さようなら後宮、こんにちは皇二子殿下
「ということですので、速やかに後宮から出る用意をし、郷里へ戻るようにとの綸旨を賜りましたゆえ」
見下すように、そんな通達を寄越すのは、後宮に仕える上級の宦官の一人だ。彼の背後には陛下の美しい寵姫の一人、藍貴妃がいると分かっている。抵抗は無意味だし、もはや陛下の意思は変わらない。
だから——これ以上、みっともないところを見せるわけにはいかなかった。
「承知しました。今日中に荷物をまとめ、明日の朝、故郷へ下がりますわ」
私、林翠蘭はそう伝え、一礼して去っていく宦官を眺めていた。廊下の向こうに姿が見えなくなってから、ため息を吐く。
あの宦官は、嘘は吐いていないだろう。
私の父、林佑が北方の太守としての任に失敗した。北方からの異民族の侵入を阻止しきれなかったのだ。そのため、国の北方にある都市はいくつか被害を受け、南へと避難してくる民も大勢いるという。
その失態を、皇帝陛下はひどく叱責されたそうだ。そのため、父は毒を呷って自害した。それがつい先日のことだ。
そして、縁者である私にも、陛下の怒りの火の粉は飛んできた。ただ、私を処刑するまではせず、後宮から追放するという温情ある措置となった。三族——父母、兄弟、妻子の皆殺しとならなかっただけ、ましというものだろう。
私はもう、さっさと後宮から出たくてたまらなかった。第一、私は陛下にお目通りしたことなど、一度もない。一年前に文をいただいたことはあるが、それっきりだ。十九歳になってやっと貴人の地位こそいただいたけれど、それ以上の地位には上がらないと分かっているからこそ——父の出世のために後宮に入ったから、なおのこと——後宮にいる意味がなくなってしまったのだ。
こうなれば、命じられたとおりに故郷へ下がるしかない。故郷には弟がいるから、早急に父の跡を継いで領地で一族をまとめているだろう。聡い弟だ、何かあれば私が頼って戻ることも分かっているだろうから、安心して帰ることができる。
となれば、善は急げ。私は急いで、部屋の荷物を片付け、お付きの女官と宦官たちへ、持っていた高価な宝飾品をほとんど分け与えた。どうせ持ち帰っても、田舎で使うことはないだろうから、そう言うと彼らは平伏して受け取っていた。中には突然の別れに涙する女官もいたが、どうしようもないと諦めるよう諭した。
私は涙一つ出なかった。父の死も、陛下の寵愛がないことも、三年住み慣れた後宮を離れなければならないことも、悲しいは悲しいけれど、心を動かすまでには至らなかった。
翌朝、裏口に呼び寄せておいた馬車へと向かう途上、廊下ですれ違った嬪たちが、私への陰口を聞こえよがしに喋っていた。
「父君のご不幸にも、目を腫らしすらしないのね……私だったら三日三晩は泣き腫らしそうよ」
「陛下から暇を下されて、それでも恥ずかしげもなく。まあ、もうご一族は表舞台には出ないでしょうね」
「あら、それはいいこと。もともと山間の小領の出、鄙俗な一門ですもの」
嬪たちがお上品に笑う。下卑たことを口にしながら、外面はよく見せる。この慣習が、私にはとてもではないが合わなかった。何となじられようと、彼女たちには馴染むまい、そう思ってきた三年間、それは叶ったのだからよしとしよう。
私は嬪たちと目を合わせないように、廊下を通り過ぎた。
故郷までの七日の長旅の初め、それは起こった。
麦畑の道の真ん中で、私の乗った馬車を、錦の黄旗を持った一団が取り囲んだのだ。
それは恐れおののく御者の手を止めさせ、馬車も止まる。すると、こつ、こつ、と後ろのほうから、馬の蹄の音が聞こえた。ひょいと顔を見せた白馬は立派なもので、赤糸の装飾も金の鞍も皮革の手綱も、そこいらの将軍が使うような代物ではない、と私は見た。
ならば、一体どこの誰が——そう思っていると、馬車の扉は開かれ、一人の男性が入ってきた。
