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発進します。ニャー

 グラウンドへ通じる通路は、保護者席のテントの裏側を通っていた。

 私はジャージの袖を握りしめ、極力気配を殺して歩いた。

 歓声が壁のように立ちはだかる。

 あと数メートルで生徒席。そこへ行けば湊くんの姿が見えるはずだ。

 そう思った矢先だった。

 「あれぇ? 篠原さん?」

 心臓が跳ね上がるような、甘ったるい声が鼓膜を震わせた。

 無視だ。

 聞こえなかったふりをして通り過ぎよう。

 私は足を速めた。けれど。

「ねえ、無視しないでよ。久しぶりだね」

 すぐ横から声がした。

 観覧席の最前列。日傘を差し、優雅に座っていたのは、結愛さんだった。

 周囲の保護者たちが「お友達かしら?」と微笑ましそうに見ている。

 この状況で無視して逃げれば、逆に目立つ。

 私は逃げ出したい足を叱咤し、震える手を隠すように後ろで組んで、彼女の方へ向き直った。

「……こんにちは」

「よかったぁ、来てくれたんだ。体調悪かったんでしょ? もう大丈夫?」

 彼女は心配そうに眉を下げ、私の顔を覗き込んだ。

 その表情は、聖母のように優しく、慈愛に満ちていた。

(……え?)

 違和感を覚える。

 昨日の公園での、あの恐ろしい形相はどこへ行ったのか。

 もしかして、あれは私が怯えすぎて見た幻覚だった?

 本当は、弟思いの優しいお姉さんなだけなの?

 ふと、記憶が重なる。

 図書室で、優しく笑いかけてくれた佐藤くんの顔と。

「……はい、おかげさまで」

 私が少しだけ警戒を解きかけた、その瞬間だった。

 結愛さんはニコリと笑ったまま、唇だけを動かして、周囲には聞こえない音量で囁いた。

 「じゃあさ、もう湊くんに近づかないでくれる?」


 世界から音が消えた。

 彼女の瞳の奥だけが、爬虫類のように冷たく光っている。

「え……?」

「だから、湊くんは私の弟なの。汚い野良猫が擦り寄っていい相手じゃないんだよね」

 優しい声音のまま、放たれる言葉は猛毒だった。

 でも、今の私は昨日の私じゃない。

 保健室の先生が背中を押してくれた。

 赤い紐がポケットにある。

「……お断りします」

 私は精一杯の虚勢を張って、彼女の目を真っ直ぐに見返した。

「私が誰と仲良くするかは、私が決めます。湊くんも、それを望んでくれてますから」

「ふーん……」

 結愛さんはつまらなそうに鼻を鳴らした。

 そして、怜悧な刃物のような視線を私に向け、首を傾げた。

「生意気だなぁ。……佐藤くんが言ってた通りだね」

 ドクン。

 心臓が早鐘を打った。

「……え?」

「佐藤くん。図書室の。……『あいつ、勘違いしてて気持ち悪い』って言ってたよ? なのに、まだ懲りてないんだ」

「な、んで……」

 なんで、その名前を知っているの?

 なんで、彼が私に言った酷い言葉を知っているの?

 呼吸が止まる。

「調べたんだぁ。湊くんに近づく害虫のことは、全部把握しておかないとね」

 彼女は楽しそうに笑った。

「あーあ、可哀想に。中学でボロボロにされて、高校でもまた同じ目に遭いたいの? ……学習能力ないね、猫ちゃん」

 ヒュッ、と喉が鳴った。

 視界が歪む。

 過去のトラウマ。佐藤くんの冷たい目。汚れたハンカチ。

 それらが結愛さんの笑顔と重なり、巨大な黒い波となって私を飲み込もうとする。

「あ、は、ぁ……っ」

 過呼吸の発作だ。空気が吸えない。

 私は後ずさりした。

「あ、逃げるの? また逃げるんだ?」

 背後から彼女の嘲笑が聞こえる。

 保護者席の人々が、奇異な目で私を見ている。

『あの子、どうしたの?』

『具合悪いのかな』

『関わらない方がいいんじゃない?』

 誰も助けてくれない。

 中学の時と同じ。私は一人ぼっち。

 足がもつれる。視界が明滅する。

 もうダメだ。私はやっぱり、幸せになんてなれない――。

 その時だった。

 「篠原さんッ!!!」

 背後から、空気を切り裂くような叫び声が聞こえた。

 同時に、ドタドタという激しい足音が近づいてくる。

「湊くん!?」

 結愛さんの素っ頓狂な声が聞こえた。

(湊くん……?)

