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愛が詰まった箱と、改札前の待ち人

 月曜日の朝。

 それは結愛との近しいあれやこれが終わり、俺が日常という名の学校へ戻らなければならない日だ。

 玄関先で靴紐を結ぶ俺の背後に、ずっしりと重い気配が迫る。

「湊くん、はいこれ」

 手渡されたのは、風呂敷に包まれた弁当箱だった。

 高校生男子が持つには少し可愛らしすぎる包みだが、問題はその重量だ。

 まるで鉄でも入っているかのように重い。

「……なんか、すごく重くないか?」

「気のせいだよ。強いて言うなら私の愛情の重さかな?」

 彼女は悪戯っぽく笑うが、目は真剣だ。

「早弁なんてしないでね?お昼休みに、ちゃんと味わって食べてね。冷凍食品なんて一つも使ってないんだから」

「わかったよ。ありがとな」

「あと……購買でパンとか買っちゃダメだよ?他の人が作ったものなんて、体に悪いから」

 彼女は俺の襟元を整えながら、呪いのような忠告を囁く。

「いってらっしゃい。……早く帰ってきてね」

 名残惜しそうに手を振る彼女に見送られ、俺は逃げるように家を出た。

 学校での午前中の授業は上の空だった。

 ポケットの中のスマホが、授業中も断続的に震え続けていたからだ。

『今体育?怪我しないでね』

『隣の席の子、男だよね?』

『早くお昼にならないかな』

 時間割を把握しているのか、休み時間になるたびに正確にメッセージが届く。

 そして迎えた昼休み。

 俺は友人たちの視線を避けつつ、弁当の包みを解いた。

 蓋を開けた瞬間、俺は息を呑んだ。

「……マジかよ」

 そこには、芸術的とも言える狂気が詰め込まれていた。

 白飯の上には、海苔で精巧に切り抜かれた文字が鎮座している。

『大好きな弟くんへ♡』

 その文字の周囲を、ハート型に飾り切りされた人参や卵焼きが埋め尽くしている。

 おかずの段も隙間なく肉料理が詰め込まれており、底が見えない。

「うわ、すげぇ。てかお前って兄弟いたっけ?」

 悪友がニヤニヤしながら覗き込んでくる。

「うるさい、黙ってろ」

 俺は顔から火が出るのを自覚しながら、必死に箸を動かした。

 味は相変わらず絶品だった。

 だが、食べ進めるとおかずの下から、ラップに包まれた小さな紙切れが出てきた。

『全部食べてくれた?残したらお仕置きだからね』

 もはやホラーだ。

 俺はこの弁当箱が、遠隔操作の監視カメラのように思えてきた。

 結局、俺は胃が破裂しそうになりながらも、米粒一つ残さず完食した。

 残した時の彼女の反応を想像すると、それが一番安全な選択肢だったからだ。

 放課後。

 ホームルームが終わると同時にスマホが震えた。

『終わったよね?駅で待ってる』

 俺の思考を先回りしたかのようなタイミング。

 校門ではなく、最寄り駅の改札というところが妙にリアルで逃げ場がない。

 友人の誘いを断り、駅へ向かうと、改札の柱の陰に彼女の姿があった。

 人混みの中でも一際目を引く美少女が、不安そうにスマホを握りしめている。

 俺の姿を見つけた瞬間、彼女の表情が花が咲いたように輝いた。

「湊くん!」

 周囲の目も気にせず、彼女は小走りで駆け寄り、俺の腕に抱きついた。

「お、お疲れ……なんで駅に?」

「だってお迎えしたかったんだもん。学校どうだった?女の子に声かけられなかった?」

 彼女は俺の腕に頬をすり寄せながら、クンクンと匂いを嗅ぐような仕草をした。

「……うん、湊くんの匂いだ。変な香水の匂いとかしなくてよかった」

「お前なぁ……犬じゃないんだから」

「姉弟だもん、心配でしょ?あ、お弁当箱貸して?」

