1-6 清廉
歌唱審査の部屋では、翠蓮の譜が話題になっていた。
「翠蓮とやらは、まだ部屋に控えているんだろう?」
正楽師として、楽府に就任予定の趙霖が言う。
「まぁ……帰るに帰れず、というだけかもしれませんけどね」
同じく正楽師の香蘭は怪訝な表情だ。
他の審査員達も議論に参加しているが、二名だけ様子が違っていた。
燕宇は、青白い顔で不敵に笑う昊天に視線を送っている。
その様子を見た陳偉は、眉をひそめ、そっと会場を後にした。
「白紙だから不合格と決めたわけでもありませんし、とりあえず歌わせてみてはどうでしょう」
香蘭の意見に、審査員達は賛同した。
翠蓮が部屋に入ると好機、疑い、期待の混じった目が翠蓮を捉える。
(白紙の譜じゃ……無理ないよね。
でも、ここまで来たら歌うしかない……)
翠蓮は胸の前で手を握り、歌い始める。その歌声は、譜が白紙だとは思えぬほど順調な滑り出しだ。
いや、むしろ譜が書けている者よりも曲の雰囲気をしっかり掴んでいた。
審査員達の空気も良い方に変わっていく。
「なかなかいいんじゃないか?」
「ええ、耳がいいですね彼女」
昊天は焦ったような表情で視線を泳がせていたが、ふいに、かっと目を見開いた。
「止めい!
大きな声が審査の間に響き渡る。翠蓮は肩をびくりと震わせた。
全員の視線が怒りを孕んだ昊天に集中する。
「そちの譜は白紙ではないか!?」
「昊天殿、歌唱の途中ではありませんか……」
趙霖が制止しようとしたが、勢いは止まらなかった。
彼は椅子から転げ落ちそうなほど身を乗り出し、怒鳴った。
「こんな汚いことをして自分が恥ずかしいと思わないのか!?」
翠蓮はわけが分からなかったが、勢いに押され掠れた声で返事をする。
「どういう……ことでしょうか……」
「つまりだ。不正をしているということだよ」
「そんな……そのようなことは決して……」
昊天は机を思い切り叩き、勢い良く立ち上がる。
「黙れ! 不届き者が!」
――その時
「お待ち下さい!!」
蒼瑛と陳偉が、勢い良く押し入った。
蒼瑛は審査員の中で一人立ち上がっている昊天を見て状況を察すると、さっと翠蓮の前に立ち塞がった。
「昊天殿、落ち着かれよ!」
「なりません殿下! 不正をした者には罰を与えねば!!」
趙霖が口を挟む。
「いや、試験内容は厳重に管理されていた。私でさえ試験内容を知ったのは直前ですぞ。
仮に不正受験だとしても一体誰が……」
昊天は待っていましたとばかりに、陳偉を指差す。
「確か陳偉殿は昨日、その者と二人になっていたのですよね?
その時に試験内容を教えたのでは?」
陳偉は付き合いきれないというように両手を広げ、毅然と昊天を睨み返す。
「もし不正をしたなら、翠蓮殿は完璧な譜を提出できるはずでは?
大体昊天殿は、昨日は参加されていませんよね。その話は誰からお聞きに?」
昊天は言い淀む。
その時、燕宇が震えながら口を開いた。
「陳偉殿に部屋まで送るように指示を出したのは、蒼瑛殿下だったかと……」
場の空気が凍りつく。
「……何が言いたいのです、燕宇殿」
陳偉は怒りのあまり、その顔に青筋が浮かんでいる。
「まさか蒼瑛殿下を疑っていると? ご自分が仰っていることが、どういうことか理解されているか?」
場は騒然とし、もはや試験どころではない。
「あの」
翠蓮が小さく、しかしはっきりと声をあげた。
「申し訳ございません。私が至らぬばかりに、無用な憶測を生んでしまい……」
蒼瑛は驚き、振り返る。
翠蓮はまだ怯えていたが、床を踏みしめるようにして力強く立っていた。
「もし……もしお許しいただけるなら、別の伴奏で歌わせていただけませんか」
自分のせいで誰かが疑われるのは我慢できなかった。
昊天が憮然と言い返す。
「ふん、やり直したってどうせ歌えまい。はったりだ」
翠蓮は一歩前に出た。
「私は……確かに譜が書けません。ですが歌なら、ご納得いただけるまで歌います」
彼女は自信に満ちた眼差しを、逸らすことなく昊天へ注ぐ。
「不正ではないと証明してみせます」
もはやそれが強がりではないことは、誰の目にも明らかだった。
昊天は真っ赤になり押し黙る。
しばらくそうしていたが、おもむろに口を開いた。
「この女は譜は白紙です。
その上このように無礼な騒ぎを起こしました。不合格は確定でよろしいかと……」
蒼瑛は続きを遮るように昊天に歩み寄る。
「真の無礼者は誰だったか、自身に問うてはどうだ」
いつもは穏やかなその顔が怒りに満ちている。形の良い唇から、力強い言葉が続く。
「その上で、まだ私に疑義があるなら心ゆくまで調べるが良い。
だが、断じて何も出ないぞ」
蒼瑛は、動かぬ昊天を睨みつけ、ぞっとするほど冷たい声で耳打ちした。
「"捏造"でもしない限りな」
昊天はがっくりと肩を落とした。
「承知いたしました。その者の処遇は御心のままに……」
解決したかに思えたが、蒼瑛だけは知っていた。
――彼女は、駒として選ばれてしまったのだと。




