二人だけの週末と、新婚ごっこ
その週末、我が家から父と義母がいなくなった。
親戚の結婚式に出席するため、両親が二泊三日で家を空けることになったのだ。
俺たちは留守番だ。
「湊、結愛ちゃんのこと頼んだぞ。戸締まりしっかりな」
「はいはい、わかってるって。気をつけて」
玄関先で両親を見送る。
車のエンジン音が遠ざかり、完全に聞こえなくなった瞬間、隣に立っていた結愛がふぅっと大きく息を吐いた。
そして、パッと弾けるような笑顔で俺を振り返った。
「行っちゃったね、湊くん」
「ああ。なんか静かだな」
「ふふ、これで正真正銘、この家には私たちだけだね」
彼女は背伸びをしながら、開放感を全身で表現している。
その姿は親の目がなくなったことへの解放感というよりは、邪魔者がいなくなったことへの歓喜に見えた。
「ねえ湊くん」
「ん?」
「今日から三日間、『お父さんとお母さん』ごっこしよ?」
「は? なんだよそれ」
「つまり……新婚さんごっこってこと!」
彼女は悪戯っぽく舌を出して笑うと、スキップするようにリビングへ戻っていった。
「お昼ご飯、オムライスにするね! 湊くんはテレビでも見て寛いでて、旦那様♡」
その語尾の甘さに、俺は少し目眩を覚えた。
冗談めかしてはいるが、彼女の目は本気だ。
この三日間、彼女はこの家という閉じた箱庭で、俺との理想の生活をシミュレーションするつもりなのだ。
昼食のオムライスには、予想通りケチャップで大きなハートマークが描かれていた。
味は相変わらず完璧で、文句のつけようがない。
「美味しい?」
「ああ、美味いよ」
「よかった。……ねえ、あーんしてあげよっか?」
「しない。自分で食える」
「むぅ……ケチ。二人きりなんだから、誰も見てないのに」
彼女は不満げに頬を膨らませるが、その表情すら楽しそうだ。
午後は二人で映画を観て過ごした。
以前なら少し距離を空けて座っていたソファも、今は当然のようにゼロ距離だ。
俺の肩に頭を乗せ、映画のクライマックスで恋人たちがキスをするシーンになると、彼女はチラリと俺の顔色を窺ってくる。
その視線に気づかないふりをするのが精一杯だった。
外は雨が降り始めていた。
雨音が外界の音を遮断し、家の中の密室感をより一層高めていく。
この空間には、姉と弟という理屈よりも、男と女という原始的な事実の方が色濃く漂い始めていた。
夜、風呂上がりのリビング。
両親がいれば互いに部屋へ戻る時間だが、今夜はその必要がない。
結愛は風呂上がりの火照った体のまま、キャミソールにショートパンツという、目のやり場に困る格好でアイスを食べている。
「湊くんも食べる? 一口あげる」
差し出されたスプーンを避けて、俺は自分の分を開ける。
「……ちょっと薄着すぎないか? 風邪引くぞ」
「平気だよ。暖房つけてるし」
彼女はスプーンを咥えたまま、とろんとした目で俺を見た。
「それに……湊くんがいるから、寒くないもん」
意味深な言葉と共に、彼女はソファの上でずるりと体を寄せてくる。
冷たいアイスと、彼女の熱い体温。
そのコントラストが妙に生々しい。
「ねえ、今日はどこで寝る?」
核心を突く質問が飛んできた。
「どこって……それぞれの部屋だろ」
「え〜、やだ。せっかく二人きりなのに? お父さんもお母さんもいないんだよ? 誰にも怒られませんよー?」
彼女は俺の腕に指を絡ませ、懇願するように見上げてくる。
「リビングにお布団敷いて、修学旅行みたいに寝ようよ。ね? お願い」
「……修学旅行って、男女でやることじゃないだろ」
「お固いなぁ。じゃあ、私が湊くんの部屋に行く」
「おい」
「決定! 布団持っていくね!」
彼女は聞く耳を持たず、パタパタと自室へ走っていった。
止める気力も、理由も見つからなかった。
