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3-5 芙蓉妃と揺りかごの唄

 蒼瑛に、芙蓉妃の前で歌ってほしいと言われた日の夕刻。


「翠蓮さま、お迎えにあがりました」


 芙蓉貴妃付きの女官が迎えに来たのは、書状に記載された時刻きっかりだった。侍女二名を伴っている。



 翠蓮は後宮に入るのは初めてだった。たまに明鈴(メイリン)が面白おかしくしてくれる噂話で、そこが皇帝のための花園だということは知っていた。



 どきどきしながら女官に付いて冷たい石畳を歩くと、すぐに高い門がそびえ立っている。そばには門番が二人背ずじを伸ばしてたっていた。


「お名前と、所属をお聞かせください」


「楽府から参りました、翠蓮と申します。貴妃様への謁見の許可をいただきました」


 翠蓮は小さく頭を下げ、蒼瑛から受け取った紹介状を両手で差し出す。



 門番は確認し頷く。女官が翠蓮を内廷へと導くと、通路の両側には美しい庭が広がり、薄紅色の灯籠が揺れていた。

 

「こちらが貴妃宮です」


(すごい……大きい)

 案内された先は、楽府の稽古場や宿舎を合わせたより広大な宮殿だった。

 


 貴妃は側室の中で最も高位で、皇后に次ぐ妃の称号だ。


「きっと芙蓉妃さまはお住まいもすごく豪華だと思うよ!」

 そう言っていた明鈴の言葉通り、まるでこの宮殿は、皇帝の寵愛の大きさを示すようだ。


 きらびやかな内装に圧倒されつつ、長い廊下を女官たちと歩く。



「貴妃様、(くだん)の歌人が参りました」


 女官がそっと声をかける。中から気品ある穏やかな声が聞こえてきた。


「どうぞ、お入りになって」


 翠蓮はその言葉に胸がはやる。

 一歩踏み入れると、香炉の煙とともに甘い香りが室内に満ちている。


 部屋は柔らかい色調で統一され、ところどころに花が生けてある。

 華美ではない、ほっと落ち着くような居室だった。

 



「あなたが翠蓮ね」


「お目にかかれて光栄にございます」


「さぁ、そんなに堅くならないで。こちらへいらっしゃい」


 翠蓮は恐る恐る、芙蓉妃の前の椅子に腰をおろす。



(蒼瑛さまに似ていらっしゃる)

 芙蓉妃の深い蒼い瞳の色。聡明で穏やかな人柄が分かる顔立ちは、蒼瑛とよく似ている。



「まぁ、なんて可愛らしい方なの。お茶を用意させたのよ。お口に合うかしら」


 芙蓉妃が手を軽く上げると、侍女がすぐに蓮の花茶と、砂糖でコーティングされた餅菓子を机に差し出した。



「芙蓉妃さま、蓮の香りをお楽しみいただくため、花茶は冷やしてございます」


 侍女の言葉に芙蓉妃は微笑んだ。

「蓮の花、気品がある清らかな香りよね。大好きなのよ」


 促され、翠蓮はそっとお茶を口に含む。

(初めていただいたけれど、いい香り)

 翠蓮の名に ちなんで、蓮の花茶を用意してくれたのだろう。その心遣いに緊張が少しだけ和らいだ。

 


「翠蓮、今回は突然のことに驚いたでしょう。最近、夜の眠りが浅くて何度も起きてしまうの」

 芙蓉妃は茶器をそっと置くと、寂しそうな表情で言う。

 美しい顔には深い疲労が潜んでいた。その辛そうな顔が、病気で亡くなったと母と重なる。



「いいえ、少しでも芙蓉妃さまのお心が休まれば良いのですが……」


(初対面の私にこのように気遣いをくださるのだから、きっとお優しい方なんだ……

色々気付きすぎると、お疲れになることもあるのかな)



 翠蓮はふと、芙蓉妃が温めるように手をさすっているのが目にとまった。


(もしかして……)


「芙蓉妃さま、恐れ多いのですが少し……お手に触れてもよろしいでしょうか」


 芙蓉妃は不思議な顔をするが、手を差し出す。その手はひんやりと冷たい。



「よろしければ、お目を閉じてください」

 翠蓮は、こちらを見ている侍女に頷き、明かりを落としてもらう。そして、自分の体温が移るように気持ちを込めて、優しく芙蓉妃の手を包み込んだ。



「翠蓮の手、温かいわね……」

 芙蓉妃の冷えていた手は少しずつ温かくなり、頬にも心なしか血色が戻っていた。



「芙蓉妃さま、眠りのご準備が整いました」

 侍女が言うと、芙蓉妃は穏やかな笑顔を翠蓮に向けた。


「ありがとう…なんだか眠れそうだわ」





 翠蓮は香炉の煙が寝台に届かぬように扇でそっと遮り、横になった芙蓉妃の足元に毛布を一枚かける。蝋燭を消すと静かに、呟くように歌い始めた。


 水面をたゆたうような優しい歌声に、芙蓉妃はゆっくりと眠りに落ちていった。


◇ ◆


 翌日、侍女が芙蓉妃の居室前で朝の挨拶を行う。

 返事がない。

「失礼いたします。芙蓉妃さま……?」

 不審に思い、そっと扉を開くと侍女はぎょっとした。


 寝台にもたれるようにして翠蓮が寝ている。その手は芙蓉妃の手を握っていた。


「ちょっとあなた、まさか一晩ここで?風邪ひくわよ」

 呆れた顔で揺り動かすと、翠蓮は目を覚ました。


「……すみません、寝てしまって」

 芙蓉妃はまだ眠っている。翠蓮は安堵した表情を見せると、侍女にお礼を言ってそっと部屋を出た。




 外は明るい朝日に満ちていた。

「少しでもお役に立てたならよかった」

 翠蓮は朝の空気を胸いっぱいに吸込み、楽府の宿舎へと戻っていく。

 その足取りは軽かった。



◇ ◆


「久しぶりによく眠ったわ……」

 芙蓉妃は、侍女に支えられ身体を起こす。


「こちら、菊の花茶でございます」

 侍女が目覚めの茶を差し出すと、芙蓉妃はわずかに首を傾げる。


「今日は温かいお茶なのね」


「はい、翠蓮さまが身体が温まるのではと。朝まで芙蓉妃さまの手を握っておいででした」



「まぁ、ずっと付き添ってくれていたなんて……」

 日が柔らかく差し込み、芙蓉妃は眩しそうに目を細める。



「控えめで細やかな気遣いだったわ。いつぶりかしら、こんな真心に触れたのは」

 芙蓉妃は菊の花茶を手に取り、じんわりとその熱を手で包む。


「また会えるかしら?」


「はい、芙蓉妃さまがお望みであれば」

 侍女は静かに頭を下げる。彼女のその言葉は、位の高い芙蓉妃が望めば、会いたい者に自由に会えるということを示していた。


 芙蓉妃はなにかを躊躇するように、茶に浮かぶ菊の花びらを見つめている。そして周りに聞かれぬように小さな声で呟いた。



「もう会わないほうが良いかもしれませんね……」


「すみません、なんとおっしゃいましたか?」


「いいえ。次からは蓮の花茶にしていただけるかしら」


「承知いたしました」



 蓮の花の可憐な清らかさが思い出されるのか、芙蓉妃の口元はほころんだ。






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