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空回る弁舌

 玄関のドアを開けた瞬間、肌に張り付くような湿度を感じた。

「おかえり、湊くん」

 リビングの照明は消され、ダイニングのライトだけが灯っている。

 その薄暗がりの中に、結愛が座っていた。

「……ただいま。暗いな、電気つけないのか?」

「落ち着くから。……ねえ、湊くん」

 彼女は立ち上がらず、スマホの画面を指でなぞりながら言った。

「今日は帰りが遅かったね。騎馬戦の練習、そんなに長引いたの?」

「ああ、その後ちょっと別の練習もあってさ」

「別の練習?」

 彼女が顔を上げる。その瞳は笑っているようで、光がない。

「グラウンドの端っこで、ずっと動かなかったよね? ……二人三脚、だっけ?」

 やはり知っていた。

 俺は溜息を飲み込み、冷蔵庫から麦茶を取り出すふりをして彼女の視線を外した。

「クラスで決まったんだよ。篠原さんとペア組むことになった」

「ふーん……あの、私の猫ヒゲ消した子と」

 結愛の声色がワントーン下がる。

「随分楽しそうだったね。転んじゃったりして、まるで青春ドラマみたい」

「見てたのか?」

「まさか。想像しただけだよ」

 嘘だ。彼女の口ぶりは、まるでその場にいたかのような具体性を帯びていた。

 彼女はテーブルの上に置いてあったガラス瓶を、カタリと指で押した。

 中には、スライスされたレモンが蜂蜜に漬かっている。

「これ、作ったの。蜂蜜レモン。疲労回復にいいんだって」

「……ありがとう。明日飲むよ」

「ううん、違うの」

 彼女は椅子から立ち上がり、ゆっくりと俺に近づいてきた。

「これ、明日の練習に差し入れしようと思って。……私、学校に見に行ってもいいかな?」


 「は? 見に来るって、練習をか?」

 俺は眉をひそめた。

「うん。だってお世話になってるクラスメイトに挨拶もしたいし、湊くんが頑張ってる姿、一番近くで見たいもん。それに篠原さんにも、猫ヒゲのお礼しなきゃいけないし」

「いや、いいって。そんなの必要ない」

 俺が即座に断ると、彼女の表情が曇った。

「どうして? 嫌なの?」

「嫌とかじゃなくて……」

「嫌じゃないならいいでしょ? 私、湊くんのお姉ちゃんだよ? 弟が頑張ってるのを応援したいだけなのに。それに、お弁当だって渡したいし、タオルとかも……」

 彼女のスイッチが入った。

 早口で、畳み掛けるように言葉を紡ぎ出す。

「湊くんは優しいから、私に気を使ってるんでしょ? でも大丈夫、邪魔なんてしないよ。ただ端っこで見てるだけだから。それとも何? 私が来たら困ることでもあるの? もしかして篠原さんと二人きりになりたいから、お姉ちゃんは邪魔だって言うの? 私、湊くんのためにこんなに……」

 彼女は一歩ずつ距離を詰め、俺を見上げる。

 いつもの彼女なら、こうして罪悪感を刺激し、逃げ場を塞いでイエスと言わせる流れだ。

 けれど俺には彼女の長く、熱のこもった台詞が妙に遠く聞こえた。

「……結愛」

 俺は彼女の言葉を遮った。

「そもそもさ」

「え?」

「学校って、部外者立ち入り禁止だぞ」

 俺は淡々と事実だけを告げた。

「文化祭や体育祭の本番ならともかく、平日の放課後に家族が勝手に入っていいわけないだろ。不審者扱いされるぞ」

 時が止まったように、結愛が固まった。

「あ……」

 彼女の口が半開きになる。

 あまりに単純で、当たり前の理屈。

 普段の聡明な彼女なら、提案する前に気づいていて当然のことだ。

「……そ、そうだよね。でも、許可を取れば……」

「練習ごときで親の許可なんて降りるわけないだろ。先生だって忙しいんだ」

 俺は呆れたように首を振った。

「らしくないな。そんな初歩的なこと忘れるなんて」

「っ……」

 彼女の顔がカッと赤くなるのが薄暗がりでも分かった。

 図星だったのだ。

「疲れてるんだよ、お前も。……その蜂蜜レモンは家で貰うよ」

 俺は彼女の横を通り過ぎ、自室へと向かう。

「俺も疲れたから、もう寝るよ。おやすみ」

「ま、待って湊くん……!」

 彼女が何か言いかけたが、俺は振り返らずにドアを閉めた。

 パタン、という乾いた音が、彼女と俺の世界を遮断した。


 リビングに取り残された私は、立ち尽くしていた。

 静寂が耳に痛い。

 テーブルの上には、行き場を失った蜂蜜レモンの瓶だけがポツンと置かれている。

「……なんで」

 私は震える手で自分の額を押さえた。

「なんで、私……こんな簡単なこと……」

 部外者立ち入り禁止。

 常識だ。小学生でもわかるルールだ。

 普段の私なら、そんなリスクを冒さずとも、もっと巧妙に、例えば「忘れ物を届けに来た」という口実を作るなり、正当な手段を用意していただろう。

 なのに、どうしてあんな無防備な提案をしてしまったのか。

「焦ってる……?」

 自分の胸に手を当てた。心臓が嫌なリズムで脈打っている。

 GPSで見た、動かない二つの点。

 想像の中で膨れ上がった、篠原さんと湊が笑い合う光景。

 それが私の冷静さを奪い、思考回路を焼き切ってしまっていたのだ。

「馬鹿みたい……」

 私はガクリと膝をついた。

 湊くんに「疲れてるんだよ」と哀れむように言われたことが、何よりも屈辱だった。

 彼は気づいていたのだ。私が嫉妬で冷静さを欠いていることに。

 そして、それを「相手にするまでもない」と切り捨てたのだ。

「違うの、湊くん……私はただ……」

 私は蜂蜜レモンの瓶を抱きしめる。

 冷たいガラスの感触が、熱くなった頬に心地よかった。

「……許さない」

 誰を?

 湊くんをたぶらかす篠原さんを?

 それとも、こんな無様なミスをした自分自身を?

「私の湊くん……絶対に、取り戻すから」

 暗いリビングで、彼女の独り言だけが溶けていった。

 計算が狂ったのなら、次は計算など必要ない、もっと直接的で、もっと深い手段に出るしかない。

 瞳に、昏い決意の光が宿った。

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