もうひとさじのあなたを
学校に着くと、グラウンドからは既に歓声と音楽が響き渡っていた。
私は校門の陰からそっと様子を窺った。
極彩色の喧騒。
昨日までの私なら、この熱気に当てられて逃げ出していただろう。
けれど、今の私は違う。
プログラムを確認する。湊くんと走る二人三脚までは、まだ時間がある。
(……少しだけ、落ち着こう)
今のボロボロの顔と精神状態のまま飛び込めば、かえって湊くんに心配をかけてしまう。
私は人目を避けるように校舎の裏を回り、保健室のドアをノックした。
「……どうぞ」
中から聞こえたのは、事務的で抑揚のない女性の声だった。
失礼します、と入ると、白衣を着た養護教諭の先生がデスクで書類を書いていた。
初めて話す先生だ。アンニュイな雰囲気で、どこか気だるげに見える。
「名前とクラスは? ……ふうん、篠原さんね。ベッド空いてるから適当に使って」
「あ、はい。ありがとうございます」
必要最低限の会話。
でも、その無関心さが今の私には心地よかった。
過剰に心配されることも、腫れ物扱いされることもない。
私はカーテンを閉め、パイプベッドに腰掛けた。
消毒液の匂い。
かつては嫌いだったこの匂いが、今は不思議と心を鎮めてくれる。
その時だった。
ジリリリリ、ジリリリリ。
机の上の内線電話が鳴り響いた。
しかし、先生はペンを走らせたままで、受話器を取ろうとしない。
(……出ないのかな?)
私はカーテンの隙間からそちらを覗く。電話はしつこく鳴り続けている。
先生は眉一つ動かさず、完全に無視を決め込んでいる。
やがて、相手が諦めたのか、呼び出し音が途切れ――
『ピーーーー……』
受話器が上がっていたのか、あるいは回線異常か、通話が切れたことを告げる電子音が、まるで心電図の停止音のように部屋に響き渡った。
その電子音が鳴った瞬間。
それまで動かなかった先生が、やおら立ち上がり、首にかけていた聴診器を自分の胸に当てた。
真顔だった。
目は遠くを見つめ、厳粛な表情を作っている。
(……え? 何してるの?)
私はカーテンの隙間からその奇妙な光景を見ていた。
『ピーーーー……』
鳴り続ける電子音。
胸に当てられた聴診器。
数秒の沈黙の後、先生は静かに聴診器を外し、天を仰いで小さく十字を切った。
あ。
これ、「心停止」だ。
電話の相手(たぶん用件を押し付けてくる誰か)か、あるいは先生自身のやる気が、この電子音と共に臨終を迎えたという寸劇なのでは。
あまりに唐突で、あまりにブラックなジョーク。
「……ふっ」
私の口から、空気が漏れた。
自分でも驚くほど自然に、笑いがこみ上げてきた。
「ふふっ……あはは……」
久しぶりに笑った気がする。
嘲笑でも、愛想笑いでもない、純粋なおかしさからくる笑い。
私の笑い声に気づいた先生が、こちらを振り返った。
怒られるかと思ったが、先生は少しだけ口角を上げ、満足そうに頷いた。
「よかった。笑える元気はあるみたいね」
先生は聴診器を机に置いた。
「悩みがあるなら、さっさと伝えてきなさい。青春なんてね、電話のコール音より短いんだから。無視してると、今の音みたいに手遅れになっちゃうわよ」
「……先生」
「はい、休憩終わり。さっさと行きなさい」
先生はぶっきらぼうに手を振った。
その背中を押してくれるような乱暴な優しさに、私は深く頭を下げた。
「行ってきます!」
私が保健室を出てすぐのことだ。
「おい! 内線入れたのになんで出ないんだ!」
廊下の向こうから、ジャージ姿の男性教師が怒鳴り込んできた。
「あー、すみません。ちょっと立て込んでましてぇ〜」
中から、先生の全く心のこもっていない謝罪の声が聞こえる。
きっと、あの電話の主はこの先生だったのだろう。
「無視しただろ! わかってるんだぞ!」
「まさかぁ。耳が遠くなったのかしら」
扉越しに聞こえる漫才のようなやり取り。
私はもう一度、「ふふっ」と笑った。
体の強張りが解けていく。
重かった足が、少しだけ軽くなった気がした。
私は廊下の窓からグラウンドを見下ろした。
たくさんの生徒、舞い上がる砂煙、響く歓声。
そして、そのどこかに湊くんがいる。
怖い。まだ足は震える。
でも、もう大丈夫。
私はジャージのポケットに入っている紐を強く握りしめた。
先生の言う通りだ。
無視して手遅れになるのは、もう嫌だ。
私の心臓はまだ動いている。電子音なんかじゃない、力強い鼓動を打っている。
「待ってて、湊くん」
私は上履きの踵を鳴らし、光の溢れるグラウンドへと駆け出した。
もう迷わない。
これが、私の青春を取り戻すための全力疾走だ。




