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深夜の侵入者と体温の証明

 その日の夜も、俺の部屋のドアはノックされた。

 時刻は深夜二時を回っていた。

「……どうぞ」

 入ってきたのは、予想通り結愛だった。

 昨日のようなフリルのついた可愛らしいネグリジェではなく、少しサイズの大きいTシャツを着ている。

 それが逆に、彼女の無防備さと華奢な体を強調していた。

「……ごめんね、湊くん。また起こしちゃった?」

「いや、まだ起きてたから大丈夫だけど。どうした?」

「あのね……また怖い夢見ちゃって。一人で寝るの、寂しくて」

 彼女は扉の前でモジモジとしている。

 昨夜はベッドの端に座って話をしただけだった。

 だが今夜の彼女の纏う空気は、昨日とは明らかに違っていた。

 昼間のパニックと、夕食時の完璧な振る舞い。その反動が来ているようだった。

「……ここ、いい?」

 彼女が指差したのは、俺のベッドの、俺の隣のスペースだった。

「えっ……いや、それは流石に狭いんじゃないか?」

 シングルベッドだ。大人の男女が二人で寝るには無理がある。

「大丈夫。私、小さくなるから。……お願い、今日だけ。昼間のこと思い出して、不安で押し潰されそうなの」

 彼女の瞳が潤み始める。

 これを断れば、またあのパニックが繰り返されるかもしれない。

 俺は観念して、ベッドの端に寄った。

「……わかったよ。今日だけだぞ」

「うん!ありがと、湊くん!」

 彼女はパッと顔を輝かせ、ためらうことなく俺の布団に潜り込んできた。

 狭いベッドの中で、彼女の体が俺の背中に密着する。

 柔らかい感触と、風呂上がりの甘い匂いが鼻腔をくすぐった。

 緊張で体が強張る俺をよそに、彼女の腕が俺の腰に回された。

「……結愛?」

「ん……ちょっとだけ、充電」

 彼女はそう呟くと、俺の背中に顔を埋めた。

 背中越しに伝わってくる彼女の体温は、少し高かった。

 そして、トクトクと早いリズムを刻む心音が、直接俺の体に響いてくる。

 彼女は小刻みに震えていた。

「……湊くん、ここにいるよね?」

「いるよ。どこにも行かない」

「うん……よかった」

 彼女は俺のシャツを強く握りしめた。

 昼間に見た他の女の影。それがもたらした不安を、こうして俺の体温と心音を直接確認することで、必死に塗りつぶそうとしているようだった。

「……湊くんの匂い、落ち着く」

 首筋に彼女の熱い吐息がかかる。

 俺は動けなかった。

 背中に張り付く彼女の存在感は圧倒的で、その重たく湿った愛情が、俺の思考をゆっくりと麻痺させていく。

 これからこの家で、この義姉と暮らしていく。

 その意味を、俺は改めて骨の髄まで理解させられていた。

 彼女の腕の力が強まる。

 それはまるで、蜘蛛の巣にかかった獲物を逃さないとでも言うような、絶対的な拘束のようだった。


 カーテンの隙間から差し込む白い光が瞼を刺し意識が浮上する。

 重い。

 金縛りにでもあったかのように体が動かない。

 寝ぼけた頭で状況を把握しようとすると、鼻先にふわりと甘い香りが漂った。

 そして胸元に感じる温かい重みと規則的な呼吸音。

 俺は昨晩の出来事を鮮明に思い出した。

「怖い夢を見た」と震えていた義姉を、あろうことか自分のベッドに入れたのだった。

 恐る恐る目を開ける。

 至近距離に結愛の顔があった。

 彼女は俺の胸板に頬を乗せ、まるで抱き枕のように俺の胴体に手足を絡みつかせている。

 安らかな寝息を立てている……かと思ったが違った。

 彼女の大きな瞳はぱっちりと開かれていて、じっと俺を見上げていたのだ。

「……っ!」

 心臓が跳ね上がる。

 彼女はいつから起きていたのだろうか。

 俺が声を出すよりも先に、彼女の桜色の唇が弧を描いた。

「あ、起きた。おはよう湊くん」

 その声は少し掠れていて、妙に艶っぽい響きを帯びている。

「……おはよう。いつから起きてたんだ?」

「んー……一時間くらい前かな」

 彼女は悪びれもせず、むしろ誇らしげに答えた。

「ずっと湊くんの寝顔見てたの。全然飽きないんだもん」

 背筋に冷たいものが走る。

