可能性の果て
1 棺桶の上の存在
部屋の中央に浮かぶルシエラを、俺はしばらく黙って見ていた。
半透明の銀色のローブが、風もないのにゆっくりと揺れている。目は閉じられたまま。その下には石造りの棺桶が一つ、ただ静かに置かれていた。
「その棺桶の中に——」
「私の本体が眠っています」
ルシエラが先回りして答えた。声は部屋全体に広がるような、どこから来るとも言い切れない響き方をした。
「なぜ眠っている」
「奴らにまだ見つかる訳にはいかないから」
奴ら。その言葉の輪郭を俺は探った。
「奴らというのは——」
「今は教えられません」
俺の問いを、ルシエラは静かに断ち切った。拒絶というより、まだその時ではないという確信を持った遮り方だった。
ルーシェンとファルマとエリシアが俺の後ろで静かに立っていた。誰も口を開かなかった。この場の空気が、余計な言葉を寄せ付けなかった。
「榊」
ルシエラが俺の名を呼んだ。
「闇の力と、本当に向き合う覚悟はありますか」
その問いを、俺は自分の中に落とした。
ここまで来た。試練をいくつも越えて、バエルの言葉を受けて、日本の世界で決断して——ここに来た理由は最初から一つだった。
「そのためにここへ来た」
ルシエラは何も言わなかった。しかし何かが変わった気がした。空気の密度が、わずかに変わった。
「目を閉じてください。そして——私の手を取りなさい」
2 暗闇の中の声
目を閉じた。
手を伸ばすと、指先に何かが触れた。温度のない、しかし確かな感触。ルシエラの手だと理解した瞬間——床が消えた。
浮かんでいた。
暗闇の中に、俺一人が浮いていた。上も下も前も後ろも、全て等しく暗い。その暗闇は恐怖を呼ぶ類のものではなかった。静かで、深く、まるで宇宙の底にいるような感覚だった。
しばらく、何も起きなかった。
それから——声が来た。頭上から。
「闇の力が何か、あなたは知っていますか」
見上げると、ルシエラがいた。しかし次の瞬間にはもういなかった。代わりに、背後から同じ声が続いた。
「あなたが今まで使ってきた力は、確かに闇の力の一部です」
振り返ると、俺の右斜め下にルシエラが浮かんでいた。また消える。
「しかしその本質を、あなたはまだ触れていない」
今度は左から。俺は追うのをやめた。声が来る方向に意識を向けながら、ただ浮かんでいた。
「闇の力の本質とは何か——あなたに問いかけます」
「知りたくてここへ来た」
俺は答えた。
「では聞きなさい」
声が、前から来た。ルシエラが正面に現れて、今度はすぐに消えなかった。目を閉じたまま、暗闇の中に浮かんでいた。
「闇の力とは——」
ルシエラの声が一度途切れた。
「人々の可能性を信じる心が具現化したものです」
俺はその言葉を、すぐに理解できなかった。
「可能性を、信じる心」
「そうです」
「それが力になる、ということか」
「力そのものです。炎を操る者は炎への理解と想像から魔法を扱う。水を操る者は水の性質を体で知ることで力を引き出す。しかし闇の力は違う。それは外にある何かを操るのではなく——人が諦めずに在り続けようとする、その心の根にあるものが形を持ったものです」
俺は黙って聞いていた。
「無理だと言われたことでも、それでも乗り越えられると信じる心」
「不可能だと決めつけられても、それでも試そうとする心。可能性を信じるとはそういうことです」
「……俺はそれを使っている」
俺は言った。
「白銀界でも、ここへ来るまでの戦いでも——闇の力で戦ってきた。自分の力として使ってきた」
「そう思っているのですね」
ルシエラの声が、わずかに変わった。否定でも肯定でもない、ただ確認するような声だった。
「では——あなたの心の奥底を見せましょう」
その言葉と同時に視界が闇に覆われた。
3 遺物の世界
気がつけば、俺は洞窟の奥深くにいた。
目の前に台座があり、その上に何かが置かれていた。光を帯びた、古い意匠の片手剣だった。触れた瞬間、それが何かを理解した。伝説の遺物——この世界のあらゆる魔法と物理的な攻撃を防ぎ、使用者の力を数倍に引き上げる、神代の時代に作られた武具だ。
