか、またしてもエスパーダは二ラウンドにダウンを喫してしまうが、今回は逆にクエバスの方がこのままKOしてしまえると思ったのか、パンチが雑になり、エスパーダに巧く逃げられてしまう。
窮地を脱したエスパーダは後半に入ると試合をコントロールし始め、十ラウンド終了時点ではスコアは逆転していた。エスパーダはこのままゆけば自分が勝てると思っていたそうだが、千両役者はここからが一味違う。十一ラウンドにギアを上げたクエバスは、カウンターも何のその、力でねじ伏せる策に出て嵐のようなパンチを浴びせ、三度もエスパーダをマットに転がしてみせた。
スコアでリードしていることがわかっているエスパーダは根性で立ち上がったものの、ラウンド終了後のドクターチェックで顎を三箇所も骨折していることが判明し、ここでストップ負け。ここで緊張の糸が切れたのか、エスパーダはその場に昏倒し、病院に緊急搬送された。
エスパーダ戦で見せた壮絶な顎割りパンチで知名度も急上昇したクエバスの次なる相手は、エスパーダ以上に手強いリングマスターだった。ハロルド・ウエンストンは史上最年少の十七歳六ヶ月で世界王座に就いた天才児、ウィルフレド・ベニテスが初めて勝てなかった相手(引き分け)でもある。
その他にもビト・アンツォヘルモ(後のWBCミドル級王者)にKO勝ち、現役WBC・J・ミドル級王者ロッキー・マッチョーリに判定勝ち、ソウル・マンビー(後にWBC・J・ウエルター級王者)と引き分けと、対戦相手も一流揃いである。
超絶技巧のベニテスに引けを取らないだけあって、クエバスも終盤まで攻めあぐねたが、九ラウンドにウエンストンの口から大量の出血が見られたため、顎の骨折の疑いありということでラウンド終了後にドクターストップがかかった。そのまま病院に直行して検査を受けたところ、幸い口腔内の裂傷だけで顎は骨折していなかった。それでも、顎の骨折のため挑戦者のTKO負けという試合直後の公式発表が一人歩きをし、二試合連続で挑戦者が顎を割られたという認識が広まったことで、ますますクエバスのパンチに対する警戒感と畏怖の念が強まっていったことは確かである。
おかげで六度目の防衛戦の相手ビリー・バッカスは、完全に逃げ腰のまま何も出来ずに一ラウンドKO負けし、その次のピート・ランザニーは指名挑戦者(世界一位)にもかかわらず、二ラウンドに滅多打ちに遭い、ようやく意識が戻ったのは病院だった。
ウエルター級ではもはや敵なし状態のクエバスは、同国人でありWBC同級王者でもあるパロミノとの王座統一戦を望んでいたが、一九七九年一月にパロミノがベニテスにタイトルを奪われたことで計画は白紙に戻った。
ベニテスとの天才少年同士の対決もファンから熱い期待を浴びていたが、どうやらベニテス陣営はパロミノ相手の方が勝算が高いと踏んだようだ。
そのパロミノが八度目の防衛に失敗して間もない一月二十九日、クエバス自身も八度目防衛戦を迎えていた。対戦するのは、第二のベニテス、クエバスを目指して快進撃を続けてきた二十歳のスコット・クラークである。後にフロリダボクシング殿堂入りするクラークは“ゴールデンボーイ”の愛称で呼ばれる人気者とあって、試合報酬も過去最高額の十二万五千ドルに達したが、一歳年上の豪打に二ラウンド持たず、左アッパーの餌食となった。
これで連続KO防衛記録が8に達したクエバスは、ライト級で10連続KO防衛という金字塔を打ち立てた統一王者ロベルト・デュランが同じ月にタイトル返上を表明したことで、両者の対戦が俄然現実味を帯びてきた。
また同じ頃、ウエルター級でもシュガー・レイ・レナードとトマス・ハーンズという未来のスーパースターの台頭が著しく、中量級でありながらヘビー級に匹敵するビッグマネーを生む“中量級スターウォーズ”の時代が今まさに幕を開けようとしていた。
その主役候補たちの中で最も若い二十歳の二冠王ベニテスと二十一歳の破壊王クエバスには無限の可能性が広がっていたはずだが、アスリート界の早熟の天才は、ダ・ビンチやミケランジェロのように太く長くとはいかないようである。
