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タイムリミット

1.座敷と近況と嘘

 

 田中が「知っている寿司屋」と言う時は大体当たりだ。

「ファルマさんって言うんだ。日本語上手いね」

「あ、はい……」

 そんな田中とファルマの会話を聞きながら連れてこられた店は、駅から少し歩いた路地にある、外観だけでは入る気になれないような構えの小さな寿司屋だった。しかし暖簾をくぐった瞬間、醤油と出汁の混ざったいいにおいがした。

「座敷でいいか」

と田中が言い、七人で奥の座敷に上がった。ファルマが畳の感触に足を止め、恐る恐る踏み込んだ。エリシアは正座の形をすぐ真似したが、どこかぎこちなかった。ルーシェンは慣れた様子で膝を折って座り、周囲を静かに観察していた。

 ランチセットを全員分頼んで、お茶が来た。

「で」

田中が俺を見た。

「横浜どうよ。もう慣れた?」

 俺は一瞬、固まった。

 横浜。

「……まあ」

俺は言葉を探した。

「慣れない土地で、最初はバタバタしてたから。余裕もなかったし」

「だよな、異動って大変だよな」

渡辺が頷いた。

「引越しも同時だったんだろ? 舞岡って住みやすい?」

 舞岡。横浜市営地下鉄の。俺はその駅に行ったことがあっただろうか。記憶の中を探っても、確かな像が出てこない。

「静かな街だよ。のんびりしてる」

それだけが言える言葉だった。

「関内の職場に通ってるんだろ? 横浜の地下鉄とかどう?」

山田が穏やかに聞いた。

「……慣れたら大丈夫だ」

 曖昧な答えしか出せなかった。この世界の俺が経験したことを、俺は何も知らない。知っているのは地名と路線名だけで、それも今ので精一杯だった。

「池袋に来たのも懐かしかったのか?」

渡辺が言った。

「横浜にも観光するとこいっぱいあるだろ」

「そっちの三人に古巣を案内したくて」

俺は顎でルーシェンたちの方を示した。

「池袋だとサンシャインとか、一通り見せられるから」

「ああ、それはわかる」

田中が頷き、それから思いついたように身を乗り出した。

「だったら池袋周辺で面白いとこ、俺が案内しようか。谷中銀座とか、雑司ヶ谷とか——」

「それもいいけど」

俺は少し考えた。

「遠くなら浅草も——」

「浅草なら明治神宮の方が」

山田が言った。

「外国の方なら神社の方が響くんじゃない?」

 その会話を聞きながら、俺は頭の一部で別のことを考えていた。

 高くて見渡せる場所。この世界の細部を確認するなら——上から見渡せれば、何か見えるかもしれない。記憶が薄いところほど、再現が粗くなるはずだ。

「スカイツリーはどうだ」

俺は言った。

「スカイツリー? 外国人受けはするけど、榊お前あそこ行ったことあったか?」

「ない」

「だったらいいんじゃないか」

渡辺が言った。

「展望台からの眺めはいいし。ちょっとここからは遠いけどな」

そうと決まった頃、寿司が運ばれてきた。

 木の器に並んだ寿司を見た瞬間、ファルマの目が変わった。恐る恐る一つ手に取り、口に入れた瞬間——その顔が、全ての感情を一度に表現しようとして渋滞した。

「……これ、は」

「旨いだろ」

田中が得意げに言った。

「なんですか、この……魚の、でも、柔らかくて——」

「生魚だよ。鮮度がいいんだよここは」

 ファルマはその後、一つ食べるたびに小さく声を漏らした。エリシアは無言で食べていたが、箸が止まらなかった。そういえば箸の使い方教えていたっけ……?ルーシェンだけが、

「素晴らしい食文化ですね」

と静かに言い、だがその目は明らかに感動していた。

 俺も食べた。

 うまかった。それだけで、また胸の奥が痛くなった。

 

2.五百メートルの精度

 

