表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/28

14歳の煉獄

 「初めまして。弟がお世話になってますぅ」

 その声を聞いた瞬間、私の思考は凍結した。

 目の前にいる美しい少女。

 人形のように整った顔立ち、口元に張り付いた完璧な笑み、そして――その瞳の奥に蠢く、ドロリとした粘着質の光。

 知っている。

 この目を、この空気を、この「匂い」を、私は知っている。

 湊くんに向けられていた温かい感情が一瞬で消し飛び、代わりに胃の腑から酸っぱいものがせり上がってきた。

 全身の血の気が引く。

 視界が歪み、夕暮れの公園の色彩が、あの日々のモノクロの景色へと塗り替えられていく。


 

 中学の教室は、いつだって腐った沼の底のような臭いがしていた。

 もちろん、物理的な悪臭ではない。

 無視、嘲笑、陰口、そして悪意。

 それらが充満し、私の肺を常に圧迫していた。

『あれ、篠原さんまた一人?』

『空気読めないよねー』

『存在自体が邪魔っていうか』

 リーダー格の女子を中心としたグループ。

 彼女たちは直接殴るようなことはしない。

 もっと陰湿で、精神を削り取るようなやり方で私を追い詰めた。

 ある昼休み。

 机の中に手を伸ばすと、あるはずの弁当袋がなかった。

 母が早起きして作ってくれた、ピンク色の巾着袋。

 心臓が跳ねる。教室を見渡すが、クラスメイトたちは談笑に夢中で、誰一人として私を見ようとしない。

 いや、ニヤニヤと横目で私を観察している視線がいくつもあった。

 私は教室を飛び出し、校内を探し回った。

 トイレ、更衣室、渡り廊下。

 どこにもない。

 チャイムが鳴り、午後の授業が始まっても私は教室に戻れなかった。

 そして放課後。

 私は焼却炉の裏にあるゴミ捨て場で、それを見つけた。

 ピンク色の巾着は泥にまみれ、中身はぶち撒けられていた。

 母が得意だった卵焼きが、蟻に集られている。

 真っ白だったおにぎりが、黒い土に汚れて無惨な形を晒している。

「……っ、う……」

 私は嗚咽を漏らしながら、それを手で拾い集めた。

 ゴミだ。

 彼女たちにとって、私が食べるものは、私という人間は、ゴミと同じなのだ。

 泥のついた卵焼きを握りしめた時、私の尊厳は音を立てて砕け散った。


 攻撃はエスカレートした。

 ある朝、登校して下駄箱を開けると、私の上履きが消えていた。

「……ない」

 冷や汗が吹き出る。

 上履きがないと校舎に入れない。

 靴下のまま廊下を歩けば、先生に怒られるし、何より周囲の好奇の目に晒される。

『あいつ、上履き忘れたんじゃね?』

『うわ、きったね』

 通り過ぎる生徒たちの囁き声が、鋭利な刃物のように鼓膜を突き刺す。

 冷たいリノリウムの床の感触が、足の裏から全身へと寒気を伝えてくる。

 私は必死で探した。

 一階から三階まで、トイレの個室、掃除用具入れの中、体育館の裏。

 埃にまみれ、汗だくになりながら、惨めな姿で探し回った。

 そして三日後。

 ようやく見つけた上履きは、トイレの清掃用具入れの奥に押し込まれていた。

 薄汚れていたが、まだ履ける。

 私は安堵のあまり涙を流しそうになった。

「よかった……あった……」

 震える手で上履きを手に取り、その場で足を入れた。

 その瞬間だった。

 「ギャッ……!!!」

 脳天を突き抜けるような激痛が走った。

 足の裏に、焼けるような熱と痛みが奔る。

 慌てて足を抜くと、白い靴下が、見る見るうちに鮮血で赤く染まっていった。

「い、た……痛い……!」

 上履きの中を覗き込む。

 そこには、銀色に光る画鋲が、無数に、剣山のように敷き詰められていた。

 ただ入れてあるだけではない。

 足を入れれば確実に刺さるよう見えない奥にあり、目を凝らすとかかとの方にも白色で着色されている。そして逃さないとばかりに粘着テープで底に固定されていたのだ。

 悪意の結晶。

 私がホッとして足を突っ込むその瞬間を想像し、彼女たちは笑いながらこの画鋲を仕込んだのだ。

「あはは! なんかデカい声聞こえなかった?」

「ドジだなー、何踏んだの?」

 廊下の向こうから、聞き覚えのある高い笑い声が聞こえてきた。

 足から流れる血が、床に赤い点々を描く。

 痛みよりも、恐怖が勝った。

 人間じゃない。

 この人たちは、笑顔で人を殺せる悪魔だ。

 私は血に濡れた靴下を握りしめ、声も出せずに震えることしかできなかった。


 過去は容易く現在の私を飲み込んだ。

 足の裏が、あの時のようにズキズキと幻痛を訴える。

 目の前に立つ湊くんの義理の姉。

 彼女は、あの中学時代のリーダー格の女子と同じ目をしている。

 自分が優位に立っていることを疑わず、相手を玩具としてしか見ていない、冷酷な捕食者の目。

 瓶を持つその綺麗な指が、あの時の画鋲を仕込んだ手に見える。

「……ひっ」

 喉から小さな悲鳴が漏れた。

 怖い。

 殺される。

 精神を、心を、またあの泥の中に沈められる。

 湊くんへの恋心なんて、そんな淡い感情は、この圧倒的な暴力的な恐怖の前ではあまりに無力だった。

 私は湊くんの背中に隠れるどころか、後ずさりすることしかできなかった。

 ガタガタと震える膝が、今すぐここから逃げ出せと警鐘を鳴らしている。

 彼女は笑顔のまま、ゆっくりと私を見定めていた。

 まるで、次はどうやって壊してあげようかと思案するように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