「あっ……」
私は、その顔に見覚えがあった。
その男性が、宮廷の実質的最高権力者である前皇帝の皇后、つまり現在の皇太后に会いに後宮へ出入りしていたのを、何度か見たことがあった。皇帝に近しい皇族ならば、もともと住んでいたわけでもあるし、家族と会うために後宮にも入れる。
さぞ高位の皇族なのだろう、そこまで私が推測して、馬車に押し入ってきた男性と目を合わせると、男性は満面の笑みを返した。
「おう、間に合ってよかった! 林翠蘭だな? 俺は薛仁洪。皇二子、壁西親王の名で通っている」
仁洪と名乗る男性は、よく通る声で自己紹介をした。
皇二子とは皇帝陛下の第二子のこと、壁西親王とは皇帝陛下の信厚い西方に封じられた親王であること。それだけで、どれほど身分の高い人物が目の前にいるか、信じられないほどの言葉だった。
仁洪は、私の前の席にどかりと座り、こう語る。
「時間が惜しい。単刀直入に言うぞ、俺のところへ来い。陛下に睨まれるから側室扱いだが待遇は正室と同等だ、お前の実家の支援もする。何不自由ない生活を約束してやる」
私は息を呑んだ。側室、妾へのいきなりの誘い。しかしそれに驚く間もなく、落ちぶれかけている実家への支援という言葉は、甘美なもの。
とはいえ、この無礼で粗野な親王のものとなるには、いささか抵抗があった。なので、あえて私は問う。
「お待ちくださいまし。なぜ私にそのようなことを?」
「そんなもの決まっている、ずっとお前を見ていたからだ。お前が陛下に手をつけられていないことも知っているぞ」
そこまで調べて、私が後宮を追われて故郷へ戻る帰り道を見張っていたのか。であれば、何の力もない私ごときには逃げようがない。断れば、それこそ本当に実家が零落する。それだけの権力を、仁洪は握っていることは確かだ。
彼の私への執着は、一時的なものなのか、ずっと見ていたという言葉のとおりなのかは分からない。だけど、今ここでは、私はどうしても手に入れたいものだという意思表示をされてしまっている。
私はそれを理解すると、しょうがなく頷いた。当然、ただではなく、条件付きで。
「ならば、断りはしませんわ。ただし」
「ただし?」
「私がいいと言うまで、私に手出しはなさらないで。それでいかが?」
要は、従いはするがすべてを委ねるわけではない、ということだ。
すると、仁洪は少し意外そうに目を丸くしていたが、数秒悩んで了承した。
「分かった……おい、小明」
「はい、殿下」
仁洪が馬車の外へと声をかけると、するりと芦毛の馬から男装の少女が降りてきた。見た様子では私より少し年下で、腰には見事な剣を佩いている。
馬車の外で片膝を突く少女を指差し、仁洪は私へと紹介する。
「こいつは鄭小明、こいつの兄が俺の片腕で、こいつは俺の妹みたいなものでもある。お前に付けておくから、困らせない程度に使ってくれ」
小明は拱手をして、私へと人懐こい顔で微笑んだ。
「よろしくお願いします、林夫人」
こうして、私は親王薛仁洪の愛妾となった。そのまま仁洪の自領に連れていかれ、さっそく屋敷を一つあてがわれた。どうも、前々から用意をしていたらしい。用意周到というべきか、ずっと見ていたという言葉は本物だったというべきか。
周囲を覆う竹林と中庭の小さな池、五名の使用人までついたその屋敷で、私は持っていた荷物を紐解こうとしていたら、小明が手伝いを買って出てくれた。
ところが小明、たった二つの包みで終わってしまっている私の荷物の少なさを見て、驚きを隠せないでいた。
「どうしてそれだけなのです? 後宮に置いてきてしまったのですか?」
私は苦笑しつつ答える。
「もともと、あまりものを持たないから……後宮で持っていた宝飾品は、ほとんど女官たちへと譲ってしまったし」
小明は不思議そうに、私が細々とした化粧道具を取り出すさまを見ながら、うーんと悩んでいた。
