第10話 この日から、ずっと
法案が貴族院を通過した日、魔導通信板の互助会スレッドは三千を超える「おめでとう」で埋まった。
『配偶者の不貞行為を理由とする婚姻解消請求制度 本日施行』
『要件:不貞の物的証拠+証人二名以上』
『虚偽告発には罰金+爵位一段階降格の罰則あり』
通信板を見ながら、台所に立っていた。
鍋の中でオニオンスープが煮えている。今日のは焦がしていない。火加減のコツを掴んだのは、一人で作り始めてからだ。
三千件の「おめでとう」を、スクロールしながら読んだ。知っている人も、知らない人も、掲示板でしか繋がっていない人も、公聴会で初めて顔を見た人も、全員が同じ言葉を書いている。
互助会が発足したのは、春の月。今は収穫の月。五ヶ月。
五ヶ月で、この国の婚姻法が変わった。
いや、法律を変えたのは私じゃない。
法案を提出したのは貴族院議員の有志で、審議したのは貴族院で、裁可したのは国王だ。互助会はきっかけを作っただけ。声を上げる場所を用意しただけ。
声を上げたのは、あの人たちだ。
鍵を変えた伯爵夫人。帳簿を見せてくださいと言った子爵夫人。すべてを話してくれたエレオノーラ。二十年前の沈黙を破ったマルグリット。匿名で繋がって、実名で法廷に立った十人。
私がいなくても、いつかは変わったかもしれない。
でも、いなかったら、間に合わなかったかもしれない。ゲームのBAD ENDに。
スープをかき混ぜた。玉ねぎが柔らかい。今日のは上出来だ。
互助会の書き込みを読み進める。
エレオノーラからのメッセージが入っていた。
『管理人さま、リコリスさん。
本日、正式に離縁届が受理されました。
四年間の婚姻が終わります。
悲しいかと聞かれれば、少し悲しいです。でも、泣いてはいません。
もう泣く理由がないからです。
ヒルダが「おめでとうございます」と言ってくれました。
侍女に祝われる離縁というのも変な話ですが、ヒルダの目が赤かったので、たぶん泣いてくれていたのだと思います。
リコリスさん。
あなたが掲示板にスレッドを立てた日のことを、ずっと覚えています。
「泣き寝入りは本日で終わりです」。
あの一行がなければ、私は今日ここにいません。
ゲームの話をされていたことがありましたね。BAD ENDがどうとか。
意味は分かりませんでしたが、あなたが何かを防ごうとしてくれていたのだということは、分かっていました。
防いでいただけたようです。
ありがとうございます。
——ところで、六法全書さまは最近掲示板に来られませんね。
あの方にもお礼を伝えたいのですが。
もしお会いになることがあれば、よろしくお伝えくださいませ。
王太子妃の頃より、互助会で覚えた言葉のほうが好きです。
「ざまぁ」は品がないですが、一度使うとやめられません。
元・王太子妃 エレオノーラ・ヴァレンシュタイン』
元・王太子妃。
自分の名前から「王太子妃」を消して、実家の姓に戻している。
四年間の婚姻を終わらせて、自分の名前を取り戻した人の文章だった。
「もしお会いになることがあれば」。
会うのだろうか。私は、セオドアに。
公聴会からひと月が経った。掲示板に六法全書さんの書き込みはない。宰相府にも行っていない。距離を置くと決めたまま、公聴会が終わっても、法案が通過しても、連絡を取っていない。
取る理由があるのか、ないのか。
法的な用事はもうない。互助会の法的基盤は整った。制度も変わった。六法全書さんの助言がなくても、互助会は自分たちで動ける段階に入っている。
だから、連絡する理由はない。
理由がないと連絡できない、というのは、たぶん嘘だ。
理由がないから連絡しないのではなく、連絡したら何を言えばいいか分からないから連絡しない。
「スープが上手に作れるようになりました」とか。
「閲覧室の付箋を、時々思い出します」とか。
全部、法律とは関係ない。
スープの火を止めた。
午後。
庭に出ていた。
フェルトハイム男爵家の庭は小さい。石畳の隙間から雑草が生えていて、母が植えた薔薇は手入れが行き届かず少し伸びすぎている。ベンチが一つ。木製で、塗装が剥げかけている。
そのベンチに座って、通信板を見ていた。伯爵夫人と子爵夫人からの離縁報告を読んでいた。二人とも、新しい生活を始めると書いていた。伯爵夫人は別荘に移るそうだ。自分名義の、鍵を変えたあの別荘に。子爵夫人は実家に戻って、帳簿の知識を活かして商会の経理を手伝うらしい。
みんな、自分の足で歩き始めている。
庭の入り口で、靴音がした。
使用人ではない。使用人は裏口を使う。正面の石畳を歩いてくるのは。
顔を上げた。
セオドアが立っていた。
法務官の制服ではなかった。地味な灰色の上着に、白いシャツ。髪は束ねていない。公聴会の時より少し伸びている。右手に、紙を一枚持っていた。
「……セオドアさん」
「突然すみません。お時間は」
「あります。ずっとあります」
なぜ「ずっと」と付けたのか、自分でも分からなかった。
セオドアがベンチの前まで来た。立ったまま、紙を見つめている。折り目がついた紙。何度も折って、開いて、また折ったような跡。
「座りませんか」
「いえ。いえ、座ります」
ベンチに座った。塗装の剥げた木製のベンチに、二人並んで。庭の薔薇が少し伸びすぎていることが急に気になった。もっと手入れしておくべきだった。なぜ今そんなことを気にしているのか分からない。