一九七九年十一月三十日、まずベニテスがレナードにKO(十五ラウンド)され脱落する。
クエバスはその八日後にエスパーダとのラバーマッチをKO(十ラウンド)で制したとはいえ、その前の九度目の防衛戦では、決して打たれ強いとはいえないランディ・シールズを持て余して判定まで持ち込まれており、連続KO防衛記録も8で途絶えてしまっていた。
長期政権であるがゆえに挑戦者から研究され尽くしている点は否めないが、パンチ力を過信してか、攻撃が次第に雑になっていることも事実だった。レナードのライバルとされるハーンズがやけに自信気にクエバスとの対戦を望むようになったのは、その単調な攻撃パターンを読み切り、攻略できるという確信に近いものがあってのことだろう。
一九八〇年四月五日、ハロルド・フォルブレヒトを五ラウンドに左一発で昏倒させ、十一度目の防衛に成功したが、三ラウンドまでは挑戦者が優勢で、クエバスが不用意なパンチを貰っていたのが気になる一戦だった。防御勘の衰えを強打でカバーできたのは結果オーライに過ぎず、落城の日が迫っていた。
四ヶ月後(八月二日)の十二度目の防衛戦では、十センチも長身のハーンズの槍のようなストレートをかいくぐることが出来ず、二ラウンドにしたたかに直撃弾を浴びて足元がふらつき始めたところで、セコンドからタオルが入り、デビュー戦以来の屈辱的なKO負けで王座を明け渡した。
レナード対デュラン(第一戦)に続いて用意された一九八〇年度の中量級ビッグカード第二弾は、クエバスの拍子抜けするような惨敗に終わったが、年齢的には二十二歳とまだこれからである。
翌一九八一年には早速再起戦がお膳立てされ、世界ランカーと欧州チャンピオンを軽く連続KOして復活をアピール。
クエバス人気は相変わらず凄まじく、二月七日にロスのオリンピック・オーディトリアムで行われた再起戦では、九千席の入場券が完売した後も席にあぶれた五千人ものファンが会場の入り口を破壊するなどの暴動を起こし、百人を超える警官隊が鎮圧のため派遣されている。
会場の外は「暴徒排除指令」が出されるほどの騒ぎだったが、会場内も負けず劣らずで、クエバスが二ラウンドでベルナルド・プラドを沈めるやいなや、熱狂的なファン数十名が“教祖”クエバスの身体に触れようとリングに殺到し、警官やガードマンとの小競り合いを起こしている。
ハーンズに全く歯が立たなかった“元”チャンプに、まだこれだけの狂信的なファンが群がってくるというのは、日本のボクシングファンには理解しがたい現象であろう。まさに制御不能の人気である。
不動の人気も追い風となったか、WBA、WBCともに世界ランキング一位に復帰し、レナードとの対戦話も出始めた矢先の十一月に、世界ランキングにすら入っていない伏兵ロジャー・スタフォードからダウンを奪われての判定負けで、全ては御破算になった。これで商品価値を大幅に下げてしまったクエバスに、再び世界の声がかかることはなかった。(この試合は『リング』誌による「年度最高の番狂わせ試合」に選ばれている)。
その後約三年間のブランクを作ったクエバスは、一九八五年一月二十九日、色あせた黄金カードでロベルト・デュランの引き立て役(四ラウンドKO負け)を演じてからというもの完全な下り坂で、将来のチャンピオン候補生たちの踏み台にされ、一九八九年九月、長いリング生活にようやく別れを告げた。
生涯戦績 35勝15敗(31KO)
クエバスは浅黒く凛々しい面構えと襟足まで伸ばした髪が若いライオンを彷彿させることから、『ヤングライオン』と呼ばれることも多かった。髪を振り乱して相手に襲いかかる姿が格好良く、スター性も抜群だっただけに、これほど急に燃え尽きたのは意外だった。ベニテスは天才にありがちな自信過剰と練習嫌いが仇となったが、若い頃何度も敗北の味を噛みしめてきた飢えた猛獣のようなクエバスは、減量苦とも無縁で、まさに理想的なナチュラルウエルターだった。