 一時間もの間、無防備な俺の姿はこの瞳に観察され続けていたのだ。

 彼女の指先が俺の頬をゆっくりと撫でる。

 輪郭をなぞり、眉間を触れ、唇の端を親指で拭う。

 その手つきは、まるでショーケースの中の宝石を愛でるような、あるいは手に入れた獲物の肉質を確かめるような執拗さを孕んでいた。

「湊くんって、寝てる時たまに『うーん』って言うの知ってた?あとね、一回だけ私の名前呼んでくれた気がする」

「……嘘だろ」

「ほんとだよ?『ゆあ』って。夢の中で私と何してたの?」

 彼女の瞳が妖しく細められる。

 事実かどうかなんて確かめようがない。

 だが彼女の中でそれは既成事実となり、俺への独占欲を満たす材料になっているようだった。

「どいてくれないか。そろそろ起きないと」

「やだ」

 彼女は即答し、さらに強く俺に抱きついた。

「まだこのままでいたい。せっかくの日曜日だよ?あと十分……ううん、三十分はこのままで充電させて」

「トイレ行きたいんだけど」

「……我慢して」

 理不尽な要求だ。

 しかし彼女の腕力は見た目以上に強く、何より拒絶した時のあのパニックを思うと無理に振りほどくことができない。

 俺が溜息をついて脱力すると、彼女は満足そうに喉を鳴らした。

「ねえ湊くん」

「何だよ」

「スマホ、見てもいい?」

 脈絡のない言葉に俺は耳を疑う。

「は?なんで?」

「だって湊くんが寝てる間、通知がいっぱい来てたから。誰からかなーって」

 彼女の視線は枕元に置いてある俺のスマートフォンに向けられている。

 画面は暗転しているが、彼女はそれを既に手に取ろうとしていた。

「友達だよ。部活の連絡とかだろ」

「ふーん……部活の友達って、昨日の女の子?」

 昨日の今日で、まだその疑念を引きずっているのか。

 彼女は体を起こし、俺の胸の上に跨るような体勢になった。

 上から見下ろされる形になり、彼女の髪が俺の顔にかかる。

 逆光で表情が見えにくいが、声のトーンは真剣そのものだった。

「私ね、パスコード教えてほしいな」

「それは流石にプライバシーが……」

「やましいことがないなら見せられるよね?姉弟だもん、隠し事なんてなしにしようよ」

「姉弟でも最低限の距離感は必要だろ」

 俺が正論で返すと、彼女は悲しげに眉を下げた。

「……信用できない?私のこと」

「そうじゃなくて」

「私は見せられるよ?ほら」

 彼女は自分のスマホを取り出し、ロックを解除して俺の目の前に突き出した。

 ホーム画面の壁紙を見て、俺は息を呑んだ。

 そこには、今まさにこのベッドで眠っていた俺の寝顔が設定されていたからだ。

「……いつ撮ったんだよ」

「さっき。一番いい顔選んだの。ね、可愛いでしょ?」

 彼女は恍惚とした表情で画面の中の俺を見つめている。

 この一時間の間に、彼女はただ見ていただけではなく、俺の寝顔を記録し、コレクションし、あまつさえ壁紙に設定するという行為を完了していたのだ。

「これがあればね、湊くんがいない時でも寂しくないの。ずっと一緒」

 彼女は俺のスマホを手に取り、俺の指を強引に掴んで指紋認証センサーに押し付けた。

 ロックが解除される。

「あ、」

「ちょっと待て!」

 俺が手を伸ばすが、彼女は素早く身を翻して画面を覗き込んだ。

 数秒の沈黙。

 彼女はメッセージアプリの履歴をスクロールし、昨日のクラスメイトとのやり取りがないことを確認すると、心底安心したように息を吐いた。

「……ほんとだ。女の子からの連絡、ないね」

 彼女はスマホを俺に返すと、再び甘えるように抱きついてきた。

「ごめんね疑って。でもこれで安心した。湊くんは私だけの弟だもんね」

 俺は返されたスマホを握りしめた。

 画面には彼女の指紋がべったりと付いている。

 プライバシーという境界線は、彼女の重たい愛の前に脆くも崩れ去っていた。

 これから先、俺の交友関係、行動範囲、その全てがこの笑顔の監視下に置かれることになる。

 その事実に戦慄しながらも、胸元ですり寄ってくる彼女の温もりに、奇妙な居心地の良さを感じ始めている自分がいることに、俺はまだ気づかないふりをしていた。

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