噛み合わない歯車
草木も眠る丑三つ時。
湊は深い眠りの中にいた。
騎馬戦と二人三脚の練習で酷使した体は鉛のように重く、一度眠りに落ちれば朝まで起きることはない。
だから、彼は気づかなかった。
部屋のドアが音もなく開き、闇の中に白い影が滑り込んできたことに。
結愛はベッドの脇に跪き、湊の寝顔を見下ろしていた。
「……湊くん」
返事はない。規則正しい寝息だけが聞こえる。
彼女は音を立てないよう慎重に、彼の枕元からスマートフォンを抜き取った。
以前、彼女は強引に彼の指をセンサーに押し付けたことがあるが、実はあの時、こっそりとパスコードも盗み見ていた。
『……0、5、2、8、と』
画面が明るくなる。
彼女は眩しさに目を細めながら、迷うことなくメッセージアプリを開いた。
一番上にあったのは、予想通り『篠原』という名前だった。
トーク履歴を開く。
そこには、今日の放課後のやり取りが残されていた。
『今日はありがとう! 転んだ時、庇ってくれて嬉しかったよ(笑)』
『足大丈夫? 明日も頑張ろうね!』
『おやすみ、猫くん♪』
最後には、可愛らしい猫のスタンプが送られている。
湊からの返信はない。恐らく寝落ちしたのだろう。
「……なーにが猫くん、よ」
結愛の指先が画面を強くタップする。
「私の湊くんなのに。私が描いた猫ヒゲなのに……全部自分の手柄みたいにして」
彼女の目からハイライトが消える。
楽しそうな会話のログ。
その一つ一つが、結愛にとっては自分への侮辱であり、排除すべきノイズだった。
「……消さなきゃ」
彼女はフリック入力で、素早く文字を打ち込み始めた。
湊の口調を真似て。しかし、その内容はあまりに冷酷なものを。
『悪いけど、もう個別に連絡してくるのやめてほしい』
『正直、周りに勘違いされるの迷惑なんだよね』
『練習も必要最低限でいいから』
送信ボタンを押す。
『既読』はつかない。深夜だ、相手も寝ているだろう。
篠原さんが明日起きて、一番にこのメッセージを見た時の顔を想像し、結愛は暗い笑みを浮かべた。
「……これでよし」
だが、これだけでは不十分だ。
湊が朝起きてこの送信履歴を見れば、自分が送った覚えがないことに気づき、すぐに訂正してしまうだろう。
彼女は冷徹な手つきで、今送ったメッセージと、篠原さんからのメッセージを含む直近のやり取りを「削除」した。
これで湊のスマホ上では、篠原さんからの連絡は来ておらず、自分も何も返していない状態に見える。
しかし、篠原さんのスマホには、湊からの冷たい拒絶の言葉だけがしっかりと届いているのだ。
「完璧……」
彼女はスマホを元の位置に戻した。
これで明日の朝、学校で何が起こるか。
篠原さんは傷つき、湊を避けるようになるだろう。
何も知らない湊は、急によそよそしくなった彼女に戸惑い、理由もわからず距離を置かれることになる。
その隙間に、優しく入り込めばいい。
『元気ないね、湊くん。お姉ちゃんが慰めてあげる』
そう言って。
結愛はもう一度、眠る俺の頬を撫でた。
「ごめんね、湊くん。でもこれは、悪い虫がつかないための予防接種だから」
彼女は満足そうに微笑み、足音を忍ばせて部屋を出て行った。
電子の海に投下された毒薬が、翌朝どのような効果を発揮するのか。
何も知らない彼は、ただ泥のように眠り続けていた。
翌朝。
「……ん、やべ。寝過ぎた」
アラームで目を覚ました俺は、慌ててスマホを確認した。
時間はギリギリだ。
通知を見る。部活のグループラインやニュースアプリの通知はあるが、個人的な連絡は特にない。
(篠原さんからは……来てないか。まあ、用事もないしな)
昨日のお礼のやり取りくらいあるかと思っていたが、何もない履歴画面を見て少し拍子抜けする。
俺は急いで制服に着替え、リビングへ降りた。
「おはよう、湊くん!」
結愛が輝くような笑顔で朝食を並べていた。
昨夜の気まずさなど微塵も感じさせない、完璧な姉の姿だ。
「……おはよう」
「今日はフレンチトーストだよ。蜂蜜レモンも持っていく?」
「ああ、頼む」
俺は彼女の機嫌が直っていることに安堵しつつ、パンを口に詰め込んだ。
「行ってきます!」
「行ってらっしゃい! 気をつけてね!」
学校に着き、教室に入った瞬間だった。
「あ、おはよう篠原さ……」
俺が挨拶しようと手を挙げると、席に座っていた篠原さんがビクリと肩を震わせた。
そして、俺と目を合わせることもなく、パッと顔を背けてしまったのだ。
「……え?」
その表情は、明らかに強張っていた。
恐怖? 嫌悪? それとも悲しみ?
普段の明るい彼女からは想像もつかない拒絶のオーラに、俺の手は空中で行き場を失った。
「……なんだよ、」
昨日の帰り際はあんなに仲良く話していたのに。
「また明日ね」と笑っていたのに。
俺は狐につままれたような気分で自分の席に着いた。
ポケットの中のスマホが、何も語らずに冷たく沈黙していることなど知る由もなく。