「それは……殿下にお伝えすべきなのか、悩みますね。殿下は別段、宝飾品を好む方ではありませんし、でも林夫人が何も持っておられないと知れば、意地でも贈り物として買い揃えられるでしょう。面倒くさいことを言い出すに決まっています」
「……言わないでもらえるかしら」
「ええ、そうおっしゃられるならば、もちろん。別に、私はお目付役でも何でもありません。ただ、殿下は林夫人が知らない土地で心細いであろうから、と私をお付けになられたのです。話し相手とでも思っていただければ。それにですよ」
そう前置きしながら、小明は気恥ずかしそうにこう言う。
「私、実はずっと男兄弟の中で育てられましたので、あなたのような女性らしい貴婦人には憧れがあります。よろしければ、その、どうすればそうなれるか、お教えいただければ」
だんだん声が小さくなる。小明は顔をうつむけ、照れていた。
確かに、小明は長い髪も結んだだけで手入れしていないし、白粉も紅も差していない。一見すれば、初対面のときのように男装の少女、もしくは紅顔の美少年としか思えない。
どうやら、本人は男装の自覚はなく、いたって平時の服装をしていると思っているようだ。
私は、少しだけ、小明に興味が湧いた。化粧道具箱から、手のひらに乗るほど小さな、丸く赤い漆の箱を取り出し、小明の手を取って置く。
「そういうことなら、これをあげるわ」
「わっ! 小さい! 何これ!」
「練紅だけど、ちょっと色が明るいから、私より若いあなたのほうが似合うと思うわ」
小明は練紅をじっと見て、これはいったい何なのか、とばかりの困惑した顔をしていた。使い方が分からないのかもしれない。
私は蓋を開けて、紅を指に取り、小明の顔へと持っていく。
「はい、じっとして。こう塗るの」
顔を強張らせる小明の唇へ、私は人差し指で紅を塗っていく。塗るたびに、瑞々しい唇に鮮やかな赤が差していく。小さめの唇全体へと塗り終えたとき、小明は年頃の少女らしい顔へと変貌していた。
私は手鏡を渡し、小明へその顔を見せる。
「どう?」
小明は、惚けていた。まるで、自分の顔だと信じられないかのように、何度もじっと手鏡を見ては、私のほうを窺っている。自分の変化に頭がついていけていないようだ。
私は、くすりと笑った。
「お化粧、覚えましょうね」
「は、はい」
小明は素直にそう答えた。
しばらく、暇つぶしには困らなさそうだ。
あてがわれた屋敷に来てから、一ヶ月が経ち、毎日のように小明が仁洪からの恋文を持ってきて——私はそれに一切返事を書かなかった。
どうせ仁洪は部下の小明から私の様子は聞いているだろうし、こちらの状況は筒抜けだ。それでも私は特段困ることもなく、ただ日々を過ごしている。それに、私から実家への支援のことや生活の足りないこと、それと仁洪への思いを告げるのは、いささか抵抗があった。はっきり言ってしまえば、初対面での仁洪の粗野で無礼な態度を見て、信用できると思うほうがおかしい。
だから、じりじりと、天秤で水平をわずかずつ傾かせるように、仁洪は小明を通じて私へ言って来ていた。要約すれば、私と会いたい、と。
私はずっと、にっこり笑って誤魔化していた。積極的に会いたい気分ではなかったからだ。
そうしていると、ついに小明がこう言ってきた。
「林姐、そろそろ殿下に、お返事を一言でも書いて差し上げてはいかがです……?」
私のことを林夫人から林姐と親しげに呼び方を変えた小明は、一生懸命、自分の主君である仁洪のことをよく言おうとする。
「殿下も決して性悪ではありません。色々とお優しいところもあるんですよ」
「そうね。そうかもしれないわ」
「ただまあ、あれです、ちょっとその、乱暴というか、がさつではあります」
「ええ、そう思うわ」