セオドアが紙を広げた。
手書きの文章だった。
見覚えのある内容。
『皆さま、泣き寝入りは本日で終わりです。
まずは現状の記録から始めましょう——』
互助会の最初の書き込みだ。
私が書いた、最初の投稿。それをセオドアが手書きで写している。
「これは」
「あなたが互助会を立ち上げた日の、最初の書き込みです」
セオドアの声が少し震えていた。法令の条文を引用する時の声ではない。
「僕が六法全書として互助会に参加したのは、この書き込みを読んだからです。感情論ではなく構造で問題を捉えている人がいると思った。法律の道具としての価値を理解している人がいると思った」
僕。
初めて聞いた。
この人はずっと「私」だった。法務官として。六法全書として。窓口で。中庭で。
今、「僕」と言った。
「この書き込みを読んだ夜に、手書きで写しました。通信板の保存は魔力を使いますが、手書きなら何度でも読み返せるので」
紙の折り目が深い。何度も読み返した跡だ。春の月から、ずっと。
「管理人殿に惹かれていました。法令を武器にして、声を上げられない人のために仕組みを作る。その文章が、法律がまだ人を守れると、僕に思わせてくれた」
セオドアが私を見た。
法令集に目を細めるいつもの目ではなかった。灰色の上着の、髪を束ねていない、法務官ではない人が、私を見ていた。
「それから、宰相府でフェルトハイム嬢にお会いした。婚姻法の条文を読むために通ってくる令嬢。独学で判例の附帯意見にたどり着く人。法律が人を守るためにあると、僕に思い出させてくれた人」
声が少し大きくなった。あの、窓口業務に慣れていない声量より、少しだけ。
「同じ人だと分かった時、正直に言うと、安心しました。掲示板のあなたにも、宰相府のあなたにも惹かれていて、でもそれが別の人だったら不誠実だと思っていたので」
手書きの紙を、私のほうに差し出した。
「この日から、ずっとです。リコリスさん」
紙を受け取った。
インクが少し滲んでいる箇所があった。春の月の夜に、急いで書いたのだろう。五ヶ月前の夜。まだ顔も名前も知らなかった頃に、この人は私の文章を手書きで写して、折り畳んで、ずっと持っていた。
支援者は当事者にならない。
ずっと持ち越した信条。自分の感情を持ち込むな。当事者との距離を保て。恋愛感情は判断を鈍らせる。
全部、正しい。
前の人生では、その鉄則を守れなかったから壊れた。
でも。
今世で壊れなかったのは、この人がいたからだ。
「無理はしないでください」と言ってくれた人。「食事はされましたか」と聞いてくれた人。深夜に法令を整理して、「少しお待ちを」と一言だけ人間くさいことを書く人。脅迫状を持ち込んだ時に「指一本触れさせない」と言った人。利益相反を自ら申告して、それでも「たとえ離れても味方です」と書いた人。
支援者は当事者にならない。
でも、この人は、支援者を支えてくれた人だ。
当事者ではない。支援者でもない。
なんと呼べばいいのか分からない。
「セオドアさん」
「はい」
「支援者は当事者にならない、というのが、ずっと信条でした」
「……はい」
「昔から。ずっと。自分の感情を持ち込んだら、支援が壊れると思っていました。実際、昔は壊れました」
セオドアが黙って聞いている。
「でも、あなたは例外です」
声がかすれた。
「あなたは例外です。信条の、例外」
うまく言えなかった。法令の条文のように正確に言えたらいいのに。でも感情は条文にならない。
セオドアが息を吸った。吐いた。それから、ベンチの上で、ほんの少しだけ手を動かした。私の手のそばまで。触れていない。でも、小指の先が、あと一センチで届く距離にある。
「例外で、いいんですか」
「いいんです。あなただけ」
セオドアの手が動いた。私の手に触れた。指先だけ。冷たい。法令集を捲る指。インクの染みがある指。
握り返した。
庭の薔薇が風に揺れた。伸びすぎた枝が塀の上に出ている。手入れしなきゃ、とまた思った。こんな時に何を考えているのか自分でも分からない。
でも、手は離さなかった。
夕方、セオドアが帰った後で、通信板を開いた。
互助会のスレッドに、新しい投稿が入っていた。
『管理人さまへ。
あの、六法全書さまとはその後どうなったんですか。
気になって夜しか眠れません。
——冗談です。でも少し気になっています。
匿名の令嬢より』
見透かされている。
返信は打たなかった。打てるわけがない。
代わりに、互助会の運営報告を書いた。
『皆さまへ。
法案が通過しました。
これからは、新しい制度のもとで、一人一人が自分の選択を行使できます。
互助会は引き続き運営を続けます。
制度ができても、使い方が分からなければ意味がありません。
証拠の取り方、手続きの進め方、離縁後の生活設計。必要な情報は引き続き共有していきます。
そして、新しい相談はいつでも受け付けています。
泣き寝入りは、終わりました。
でも互助会は終わりません。
いつでも、ここにあります。
管理人 リコリス・フェルトハイム(もう匿名じゃないので、本名で)』
送信した。
通信板をスクロールすると、新しいスレッドが立っていた。
今日立てられたばかりのスレッド。
『【相談】夫が急に優しくなったのですが、これは罠ですか?