 彼女はその場で俺の鞄を開けさせ、弁当箱を取り出した。

 空になった箱を確認すると、彼女は今日一番の恍惚とした笑顔を見せた。

「わぁ……凄ぉい。全部食べてくれたんだ」

 彼女は空の弁当箱を、まるで宝物のように胸に抱きしめた。

「私の作ったもので湊くんのお腹がいっぱいになったんだね……嬉しい。私のこと、体の中で感じてくれた?」

 その言葉の選び方に、背筋がゾクリとする。

「……美味かったよ。量はちょっと多かったけどな」

「そっかぁ、じゃあ明日はもっと気合入れなきゃね!」

 彼女は俺の腕をさらに強く抱き込み、家路を急かした。

「今日の夕飯は何にしようか?湊くんの好きなもの、もーっといっぱい作るからね。これからはずっと、私が湊くんの体を作ってあげる」

 夕暮れの街を歩く俺たちの影は一つに重なっていた。

 学校という「外の世界」ですら、彼女の支配からは逃れられない。

 重たくなった胃袋と、腕に絡みつく彼女の体温が、その事実を物語っていた。


 激動の月曜日が終わり、夕食の片付けも済んだリビングには穏やかな空気が流れていた。

 父と義母は再婚の手続きや親戚への挨拶回りの打ち合わせで書斎に籠もっている。

 大型テレビから流れるバラエティ番組の音だけが、少し広すぎる部屋の静寂を埋めていた。

 ソファに座ってスマホを弄っていた俺の隣に、風呂上がりの結愛が音もなく座った。

 ふわり、と石鹸の甘い香りが鼻腔をくすぐる。

「ねえ、湊くん」

「ん?」

「膝枕、してあげよっか?」

 彼女はポンポンと自分の太腿を叩いて、聖母のような微笑みを浮かべている。

「いや、いいよ。子供じゃあるまいし」

「えー、遠慮しないでよ。弟君が今日一日学校で頑張ったの、お姉ちゃん知ってるんだから。ご褒美だよ」

 彼女は強引に俺の腕を引くと、抵抗する間も与えず、俺の頭を自身の膝の上へと導いた。

 視界が反転し、天井の照明と、逆さまになった結愛の顔が映る。

 柔らかい感触と、じんわりと伝わってくる体温。

 正直、抗いがたい心地よさがあった。

 「あ、動かないでね。耳掃除してあげる」

 彼女の手には、いつの間にか耳かきが握られていた。

「……そんなことまでしなくていいって」

「ダメ。家族なんだから、これくらいさせて? 私、ずっとこういうの憧れだったんだ」

 彼女は俺の髪を優しく撫で付け、耳元を覗き込む。

 その瞳は、獲物を狙う時の暗い光ではなく、もっと慈愛に満ちた、とろけるような色をしていた。

「私ね、一人っ子みたいなものだったから。ずっと誰かのお世話をしたかったの。……湊くんが弟になってくれて、本当に嬉しい」

 カリ、と耳の中で音がする。

 その手つきは驚くほど繊細で優しかった。

 彼女の吐息が頬にかかる距離。

 俺の鼓動が早くなっているのが彼女に伝わっていないか心配になるほど、密接な時間。

「痛くない?」

「...上手だよ」

「ふふ、よかった。湊くんの耳の形、綺麗だね。ここも、私の好きな場所」

 彼女は愛おしそうに俺の耳殻を指先でなぞる。

 嫉妬に狂っている時の彼女も怖いが、こうして全面的に母性を向けてくる彼女もまた、別の意味で恐ろしかった。

 この温もりに慣れてしまえば、俺は二度とここから抜け出せなくなる。

 そんな予感があるのに、俺は彼女の太腿から頭を上げることができなかった。

 耳掃除が終わっても、彼女は俺を離さなかった。

 俺の髪を指で梳きながら、ぽつりと呟く。

「ねえ、湊くん。私たちが家族になったこと、運命だと思わない?」

「運命?」

「うん。お父さんとお母さんが出会わなかったら、私たちは他人のままだった。でも、今はこうして一番近くにいる。……血が繋がってないからこそ、誰よりも強く繋がれると思うの」

