2-6 北方の張氏
この日は生憎の雨だった。
せっかく咲いた春の花も、この雨ではすべて散ってしまうだろう。
地方貴族の張氏が参内するため、殿前将軍である炎辰は朝から警備に出ていた。
(張氏か……)
北方の地は国境であるため、隣国との非常時には最前線で戦う立場だ。
炎辰は軍事権を巡り、供給制限を行うなど、張氏へは度々牽制を行っていた。
――炎辰殿下は北方を守る気があるのか
張氏はそんな疑念が拭えないのだろう。
北方に対する不当な扱いに反発し、炎辰と張氏の間では幾度か衝突が起きていた。
重たい雲が垂れ込める空を仰ぎながら、炎辰は先日の翠蓮の様子を思い出す。
だいぶ堪えていた様子だったが、烈楊が流した噂のせいだろうか。
「女の嫉妬は恐ろしいからな」
本日の饗宴には第一皇子として炎辰も招かれている。
本来なら張氏の顔など見たくないが仕方ない。
炎辰は馬の手綱を握る手に力を込める。
「将軍、いらっしゃいました!」
武官の声に合わせ、炎辰は指揮を執る。
兵士の鎧が鈍く光り、雨に濡れた槍の先端が規則正しく揺れる。
一糸乱れぬその様子は、炎辰の将軍としての高い統率力を示していた。
◇ ◆
張氏の一行は、絢爛な馬車と数十人の護衛や従者を連れて正門をくぐる。
青い油紙傘が雨のしずくを細かく弾き、車輪が泥水を跳ね上げる音が殿内に低く響いた。
遠目にも、北方の人々らしい、質実ながらも堂々とした雰囲気が漂っている。
皇帝への挨拶が済んだ張氏は、控えの間で蒼瑛に出迎えられた。
「張氏殿、お待ち申し上げておりました」
蒼瑛は軽く膝を曲げ、笑みを浮かべて歓迎する。
「これは蒼瑛殿下、お会いできて光栄にございます。この度は成人の儀を迎えられたこと、誠にご祝福申し上げます」
張氏は深々とお辞儀をした。
皇族に会う時の緊張が張氏から伝わるが、蒼瑛の柔らかな声に、その表情はすぐにほぐれた。
献上品を差し出そうとする従者を制し、蒼瑛は気遣うように微笑む。
「長旅とこの雨で、皆様お疲れでしょう。湯を用意させますので、まずはお寛ぎください」
張氏は蒼瑛に会うのは初めてだったが、その物腰の柔和さと心遣いにひどく感動した様子だ。
普段やりとりする皇族と言えば炎辰なので、張氏のこの反応も無理はない。
蒼瑛は内務大臣に引き継ぐと、控えめに一礼しその場を後にした。
◇ ◇ ◇
饗宴は和やかに進んでいた。
炎辰はまだ到着していないようで、主に張氏との会話は蒼瑛が担当していた。
料理や酒は、事前に調べておいた張氏の嗜好に合わせてあり、長い机の上にところ狭しと並んでいる。
そのためもあってか張氏は饒舌だ。
近隣国との緊張状態で兵がストレスで疲弊している。積極的に支援をしてほしいと熱を込めて話していた。
張氏は盃に入った酒を見つめると、ため息を吐きつつ言う。
「炎辰殿下にも常々お願い申し上げているのですが……」
蒼瑛は、北方の状況は把握していたつもりだったが、実際に話を聞くと知らないことも多かった。
特に、炎辰の北方への牽制については蒼瑛の全く知らぬところだった。張氏ははっきりは言わないが、その言葉の端々から、炎辰への怒りと落胆が伝わってくる。
(国を守る前線であり、自国の敬意を払うべき仲間なのに……兄上はなぜ、力欲しさにそのような仕打ちができるのか……)
恐らく蒼瑛には、炎辰の心境は理解できないだろう。それは逆も言えたことで、この先どこまで行っても二つの線は交わらない。根本的な思考が全く異なるのだ。
「ところで……」
張氏は舞台を見ると口を開いた。
「今宵は何か催しが?」
「ええ、ご存知かわかりませんが実は最近、楽府を創設いたしまして……本日はささやかですが、その舞台をお楽しみいただければと考えております」
張氏は何度も深く頷く。
「それは素晴らしい。国に文化の厚みがなければ、他国から軽んじられますゆえ。実のところ、北の遊牧の国より、『陽国は武ばかりの野蛮な国』と揶揄されたこともございます」
張氏は雨音を聞きながら残りの酒をぐいと飲み干す。
「楽しみにしております」
そこに炎辰が到着した。
張氏は立ち上がり、参上の挨拶を述べる。
炎辰の護衛や側近は目を鋭く光らせている。少々ピリついてはいるが、表面上は和やかな空気で談笑していた。
蒼瑛は張氏に断りを入れ、舞台の最終確認のため席を立った。
――楽しみにしております
張氏のその言葉を思い返し、蒼瑛の胸にひとつ灯がともる。
外は雷雨に変わっていた。




