第四話:地理
1. この世界の地理
握手を終えると、ルーシェンは再びソファに腰を下ろし、静かに紅茶を口にした。
「では、これからよろしくお願いしますね、榊さん」
「こちらこそ」
俺も椅子に座り直す。警戒心は、まだ抜けない。
「魔法の話は一通りしましたが……地理も最低限、知っておいた方がいいでしょう」
「お願いします」
ルーシェンは立ち上がり、本棚から一冊の分厚い本を抜き取った。
開かれたページには、一枚の大きな地図が描かれている。
「これが、私たちの住む大陸です」
覗き込んだ瞬間、俺はわずかに目を見開いた。形が、どこか見覚えのある輪郭をしている。
「……北アメリカ大陸」
「北アメリカ大陸?」
「ええ。俺の世界で、何度も見た地図の形です。直接行ったことはありませんが……」
「なるほど。知っている形に近いなら、位置関係も把握しやすいでしょう」
その一言で、頭の中に大陸の像が、すっと収まった。
「私たちが今いるのは、この中央部――ムステル王国」
ルーシェンの指が、地図の中心をなぞる。
「東西に広く、気候は比較的穏やか。食糧も人も、困らない国です」
数字の説明はなかったが、それだけで「大国」だということは理解できた。
「首都はヴァレリア。ここから東に、そう遠くない場所にあります」
地図の一点を指し示す。
「商業と魔法の中心地です。 魔法学院もあり、才能ある者は自然と集まります」
「魔法の中心……」
「ええ。私も、何度か講義に行きました」
懐かしむような口調だが、表情は淡々としている。
「さて――問題は、周囲です」
その言葉と同時に、空気が少し張り詰めた。
「北にあるのが、カルガリー神聖国」
地図の上部を、迷いなく指す。
「神を絶対とする宗教国家です。 光の秩序神を奉じ、闇の力を最も忌み嫌う」
俺は息を呑んだ。
「もし、あなたがそこに足を踏み入れ……闇の力を持つと知られれば」
ルーシェンは、こちらを見た。
「裁きは即日。 運が良ければ即処刑。悪ければ――火刑です」
背筋が冷えた。説明というより、明確な警告だった。
「近づかない方がいい、というより……近づいてはいけません」
即答だった。
「そして南。トレオン帝国」
指は、今度は地図の下へ。
「軍事国家です。皇帝の権力は強く、常に力を誇示している」
「危険な国なのですか?」
「現時点では、友好国です」
ルーシェンは一拍置く。
「三国――ムステル、カルガリー、トレオンは、互いに均衡を保っています。ですが、均衡とは、壊れるためにあるものです」
その言い方が、妙に現実的だった。
「他にも小国や独立領はありますが、あなたが関わる可能性があるのは、今のところこの三つだけでしょう」
ルーシェンは本を閉じた。
「ちなみに、この研究所は――」
再び地図を開き、ある一点を示す。
「ヴァレリアから西。街道から外れた、森の奥です」
「人目につかない場所、ということですね」
「ええ」
否定しない。
「研究には、最適です」
その言葉に、嫌な重みを感じた。人目につかない。つまり、何が起きても外には漏れない。
「地理の説明は、以上です」
本は静かに閉じられた。
「細かいことは、必要になった時に話しましょう。――無知は、時に命取りになりますから」
俺は、地図の残像が消えないまま、黙って頷いた。
「もう夕方ですし、夕食の準備をしますね。今日は色々あって疲れたでしょう?」
「はい……」
俺は改めて疲労を感じた。異世界に召喚され、怪物と戦い、森を歩いて、大量の情報を詰め込まれた。心身ともに疲れ果てている。
「今日はゆっくり休んでください。本格的な実験は明日からにしましょう」
実験、という言葉を、この男は何の躊躇もなく使う。
「分かりました」
俺は短く答えた。
2. 夕食と寝室
ルーシェンは手際よく夕食の準備を始めた。俺は手伝おうとしたが、ルーシェンに座っているように言われた。
「今日はゆっくりしていてください。明日からは色々と手伝ってもらいますから」
俺は木の椅子に座り、ぼんやりと窓の外を眺めた。夕日が森を赤く染めている。美しい光景だった。
だが、俺の心は複雑だった。元の世界に帰れるのだろうか。家族や友人は、自分が突然消えたことをどう思っているだろう。
そして、この男に利用され続けるのだろうか。
「考え事ですか?」
ルーシェンが声をかけてきた。
「あ、はい……元の世界のことを考えていました」
「帰りたいですか?」
俺は少し考えてから答えた。
「分かりません。帰りたい気持ちもありますが……」
「でも?」
「元の世界で、俺は特別な存在ではありませんでした。普通の社会人で、何も成し遂げていない」
俺は自嘲気味に笑った。
「でも、この世界では闇の力という特別な力を持っている。危険な力ですが、もしかしたら何か意味があるのかもしれない、と」
ルーシェンは微笑んだ。その笑顔は、相変わらず目が笑っていない。
「それは良い考え方です。前向きな被験者は、より良い実験結果をもたらしますから」
被験者。
やはり、この男にとって俺はそういう存在なのだ。
やがて、夕食ができあがった。テーブルには、野菜のシチューと黒パン、それにチーズが並べられた。
「畑で採れた野菜で作りました。どうぞ」
俺は一口食べて、その美味しさに驚いた。野菜の甘みが濃厚で、シチューのスープも深い味わいだ。
「美味しいです」
