呪いの重箱
体育祭の朝。
カーテンを開けると憎らしいほどの快晴だった。
俺は重い頭を振ってベッドから這い出した。
昨晩は結局ほとんど眠れなかった。
目を閉じると篠原さんの怯えた顔と、結愛の冷たい瞳が交互にフラッシュバックしたからだ。
リビングに降りると既に結愛がエプロン姿で待ち構えていた。
「おはよう湊くん!いい天気になってよかったね」
彼女は昨日の冷徹さが嘘のように、太陽よりも眩しい笑顔を振りまいている。
「……ああ、そうだな」
俺が力なく返事をすると彼女はテーブルの上に置かれた巨大な包みを指差した。
「見て見て!今日のお弁当、気合入れて作ったの。重箱三段重ねだよ」
「……三段って、俺一人じゃ食べきれないだろ」
「大丈夫、私も一緒に食べるから。応援席までデリバリーしてあげる」
彼女は悪戯っぽくウィンクする。
通常、保護者や家族は観覧席で食べるものだが、もしかしたら彼女は生徒のエリアまで入り込むつもりなのかもしれない。
昨日の部外者発言など、彼女の中では既に無かったことになっているのだ。
「楽しみにしててね。湊くんの好きなもの、たーっくさん詰めたから」
彼女の言う「好きなもの」が、俺の好物なのか、それとも俺を縛り付けるための何かなのか。
今の俺にはそれを確かめる気力さえ残っていなかった。
教室に入ると黒板には『優勝目指して頑張ろう!』という文字が踊っていた。
クラスメイトたちはハチマキを締めたり、フェイスペイントをしたりして既に熱気に包まれている。
だが俺の視線は一点に吸い寄せられた。
前の席。
篠原さんの席は、今日も空っぽだった。
「ホームルーム始めるぞー」
担任が入ってきて出欠を取り始める。
篠原さんの名前が呼ばれたが返事はない。
「篠原は……まだ来てないか。遅刻の連絡も入ってないんだがな」
先生のその言葉に、教室が少しざわついた。
「え、連絡なし?寝坊かな」
「篠原さん真面目だから珍しいね」
「まあでも、連絡ないってことは来るっしょ。準備でバタバタしてるだけじゃね?」
「そうだな!あいつ責任感強いし、二人三脚までには間に合うだろ」
クラスメイトたちは楽観的だった。
彼女が来ないという最悪のケースを想像したくないのか、あるいは単に彼女を信じているのか。
その明るさが、俺には痛々しかった。
俺だけが知っている。
彼女は寝坊したわけでも、遅刻しているわけでもない。
恐らく、布団の中で震えて、家から一歩も出られない状態なのだ。
あるいは、スマホを見るのさえ怖くて、連絡すらできないのかもしれません。
俺のせいだ。
俺が彼女を守りきれなかったから。
机の中に入っている赤い紐が、熱を持って俺の太腿を焼いている気がした。
「おい、マジかよ……」
「どうすんだよこれ」
教室の後方で男子たちが騒ぎ始めた。
俺が振り返ると、体育委員の飯田が深刻な顔で電話を切ったところだった。
「どうした?」
俺が聞くと、飯田は頭を抱えて答えた。
「高木が休みやがった」
「え、高木って……」
「今日の借り物競走に出るはずだった奴だよ。クラスで一番足速いし、機転も利くから頼みにしてたのに」
高木はクラスのムードメーカーで、信頼も厚い男子だ。
昨日の放課後までは「明日は任せろ」と元気に笑っていたはずだ。
「なんか、朝起きたら急に腹痛と吐き気が止まらなくなったらしい。食あたりかノロかもって……」
「うわ、最悪じゃん……」
「誰か代わりいけるか?」
教室内が急に慌ただしくなる。
俺は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
腹痛。吐き気。
あまりに唐突な体調不良。
昨日の結愛の言葉が脳裏をよぎる。
『悪いお友達とは遊ばせたくないんだよね』
まさか。
高木は篠原さんほど俺と親しくはない。
だが、借り物競走は不確定要素が多い種目だ。
もし『借り物』のお題に、俺や、あるいは結愛にとって不都合なものが含まれていたら?
あるいは、単にクラスの戦力を削ぎ、俺を困らせるため?
考えすぎだと思いたい。
だが、昨日の彼女の異常性を目の当たりにした今となっては、それが単なる偶然だとは言い切れなかった。
見えない糸が、教室の中まで伸びてきている。
「時間だ!移動するぞー!」
号令がかかり、俺たちは廊下に出た。
ブラスバンド部の演奏が遠くから聞こえてくる。
グラウンドへ向かう生徒の波。
皆、笑顔で肩を組み、士気を高め合っている。
「湊、行くぞ!篠原さんも開会式には来るだろ!」
健太が俺の背中を叩く。
「……ああ、そうだな」
俺は乾いた笑みを張り付け、足を踏み出した。
陽光が降り注ぐグラウンドは、祭りの色に染まっていた。
国旗が風にはためき、放送部のアナウンスが響き渡る。
本来なら心が躍るはずの光景。
だが、俺の視界はセピア色に沈んでいた。
篠原さんは来ない。
高木もいない。
俺の周りだけ、ぽっかりと穴が空いているようだ。
行進しながら、俺は校舎の窓を見上げた。
どこかの教室の窓から、あるいは校門の陰から、あの笑顔の悪魔が見ているような気がしてならなかった。
『頑張ってね、湊くん』
幻聴が聞こえた気がして、俺は身震いをした。
これから始まるのは体育祭ではない。
大勢の観衆の中で行われる、俺一人だけの孤独な処刑の始まりだった。