 彼女の論理は少し飛躍している気がしたが、その声があまりに真摯で、俺は曖昧に頷くことしかできなかった。

「だからね、湊くん。外で何があっても、家に帰れば私がいるからね。辛いことがあったら、全部私に預けていいんだよ?」

 それは俺の世界を彼女一色に染め上げるための、甘い甘い囁きだった。


「湊くん、お風呂沸いたよ〜」

 膝枕から解放されて数十分後、結愛の声が脱衣所から響いた。

「ああ、サンキュ」

「着替え、カゴに入れておいたからね!タオルも新しいの出しておいたよ!」

「……お前、本当にマメだな」

「えへへ、お姉ちゃんだからね!」

 脱衣所に行くと、彼女はちょうど浴室から出てきたところだった。

 湿気で少し赤らんだ頬と、首筋に張り付いた濡れた髪。

 その姿に思わずドキリとして視線を逸らす。

「……あ、背中流そうか?」

 彼女が自然な調子で提案してきた。

「いや、それはさすがに断る!」

「え〜、なんで? 減るもんじゃないのに」

「家族としてのラインってものがあるだろ」

 俺が慌てて浴室に逃げ込むと、扉の向こうで彼女がクスクスと笑う気配がした。

「残念。ま、楽しみはとっておこっと」

 浴室に入り、温かい湯船に浸かると、ようやく一息ついた気がした。

 今日一日、彼女の監視と接待を受け続け、精神的な疲労が溜まっていたのだろう。

 だが、不思議と嫌な気分ではなかった。

 むしろ、あの重たい愛情が湯船の温かさのように、冷えた心を溶かしていくような感覚さえある。

 俺は自分の感覚が麻痺し始めているのを自覚しつつ、深く息を吐いた。

 風呂から上がると、リビングの照明が落とされ、間接照明だけの落ち着いた雰囲気になっていた。

 結愛がソファに座り、俺を待っていた。

「お風呂、どうだった?」

「ああ、いい湯だったよ」

「よかった。……こっち来て、髪乾かしてあげる」

 彼女の手にはドライヤーとタオルがあった。

 また拒否しても無駄だろうと悟った俺は、彼女の前の床に座り込んだ。

 背後からバスタオルが頭に被せられ、ワシワシと髪を拭かれる。

 力加減はやはり絶妙だ。

「湊くんの髪、サラサラで気持ちいい。ずっと触ってたいな」

 ドライヤーの温風と共に、彼女の指が俺の頭皮をマッサージするように動く。

 機械的な音に混じって、彼女の独り言のような声が聞こえた。

「……そういえば、ハンカチにアイロンかけておいたよ。あと、体育があるから制汗シートも入れておいた」

「……過保護すぎないか?」

「ううん、足りないくらい。湊くんが学校に行ってる間、私がしてあげられることなんてこれくらいしかないもん」

 ドライヤーの音が止まる。

 静寂が戻った部屋で、彼女は俺の首筋に腕を回し、背中から抱きついてきた。

「湊くん」

「……なに?」

「私ね、湊くんのお世話をしてる時が一番幸せなの。だから、私の楽しみを奪わないでね?」

 背中に感じる彼女の体温は、昨日よりも馴染んで感じられた。

 俺たちは血の繋がらない姉弟だ。

 だが、この数日で積み上げられた時間は普通の家族よりも遥かに濃密で、歪な形をしていた。

「……わかったよ。ありがとな、姉ちゃん」

 俺が初めて素直に感謝の言葉を口にすると、彼女は息を呑んだ気配がした。

 そしてさらに強く、肋骨が軋むほどの力で俺を抱きしめた。

「……うん。大好きだよ、湊くん」

 その言葉は家族としての親愛なのか、それとも別の何かなのか。

 境界線は湯気に溶け、もう誰にも分からなくなっていた。

 リビングのドアが開き、父たちが戻ってくる気配がするまで俺たちはそのままでいた。

 それは二人だけの秘密の時間の終わりであり、表向きの「仲の良い姉弟」に戻る合図でもあった。

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