正直に言えば、俺自身もこの甘い空気に毒され始めていたのだ。
数分後、彼女は自分の枕と毛布を抱えて戻ってきた。
そして当然のように、俺のベッドの隣……ではなく、俺のベッドの上に自分の巣を作り始めた。
「狭いって」
「くっつけば平気。ほら、湊くんも来て」
手招きされるまま、俺はベッドに入った。
消灯すると、雨音だけが響く暗闇の中で、彼女の存在感が膨れ上がる。
「……んふふ」
隣から含み笑いが聞こえた。
「何がおかしいんだよ」
「だって、なんか悪いことしてるみたいでドキドキする」
彼女の手が布団の中で伸びてきて、俺の手を探り当てた。
指が絡められ、恋人繋ぎになる。
「……湊くんの手、大きいね」
「結愛の手は冷たいな」
「じゃあ温めて?」
彼女はすり寄ってきて、頭を俺の肩に乗せた。
「……ずっとこうしてたいな。明日も、明後日も、ずっと二人きりならいいのに」
その言葉には、日常に戻ることへの微かな拒絶が含まれていた。
「湊くん、こっち向いて」
言われるままに顔を向けると、暗闇の中で彼女の瞳が光を拾って濡れたように輝いていた。
鼻先が触れそうな距離。
彼女の甘い吐息が直接顔にかかる。
「……おやすみ、湊くん」
彼女はそう囁くと、キスをする代わりに、俺の額に自分のおでこをコツンと押し付けた。
「大好きだよ」
その言葉は重たい感情ではなく、純粋で無垢な、だからこそ逃げ場のない親愛の情だった。
俺たちは手を繋いだまま、雨音に包まれて眠りに落ちた。
この夜、姉弟という境界線は、雨に溶けて完全に曖昧なものになっていた。
翌朝、目が覚めると隣に結愛はいなかった。
時計を見ると九時を回っている。
昨夜のことは夢だったのかと一瞬思ったが、俺の手には微かに彼女のシャンプーの香りが残っていた。
リビングへ降りると、香ばしい匂いが漂ってきた。
「あ、起きた? おはよう、湊くん」
キッチンに立つ結愛が振り返る。
彼女は俺のシャツを大きめに着崩し、エプロンをつけていた。
「……その格好」
「ん? 部屋着洗濯しちゃって、借りちゃった。ダメだった?」
裾から伸びる白い足が眩しい。
計算なのか天然なのか分からないが、破壊力は抜群だった。
「……いや、いいけど」
「朝ごはん、フレンチトーストにしたよ。顔洗ってきて」
テーブルにつくと、黄金色に焼かれたフレンチトーストと、淹れたてのコーヒーが並んでいた。
窓からは日曜日の柔らかな日差しが差し込み、まるで映画のワンシーンのようだ。
「はい、コーヒー。ミルクとお砂糖は?」
「ブラックでいい」
「大人だね〜。私はあまーいのが好き」
彼女は自分のカップに角砂糖を二つ入れ、幸せそうに口をつける。
「ねえ、このまま時が止まっちゃえばいいのにね」
彼女は窓の外を見ながら、独り言のように呟いた。
「明日にはお父さんたち帰ってくるもんね……魔法が解けちゃう」
その横顔が急に寂しげに見えて、俺は無意識に言葉を探していた。
「……また、こういう機会あるだろ」
気休めを言うと、彼女はハッとして俺を見た。
「……ほんと? また二人きりになれる?」
「まあ、たまには旅行行くこともあるだろうし」
「そっか……そうだよね!」
彼女の表情に光が戻る。
「じゃあ次は、もっと凄いことしよっか」
「凄いことってなんだよ」
「んー……秘密! その時までのお楽しみ」
彼女は意味深に微笑むと、フレンチトーストを切り分けた。
「ほら、食べて食べて。精つけないとね」
「なんのだよ」
平和な日曜日の朝。
だが、この「新婚ごっこ」を通じて、俺たちの関係は後戻りできないところまで進んでしまっていた。
彼女にとってこの週末はただの留守番ではなく、未来の予行演習。
俺を完全に自分のものにするための、甘い甘い実績作りだったのだ。