 電車の乗り継ぎを含めて、五十分ほどかかった。

 その間、田中がファルマとエリシアに向けて絶えず話しかけていた。山田が

「ちょっと引かれているのわかってる?」

と突っ込み、渡辺が

「まあ本人が楽しそうだからいいんじゃないか」

と苦笑する。ルーシェンが時々俺に耳打ちして、文字の翻訳を求めてきた。言葉はわかっても、文字は分からないらしい。俺は小声で返しながら、車窓を流れる景色を見ていた。

 知っているはずの景色が、知らない顔で流れていく気がした。

 スカイツリーは、押上の駅を出た瞬間に見えた。

 ファルマが歩みを止めた。首を上へ、上へと向けながら、言葉が出てこない顔をしていた。エリシアも同じく上を向いたまま少し固まった。

「大きい……」

ファルマがやっと言った。

「お父様の塔の方が大きくないですか」

エリシアが冷静に指摘した。

「あちらは宙に浮いている分、体感的にも——」

「それはそうですが」

ルーシェンが言った。

「この塔は地面から生えていますね。重力に逆らわずこの高さというのは、別の意味で驚異的です」

「なるほど……原理が違うようです」

エリシアが俺を見た。

「これはどうやって——」

「鉄とコンクリートの構造体だ。説明すると長いので後で」

とはいえ俺もそこまで詳しいわけでもないしな。

 チケットを買って、エレベーターに乗った。上昇していく感覚にファルマが壁に手をついた。エリシアは天井を見上げていた。

 展望台に出た瞬間、視界が開けた。

 東京が広がっていた。どこまでも続く街の広がりが、水平線のように遠くへ延びている。俺は窓に近づいて、眼下を見渡した。

 おかしなところを探した。建物の配置、道路の流れ、川の形——目に入るもの全てを精査するように見た。

 しかし、見えなかった。

 何も見えない。どこまでいっても、この景色は正確だった。あまりに正確で、どこに粗を見つければいいのかわからない。

 俺はゆっくりと展望台を一周した。内側の構造も確認した。案内板、売店の配置、柱の位置——全て、あるべき形をしていた。

 諦めかけた時、カフェのカウンターに目が止まった。

 

3.銀髪の店員

 

 その人は、カウンターの中に立っていた。

 銀色の髪だった。店のスタッフが当たり前につける制服を着て、静かにそこにいた。そして目を閉じていた。

 俺はすぐにファルマを見た。

「あそこのカフェの店員が見えるか」

「え? はい、黒い髪の女性の方ですよね」

ファルマが首を傾けた。

「……黒髪に見えるか」

「え?」

 俺はルーシェンを見た。ルーシェンは既にカウンターの方に目を向けていて、その眉が僅かに寄っていた。

「……何か、感じますか?」

ルーシェンが俺に小声で聞いた。

「銀色の髪だ。閉じた目の、女性がいる」

 ルーシェンはしばらく見てから、

「私には通常のスタッフにしか見えません——何か、見える気もしますが……」

自信のない、珍しい言い方だった。

「田中たちにファルマとエリシアの案内を頼む。俺はカフェで少し休む」

「……わかりました」

 ルーシェンは何かを察した顔をして、田中たちの方へ向かった。

「田中、ルーシェンたちにスカイツリーからの景色を説明してもらっても良いか?」

俺が声をかけると、田中が

「おう、任せとけ」

と喜んで立ち上がるのが見えた。

 俺はカフェに近づいた。

 カウンターには客が一人もいなかった。展望台はそれなりに人がいるのに、カフェの空間だけがぽっかりと空いていた。銀髪の店員は動かずにいた。

 俺は席に座り、声をかけた。

「ルシエラ」

 目が開いた。

 

4.タイムリミット

 

「この試練の意味は何だ」

 俺は率直に聞いた。遠回しにする気力がなかった。

 ルシエラは俺を見た。祝骨の中で会った時と同じ―底の見えない目だった。

「元の世界を体験して、どうでしたか?」

「……帰りたいと思った」

俺は正直に言った。

「でも、ルーシェンたちを置いていくことも、できない」

「矛盾していますね」

「わかってる。矛盾してる」

 俺は窓の外に目をやった。田中がファルマに何かを説明しながら指を差している。ファルマが目を丸くして、エリシアがメモでも取るように何かを考えている。渡辺が山田に何か言って、山田が苦笑している。