「それは良かった。健康な被験者を維持するためには、栄養バランスの取れた食事が重要ですからね」
またも、被験者という言葉。俺は黙って食事を続けた。
二人は静かに食事をした。窓の外では、すっかり日が暮れ、星が輝き始めていた。
食事を終えると、ルーシェンは俺を二階へ案内した。階段を上ると、小さな廊下があり、二つの部屋があった。
「こちらが客室です。今日からあなたの部屋ですよ」
ルーシェンが扉を開けると、こぢんまりとした寝室があった。ベッドと小さな机、それに椅子が置かれている。窓からは森が見える。
「狭いですが、我慢してください。研究に集中するためには、シンプルな環境の方が良いでしょう」
「いえ、十分です」
俺は短く答えた。文句を言える立場ではない。
「では、おやすみなさい。何かあれば、隣の部屋にいますから」
「おやすみなさい」
ルーシェンが部屋を出ていくと、俺は一人になった。ベッドに腰を下ろし、深く息をついた。
信じられないような一日だった。朝、目が覚めたら異世界にいて、怪物に襲われ、魔法使いと出会い、そしてこの研究所で暮らすことになった。
実験動物として。
俺は窓の外を見た。星空が広がっている。見たことがある星座は見つけられなかった。ここは、本当に別の世界なのだ。
「これから、どうなるんだろう……」
俺は呟いた。不安と警戒心が入り混じった気持ちだった。
あの男を信用することはできない。だが、今は彼に頼るしかない。そして、闇の力を制御する方法を学ばなければならない。
それまでは、この歪な関係を受け入れるしかない。
俺は服を脱ぎ、ベッドに横になった。
そういえば、いつのまにか傷は治ったが、服の脇腹あたりは破け、血で汚れたままだ。
別の服も貰えるのだろうか。そう考えながらも意外にも、すぐに眠りに落ちた。
深い、深い眠りだった。
夢は見なかった。
3. 新しい朝
翌朝、俺は鳥の鳴き声で目を覚ました。窓から朝日が差し込んでいる。
一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。だが、すぐに思い出した。ここは異世界、ムステル王国のルーシェンの研究所だ。
俺は起き上がり、窓の外を見た。朝霧が森を覆っている。幻想的な光景だった。
下の階から、何か良い匂いが漂ってきた。おそらく朝食の匂いだ。俺はいつの間にか脱ぎ捨てた服がなく、代わりにベッド脇に用意されていた新しい服があるのに気付いた。大きさも特に問題ないようだ。それを着て、階下へ降りた。
「おはようございます、榊さん」
ルーシェンが笑顔で迎えた。テーブルには、焼いた黒パンと目玉焼き、それにりんごのような果物が並んでいた。
「おはようございます」
「よく眠れましたか?」
「はい、ぐっすりと」
「それは良かった。十分な睡眠は、正確な実験データを得るために重要ですからね」
またも、実験という言葉。
この男にとって、俺の全てが実験の一部なのだ。
「それに、その服は私のお古ですが、我慢してください。着ていた服は破けてましたからね。背丈が同じくらいなので問題ないはずです」
ルーシェンのお古なのか…
「さあ、朝食を食べましょう。食べたら、早速実験を始めますよ」
俺は少し緊張した。今日から、闇の力の研究が始まるのだ。
だが、同時に思う。この実験を通じて、俺は闇の力を制御する方法を学べるかもしれない。それは、この男に利用されることと引き換えに得られる、唯一の希望だ。
「分かりました」
俺は短く答えた。
「ああ、そうそう。一応一つ忠告しておきます」
ルーシェンは笑顔のまま言った。
「決して逃げようとは思わないことです。この森は危険な魔物で溢れています。そして、あなたは戦闘能力がない。一人で森を抜けることは不可能です」
その言葉は、警告であり、同時に脅しでもあった。
「それに、あなたが闇の力を持つことが世間にバレれば、即座に処刑されます。ここにいる限りは、少なくとも安全ですよ」
ルーシェンは優しく微笑んだ。だが、その目は冷たかった。
俺は、完全にこの男の手の中にあるのだ。
「分かってます」
俺は答えた。
二人は朝食を食べ始めた。窓の外では、朝霧が徐々に晴れていき、青空が広がり始めていた。
新しい一日が始まった。俺の異世界での生活が、今、本格的に始まろうとしていた。
実験動物としての生活が。
そして、俺はまだ知らなかった。自分が持つ闇の力が、この世界にどれほど大きな影響を与えることになるのかを。
それは、まだ遠い未来の物語だった。
だが、一つだけ確かなことがあった。
俺は、この状況を受け入れるつもりはない。
いつか、必ず自分の力を完全に制御し、この男から独立する。
そのためには、今は耐えるしかない。
俺は心の中で誓った。
ムステル王国
東西約二〇〇〇キロ、南北約一〇〇〇キロほどの、左右に長い形状をした王国。
現在の国王はムステル・ド・テリオンで、王都はヴァレリア。総人口は約五千万とされる。
中央集権化が進んでおり、各地の貴族は領主というよりも王命を執行する代官に近い立場にある。辺境伯でさえ、国境を守る現場の最高責任者という位置づけに留まる。
国土の形は北アメリカ大陸に酷似しており、北にはカルガリー神聖国、南にはトレオン帝国が位置する。両国とは一応の友好関係にあり、不可侵条約が結ばれている。




