逃亡者の回想
息が切れる。肺が焼けるように熱い。
私は一度も後ろを振り返らず、ただひたすらに走り続けていた。
夕暮れの街並みが涙で滲んで流れていく。
背後にあの怪物が迫っているような錯覚に襲われ、足が止まらない。
自宅の玄関に飛び込み、震える手で鍵をかけた瞬間、ようやく膝から力が抜けた。
「あら、美咲。おかえりなさい」
リビングから母の穏やかな声が聞こえた。
いつもの日常。温かい夕飯の匂い。
それが今の私には、ひどく場違いで、残酷なほど平和に感じられた。
私は何も答えられなかった。
靴も揃えず、逃げるように廊下を走り抜け、階段を駆け上がる。
「美咲? どうしたの? 今日は早かったのね」
母が心配して廊下に出てくる気配がした。
「ねえ、美咲ってば。何かあったの?」
優しい声。私を案じる母の声。
でも、今の私の耳には、その優しさが棘のように突き刺さる。
放っておいてほしい。
誰とも話したくない。
惨めな自分を見られたくない。
感情のダムが決壊した。
「うるさいッ!!」
喉が裂けるほどの声が出た。
母が息を呑む気配がする。
私は母の顔を見ることなく自室に飛び込み、力任せにドアを叩きつけた。
バンッ!!
家中に響く乾いた音が、私と世界を遮断した。
ドアに背中を預けたまま、私はズルズルと床に崩れ落ちた。
足に力が入らない。
重力に従うまま、私の足は床の冷たさを受け入れる。
熱いものが目から溢れて止まらなかった。
「……っ、うぅ……」
最低だ。
お母さんは何も悪くないのに。
ただ心配してくれただけなのに、あんな酷い言葉を投げつけて。
私は結局、あの時私をいじめていた人たちと同じだ。
自分の弱さを、一番身近で優しい人にぶつけて発散してるだけ。
脳裏に、あの公園の光景が蘇る。
湊くんの真剣な瞳。
彼は私を守ろうとしてくれた。
私のために怒ろうとしてくれた。
それなのに。
どうして。
どうしてあの時、「私は湊くんが好き」って叫べなかったの。
どうして「お姉さんなんて関係ない」って胸を張れなかったの。
どうして足がすくんでしまったの。
どうして、動き出した足の行き先が、湊くんの隣じゃなくて、自分だけが助かる「帰り道」だったの。
「ごめんなさい……ごめんなさい、湊くん……」
誰もいない部屋で、謝罪の言葉だけが虚しく響く。
彼は今頃どうしているだろう。
あの恐ろしい義理のお姉さんと二人きりで、責められているかもしれない。
傷ついているかもしれない。
私が逃げたせいで。私が彼を見捨てたせいで。
考えれば考えるほど、涙が溢れて止まらない。
自分が情けなくて、悔しくて、胸が張り裂けそうだった。
窓の外が完全に夜の闇に包まれても、私は電気もつけずにうずくまっていた。
スマホを見るのが怖い。
湊くんから失望のメッセージが来ているかもしれない。
あるいは、あのお姉さんから嘲笑う連絡が来ているかもしれない。
ふと、バッグのポケットに入れていたものが手に触れた。
取り出してみる。
赤い紐。
二人三脚の練習用に、私が手芸屋で買って用意した紐だ。
昨日の練習の後、嬉しくて持って帰ってきてしまっていた。
『よろしくね。』
声が耳に残っている。
この紐で足を結んで、二人で転んで、笑い合って。
「絶対優勝しよう」って約束した。
「……う、あぁぁ……」
紐を胸に抱きしめ、私は声を殺して泣いた。
嫌だ。
こんな終わり方、絶対に嫌だ。
湊くんをあんな怖い人のところに置き去りにして、私だけ安全な場所でメソメソしてるなんて、死んでも嫌だ。
恐怖はある。
トラウマが全身を震わせる。
でも、それ以上に「湊くんを失いたくない」という想いが、消え入りそうな残り火となって、私の胸の奥で燻っていた。
明日は体育祭。
湊くんは来るだろうか。
あのお姉さんに支配されて、もう私のことなんて忘れてしまっているだろうか。
それでも。
もし、まだ間に合うなら。
私は濡れた頬を袖で乱暴に拭った。
鏡に映った自分は、目が腫れて酷い顔をしていた。
でも、その瞳の奥には、昨日までの怯えきった「いじめられっ子」とは違う、微かな、けれど確かな光が宿り始めていた。