俺はそれを手に持った。
重さがなかった。まるで最初から俺のために作られたように、手に吸い付いた。
洞窟の外に出ると、空が割れていた。天から何かが降りてくる。巨大な、人の形をした存在が雲を割って降下してくるのが見えた。神か、神に近い何かだった。
ファルマが俺の後ろで震えていた。
「あれは——」
「大丈夫だ」
俺は遺物の剣を構えた。
存在が降りてきた。その圧力だけで地面が歪む感覚があった。しかしその全てを、遺物の光が弾いた。俺の体はびくともしなかった。
斬り込んだ。遺物が光を帯びて、存在の体に深く刻まれた。
一合、二合、三合——そのたびに確かな手応えがあった。俺は恐怖を感じなかった。この武器がある限り、俺は負けない。
そう確信していた。
確信の根拠は、俺の中にある力ではなかった。
手の中の遺物にあった。
それでも——どこかで、胸の奥が妙に静かだった。
世界が——消えた。
4 魔力の世界
次に立っていたのは、広大な平野だった。
空が赤い。遠くに軍勢の影が見えた。数千、あるいはそれ以上の規模だった。こちらの側には百人もいない。
俺は自分の手を見た。
掌の中心から、何かが渦巻いていた。魔力だとわかった。圧倒的な密度の魔力が、俺の体の中に満ちていた。体が軽かった。どんな魔法でも、イメージするだけで形になる気がした。
エリシアが俺の横に立っていた。今のエリシアは補助術師として俺の後ろについており、術式を組みながら言った。
「展開範囲の計算、終わりました。いつでも」
「待て」
俺は平野の先の軍勢を見た。
「まとめて終わらせる」
魔力を練った。火でも風でもなく、全てを包む広域の術式を組んだ。それが当然のようにできた。詠唱もいらなかった。俺の魔力がそのまま意志を持って広がっていった。
術式が展開した瞬間、平野の向こうで何かが起きた。軍勢の前列から崩れていった。悲鳴と混乱が遠くまで届いた。
ルーシェンが感嘆したように言った。
「……やはり、榊さんの魔力量は規格外です」
ファルマが俺を見上げながら言った。
「いつも心強いです」
俺は答えながら、次の術式を組んでいた。考えるより早く魔法が形になる。この力は俺の意志に完全に従っていた。何も考えなくていい。信じる必要もない。ただ行使すればいい。
それが、気持ちよかった。
確かに、気持ちよかった。
世界が消えた。
5 銃声の世界
暗闇が裂けた。
気づいた時、俺は見知らぬ村の外れに立っていた。
夕暮れの空の下、石造りの建物が並び、遠くで何かが燃えている。異世界の村だとすぐわかった。空気が違う。草の色が違う。しかし俺はそこに自然に立っていた。まるで最初からそこにいたかのように、体が馴染んでいた。
背中に、何かがあった。
手を回すと、指に金属の感触が当たった。引き出すと——銃だった。
見たことのある形ではなかった。この世界の素材で作ったのだろう、木と鉄を組み合わせた、しかし確かに銃の機能を持つものだった。弾倉もある。俺はその仕組みを、なぜか完全に理解していた。どう分解して、どう整備して、どう撃てばいいか——全部わかった。
村から走ってくる人影があった。
ルーシェンだった。
ルーシェンは息を切らしながら俺の前に立った。今のルーシェンは魔法使いの格好ではなく、革の軽鎧を着ていた。その目が真剣だった。
「榊さん、来ました。北の丘に大型の魔物の群れ、少なくとも三十体以上。村の防衛線が崩れそうです」
「わかった」
俺は銃を構えながら走り出した。
丘に着くと、ファルマが弓を構えて必死に矢を放っていた。エリシアが術式を展開しながら、しかし一体また一体と押し寄せる魔物の数に追いつけずにいた。
「下がれ」
俺は声をかけた。
銃を構えた。引き金を引いた。
音と共に、前列の魔物が倒れた。装填して、また引いた。また倒れた。俺の後ろでルーシェンが魔法を使い、左右を固めた。俺は前だけを見て、撃ち続けた。
補給の計算が自然に頭に浮かんだ。弾薬の残量、魔物の密度、陣形の崩れ方——すべてが見えた。俺はそれを処理しながら指示を出し、撃ち続けた。
