ギャンブル
それは、梅雨の湿った空気が校舎を包んでいた頃のことだ。
私の居場所は、教室にはもうなかった。
休み時間になると逃げ込むように向かったのは、校舎の隅にある図書室だった。
そこだけは静寂が守られていて、古本の匂いが私の震える心を少しだけ落ち着かせてくれたからだ。
その日、国語の授業で「おすすめの本紹介」という課題が出た。
本ばかり読んでいる私にとって課題自体は簡単だったが、教室にいること自体が苦痛だった私は、放課後の図書室で時間を潰していた。
書架の陰に隠れるように座っていると、溜息が聞こえた。
「はぁ……どれにすりゃいいんだよ」
ビクリとして隙間から覗くと、同じクラスの男子生徒・佐藤くんが頭を抱えていた。
彼は目立つグループには属していないが、教室で私がいじめられているのをただ見て見ぬふりをしている「その他大勢」の一人だ。
(……逃げなきゃ)
彼に見つかれば、また何か言われるかもしれない。
「本の虫」と馬鹿にされるかもしれない。
私は息を潜めて、出口の方へ忍び足で移動しようとした。
けれど。
「あ、篠原さん」
床板が軋む音で、気づかれてしまった。
心臓が跳ね上がる。
何をされるんだろう。何を言われるんだろう。
身構える私に、彼は困ったような笑顔を向けた。
「あのさ、悪いんだけど……本、貸してくんない?」
「……え?」
「国語の課題、何読んでいいか全然わかんなくてさ。篠原さん詳しいだろ? なんか読みやすくて、感想書きやすそうなやつない?」
拍子抜けするほど普通のトーンだった。
そこに悪意や嘲笑の色は見当たらない。
けれど、私は迷った。
私にとって本は友達であり、唯一の救いだ。
もし彼に本を貸して、ボロボロにされたら?
落書きをされたり、ページを破られたりして返ってきたら?
それは私の心が引き裂かれるのと同じことだ。
「……汚さない?」
小さな声で聞くと、彼は驚いたように目を丸くした。
「当たり前だろ。人のもんだし」
その言葉を信じていいのかわからなかった。
でも、誰かに頼られるなんて久しぶりだった。
私は賭けることにした。
「……これなら、読みやすいと思う」
私は自分が読んでいた文庫本を一冊、差し出した。
少し古いけれど、大切な物語。
彼はそれを受け取ると、パラパラとめくった。
「サンキュ。助かったわ」
彼は本を持って図書室を出て行った。
私はその後ろ姿を見送りながら、後悔と微かな期待の間で揺れ動いていた。
三日後。
彼は約束通り、図書室にやってきた。
「よう。これ、ありがとな」
彼の手には、私が貸した本があった。
私は恐る恐る受け取った。
表紙を見る。汚れはない。
ページを開く。折れもない。
そして何より驚いたのは、私が挟んでおいた栞の位置が、貸した時と全く同じページに戻されていたことだ。
(……読んでくれたんだ)
途中まで読んで、私が読んでいた続きから読めるように、気を使って戻してくれたのだ。
「ど、どうだった?」
私が聞くと、彼は少し照れくさそうに頭をかいた。
「んー、なんか主人公が旅に出るところは面白かったけど、最後のオチがよくわかんなかったな。あそこでなんで泣くんだ?」
その物語の肝となる情緒的な部分を、彼は全く理解していなかった。
正直、感想としては的外れもいいところだ。
でも。
「……ふふ」
私は思わず吹き出してしまった。
「あ、なんだよ。笑うなよ」
「ごめん。でも、ちゃんと読んでくれたんだなって思って」
嬉しかった。
本が綺麗に帰ってきたことも、感想をくれたことも。
私を「汚いもの」扱いせず、普通に接してくれたことが、何よりも嬉しかった。
それから、私たちの奇妙な交流は続いた。
課題が終わっても、彼は時々図書室に顔を出した。
「次はどれがいい?」
「じゃあ、これなんてどうかな。ちょっと長いけど」
「うげ、字ちっさ」
「文字の大きさは同じだよ...」
文句を言いながらも、彼は本を借りていく。
そして数日後には、必ず綺麗な状態で返してくれるのだ。
「今回のは犯人が意外だったわ」
「でしょ? 伏線がすごくて……」
教室では一言も話さない。
目が合っても逸らされる。
けれど、図書室の静寂の中だけで繋がる、秘密の関係。
私はそれに救われていた。
彼だけは違う。
彼だけは、私を人間として扱ってくれる。
汚れた制服も、教室での嘲笑も、この図書室にいる間だけは忘れられた。
だから私は信じていたのだ。
あの給食の事件の日。
嘔吐物にまみれ、全員から見捨てられた私に、彼が歩み寄ってきた時。
彼なら、ハンカチを差し出して、「大丈夫?」と言ってくれると。
この地獄から私を救い出してくれる、たった一人のヒーローだと。
そう、信じて疑わなかったのだ。




