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不在の証明とスタートライン

「借り物競走に出場する選手は、入場門へ集まってください」

 放送が流れる。

 俺はジャージのポケットに手を突っ込み、砂利を踏みしめて歩き出した。

 指先には、まだあの赤い紐の感触が残っている。

 本来なら、俺はこの紐を篠原さんの足首に結び、二人で笑い合っていたはずだった。

「緊張するね」「転ばないでよ?」

 そんな会話を交わしながら、あの白いラインの向こう側へ駆けていくはずだったのだ。

 入場門には、各クラスの代表者が集まっている。

 皆、どんなお題が出るのかとワクワクした表情で談笑している。

 その明るさが、今の俺には毒のように染みる。

 篠原さんはいない。

 彼女を追い詰めたのは、他ならぬ俺だ。

 俺がもっと上手く立ち回れていれば。

 あの公園で、結愛の論理に絡め取られず、彼女の手を引いて逃げていれば。

 いや、そもそも俺が彼女に関わらなければ、彼女は今日も元気に登校していただろう。

 胸の奥から、焼けるような感情がせり上がってくる。

 謝りたい。

 昨日のことは間違いだったと伝えたい。

 でも、今の俺にはその資格さえない気がした。

 俺は結愛の手を取って帰ってしまった。

 その事実は、俺が篠原さんを見捨てたという証明に他ならない。

「位置について」

 スターターの声が響く。

 俺は虚ろな目で前を見据えた。

 これから走るコースの先に、何が待っているのか。

 今の俺には、それが断頭台への道にしか見えなかった。




 パンッ!

 乾いた破裂音が青空を切り裂き、借り物競走がスタートした。

 歓声が爆発する。

 湊くんが走り出すのが見える。

 少し猫背で、俯き加減で、やる気のなさそうな走り。

 ふふ、可哀想に。

 篠原さんがいなくて寂しいんだね。

 でも大丈夫だよ、湊くん。

 ゴールには、最高の「救い」が待ってるから。

 私は観覧席の最前列、保護者席と生徒席の境界あたりに陣取っていた。

 ここなら、グラウンド全体が見渡せる。

 手には冷えた麦茶。膝の上には、湊くんのためのお重箱。

 準備は万端だ。


 湊くんがトラックを半周し、お題カードが置かれたテーブルへと近づいていく。

 私の心臓が、トクトクと甘いリズムを刻み始めた。

 実はね、ちょっとだけ魔法を使ったの。

 この借り物競走の運営係やってる男の子、湊くんと同じ学年の子なんだけど。

 今朝、ちょっと裏に呼び出してお願いしたんだ。

『ねえ、湊くんのレーンには、このカードを置いてくれない?』

 上目遣いで、袖を掴んで、少し涙声で頼んだら、彼は顔を真っ赤にして『い、いいよ!任せて!』って言ってくれた。

 男の子って単純で可愛いよね。

 だから、あのテーブルの上にあるカードは、ランダムなんかじゃない。

 私が指定した、たった一つの運命。

 『大切な人』

 湊くんはカードを拾い上げる。

 そして、そこに書かれた文字を見るはずだ。

 その瞬間、彼は迷うことなく観客席を探すだろう。

 そして私を見つける。

 だってお母さんたちはいないし、篠原さんもいない。

 今、この会場で湊くんにとっての「大切な人」になり得るのは、私しかいないんだから。

 私は想像する。

 カードを見た湊くんが、ハッとした顔でこちらを見る瞬間を。

 そして、私を見つけて駆け寄ってくる姿を。

 皆が見ている前で、私の手を取って、ゴールへと連れて行ってくれる未来を。

 それは、私たちが「公認のペア」になる儀式だ。

 私は湊くんのことが好き。

 弟として?

 ううん、そんな生温かい言葉じゃ足りない。

 もちろん、実の弟のように可愛がってるよ。

 ご飯を作ってあげて、お世話をして、頭を撫でてあげたい。

 でもね、私たちには決定的な違いがある。

 血が繋がっていないということ。

 それは寂しいことかもしれないけど、同時に素晴らしい可能性でもあるの。

 だって、もし実の弟だったら、結婚できないでしょ?

 でも私たちは他人だもん。

 法律も、倫理も、私たちの愛を邪魔できない。

 姉弟のふりをして甘え合いながら、男女としても愛し合える。

 最強の関係性だと思わない?

 「あ、取った」

 グラウンドの向こうで、湊くんが白い封筒を拾い上げた。

 さあ、開いて?

 そして私を呼んで?

 大きな声で、皆に聞こえるように。

『結愛姉ちゃん!』って。

 そうしたら、私は世界で一番幸せな顔をして、湊くんの胸に飛び込んであげるから。

 私は立ち上がり、フェンスに手をかけた。

 指先が震えるほどの期待と興奮。

 湊くんが封筒を開ける。

 中から紙を取り出す。

 さあ、私を見て。

 私だけを見て。

 私は満面の笑みを浮かべ、その瞬間を待ち構えていた。

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