「あれは、私の父や兄のような武人とよく付き合っていたせいで……おかげで宮廷でも敬遠されていますし、殿下は殿下でまったくそのことを気になさらないものですから、皇帝陛下にも覚えがよろしくないともっぱらの噂です。私の父や兄もそこは影響を与えてしまって悪いと思っているらしく、お小言を言えないわけではないのですが、どうにも腰が引けてしまっていて。第一、父も兄も他人のことを言える筋合いではありませんし。本当にもう、どうすればいいのでしょうか」
愚痴の様相を呈してきたことに気付いた小明は、慌てて取り繕う。
「ああ、でも! 殿下はとても頼りになるお方ですよ! 決断力はおありですし、頭もよく回ります。武芸百般にも通じ、親王というご身分ながら戦の経験も豊富です。それから、ええと、政のことなら気が利くと申しますか、文官の扱いにも慣れていて」
きっと小明は分かっていない。女にそれを言ったところで、何の魅力として映るのかを。
言うことがなくなってきた小明が、少し涙ぐんできた。他人を褒め、恋の話題をした経験もなく、どうすればいいのか、皆目見当がつかないのだろう。
私は、そんな小明の顔に免じて、折れることにした。
「小明、そんなに言うなら、殿下へ一言だけ書くわ」
「本当ですか!」
ぱあっと笑顔になった小明へ、私は頷く。
私は机にあった真っ白な紙へ、細い筆でさらりと二文字だけ書いた。『我去』と記したその紙を、小明へ渡す。
『行きます』とだけ書けば、伝わるだろう。おそらく、無駄な装飾や言葉は、あの親王には必要ない。要点だけを伝えればいいのだ。
それは小明も同じで、仰天した小明は立ち上がって剣の柄をテーブルにぶつけ、上擦った声で尋ねてくる。
「いつですか!?」
「……今夜?」
「分かりました! 急いで戻って殿下へこれをお渡しします!」
小明は風のように去っていった。
私は、残されたテーブルのお茶を一口飲み、つぶやく。
「どうして詩のような恋愛ってできないのかしら?」
そして、その夜。
夜半、私は静々と月明かりを頼りに廊下を歩いていた。前を歩くのは女官ではなく二人の兵士。後ろにも一人いる。どうやら、仁洪の広大な宮殿では、客人を案内するのは兵士の役目のようだ。それは客人を見張る目的もあるし、何かあったときに対応するため、だろう。
ただ、今日に限っては、いきなりやってきた私に応対させる女官の手配が間に合わなかった、という事情がある。兵士の一人がこっそりそれを教えてくれたから、知っている。
閲兵式に使うような大広場の見える、やはり広い応接間に通された私は、椅子に座って仁洪を待っていた。
閉まった扉の向こうで、慌ただしい音が何度も何度も聞こえる。
「待て、まだ紐が」
「ちょっとまた緩んでますよ!」
「酒! いや、茶は……どっちでもいい!」
「酒はだめです、殿下、酒癖悪いから!」
やがて音が聞こえなくなってから、扉が開いた。
仁洪だ。走ってきたのだろうか、どことなく肩で息をしている。部屋に入ってくるなり、私を見て顔を綻ばせた。
その後ろにいた小明は、さっさと扉を閉めてしまった。邪魔をすまいという心遣いだろうけれど、私はお茶が欲しかった。
足音を立ててやってきた仁洪は、テーブルを挟んで向こうの椅子にどかりと座った。すぐに、私へ話しかけてくる。
「あの返事をもらって、焦ったぞ。諸々仕事を切り上げてだな」
「お邪魔でしたかしら」
「そんなことはない! この一ヶ月、会えずにどれほどつらかったか」
「でも、約束を守ってくださっているのでしょう? 弟とも連絡を取っていただけているとか」
それを小明から聞いたとき、私はほんの少しだけ、仁洪を見直していた。ちゃんと約束を守っている、親王という身分にありながら、女とのただの口約束なのに。
すると、仁洪は得意げにこう言ってきた。
「約束を守るのは当然のことだ。何よりも、俺はお前が欲しい。手に入れたい。なら、そのためには何でもやるさ」
