道化の観覧席
沸き立つグラウンド。
ゴール付近では、クラスメイトたちが湊くんと篠原さんを取り囲み、手荒い祝福を与えている。
私はそれを、特等席であるはずの最前列から眺めていた。
私の手には、まだ開けられていない重箱のお弁当がある。
「……はは」
乾いた笑いが漏れた。
悔しくないと言えば嘘になる。
正直、あの子の髪を掴んで引きずり回してやりたいくらいには腹が立っている。
けれど、不思議と心は凪いでいた。
(まあ、いいか)
私は自分に言い聞かせるように、心の整理を始めた。
所詮は体育祭というお祭り騒ぎの中での出来事だ。
吊り橋効果ってやつで、一時的に盛り上がっているだけ。
家に帰れば、湊くんは私の弟だ。
同じ屋根の下で暮らし、同じ釜の飯を食い、私がお風呂を沸かし、洗濯をする。
その「日常」という圧倒的な地盤がある限り、私の優位性は揺るがない。
あの子はただの「学校の友達」。私は「家族」。
勝負にすらなっていないのだ。
そう、私は余裕を持つべき「姉」なのだから、弟の反抗期くらい、笑って許してあげなきゃ。
「さあ、それではお題の確認です!」
放送部の司会が高らかに宣言した。
「優勝候補の青組! 手に持っているカードを見せてください!」
マイクを向けられた湊くんが、少し照れくさそうに、でも誇らしげに白い紙を掲げた。
その瞬間、私の余裕はガラス細工のように砕け散った。
『大切な人』
その四文字が、眼球というモニター越しに私の目に焼き付いた。
会場が「ヒューヒュー!」と冷やかしの歓声に包まれる。
湊くんは隣にいる篠原さんを見て、何かを言った。
篠原さんは顔を真っ赤にして、でも幸せそうに笑って頷いた。
ズキン、と胸が痛んだ。
(大切な人……)
湊くんにとってのそれは、私じゃなかった。
毎日ご飯を作っている私でも、身の回りの世話をしている私でもなく。
今日やっと登校してきた、泣き虫で弱虫なあのクラスメイトだった。
「家族だから」という免罪符が、急に色褪せて見えた。
私は今まで、家族という枠組みを利用して、湊くんを縛り付けようとしていただけだ。
でも、彼はその鎖を引きちぎり、自分の足で、自分の意志で、あの子を選んだ。
その事実は、私がどれだけ「姉」という立場を振りかざしても覆せない、絶対的な「敗北」だった。
不意に涙が滲んだ。
怒りではない。嫉妬でもない。
ただただ、自分が惨めで、そして悲しかった。
(私……何やってたんだろ)
弟の恋愛を邪魔して。
中学生みたいな嫌がらせをして。
無理やり自分の方を向かせようとして。
それは「姉」のすることじゃない。
ましてや「大切な人」がすることでもない。
ただの、見苦しい「邪魔者」だ。
膝の上の重箱が、鉛のように重く感じられた。
このお弁当も、私の重すぎる愛そのものだ。
湊くんは、これを食べるたびに息苦しさを感じていたのかもしれない。
「……そっか」
私は空を見上げた。
雲ひとつない青空が、今の私には眩しすぎる。
(もう、いいや)
私は心の中で、自分自身に「終了」の合図を出した。
湊くんの人生という物語における、ヒロインの座を巡るレース。
そこから、私は降りることにした。
だって、見ていられない。
あんなに輝いている二人の前で、悪役を演じ続ける自分の姿なんて。
(私は、お姉ちゃんでいいや)
スポットライトは、あの子たちに当たっていればいい。
主役は湊くんと篠原さん。
私は舞台袖で、照明を当てたり、小道具を用意したりする「裏方」でいい。
それが、本来あるべき「姉弟」の距離感なのだから。
「……おめでとう、湊くん」
喧騒にかき消されるほどの小さな声で、私は呟いた。
胸の奥に空いた穴に、冷たい風が吹き抜ける。
でも、不思議と肩の荷が下りたような気もしていた。
私は立ち上がった。
この重箱は、家に持ち帰ろう。
そして夜になったら、普通のおかずとして食卓に出そう。
「弟の彼女」に嫉妬する女ではなく、「弟の成長」を見守る家族として。
私は日傘を差し、二人が笑い合っているグラウンドに背を向けて、静かに出口へと歩き出した。
その背中はきっと、来た時よりもずっと小さく、そして寂しげに見えることだろう。




