2-7 転落
控えの間では、それぞれの係りや楽府員が忙しく動き回っている。
本番を前にし、楽器の調律や声合わせなどの音が、ざわざわとした喧騒を生み出していた。
翠蓮は絢麗と共に衣装の着付けを受けている。周りでは化粧や髪結いが同時進行で行われている。
翠蓮は、段々と出来上がっていく自身の姿を、姿見を通してじっと見つめる。
(いつか本で見たお姫様みたい……なんて言ったら子どもっぽいかな……)
まるで自分でいて自分ではないようだった。美しい衣装に身を包み、隙のなく結われた髪に化粧。全てが初めてのことで、高揚し、心が弾む。
「素敵ねぇ……」
周りもうっとりして声を漏らす。
絢麗と二人並ぶと、そこだけ明るく見えるほどだ。
◇ ◆
紫雲は他の者たちと同様に、表向きは黙々と裏方の仕事を行っていた。
「ねぇ……見た?浮かれちゃって……」
麗春が小声で言いながら、乱暴に出番が終わった衣装をかごに投げる。紫雲は涼しい顔で、手を止めずに答えた。
「ふふ……馬子にも衣装って言うくらいだし、のぼせ上がってるんでしょう。"今"くらい許してあげたら。」
そう意地悪に微笑むと、最後に小さな声で付け足した。
「結末は、幕が降りるまでわからないと言うじゃない……?」
紫雲は離れた場所で作業する紅綿の方へ視線を流したが、その真意は誰にも読めなかった。
◇ ◆
蒼瑛が控え室に着いた頃には着付けは終わり、二人は姿見の前で身だしなみの最終チェックを受けていた。控室の扉の前に立った蒼瑛は、見とれているのか翠蓮へそっと視線を寄せている。
「蒼瑛さま、お忙しいのにありがとうございます。きっと今日の舞台は素晴らしいものになります。」
香蘭は自信ありげに微笑むと手で入室を促し、今日の主役の元へ案内する。翠蓮の前に来た蒼瑛は、どこか後ろめたげに視線を外した。
翠蓮はその態度に傷ついたように唇を結ぶが、すぐ気づかれぬようにいつもの表情に戻った。そして挨拶のため深くお辞儀をしようとした時、衣装係が異変に気づく。
「動かないで――」
――遅かった。
布が裂ける音とともに、スカートの襞が引き攣り、施されていた珠飾りが弾け飛ぶ。
最後の珠飾りが重力で床に落ちたとき、鈍い音が部屋に響き渡った。
「きゃーっ」
その音が止むと同時に、誰かが悲鳴をあげた。
「な……に……?」
状況を把握できず、翠蓮は振り向いて確認する。美しかった衣装は、右後ろあたりが腿から胴まで大きく裂けていた。
それを見ると翠蓮はよろめいた。
「大丈夫か!?」
咄嗟に蒼瑛が支えるが、翠蓮はそのまま崩れ落ちるように座り込んだ。
香蘭は真っ青になりながらも進行を確認する。
「……今、次第は!?」
「琵琶が演奏中で……出番まで十分を切ってます!」
「駄目だ、一旦幕を……」
蒼瑛が言いかけた時――
「待って!針と糸を!!」
鋭い声が空を切り裂く。
声の主は絢麗だった。
素早く衣装の後ろに回り込み、腰を下ろす、損傷した部分を手にとると裏地の一部分に不審な点がある。自然に裂けたのとは別の、鋭利な切れ込みだ。
その切れ込みはまるで、舞台上で衣装が裂けることを狙ったように見えた。
歌唱前、両手を広げ身を沈めるように行礼する――その瞬間を。
絢麗はいち早く犯人の意図に気づき怒りを露わにする。
「もし観客の前で破けていたら……誰よ……こんな卑怯な真似をしたのは!!」
「絢麗、どういうことだ……事故ではないのか……?」
蒼瑛は翠蓮を気にかけつつも、絢麗の隣で衣装を確認する。確かに不自然な裂け方をしていた。
「蒼瑛さま説明は後でします……今は衣装のことを考えなければ……」
蒼瑛は絢麗の言葉に頷くと、すぐに陳偉と凌暁に、指示を出す。
「この控室を封鎖して、直ちに内官府へ調査を依頼してくれ。」
「承知いたしました」
陳偉と凌暁は弾けるように控室を出て行った。
「……修復できるのか?」
蒼瑛は衣装に手をかけたまま絢麗に尋ねた。
この日は饗宴の舞台に合わせ、演者ごとに採寸をして衣装を作成していた。他の衣装を取りに行ったとしても着付けが間に合わないだろう。
「はい……何とかなると思います」
「針と糸ならここに……」
針子が恐る恐る答えると、絢麗は冷静に指示を伝える。
「スカート部分はぐし縫いでいいわ。見えないよう念の為下袴も同色のものを!それから帯を高く合わせて、胴の裂けた部分を隠して!」
衣装は何とか形にはなりそうだ。だが、翠蓮は歌えるのだろうか。
その場にいる誰もが固唾を飲んで成り行きを見守っている。
蒼瑛は立ち上がると翠蓮の正面へ行き様子をうかがう。
がっくりと肩を落とし、力なく頭を垂れている。まるで糸が切れた操り人形だ。
琵琶の演奏は最後の盛り上がりを見せ、拍手がこちらまで聞こえてくる。
「もう出番が……」
進行係は蒼瑛と香蘭を代わる代わる見やり、指示を待っていた。
緊迫した空気の中、蒼瑛は重々しく口を開く。
「舞台は中止だ。責任は私がとる」
「蒼瑛さま!中止するということは……」
「わかっている」
香蘭の言葉を手で制する。これが大事な政治的駆け引きを含む饗宴の場だということは蒼瑛も理解していた。中止ともなればあらゆる方面から追及は免れない。
蒼瑛は、痛々しくて見ていられないという風に翠蓮から目を離し、顔を歪めた。そのまま中止を告げに舞台に向かおうとすると、絢麗が両手を大きく広げてその行く手を阻む。
「お待ち下さい!」
驚く蒼瑛を横目に、絢麗は振り返り、翠蓮の肩を掴んだ。
「翠蓮!苦しいのは分かるわ……分かるけど!」
肩を強く揺するが、翠蓮の反応はない。
「ここで負けないで!私がリードしてみせる……だから……お願い……」
絢麗の肩は震え、その声は喉から絞り出すようだ。
顔は上げなかったが、翠蓮は黙って頷いた。
「もう本当に時間が……お急ぎください!」
進行係に急かされ、絢麗は香蘭と共に翠蓮を支えるようにして舞台袖まで連れて行く。
「翠蓮、歌えなければそれでもいいわ」
絢麗はじっと翠蓮の目を見つめる。翡翠の瞳は完全には閉ざされていない。
「私を信じて」
そう言うと絢麗は、翠蓮の手を引き光の方へ歩いて行った。