仁洪は胸を張る。子供っぽいその主張に、私は思わず微笑んでしまった。
仁洪はそれを見て喜ぶ。たったそれだけのことでも、どうやら嬉しいらしい。
気をよくした仁洪は、一歩、態度をにじり寄らせた。
「なあ、翠蘭。欲しいものはあるか? 小明に聞いてこいと言っても、だめだと一点張りで……分からん。何が言いたいんだ、あいつは」
どうやら、小明は私が伝えないでほしいと言ったことは、ちゃんと仁洪へは伝えずにいるようだった。信頼のできる小妹である。
私は仁洪へ、どう誤魔化すべきかを考えていた。何かが欲しいと言えば、この親王殿下はあらゆる手を使って手に入れてきそうだ。そんなことをしてもらっては、今後強い態度で来られると断れなくなる。
「殿下は」
「仁洪でいい。嫌か?」
「畏れ多いことでございます」
「そうか……」
名前で呼ぶように、と仕向けたかった仁洪は少ししょんぼりとしていた。
私は——思い浮かんだことを、問いかける。
「私が欲しいものは、何なのでしょうね。後宮の華美な生活も、誰にも呼ばれぬ三年の日々も、亡くなった父への助力も、何もかも意味がなかった」
仁洪は静かに私の言葉に耳を傾けていた。これらの事情は、仁洪も把握していることだろう。私は不幸だと、そう思っているに違いないし、事実そうだと思う。
しかしだ。
「ならば、これから何をすればよいかと考えても、何も思い浮かばないのです。身の不幸や悲しみにうつむいて暮らすことも、私の性分ではございません。何か事業を成すにも、女の身にては向いておりません」
何かをしたい。すでに人生をつまづいてしまった身でも、まだ二十歳にもならない小娘だ。
咲くだけ咲いて、誰の目にも止まらなかった花は、徒花として消えるしかないのか、と。そう思ってしまった。
仁洪は、しばし考えたあと、じっと私を見つめ、こう言った。
「分かった、翠蘭。俺は、その答えを与えられる」
え、と私は喉から声が漏れた。
仁洪は、自信満々の顔で、自信満々に、宣言した。
「俺を好きになれ。その見返りに、お前を愛して、彩ある人生を約束してやる。つまりは……まあ、その、愛妾という身分で悪いが、そのうちちゃんと報いる、ということだ」
仁洪は、照れくさそうに、頭を掻いている。
まるで、親王殿下には見えないその顔は、年相応の青年だ。
ただただ、好きになった女を欲して、愛したいと言っているだけの青年へ、私は——何かをしてやりたいと思った。
後悔するかもしれない、絆されただけの決断かもしれない。
それでも私は、言ってしまった。
「あなたを愛せば、愛してくださるのですか?」
その言葉に目を丸くした仁洪は、すぐさま大きく頷いた。
「ああ、もちろんだ!」
——それで十分だ。
私は、テーブルに置かれた仁洪の手を、取った。
それから二ヶ月後のことだった。
難しい顔をした仁洪が、呼ばれてきた私へこう告げた。
「陛下から、お前を後宮へ戻せと打診を受けた」
私は、何を言っているのだろう、と一瞬訳が分からなかった。
私を追放した当人が、戻ってこいと言っている。一体全体、何の戯れだろうか。
「どうやら、俺がお前を手に入れたと聞いて、お前を惜しく思いはじめたようだ。三年放ったらかしにしておいて、追放までして、どの面を下げて……ああいや、あまりにも厚顔無恥な行いだと俺は思う」
言い直してもほとんど意味は変わらないあたり、仁洪は皇帝陛下をよく思っていないのだろう。ひょっとすると、嫌ってすらいるのかもしれない。仁洪の竹を割ったような性格なら、それも十分あり得そうだ。
しかし、仁洪はこうも言った。
「大丈夫だ。色々と考えたんだが、この打診、意味をなさなくなる」
それは、どうにも、私を安心させるための方便、というわけではなさそうだった。
仁洪は苦い顔で、説明をする。