圧倒的だった。
俺の手の中にある技術が、この世界では誰も持っていない知識だった。魔物は倒れ、防衛線は保たれ、村は守られた。戦いが終わった後、ファルマが目を輝かせながら言った。
「榊さんの武器、すごかったです。魔法みたいでした」
「魔法じゃない。技術だ」
俺はそう答えながら、銃を確認した。手の中に収まるその重さが、妙に心地よかった。
この力は——俺のものだ。俺が知っている知識から生み出した、確かな力だ。
そう思った瞬間——世界が消えた。
6 突き付けられたもの
暗闇に戻った。
俺は浮かんでいた。先ほどと同じ、均等な暗闇の中に。
しかし体の奥に、重いものが残っていた。
ルシエラの声が来た。今度は位置が定まらないまま、暗闇全体から響いてくるような声だった。
「どれが一番、気持ちよかったですか」
俺は答えなかった。
「答えなくてもわかります」
ルシエラは続けた。
「三つとも——闇の力ではない力でした。あなたの知識から生まれた技術。あなたに与えられた絶大な魔力。あなたの手に渡った強大な武具。三つとも、確かな力でした」
「……」
「そしてあなたはその三つの世界で——今まで感じたことのない、迷いのない力を振るった」
俺は否定できなかった。
あの三つの世界では、疑いがなかった。銃の力を信じた。魔力の強さを信じた。遺物の加護を信じた。それは全部、俺の外にある確かな根拠があったからだ。
「闇の力は違う」
ルシエラの声が、俺の背後に現れた。
「あなたは今まで、闇の力を使いながら——心のどこかで、これは本当の力ではないと思っていた」
「そんなことは——」
「自分の声を、もう少し正直に聞きなさい」
俺は黙った。
正直に聞いた。
……あった。確かにあった。
俺は何度も闇の力を使ってきた。戦いを乗り越えてきた。しかしその度に、どこかで思っていた。もし違う力があったなら。もし最初から、あの三つの世界のような力を与えられていたなら——もっとうまくやれた。もっと確かに守れた。もっと迷わずに動けた。
闇の力は強い。それは本当だ。しかし見つかれば粛清される。扱いに迷う。どこまで使えるか、どこまで信じていいか——その答えが出ないまま、俺はずっとそれを握り続けてきた。
「あなたは闇の力を信じていなかった」
ルシエラが言った。
「信じようとしていた。しかし信じきれなかった。だからその力は、いつまでも十全に応えなかった」
体の奥から、焦燥のようなものが滲んだ。
知っていたくなかった真実が、こんなに明確に形になって目の前にあった。俺は闇の力を自分のものだと思っていた。しかし本当は——ずっと、別の何かを欲していた。
「では」
俺は絞り出すように言った。
「どうすれば信じきれる」
ルシエラの声が止んだ。
しばらく、暗闇だけがあった。
それから声が来た。正面から、静かに。
「信じるのではありません」
「どういう意味だ」
「信じるという行為は、まだ疑いを前提としています。信じようとする限り、疑う余地が残る」
ルシエラは続けた。
「受け入れるのです。これが自分の力であると。これ以外の力を求めることをやめて——今ある力が、自分の全てであると」
俺はその言葉の意味を、暗闇の中でゆっくりと咀嚼しようとした。
しかし次の瞬間——世界が変わった。
7 逃げる足音
建物の影を走っていた。
夜だった。どこかの街の路地だった。石畳の上を俺は走り、その後ろをルーシェンとファルマとエリシアが続いていた。
追われていた。
複数の足音が後方から迫っていた。魔力を帯びた光が背後の角を照らした。
「あっちだ」
という声が遠くで聞こえた。
「闇の力の持ち主がいる——逃がすな」
俺は走り続けた。
ルーシェンが振り返った。
ファルマも、エリシアも——俺を見ていた。
手の中に、闇の力が渦巻いていた。使えばいい。使えば振り切れる。わかっていた。しかしその力を全力で解放することが——まだ、できなかった。
何かが足りなかった。
何かが、足りなかった。




