気づけば簡単な話だった
雨が降っていた。
強くはないが、止む気配もない雨だった。
窓ガラスをつたう水滴が、ゆっくりと下に落ちていく。
机の上には、ノートとペン。
それから、英語の参考書。
ページはきれいだった。
ほとんど書き込みがない。
つまり、ほとんど理解できていないということだった。
英語が苦手だった。
見ても分からない。
聞いても分からない。
なにを言っているのか、
どこからどこまでが単語なのかも分からない。
アルファベットは知っている。
単語も、いくつかは知っている。
けれど、文章になると途端に意味が消える。
それはまるで、暗号だった。
記号の並び。
謎の音の連続。
英語は「言葉」ではなく、
どこか遠くの世界の信号のように感じていた。
だから私は、洋画を見る時も字幕を見ていた。
吹き替えは好きじゃない。
俳優の声が変わってしまうから。
それでも、英語は聞いていなかった。
耳には入っているはずなのに、脳には届いていなかった。
スクリーンの下にある日本語だけを読んでいた。
俳優が言葉を発する。
少し遅れて字幕が出る。
その字幕を読む。
ただ、それだけだった。
何十本も洋画を見た。
それでも英語は、分からないままだった。
ある日、ふと思った。
どうしてだろう。
こんなに英語を聞いているのに、
どうして一つも分かるようにならないのだろう。
少し考え、気づいた。
私は英語を、「言葉」として聞いていなかった。
ただの音だった。
意味のない音。
規則の分からない記号。
日本語のように、
一つ一つの言葉に意味があるものとして聞いていなかった。
例えば。
「ありがとう」
と言われれば、すぐ意味が分かる。
「おはよう」
と言われれば、何を言っているのか理解できる。
それは当然だ。
言葉だから。
でも、英語は違った。
「言葉」だと思っていなかった。
ただの音だった。
ただの記号だった。
だから、意味が入ってこなかった。
そのことに気づいた時、少しだけ見方を変えてみた。
映画を見る時。
俳優が言葉を話す。
字幕が出る。
その二つを、意識して結びつけてみた。
今、こう言った。
だから、この字幕なんだ。
そう思いながら見る。
すると、不思議なことが起きた。
何本か映画を見るうちに、
同じ音が何度も出てくることに気づいた。
「オーケー」
「ソーリー」
「ウェイト」
それまで、ただ流れていた音が、少しずつ形を持ち始めた。
ああ、これはこの意味なんだ。
音と意味が、ゆっくり結びついていく。
最初は、ほんの少しだった。
でも、確実に増えていった。
ある日、字幕を見るより少し早く、
意味が分かる瞬間があった。
ほんの短い言葉。
それでも、確かに理解できた。
その時、少しだけ笑みがこぼれた。
なんだ。
英語も、言葉だったのか。
当たり前のことだった。
世界中で、何億人も使っている。
誰かが話し、誰かが聞いている。
ただの言葉だった。
難しい暗号でも、特別な記号でもなかった。
それなのに私は、
ずっと英語を言葉として扱っていなかった。
言葉とは、受け取る側の姿勢も大切だ。
そんなことは、日本語を使う中で誰でも知っている。
相手の言葉を聞こうとする。
意味を理解しようとする。
そうして初めて、言葉になる。
英語だけ、それをしていなかった。
ただ、それだけだった。
窓の外では、まだ雨が降っていた。
机の上のノートを開く。
アルファベットが並んでいる。
前よりも少しだけ、それが記号ではなく言葉に見えた。
ほんの少しだけ。
世界が、広がった気がした。