「俺はお前を連れて、南へ行く。陛下の要請はすべて無視して、だ」
私は、耳を疑った。どういうことだ、と私が仁洪へ詰め寄るよりも先に、仁洪は地図をテーブル上に広げて、都とその北方を指差す。
「いいか? 言っては何だが、お前の父が北方を守りきれなかった以上、冬を前にする以上、蛮族たちは確実に南下してくる。俺の情報網では、すでに都のすぐ近くまで来ているということが分かっている。今の都にある戦力でそれらを退けることはできないし、平原にある都は籠城に向いていない造りだ。大軍が来れば、すぐに降伏するだろう。今から行っても、誰も助けることはできない」
それは、戦の経験のある将として、冷静に現実を見た結果の言葉だった。
仁洪は、皇帝を、都を見捨てる決断を下したのだ。そうするしかないと、分かってしまったからだ。
私は息を呑んだ。仁洪の冷徹さに恐れを抱かなかったわけではない、しかし仁洪は間違ったことを言っていない。負けると分かっている戦でいたずらに兵を失うことはしない、そういう性分だ。
第一、今から都へ急使を走らせてももう間に合わないだろうし、都にいる皇帝陛下やその臣下たちには信じてもらえない可能性だってある。そんなところに何を言っても仕方がない。
仁洪は地図の南を指差す。大河のさらに南、肥沃な穀倉地帯、鄙俗と都の人々が蔑む土地だ。
「ならば、一路南へ逃げて、都を移し、国を引き続き存命させるよう働くことこそ、俺のやるべきことだ。すでに部下をそのように動かしてあるし、都から一部の有能な文官武官は逃がしてある。あとは、なるようになるだろうさ」
仁洪は地図を畳み、立ち上がる。
そして、私へ、手を差し伸べた。
「翠蘭、南へ行くぞ。ついてきてくれ」
「はい、どこまででも」
こうして、私たちは宮殿を後にし、南へと逃れた。
都も、後宮も、何もかもが燃えたと南の土地で聞いた。
皇帝は処刑され、皇太子も行方不明、この国は滅びるかと思われた。
しかし、皇二子、壁西親王である薛仁洪は立ち止まらなかった。南へ都を移し、異民族との戦いに備えた。南下してきた一部の異民族を撃退し、大河の向こうへと押しやることにも成功した。敵にも味方にも、鮮やかな戦の手並みを存分に見せつけ、天下にその威光を轟かせた。
仁洪は、宣言した。皇帝の位を継ぎ、国を再興させる、と。
かくして、仁洪は新たな皇帝となった。いずれ来たる都の奪還という難事業を目的に掲げ、この国をかつてないほどに繁栄させた。
となると、私はどうなるのか。
仁洪は、空けていた正室の位、つまり皇后の位に、私を選んだ。
あれよあれよと言う間に、私はお仕着せの皇后の衣を着せられ、仁洪の隣に並ぶようになってしまった。私は何も言うことはないけれど、仁洪は私が隣にいて心強いと言ってくれた。玉座にいても、私がいれば決して行いを間違えるまいと思えるらしい。
そんな言い方をされると、どうにも嫌とは言えない。私がいるということがそれほどに価値があるのなら、仁洪のために尽くそうという気にもなる。
そして私は──皇后とされてしまってから、後宮の主人にも据えられてしまった。
仁洪とは毎日のように顔を合わせている。でも、仕事のことだけじゃなくて、ちゃんと夫婦らしく、一緒にいられる時間も作ってくれる。あまりにもべったりしすぎて、帰りたくないと駄々をこねるときさえある。
困った人だ。
けれどまあ、悪くはない。こうして仁洪を支えるのも、悪くはない。
そんな人生なのだろう、きっと。
後日談
雷鳴のような干戈の音は鋭く、地震のような足音は遠ざかっていく。
今から薛仁洪は北方の異民族が建てようとしている国を滅ぼすため、出撃する。皇帝として陣頭指揮を取り、都と領土の奪還という悲願を果たさんと、十年来の思いを胸に征く。
