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完璧な義姉による完璧な管理

 月曜日の朝、我が家の食卓は模範的な家族の風景そのものだった。

「湊、ネクタイ曲がってるぞ」

 父に指摘され、俺が直そうと手を伸ばすよりも早く、結愛が動いた。

「あ、私がやるよ。湊くん、不器用なんだから」

 彼女は自然な動作で俺の襟元に手を伸ばし、手際よくネクタイを締め直す。

 その距離は近く、彼女の視線が俺の瞳を真っ直ぐに捉えて離さない。

「はい、これで完璧。……湊くんは私がいないとダメだね」

「……ありがとう」

「ははは、本当に仲が良いな。結愛が姉貴で良かったな、湊」

 父は新聞を読みながら満足そうに笑っている。

 その言葉が、結愛にとっての免罪符になっていることに気づいていない。

「お父さん、今日から湊くんのお弁当、私が作ることにしたから」

 結愛が唐突に宣言した。

「お、そうか? 母さんも助かるだろうが、結愛も勉強があるだろ。無理するなよ」

「ううん、全然! 湊くんの健康管理もお姉ちゃんの役目だもん。ね、湊くん? コンビニのご飯ばっかりじゃ心配だよね?」

 彼女は俺に同意を求める笑顔を向ける。

 この前の重すぎる弁当の記憶が蘇るが、父の手前、断ることなどできない。

「……ああ、頼むよ」

「うん、任せて! 湊くんの嫌いなものは入れないし、カロリーも栄養バランスも、ぜーんぶ私が管理してあげるから」

管理という言葉の響きに、俺は背筋が寒くなるのを感じた。

 彼女は食事だけでなく、俺の生活習慣そのものを掌握しようとしている。

 父の公認を得ることで、俺が拒否できない状況を作り上げているのだ。

「行ってきます」

 家を出る時、彼女は父に見えない位置で、俺のスマホを指差した。

『GPS、オンにしておいてね』

 口パクでそう告げられた気がして、俺はただ無力に頷くしかなかった。


 その日の夜、父が風呂に入っている隙に結愛が俺の部屋にやってきた。

 手には一冊のノートが握られている。

「……何それ?」

「ジャーン! 交換日記だよ」

 彼女は可愛らしいファンシーなノートを俺の机に置いた。

「はぁ? 小学生かよ」

「いいじゃん。スマホだと味気ないし、データ消えちゃうかもしれないでしょ? 手書きの文字って、その人の気持ちが乗るんだよ」

 彼女はノートを開く。最初のページには、びっしりと丸文字で今日の出来事と、俺へのメッセージが綴られていた。

 内容は他愛のないことだが、最後にこう書かれている。

『湊くんの今日の行動、全部教えてね。誰と話したか、何を食べたか、何を考えたか。隠し事はなしだよ?』

「……これ、毎日書くのか?」

「うん。お互いのことをもっと知るためだもん。あ、そうだ」

 彼女はペンを取り出し、ルールの欄に書き足した。

『嘘をつかないこと。サボったら罰ゲーム(一日中お姉ちゃんの言うことを聞く)』

「父さんにバレたらどうするんだよ。いい年した姉弟が交換日記なんて」

「バレないよ。……もしバレそうになったら、『湊くんが勉強教えてって持ってきた』って言うから」

 彼女は悪戯っぽく笑う。

「お父さん、湊くんのこと真面目だと思ってるから、絶対信じるよ?」

 彼女は父の信頼さえも、俺をコントロールするための駒として使っている。

「さ、書いて? 私が見てる前で」

 彼女は俺のベッドに腰掛け、監視官のような目でこちらを見つめる。

 俺は溜息をつきながらペンを取った。

 今日話した友人、食べた昼食、授業の内容。

 まるで業務日報だ。

 だが、これを書くことでしか今の平穏は守られない。

 書き終えたノートを渡すと、彼女は愛おしそうに胸に抱いた。

「ありがと。湊くんの文字、好きだな。……これで離れてる時間も湊くんのこと把握できるね」

 アナログな手段だからこそ逃げられない、物理的な証拠としての拘束具が一つ増えた瞬間だった。


 深夜一時。

 家の中は静まり返っていた。

 就寝前、トイレに行こうと廊下に出ると、リビングから微かな明かりが漏れているのに気づいた。

 覗いてみると、ダイニングテーブルで結愛が一人、何か作業をしていた。

「……結愛? 起きてたのか」

 俺が声をかけると、彼女はビクリと肩を震わせ、慌てて手元のものを隠そうとした。

「え、湊くん……」

 隠しきれずに見えたのは、俺のワイシャツだった。

 アイロンがけをしていたらしい。

 だが、ただの家事ではなかった。

 彼女はアイロンをかけた後の、まだ熱を持ったシャツに顔を埋め、深く匂いを吸い込んでいたのだ。

 その姿を見てはいけないものを見てしまったような気がして、俺は立ち尽くす。

「……見ちゃった?」

 彼女は観念したように苦笑し、シャツを抱きしめたままこちらを見た。

「明日、湊くんが着るやつ。シワがあったら可哀想だし、ピシッとしててほしいから」

「そんなの、昼間にやればいいだろ。こんな時間まで……」

「夜の方がいいの。静かだし、湊くんのことを一番近くに感じられるから」

 彼女の瞳は少し充血しており、常軌を逸した集中力を感じさせた。

「お父さんたちには内緒ね? こんな時間に弟のシャツの匂い嗅いでるなんて知られたら、お姉ちゃん失格だもん」

 彼女は自嘲気味に言うが、その表情には罪悪感など微塵もない。

 むしろ、この秘密を共有することで、俺を共犯者に仕立て上げようとしている。

「……早く寝ろよ。体壊すぞ」

 俺が言えるのはそれだけだった。

「うん、これが終わったらね。……おやすみ、湊くん」

 彼女は再びシャツに顔を埋める。

 その姿は、家族のために尽くす献身的な姉に見えなくもない。

 だがその愛の方向性はあまりに内向きで、重たく、歪んでいた。

 部屋に戻った俺は、布団に入ってもなかなか寝付けなかった。

 壁の向こうのリビングで、今も彼女が俺の抜け殻に対して愛を注いでいると思うと、見えない糸で雁字搦めにされているような息苦しさを感じた。

 父という絶対的な監視者がいるにも関わらず、いや、いるからこそ彼女の執着は影の中でより濃く、深く根を張り始めている。

「普通の家族」という皮一枚の下で、俺たちの関係は一歩、また一歩と正常と異常の境界線を彷徨う。

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