表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
29/32

ふぉいえぐらす

 体育祭当日の朝。

 窓から差し込む光で目が覚めた。

 体は重く、頭の芯が痺れたように鈍い。

 それでも私は機械的にベッドから起き上がり、顔を洗い、朝食の席に着いた。

 トーストをかじり、牛乳を流し込む。

 いつも通りの味。いつも通りの朝。

 そして、部屋に戻ってハンガーにかかった制服に袖を通す。

 白いブラウス。紺色のブレザー。チェックのスカート。

 鏡に映った自分を見る。

 襟元はパリッとしていて、スカートも綺麗に整っている。

「いつも通り」の制服姿だ。

 その瞬間、胃の底から強烈な吐き気がせり上がってきた。

「……ぅっ、オェ……ッ」

 私は口元を押さえ、その場にうずくまった。

 違う。

 こんなの「いつも通り」じゃない。

 私の記憶の中にある「いつも通りの制服」は、もっと汚くて、臭くて、惨めなものだ。

 この白さは異常だ。

 この清潔さは嘘だ。

 鏡の中の自分が歪んで見える。

 真っ白だったのは、中学に入学して最初の一週間だけだった。

 そこから先の世界は、ずっと泥と汚物にまみれていたのだから。



 中学入学の春。

 期待に胸を膨らませていた私は、新しい環境という荒波にあっけなく飲み込まれた。

 小学校からの友達は、新しいクラスで別の子と仲良くなり、私との会話は次第に減っていった。

『あ、ごめん美咲ちゃん。今〇〇ちゃんと話してるから』

 最初は遠慮がちに。やがて露骨に。

 私は教室という箱の中で、透明人間になっていった。

 そして、透明人間が「標的」に変わるのに時間はかからなかった。

 教科書がなくなるのは日常茶飯事。

 机の中に生ゴミが入れられているのも驚かなくなった。

 ある日、体育の更衣室で着替えていた時だ。

「キャハハ! 美咲の下着、ダサ!」

 私の着替え袋が奪われ、中身が廊下にぶち撒けられた。

 そこに通りがかった男子たちが、興味津々な目で私の下着と、まだ着替え途中の私を舐めるように見つめる。

「うわ、マジかよ」

「見ろよあれ」

 恥ずかしさで顔が沸騰しそうだった。

 助けを求めて視線を彷徨わせると、そこには男性教師が立っていた。

 先生、助けて。

 そう目で訴えた私を見て、あろうことかその教師は、男子生徒たちと一緒になって鼻で笑ったのだ。

『篠原、早く着替えろよ。授業遅れるぞー』

 ニヤニヤとした卑しい笑み。

 大人は助けてくれない。

 男の人は、私を性的な好奇心の対象か、嘲笑う対象としてしか見ていない。

 その絶望が、私の心を黒く塗り潰していった。


 そして、あの日。

 給食の時間。

 私は元々食が細く、給食を減らしてもらうことが多かった。

 それが気に入らなかったのだろう。

「篠原さんさぁ、いつも残して勿体ないよね?」

 リーダー格の女子が、私の机の周りを取り囲んだ。

「私たちが手伝ってあげる。ほら、口開けて?」

 彼女の手には、残ったパンと牛乳を混ぜたような、ドロドロの何かが乗ったスプーンが握られていた。

「い、いい……要らない……」

「遠慮しないでって! ほら!」

 顎を強く掴まれ、無理やり口を開けさせられる。

 スプーンが口の中に突っ込まれる。

 喉の奥を刺激され、えずきそうになるが、彼女たちは手を緩めない。

「もっと入るでしょ? まだまだあるよ」

 次々と口の中に放り込まれる食材。

 息ができない。

 飲み込めない。

 私の頭の中に浮かんだのは、テレビで見たフォアグラの製造工程だった。

 ガチョウの首にパイプを突っ込み、無理やり餌を流し込んで肝臓を肥大させる残酷な所業。

 食べたこともない高級食材の、その悍ましい工程だけが鮮明にフラッシュバックする。

 私は人間じゃない。

 ただの家畜だ。

 彼女たちの玩具だ。

 「……んぐ、ぅ……ッ!!」

 限界だった。

 胃袋が逆流を起こし、私はその場で盛大に嘔吐した。

 汚物が制服のブラウスに、スカートに、床に飛び散る。

 酸っぱい臭いが教室に充満する。

「キャー!! キモい!!」

「うわ汚ねぇ!」

「マジで吐くとかあり得ないんだけど!」

 蜘蛛の子を散らすように、クラスメイトたちが私から離れていく。

 私は嘔吐物にまみれたまま、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになって震えていた。

 誰も近づかない。

 誰も助けてくれない。

 私は、世界の汚点そのものだった。


 遠巻きに見る嘲笑と嫌悪の視線。

 その中で、ただ一人、私に歩み寄ってくる人影があった。

 男子生徒だった。

 クラスでも大人しく、目立たない彼。

 図書室で何度か顔を合わせ、好きな本の話をしたことがある唯一の「友達」と呼べるかもしれない人。

 彼はハンカチを取り出し、私の前に立った。

『篠原さん……』

 心配そうな声。

 ああ、神様。

 まだこの世界には、光が残っていたんだ。

 先生も、他の男子もみんな敵だったけど、彼だけは違う。

 私たちが図書室で共有した時間は、嘘じゃなかったんだ。

 私は縋るような思いで、汚れた手で彼を見上げた。

 助けて。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