そのはずなのだが、仁洪はまだ私の部屋にいた。すでに立派な鎧を着ているのに、私の前をぐるぐる歩き回って、とんでもないことを言い放つ。
「行くのはやめよう、そうしよう」
私は却下した。
「駄目です。早く行ってください」
「だが、お前のことが心配で」
「もう三度目の出産ですよ。いい加減、慣れました」
私は椅子に座り、大きくなったお腹をさすって、呆れていた。
もうじきに十月十日となる。仁洪はすでに二児の父だが、子供よりもずっと私に甘える。表舞台ではまったくそんな素振りを見せないのに、随分な豹変ぶりだと思う。
それでも、仁洪はまだ食い下がる。
「もし何かあればどうする! ここまで戻ってくるのに一ヶ月はかかるぞ、文を出しても早くて十日だ! どうしよう、春先に進軍するなんて言わなければよかった!」
「あなたが言い出したのでしょう。ちゃんと行ってください」
「ここまで分かっていれば言わなかったのに!」
仁洪は本気で自分の発言を悔いている。去年、仁洪が北方への進軍を決めたころ、まだ私は妊娠が判明していなかったので、それは仕方のないことなのだが。
しかし、仁洪はもう十年も在位している皇帝なのに、妻の出産に立ち会えなくて心配で出征できないなど、とても臣下に見せられる姿ではない。一度目も二度目も、出産の際にはそれは喜んだり心配したりと感情表現激しかったのだが、今回は特にひどい。
座っている私の膝に抱きついて離れようとしないほどには、ひどい。
「陛下。ご自分が決めたことです、天子たるものその意思を簡単に覆せるとでもお思いですか」
「知らん。嫌なものは嫌だ」
「一応、先帝や兄君の弔い合戦ではありませんか」
「別にどうでもいい」
「そのことは絶対に臣下の前では口走らないでくださいね」
念押ししたが、仁洪は顔を埋めて答えなかった。本当に、仕方のない人である。
「そんな姿、春洪と堅洪にはとても見せられないでしょう? いい加減にしてくださいな」
さすがに、息子たちの名前を出されては、仁洪も反応しないわけにはいかず顔を上げた。眉を八の字に下げて、大変情けない顔になっている。
「しょうがないから行ってくる」
「しょうがなくはありませんが、お気をつけて」
「ああ……嫌だ、行きたくないのに」
仁洪は立ち上がり、ふらふらと扉へ向かっていく。
あまりにも足取りが不確かなものだから——私は、ついこう言ってしまった。
「帰ってこられたら、そのときは家族揃ってお出迎えいたしますから。それに、お約束していた桃園にもまだ行っていませんし、一緒にお忍びで城下を歩くこともしていません。守っていただかなくては、困ります」
それはここ数年、もし機会があればやってみたいことを互いに話し合い、約束していたことだ。
ある日突然、仁洪と私は皇帝と皇后という立場になってしまって、まともに恋人としていられる時間もなく、忙しない毎日に追われてしまっていた。だから、仁洪は私に申し訳ないと思っていたようだ。穏やかな時間、平和な場所で、ともにゆっくり過ごせたら。その夢を、叶えなくてはならない。
やっと、仁洪は両足でしっかりと立った。振り返って、ようやく顔を引き締める。
「分かった。行って、戻ってくる。そうしたら、約束を果たせる」
「ええ。おっしゃるとおりです。あのときだって、約束を守ることは当然だ、とあなたは言っておられました」
「そうだったな。うん、そうだ。お前との約束は必ず守るからな」
そうして、仁洪は軍を率いて北方へ旅立った。
その快進撃は連日のように私のもとへも報せが届き——もしかして私に会いたいがために早く終わらせようとしていないかと心配になったけれど、それもまた、あの人らしいと思うことにした。
私は、遠くからあの人の無事を祈っている。
これも四年前に書いたやつです。
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