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かくして本に埃は被る。

 視界が滲む中、佐藤くんが私の前に膝をついた。

 彼は何も言わず、ポケットから白いハンカチを取り出した。

 そして、床や私のスカートに飛び散った汚物に、躊躇なくそのハンカチを当てた。

「……佐藤くん」

 彼の手が汚れていく。

 私のために、彼は自分の手を汚してくれている。

 やっぱり、彼は私のヒーローだ。

 教室中が敵になっても、彼だけは私を守ってくれる。

 胸の奥が熱くなり、感謝の言葉を伝えようとした、その時だった。

 ……ぐ、ちゃ

 嫌な感触と音がした。

 彼は汚物を拭き取ったそのハンカチを、私のブレザーの、まだ汚れていない胸元の部分に押し当て、乱暴に擦り付けたのだ。

「……え?」

 思考が停止する。

 白い制服に、茶色いしみが広がっていく。

 彼は無表情のまま、ゴシゴシと執拗に、まるで汚れを塗り広げるかのように手を動かし続けた。

「な、なんで……? 佐藤くん……?」

 私が震える声で問うと、彼は作業を止め、蔑むような冷たい目で私を見下ろした。

 そこには、図書室で見せてくれたあの照れくさそうな笑顔は微塵もなかった。


 「なんでって? お前が汚いからだよ」

 彼は吐き捨てるように言った。

「勘違いすんなよ。俺、お前のことずっと気持ち悪いと思ってたんだよね。いつも一人でブツブツ本読んで、根暗でさ」

「で、でも……本……あんなに仲良く……」

「本? ああ、あれか」

 彼は鼻で笑った。

「あれも全部嘘。俺、あんな退屈な本、一度も開いてねーよ」

 世界が音を立てて崩れ落ちていく。

「毎回綺麗だったろ? 栞の位置、変わってなかったろ? 当たり前じゃん。読んでないんだから」

 ああ。

 そうだったのか。

 彼が本を丁寧に扱ってくれていたわけじゃなかった。

 彼が几帳面だったわけじゃなかった。

 単に、最初から読む気なんてなくて、バッグの中に放置して、期限が来たら返していただけだったんだ。

「感想がズレてた? 適当に帯とかあらすじ読んでテキトーに言っただけだからな。お前、嬉しそうに信じててマジで馬鹿みたいだったわ」

 彼は汚れたハンカチを、ゴミのように私の顔に投げつけた。

「クラスの奴らに言われたんだよ。『あいつに優しくして、勘違いさせてから絶望させたら面白くね?』ってな。……傑作だったぜ、お前のその顔」

 パズルのピースが、最悪の絵柄を描いて嵌まっていく。

 私の唯一の居場所。

 秘密の共有。

 淡い初恋のような期待。

 その全てが、彼らにとっての「暇つぶしのゲーム」でしかなかった。

 「あ、が……っ」

 息ができない。

 信じていたものが、一瞬で鋭利な刃物に変わって心臓を突き刺した。

 視界が暗転する。

 床の冷たさが頬に触れる。

 遠くでクラスメイトたちの爆笑が聞こえる。

 ああ、もういい。

 何も見たくない。何も聞きたくない。

 意識の糸がプツリと切れ、私は深い闇の底へと沈んでいった。


 コンコン。

 「美咲? 起きてるの?」

 乾いた音が、私を泥沼のような記憶の底から引きずり上げた。

 ハッとして目を開ける。

 そこは薄暗い自室だった。

 全身が冷や汗でぐっしょりと濡れている。

 呼吸が荒い。心臓が早鐘を打っている。

「……夢……」

 いや、夢じゃない。あれは私の血肉に刻まれた、消えない過去だ。

 ドアの向こうから、母の遠慮がちな声が聞こえる。

「もうすぐお昼よ。……何か食べる?」

 母の声が、現実世界のアンカーとなって私を繋ぎ止めた。

 私は震える手で顔を覆った。

 あんな思いはもう二度としたくない。

 人を信じて、裏切られて、ゴミのように捨てられるのはもう嫌だ。

 だから逃げた。

 湊くんも、きっと佐藤くんと同じだと思ったから。

 優しくしてくれるのは嘘で、最後には私を笑い者にするに違いないと思ったから。

 でも。

 私の手の中には、まだあの紐が握りしめられていた。

 手汗で湿ってしまったその紐。

 湊くんの顔が浮かぶ。

 あの言葉も仕草も全部嘘だったの?

 あの真剣な眼差しも、全部演技だったの?

 「……違う」

 私の口から、無意識に言葉が漏れた。

 佐藤くんの目は、最初からどこか私を見ていなかった。

 でも、湊くんは違った。

 彼は私の目を見て、私の言葉を聞いて、私と一緒に怒ってくれた。

 もし、彼まで嘘つきだったとしたら。

 その時は、もう本当に世界を呪って死んでしまえばいい。

 でも、もし本当だったら?

 私がここで逃げたら、私は一生、本物のヒーローの手を自分で振り払った臆病者として生きていくことになる。

 「……行かなきゃ」

 私は立ち上がった。

 膝はまだ震えている。

 恐怖で吐き気がする。

 それでも、私は制服ではなく、ジャージを手に取った。

 母に返事をする余裕なんてない。

 私は顔も洗わず、髪もとかさず、ただ赤い紐だけを握りしめて、部屋のドアを開けた。

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