およそ30センチの距離感
「湊くん、お待たせ! 」
騎馬戦の練習を終え、グラウンドの隅に移動した俺の元に、ジャージ姿の篠原さんが駆けてきた。
手には二人三脚用の赤い紐が握られている。
「悪いな、騎馬戦が長引いて」
「ううん、凄かったね! 湊くん、全然倒れないんだもん。見ててカッコよかったよ」
彼女は屈託なく褒めてくれる。
その笑顔には裏表がなく、夕陽に照らされた汗がキラキラと輝いて見えた。
「じゃあ早速だけど……結ぼっか」
「あ、ああ」
俺たちは芝生の上に並んで座った。
俺の右足と、彼女の左足。
「失礼しまーす」
篠原さんが少し屈み込み、俺の足首に紐を回す。
その時、彼女のさらりとしたポニーテールが俺の腕を掠めた。
ふわり、と柑橘系の爽やかな香りがする。
結愛の纏う、甘く濃厚なバニラの香りとは対照的な、風のような匂い。
「……きつくない?」
「大丈夫。ちょうどいいよ」
彼女の指先が俺の足首に触れる。
結愛に触れられる時の、あの絡みつくような湿度はない。
ただ、異性の体温が直接伝わってくる事実に、俺の心臓は健康的なリズムで早鐘を打っていた。
「よし、準備完了! 立とっか」
「せーの」
俺たちは互いの肩に腕を回し、立ち上がった。
近い。
改めて直立すると、肩と腰が密着し、彼女の体温がジャージ越しにはっきりと伝わってくる。
俺の腕の中には彼女の華奢な肩があり、俺の腰には彼女の手が回されている。
「湊くん、背高いね。私が見上げる感じだ」
至近距離で見上げられ、俺はドギマギしながら視線を逸らした。
「……篠原さんが小さいんだよ」
「むっ、失礼な。平均身長ですよーだ」
彼女は楽しそうに笑い、俺の腰をポンと叩いた。
「じゃあ行くよ、パートナー。掛け声はどうする?」
「オーソドックスに『いち、に』でいいか?」
「オッケー! まずはゆっくりね」
「いち、に、いち、に!」
俺たちは声を合わせ、グラウンドの芝生の上を踏み出した。
最初はギクシャクしていた。
歩幅が違うため、どうしても足が引っかかる。
「あ、ごめん!」
「っと、大丈夫?」
俺が足を出しすぎると彼女がバランスを崩し、彼女が急ぐと俺が遅れる。
だが、そこには悲壮感も焦りもない。
「もう一回! 今度は私が合わせるね」
「いや、俺が歩幅小さくするよ」
試行錯誤すること数分。
「……いち、に、いち、に! そう、いい感じ!」
徐々にリズムが合い始めた。
俺たちは速度を上げる。
風を切る感覚。
隣で弾む彼女のポニーテール。
「湊くん、走るよ! い、く、よ!」
「おう!」
二人の呼吸が完全にシンクロした瞬間だった。
「わっ!?」
地面の窪みに俺が足を取られた。
繋がれた足がもつれ、俺たちは盛大に体勢を崩した。
「きゃっ!」
倒れ込む篠原さんを庇おうと、俺はとっさに彼女の体を抱きかかえるようにして、背中から芝生に転がった。
ドサッという音と共に、青空が視界いっぱいに広がる。
俺の胸の上に、篠原さんが乗っかっていた。
「……ったた。大丈夫か、篠原さん」
「……うん、平気。湊くんがクッションになってくれたから」
彼女が顔を上げる。
鼻先が触れそうな距離。
一瞬の沈黙の後、彼女が「ぷっ」と吹き出した。
「あはは! 派手に転んだね〜!」
「笑い事じゃないって」
「だって、湊くんの受け身が上手すぎて! 柔道家みたいだったよ」
つられて俺も笑ってしまう。
「はは、必死だったんだよ」
芝生の上で二人、声を上げて笑い合う。
もしこれが結愛なら、「大丈夫!? 怪我ない!? ごめんなさい私のせいで!」とパニックになって泣き出していただろう。
失敗しても笑い飛ばせる関係。
重苦しい空気が一切ないこの空間が、今の俺には何よりも心地よかった。
練習を終え、俺たちは並んで水道で顔を洗った。
「ふぅ、さっぱりしたー」
篠原さんがハンカチで顔を拭きながら言う。
「湊くん、意外とスパルタだよね。『もう一本』って、部活みたいだった」
「やるからには勝ちたいだろ? 篠原さんも負けず嫌いだし」
「バレた? ふふ、私、絶対一位獲りたいんだよね」
彼女はスポーツバッグから、ペットボトルのジュースを二本取り出した。
「はい、これお礼。付き合ってくれたから」
渡されたのは、よく冷えたオレンジジュースだった。
「サンキュ。美味そう」
キャップを開け、一気に流し込む。
乾いた体に甘酸っぱい液体が染み渡る。
「……ねえ湊くん」
夕暮れのグラウンドを見つめながら、篠原さんがポツリと言った。
「私、湊くんと組んでよかった。なんかね、安心するの」
「安心?」
「うん。湊くんって、相手のことちゃんと見て合わせてくれるでしょ? 優しいなって思って」
「篠原さんがそんな事言うなんて珍しいな。なんかギャルっぽいイメージあったから」
彼女は少し照れくさそうに笑い、俺の方を見た。
「本番、絶対優勝しようね!」
夕陽に照らされた彼女の笑顔は、反則級に可愛かった。
俺の中にあった結愛への遠慮や「家に帰らなきゃ」という焦燥感は、オレンジ色の光の中に溶けて消えてしまっていた。
「……ああ、絶対勝とう」
俺は力強く頷いた。
この瞬間、俺は完全に湊という一人の男子高校生に戻っていた。
家に帰れば待っている姉という重力圏のことを、頭の片隅に追いやってしまっていたのだ。
帰り道。
駅へ向かう俺の足取りは軽かった。
だが、俺は気づいていなかった。
ポケットの中のスマホには、結愛からのメッセージではなく、もっと恐ろしい通知が届いていたことを。
それは、位置情報共有アプリからの通知。
『結愛さんがあなたの位置情報を確認しました(17:47)』
『結愛さんがあなたの位置情報を確認しました(17:51)』
『結愛さんがあなたの位置情報を確認しました(18:02)』
練習中、そして篠原さんと転がって笑い合っていた時間帯。
彼女はずっと、画面上の俺のアイコンがグラウンドの一箇所から動かない、つまり誰かと留まっていることを見つめ続けていたのだ。




