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壊れた勇気

 逃げ出したい。

 今すぐ耳を塞いで、この場から走り去ってしまいたい。

 全身の細胞がそう叫んでいた。

 目の前の美しい少女――結愛から放たれる空気は、あの中学時代の悪夢そのものだった。

 けれど。

(……だめ)

 私はスカートの裾を握りしめた。

 爪が食い込む痛みで、恐怖に支配されそうな意識を現実に繋ぎ止める。

(このままじゃ、何も変わらない。また、あの頃と同じ……奪われて、泣くだけの私に戻っちゃう)

 視界の端に、湊くんの姿が映る。

 彼は必死に私を守ろうとしてくれている。

 誤解を解こうと、まっすぐに目を見てくれた。

 その温もりが、凍りついた心に小さな火を灯した。

 私は大きく息を吸い込み、ガタガタと震える膝に力を入れた。

 顔を上げる。

 彼女の底のない沼のような瞳を見据える。

「……あの」

 声が掠れる。喉が張り付いたようだ。

 それでも、彼女は言葉を紡いだ。

「わ、私は……湊くんと、もっと仲良くしたいです」

 結愛の眉がピクリと動く。

「湊くんは……あなたの物じゃ、ありません。私が湊くんと一緒にいるかどうかは……湊くんと私が決めることです。お姉さんにとやかく言われる筋合いは……っ」

 言い切った。

 心臓が破裂しそうだ。

 全身から冷や汗が噴き出しているが、それでも彼女は一歩も引かなかった。

 過去の自分への決別。

 これは彼女なりの、精一杯の反抗であり、湊くんへの想いの証明だった。


 「……へぇ」

 首をコクリと傾げた。

 その表情には怒りも焦りもない。

 ただ、道端の小石が生意気にも自己主張をしてきたのを眺めるような、純粋な不可解さだけが浮かんでいた。

「筋合いはない、かぁ。ふふ、篠原さんって、意外と気が強いんだね」

 結愛は蜂蜜レモンの瓶を左手から右手へと持ち替えた。

 その動作は緩慢で、優雅ですらあった。

 私は自分の言葉が届いたのかと一瞬の希望を抱き、次の言葉を続けようと口を開いた時だった。

 「だか、ら……っ」

 「あのさぁ!!!!」

 空気が爆ぜた。

 結愛の口から放たれたのは、会話を遮るための言葉というよりは、物理的な衝撃波に近い、鼓膜を劈くような大声だった。

 公園の木々から鳥が一斉に飛び立つほどの音量。

 そこに込められていたのは、純度100%の威圧だった。

 湊くんも、そして私も、あまりの剣幕に体を強張らせる。

 「……っ!?」

 言葉は喉の奥に押し戻された。

 結愛は一瞬で真顔になり、大きく目を見開いて私を睨み下ろしていた。

 先ほどまでの猫なで声は消え失せ、地を這うような低い声が続く。

 「人が優しく聞いてあげてれば、調子乗ってんじゃないよ」


 世界が暗転した。

 視界が歪む。

 結愛のその大声は、かつて下駄箱の前で笑っていた彼女たちの声と完全に重なった。

『あのさぁ! 邪魔なんだよ!』

『空気読めって言ってんじゃん!』

『調子乗んなゴミ!』

 過去のフラッシュバックが、現実を侵食する。

 せっかく今まで作り直した自分は、せっかく振り絞った小さな勇気は、結愛の理不尽な暴力性の前に、あまりにもあっけなく踏み潰された。

「ひっ……あ、ぅ……」

 膝から力が抜ける。

 地面にへたり込みそうになる体を、ベンチの背もたれがかろうじて支えた。

 呼吸が浅くなる。過呼吸の前兆だ。

「ご、ごめ……ごめんなさ……」

 無意識に謝罪の言葉が漏れる。

 結愛はそんな篠原の様子を見て、一瞬でまた「パッ」と花が咲くような笑顔に戻った。

 その切り替えの早さが、何よりも恐ろしかった。

 「あはっ、ごめんごめん! ちょっと大きな声出しちゃった」

 結愛は跳ねるような足取りで、震える私に近づいてくる。

「でもさ、わかってくれた? お姉ちゃんね、弟の教育に熱心なの。悪いお友達とは遊ばせたくないんだよね〜」

 彼女は私の耳元に顔を寄せ、楽しそうに、歌うように囁いた。

「ね? わかったらさっさと消えて? ……ゴミになる前にさ」

 瞳から光が消えた。

 彼女の中で何かがプツリと切れる音がした。

 もう、戦えない。

 この人には勝てない。

 関わってはいけない。

 生存本能が、湊くんへの恋心ごと全てを放棄して、全力で逃走することを選択させた。

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