第五十三話:崩れゆく夢の世界
1. 終わらない修正
ミスの修正は、続く。
もう朝の六時五十五分にもなるが、終わりが見えなかった。
モニターの数字が滲み、キーボードが遠く感じる。
もう何時間座っているのか、わからなかった。
田中も山田も、幽鬼のようになりながら――
生気のない顔でパソコンを打っていた。
その時――
視界に、ノイズのような歪みが一瞬入った。
(……気のせいか?)
俺は、作業を再開する。
その時――
「お疲れ様です」
スーツを着たエリシアが、お茶を入れて持ってきてくれた。
「……!?」
唖然とする俺。
異世界での記憶が一瞬よみがえり、頭の中が混ざって混乱する。
「なぜ、ここにいるんだ……?」
エリシアは首を傾げる。
「最近入った新人の子じゃないか」
山田が、何の疑いも持たず言う。
「そうそう」
田中も、同意する。
それを聞いて――
説明のつかないまま、以前新人として紹介された記憶が出てきて――
納得してしまう。
「……そうだったな」
俺は、お茶を受け取る。
ミスは、結局8時過ぎに何とか終わった。
大慌てで、取引先に出すための準備を行う。
そして――
気がつけば、またノイズが入り――
自分のアパートのドアの前に、立っていた。
「……何が何だか」
何が何だか分からない。
だが――
また、死にそうな山田や田中と別れた記憶が出てきて――
全てが一応終わって、自分のアパートに帰ってきたことを思い出す。
既に、夜になっていた。
全身の疲れが、どっと出る。
俺は、アパートに入る。
2. 浮気の現場
入ると――
またノイズが入った。
玄関に、男ものの靴と女ものの靴。
そして、アパートの奥から話し声がする。
(一人暮らしの自分のアパートに、何故人が……?)
本来なら、警戒するのだろう。
だが、疲れから――
普通に入ってしまう。
そして、奥の部屋に入って見たのは――
自分の彼女である香織と、知らない男が半裸で抱き合っていた場面だった。
「……!?」
双方、気づいて固まる。
「か、香織……その男は……!?」
震える声で、男のことを聞く。
だが――
明らかに、浮気された上で男を自分の家にあげ、イチャついている場面であることは――
疑いようがなかった。
頭が真っ白になり、怒りも悲しみも湧いてこない。
ただ、胸の奥が冷えていく感覚だけがあった。
「さ、榊くん……!?」
香織が、狼狽える。
「今日は……帰ってこないんじゃなかったの……!?」
「……今、仕事が終わって、帰ってきた」
俺は、他人事のように感じながらも――
「疲れてるから……休ませてくれ」
男は慌てて服を着ると、そのまま出ていった。
香織も、後を追って出ていこうとする。
だが――
「合鍵を……返してくれ」
「これは、誤解なの……!」
香織が、言い訳を言う。
(誤解も何もあるか……)
俺は、そう思ったが――
「また、明日話す」
そう言って、香織を追い出した。
3. 一人残された部屋
一人残された俺は――
冷蔵庫からビールを取り出し、机に座る。
一口飲み、大きなため息をつく。
ここは、俺の部屋のはずなのに。
もう、どこにも居場所がない気がした。
(死にそうになりながら、仕事を頑張ってきたのに……)
(これが、仕打ちか……)
大きく、落ち込む。
だが――
ふと、疑問が浮かんできた。
(……自分には、彼女なんていなかったはずでは?)
(香織には確か告白したけど、振られたはず……)
だが、そう考えると――
香織に告白してから付き合い始め、旅行に行くなど楽しかった日々の記憶が思い出され――
(気のせいか……)
そう思ってしまう。
(仕事も、居場所も、信じていたものも――全部、嘘だった)
(だったら、もう……)
(なんか、何もかもがどうでも良くなった……)
どこかからか、満足気な気配を感じたが、どうでも良かった。
まるで、俺の絶望を味わっているかのような気配だった。
そして、人生に絶望していると――
またノイズが入った。
4. エリシアの声
ノイズは一瞬ではなく、耳鳴りのように長く続いた。
視界の端が歪み、部屋の輪郭が溶けていく。
――寒い。
背中に、冷たい何かが触れた。
「……っ!?」
振り向こうとしたが、身体が言うことをきかない。
そのまま、背後から腕が回される。
抱きしめられている。
だが、人の体温ではなかった。
「榊様……」
耳元で囁かれた声に、心臓が跳ね上がる。
間違いない。エリシアの声だ。
けれど、どこか遠く、ノイズ越しに聞こえる。
「エ、エリシア……?」
声を出すのが、やっとだった。
「私は……思い出しました」
囁きと同時に、視界に無数の走査線が走る。
部屋の壁が砂のように崩れ、床が抜け落ちていく。
「今のあなたは……悪夢に、囚われています」
「意味が……わからない……」
「わからなくて、いいのです」
エリシアの腕が、ゆっくりと緩む。
体温のない感触が、離れていく。
「記憶のほころびに……出口があります」
振り返ると、彼女はもう半分ほどしか存在していなかった。
輪郭が途切れ、顔の一部がノイズに飲まれている。
「エリシア……!」
思わず、手を伸ばす。
「榊様なら……きっと」
微笑んだはずの表情は、最後まで見えなかった。
「――目を、背けないでください」
その言葉を最後に、エリシアは崩れるように消えた。
闇だけが残る。
音も、光もない。
ただ――
誰かが、こちらを見ているような気配だけがあった。
「……エリシア……」
答えは、返ってこない。
5. 記憶のほころび
(どういうことだ……)
先程までの出来事を考える。
だが、記憶にモヤがかかったようで――
はっきりしない。
(くそっ……!)
苛立つ。
だが――
ふと、暗闇の中にいくつかの光が見えることに気づいた。
「あれは……?」
俺は、その光の一つに近づいていく。
そして――
突然、視界が広がった。
そこに見えたのは――
ファルマを逃がすため、騎士たちに自分に狂戦士化の魔法をかけて突っ込むブライアン。
ガレスとエリカは、騎士たちが混乱した隙に――
アーロンが召喚した飛竜に、ファルマを抱えて乗り、飛び立つところだった。
「これは……」
俺は、呆然とする。
俺は名前でしか、黄金の剣のメンバーは知らないはずだ。
なのに、顔を見ただけで誰が誰だかわかる。
(これはまさかファルマの……記憶……?)
徐々に異世界での記憶が戻ってくる。
どこかからか焦ったような気配も感じる。
光が消え、また暗闇に戻る。
そして――
他の光も、見える。
「……行ってみるか」
俺は、次の光に向かって歩き出した。
田中・山田・渡辺
榊とともに高校卒業後、同じ中堅商社へ就職した同期三人組。上司に恵まれず、ブラック寸前の業務をこなしながら愚痴を言い合った気心の知れた仲間である。休日には飲みに行くなど、仕事を越えた友人関係でもあった。
榊が異世界へ召喚されたことで、最も理不尽を押しつけられたのは彼らかもしれない。
異世界から帰る術を見つけない限り、再び顔を合わせることはないだろう。




