14歳の煉獄
「初めまして。弟がお世話になってますぅ」
その声を聞いた瞬間、私の思考は凍結した。
目の前にいる美しい少女。
人形のように整った顔立ち、口元に張り付いた完璧な笑み、そして――その瞳の奥に蠢く、ドロリとした粘着質の光。
知っている。
この目を、この空気を、この「匂い」を、私は知っている。
湊くんに向けられていた温かい感情が一瞬で消し飛び、代わりに胃の腑から酸っぱいものがせり上がってきた。
全身の血の気が引く。
視界が歪み、夕暮れの公園の色彩が、あの日々のモノクロの景色へと塗り替えられていく。
中学の教室は、いつだって腐った沼の底のような臭いがしていた。
もちろん、物理的な悪臭ではない。
無視、嘲笑、陰口、そして悪意。
それらが充満し、私の肺を常に圧迫していた。
『あれ、篠原さんまた一人?』
『空気読めないよねー』
『存在自体が邪魔っていうか』
リーダー格の女子を中心としたグループ。
彼女たちは直接殴るようなことはしない。
もっと陰湿で、精神を削り取るようなやり方で私を追い詰めた。
ある昼休み。
机の中に手を伸ばすと、あるはずの弁当袋がなかった。
母が早起きして作ってくれた、ピンク色の巾着袋。
心臓が跳ねる。教室を見渡すが、クラスメイトたちは談笑に夢中で、誰一人として私を見ようとしない。
いや、ニヤニヤと横目で私を観察している視線がいくつもあった。
私は教室を飛び出し、校内を探し回った。
トイレ、更衣室、渡り廊下。
どこにもない。
チャイムが鳴り、午後の授業が始まっても私は教室に戻れなかった。
そして放課後。
私は焼却炉の裏にあるゴミ捨て場で、それを見つけた。
ピンク色の巾着は泥にまみれ、中身はぶち撒けられていた。
母が得意だった卵焼きが、蟻に集られている。
真っ白だったおにぎりが、黒い土に汚れて無惨な形を晒している。
「……っ、う……」
私は嗚咽を漏らしながら、それを手で拾い集めた。
ゴミだ。
彼女たちにとって、私が食べるものは、私という人間は、ゴミと同じなのだ。
泥のついた卵焼きを握りしめた時、私の尊厳は音を立てて砕け散った。
攻撃はエスカレートした。
ある朝、登校して下駄箱を開けると、私の上履きが消えていた。
「……ない」
冷や汗が吹き出る。
上履きがないと校舎に入れない。
靴下のまま廊下を歩けば、先生に怒られるし、何より周囲の好奇の目に晒される。
『あいつ、上履き忘れたんじゃね?』
『うわ、きったね』
通り過ぎる生徒たちの囁き声が、鋭利な刃物のように鼓膜を突き刺す。
冷たいリノリウムの床の感触が、足の裏から全身へと寒気を伝えてくる。
私は必死で探した。
一階から三階まで、トイレの個室、掃除用具入れの中、体育館の裏。
埃にまみれ、汗だくになりながら、惨めな姿で探し回った。
そして三日後。
ようやく見つけた上履きは、トイレの清掃用具入れの奥に押し込まれていた。
薄汚れていたが、まだ履ける。
私は安堵のあまり涙を流しそうになった。
「よかった……あった……」
震える手で上履きを手に取り、その場で足を入れた。
その瞬間だった。
「ギャッ……!!!」
脳天を突き抜けるような激痛が走った。
足の裏に、焼けるような熱と痛みが奔る。
慌てて足を抜くと、白い靴下が、見る見るうちに鮮血で赤く染まっていった。
「い、た……痛い……!」
上履きの中を覗き込む。
そこには、銀色に光る画鋲が、無数に、剣山のように敷き詰められていた。
ただ入れてあるだけではない。
足を入れれば確実に刺さるよう見えない奥にあり、目を凝らすとかかとの方にも白色で着色されている。そして逃さないとばかりに粘着テープで底に固定されていたのだ。
悪意の結晶。
私がホッとして足を突っ込むその瞬間を想像し、彼女たちは笑いながらこの画鋲を仕込んだのだ。
「あはは! なんかデカい声聞こえなかった?」
「ドジだなー、何踏んだの?」
廊下の向こうから、聞き覚えのある高い笑い声が聞こえてきた。
足から流れる血が、床に赤い点々を描く。
痛みよりも、恐怖が勝った。
人間じゃない。
この人たちは、笑顔で人を殺せる悪魔だ。
私は血に濡れた靴下を握りしめ、声も出せずに震えることしかできなかった。
過去は容易く現在の私を飲み込んだ。
足の裏が、あの時のようにズキズキと幻痛を訴える。
目の前に立つ湊くんの義理の姉。
彼女は、あの中学時代のリーダー格の女子と同じ目をしている。
自分が優位に立っていることを疑わず、相手を玩具としてしか見ていない、冷酷な捕食者の目。
瓶を持つその綺麗な指が、あの時の画鋲を仕込んだ手に見える。
「……ひっ」
喉から小さな悲鳴が漏れた。
怖い。
殺される。
精神を、心を、またあの泥の中に沈められる。
湊くんへの恋心なんて、そんな淡い感情は、この圧倒的な暴力的な恐怖の前ではあまりに無力だった。
私は湊くんの背中に隠れるどころか、後ずさりすることしかできなかった。
ガタガタと震える膝が、今すぐここから逃げ出せと警鐘を鳴らしている。
彼女は笑顔のまま、ゆっくりと私を見定めていた。
まるで、次はどうやって壊してあげようかと思案するように。