「この世界に戻ることは、まだできます」

ルシエラが静かに言った。

 俺は思わずルシエラの顔を見た。

「……何?」

「今体験していることは夢に近いものです。しかし夢というのは、世界と世界の間を繋ぐ道でもあります。精神魔法を扱う私なら——その道を使って、あなただけをここへ戻すことができます」

「それは本当の話か」

「嘘をついてどうしますか?」

 俺は少し考えた。

「……待ってくれ。そもそも俺が異世界に連れていかれた時も、夢の中だった」

「そうです」

「ということは——俺を引きずりこんだあの手も、夢の道を使ったということか」

「近い理解ですね」

「あの手は何だ?」

「調停者です。この世界のバランスを保つものと名乗っています」

「もっと具体的に」

「今は教えられません」

ルシエラは抑揚なく言った。それ以上引き出せない壁があった。

「それより——帰るかどうか決めてください」

 俺は目を逸らした。

「……もしここに戻ったとして、またその調停者とかいうのに引きずり込まれないか?」

「ここで帰ることを選べば——少なくとも、手は出してこないはずです」

「なぜそれが言い切れる」

「言い切れませんが……ただ、その可能性は低いと私は見ています」

 俺は黙った。

「なぜあいつは俺を引きずり込んだ」

 ルシエラは答えなかった。

「帰るかどうか、を聞いています」

 俺は息を吐いた。

「すぐには答えられない」

「そうですか……」

ルシエラは目を閉じて言った。

「では伝えておきます」

 その目が、開かれ俺を真っ直ぐに見た。

「帰れるのは今日だけです」

「……どういうことだ」

「世界と世界の距離は一定ではありません。離れる時もあれば、近づく時もある。今日が最も近い。次にこれほど近づくのは、何百年も先になります」

調停者が手を出せないのはそういう事か。

 俺の中で何かが固まっていく感覚があった。

「タイムリミットは本日の二十四時です」

 外を見た。田中がまだ何か喋っている。ファルマが笑っている。

「……今すぐ答えは出せない」

「出さなくても構いません。ただ——決めたなら、私を呼びなさい。どんな方法でもいい、心の中で名を呼べば聞こえます」

 俺が何か言おうとした時、視界の中のルシエラが——変わった。

 気づいた時にはもう、カウンターには黒髪の普通の店員が立っていた。怪訝そうにこちらを見ていた。

 しかし頭の中に、声だけが残った。

――くれぐれも、時間を忘れないように――

「お客様?」

 店員が首を傾けた。

「アイスコーヒー」

俺は言った。

「一つ」

 運ばれてきたコーヒーを、俺は一息で飲んだ。

 

5.重さ

 

 ファルマたちの元に戻ると、田中が東京の夜景の話をしていた。俺が来たことに気づいたファルマが、すぐに表情を変えた。

「榊さん、顔色が——」

「大丈夫だ。少し疲れた」

「でも——」

「大丈夫だって」

 取り繕った笑顔は、うまく作れていなかっただろう。ファルマは不安そうなまま、それ以上は引かなかった。エリシアが、

「スカイツリーのガラス床が面白かったです」

と話題を変えようとしてくれた。

 ルーシェンが俺の横に並んだ。

 人ごみの音に紛れた声で、ルーシェンは言った。

「榊さんが何を決めても、私は文句を言いません」

 俺は前を向いたまま、答えなかった。

「それだけです」

 それだけだった。それ以上でも以下でもない一言が

——俺の胸に、静かに重く沈んだ。

 





榊の務めていた会社


丸の内に本社を構える中堅商社で、関内や船橋にも支社があった。

榊は朝霞駅から徒歩十五分ほどの古いアパートに住み、本社まで一時間近くかけて通っていた。

同期の3人はそれぞれ戸田市、和光市、板橋区の賃貸アパートに住み、似たような通勤時間をかけて都心へ出ていた。


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