ペンの呪いと猫のヒゲ
「はい、動かないでね〜」
翌朝、俺は洗面所の椅子に座らされ、結愛に顔を固定されていた。
彼女の手には、太い黒の油性ペンが握られている。
「罰ゲームって、これかよ……」
「そうだよ。嘘つきの湊くんには、これが一番お似合い」
キュッ、キュッ。
彼女は楽しそうに鼻歌を歌いながら、俺の顔にペンを走らせる。
冷たいペン先の感触が頬を滑る。
「はい、出来上がり!」
鏡を見せられて、俺は絶句した。
両頬には太い猫のヒゲが三本ずつ。鼻の頭は黒く塗りつぶされている。
昭和の漫画のような、ベタな落書き顔の完成だ。
「……これ、洗っていいよな?」
「だーめ。油性だもん、簡単には落ちないよ? それに、無理に落としたら……わかってるよね?」
彼女は鏡越しに、昨夜と同じ目で俺を見た。
「今日一日、その顔で過ごしてね。そうすれば、『嘘つき猫ちゃん』の罪は許してあげる」
彼女は俺の黒くなった鼻先にチュッ、とキスをした。
「行ってらっしゃい、私の可愛い弟くん」
登校中、俺はずっとマスクで顔を隠していた。
だが、学校に着けば昼食時など、どうしてもマスクを外さなければならない場面は来る。
そしてその時は訪れた。
「あー、暑っ。……湊、お前なんで教室なのにマスクして……ぶっ!!」
隣の席の健太が、水を飲もうとマスクをずらした俺の顔を見て吹き出した。
「おまっ、なんだそれ!? 猫!?」
健太のデカい声に、クラス中の視線が集まる。
俺は観念してマスクを完全に外した。
教室がドッと爆笑に包まれる。
「ちょ、湊くんウケるんだけど!」
「何その顔! 罰ゲーム?」
予想通り、クラスメイトたちが集まってきた。
だが、結愛の計算と違ったのは、彼らの反応がドン引きではなく好意的だったことだ。
普段、再婚の件などで少し壁を作っていた俺が、こんな間抜けな顔をしていることで、クラスの空気が一気に緩んだのだろうか。
「あはは! 湊くん、それどうしたの?」
笑い声に混じって、篠原さんがやってきた。
彼女もまた、お腹を抱えて笑っている。
「いや……姉貴にやられて。油性だから落ちなくて」
俺が情けなく答えると、彼女は目尻に涙を浮かべながら近づいてきた。
「お姉さん、面白い人だね。……でもこれ、結構恥ずかしいよね?」
彼女は笑い収めると、自分のポーチから何かを取り出した。
「じっとしてて。除光液シート持ってるから、少しは薄くなるかも」
「え、いいのか?」
「いいって。少し肌荒れちゃうかもしれないけど、そのままじゃ可哀想だし」
篠原さんが俺の顔を覗き込む。
距離が、近い。
彼女の指が俺の頬に触れ、シートでヒゲを擦り始めた。
「あ、ちょっと落ちてきた。……湊くん、肌綺麗だね」
「そ、そうかな」
至近距離で上目遣いに見つめられ、俺はドギマギしてしまう。
周囲からは「おー、篠原優しいー」「役得じゃん湊」と冷やかす声が飛ぶ。
結愛が俺に魔除けのつもりで描いた猫のヒゲは、皮肉にもクラス一の美少女とのスキンシップの口実になってしまっていた。
「うん、だいぶ薄くなったよ。鼻のところは……ふふ、ちょっと残ってるけど、可愛いからいっか」
篠原さんは悪戯っぽく笑い、俺の鼻先をツンと突いた。
「あ、ありがとな、篠原さん」
「どういたしまして。またノート貸してね、猫くん」
彼女が席に戻った後も、俺の頬には彼女の指の温かさと、甘いシートの香りが残っていた。
帰宅後。
「ただいま……」
俺がリビングに入ると、結愛が満面の笑みで出迎えてきた。
「おかえり湊くん! 今日はどうだった? みんなに笑われ……」
彼女の言葉が止まる。
俺の顔を見た瞬間、彼女の笑顔が凍りついた。
「……薄くなってる」
「あ、ああ。まあ、流石にな」
「油性ペンだよ? 水洗いじゃそんなに落ちないはず……」
彼女は俺に詰め寄り、俺の頬を親指で強く擦った。
そして、微かに残る匂いを嗅ぎ取った。
「……除光液の匂い」
「!?」
「それに、なんか甘い匂いもする。湊くんが使ってる洗顔料じゃない」
彼女の探偵並みの嗅覚が、残酷な真実を暴き出す。
「誰? 誰が消したの?」
「……クラスの女子が、見かねて貸してくれたんだよ」
「貸してくれた? 湊くんが自分でやったんじゃなくて、その子が拭いたの?」
「ま、まあ……」
結愛の手が震えている。
彼女は想像したのだろう。
俺が女子に顔を触られ、世話を焼かれている光景を。
それは彼女が最も独占したい特権だ。
自分がつけたマーキングを、よりによってあの篠原さんに消され、あまつさえ上書きされたのだ。
「……ふーん。そうなんだ」
結愛は不自然なほど静かに笑った。
「よかったね、湊くん。優しいお友達がいて」
その声の冷たさに、俺は背筋が凍る。
「でも、残念だなぁ。せっかく可愛く描けたのに、消されちゃって」
彼女は俺の胸元に手を這わせ、心臓の上で指を止めた。
「外側につけた印は、簡単に消されちゃうんだね」
彼女は独り言のように呟く。
「じゃあ次は、誰にも消せないところに、もっと深い印をつけなきゃダメかな?」
「……結愛?」
「なんでもなーい! 夕飯にするね。今日はハンバーグだよ。……中までしっかり火を通した、ね」
彼女はキッチンへと去っていく。
罰ゲームは失敗に終わった。
だが、その失敗が彼女の学習能力を刺激し、次の手段をより陰湿で、不可逆なものへと進化させてしまったような気がしてならなかった。
俺の頬には、まだ篠原さんの感触が残っている。
それが新たな火種になるとも知らず、俺は鏡に残った薄い猫のヒゲを呆然と見つめていた。