1:名無しの令嬢
はじめまして。最近、夫の態度が急に変わりました。
今まで家に帰ってこなかったのに、毎晩帰ってきます。
花を買ってきたりします。
料理を褒めたりします。
正直、怖いです。
これは本当に反省しているのでしょうか。
それとも、新しい法律のせいで怯えているだけでしょうか。
どなたかアドバイスをお願いします』
互助会は、今日も盛況だ。
返信を打とうとして、やめた。
他の参加者が先に返信していた。
『まず記録を取ってください。
花を買ってきた日、帰宅時間、言動の変化。
反省が本物なら、継続します。
演技なら、三ヶ月でボロが出ます。
焦らなくて大丈夫です。
互助会はここにあります』
管理人の口調をそっくり真似た返信だった。
誰が書いたのか分からない。匿名の、顔も知らない誰かが、私の言葉を自分のものにして、次の人に渡している。
台所に行った。オニオンスープの残りを温め直す。今日は二人分作った。セオドアに出そうと思って、結局出しそびれた。緊張しすぎて、スープのことを忘れていた。
残りは明日食べればいい。
椀によそって、テーブルについた。一人分。いつもの席。いつもの椅子。
でも、今日は少し違った。
テーブルの上に、手書きの紙が一枚置いてある。
セオドアが持ってきた、あの紙。互助会の最初の書き込みを手書きで写したもの。折り目が深くて、インクが少し滲んでいて、五ヶ月分の重さがある紙。
それと、もう一つ。
セオドアが帰り際に、ポケットから取り出して黙って渡してくれたもの。
栞だった。
革製の、押し花の。
母がくれた栞。宰相府の閲覧室に二度忘れて、一度は返してもらって、二度目は取りに行かなかった栞。
押し花のところに、小さな折り目がある。前からあったような、なかったような。
返してくれた時、セオドアは何も言わなかった。「お忘れ物です」とも言わなかった。ただ、黙って渡した。
この人は、言葉が足りない時に、物を渡す人だ。
付箋のついた法令集。手書きの写し。そして、ずっと手元に置いていた栞。
全部、紙でできている。法律家らしい。
スープを飲んだ。温かい。少し塩が足りないけれど、まあいい。
明日、宰相府の閲覧室に行こうと思う。
法令を調べるためではなく。栞を返してもらったお礼を言うためでもなく。
理由は、まだうまく言えない。
でも行く。
行きたいから行く。
支援者でも、当事者でもなく、ただのリコリスとして。
窓の外は収穫の月の夕暮れだった。空がオレンジ色で、庭の薔薇が長い影を落としている。伸びすぎた枝を、明日は少し切ろうと思った。
通信板の通知が一つ光った。
セオドアからのメッセージ。
『リコリスさん。
今日はありがとうございました。
帰り道、ずっと考えていました。
言いたいことの半分も言えなかったと思います。
でも、あなたが「例外です」と言ってくれたことは、
僕にとって、法律のどの条文よりも、確かなものでした。
明日、閲覧室に来てくれますか。
付箋は、新しいのを用意しておきます。
それと、スープの匂いがしていました。
今度は、いただいてもいいですか。
セオドア』
通信板を伏せた。
読み直して、もう一度伏せた。
顔が熱い。耳まで熱い。たぶん、セオドアの耳が赤くなるのと、同じ色をしている。
スープを飲み干して、椀を洗って、棚に戻した。
一人分の椀。
でも明日は、もう一つ、出してもいいかもしれない。