 彼は今、借り物競走の真っ最中のはずだ。

 こんなところにいるはずがない。

 幻聴だ。

 そう思って倒れ込みそうになった私の腕を、誰かが強い力で掴んだ。

 グイッ!

「……っ!?」

 体が引き戻される。

 振り返ると、そこには肩で息をする湊くんがいた。

 汗だくで、必死な形相で、私の腕を痛いほど強く握りしめている。

 その向こうで、結愛さんが目を丸くして立ち尽くしていた。

「み、湊くん……なんで……」

 結愛さんが震える声で呼ぶが、湊くんは彼女を一瞥もしなかった。

 彼の瞳には、私しか映っていない。

「篠原さん、行くぞ!」

 彼は私の手を引き、グラウンドの方へ走り出そうとする。

 私は反射的に抵抗した。

「だ、だめ……っ!」

 私は足を止めた。

「私……私には資格がない……逃げたし、汚いし……また湊くんに迷惑かける……!」

 涙が溢れて止まらない。

 佐藤くんの件を知られているかもしれない。私の惨めな過去が暴かれているかもしれない。

 こんなボロボロの私が、彼の隣に立っていいわけがない。

「離して……お願い、離してよぅ……!」

 「うるせぇ!!!」

 湊くんが叫んだ。

 私の弱音も、結愛さんの視線も、全てをねじ伏せるような大声だった。

「資格とか迷惑とか、どうでもいいんだよ!」

 彼は私を睨みつけた。その目は怒っているようで、泣き出しそうなほど真剣だった。

「俺は! 俺のために走るんだ! 俺が篠原さんと走りたいから走る! ……それだけだから!!」

 理屈じゃなかった。

 論理も計算もない。

 ただの、彼の「ワガママ」だった。

 でも、そのワガママが、私の凍りついた心を熱く溶かしていく。

 「きゃっ!?」

 世界が回転した。

 湊くんが、強引に私を抱き上げたのだ。

 いわゆる「お姫様抱っこ」。

「ちょ、湊くん!?」

「暴れるな! 舌噛むぞ!」

 彼は私を抱えたまま、猛ダッシュで駆け出した。

 重いはずなのに。疲れ切っているはずなのに。

 彼の腕は力強く、私を絶対に落とさないという意志に満ちていた。

 顔が近い。

 彼の心臓の音が、私の背中に伝わってくる。

 トクトク、トクトク。

 それは保健室で聞いた電子音なんかじゃない。

 生きている音。

 私を求めてくれる音。


 流れる景色の中、私は置き去りにしてきた結愛さんの顔を見た。

 彼女は口を開けたまま、信じられないものを見る目でこちらを見送っていた。

 ざまあみろ。

 心の中で、自然とそんな言葉が浮かんだ。

 私は目を閉じた。

 暗闇の中に、うずくまって泣いている「中学時代の私」がいた。

 制服は汚れ、ハンカチを握りしめ、誰も信じられずに震えている私。

 私は、今の私の手で、彼女の手を強く握り返した。

『行こう』

『もう、大丈夫だから』

『私たちには、本物のヒーローがいるから』

 過去の私は顔を上げ、涙を拭いて頷いた。

 光が差す。

 私は目を開けた。

 青空が広がっていた。

 大歓声が聞こえる。

「うおぉー! 湊マジかよ!」

「青春だー!!」

 クラスメイトたちの冷やかしと応援が降り注ぐ。

 恥ずかしい。顔から火が出そうだ。

 でも、それ以上に、胸が爆発しそうなほど嬉しかった。

 私は湊くんの首に腕を回し、顔を埋めた。

 汗の匂い。

 太陽の匂い。

 私の大好きな、湊くんの匂い。

 もう迷わない。

 私はこの人の隣にいる。

 誰に何と言われようと、過去の亡霊に足を引っ張られようと、この手を離さない。

 ゴールテープが見えてきた。

 運営委員の生徒たちが、驚きながらテープを張っている。

 私は顔を上げ、ありったけの声を張り上げた。

 「行けぇぇぇーーッ!! 猫くん号ーーッ!!!」

 「誰が猫だッ!!」

 湊くんが息を切らしながらツッコミを入れる。

 それでも、彼の口元はニカッと笑っていた。

 私たちは風になった。

 結愛さんの呪縛も、佐藤くんの裏切りも、全ての重力を振り切って。

 二人だけのゴールへ向かって、私たちは飛び込んだ。

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