2-4 嫌がらせ
「あれ……?」
最初に翠蓮が異変を感じたのは、譜がなくなった時だった。
不注意で失くしたのかと思ったが、その日のうちにボロボロに破かれて出てきた。
それからは歌人メンバーの、特に麗春と紅綿を中心に、理由もなく笑われたり、心ない言葉を浴びせられるようになった。
「孤児で、なんの後ろ盾も実力もないのに、すぐにいい舞台がもらえておかしい」
これが中傷のベースになっていた。
ここに「正楽師に賄賂を渡してる」だの「身体をつかっている」だの、翠蓮がやり返さないのを良いことに好き放題な言われようだった。
不正の時の根も葉もない噂とは違い、今回の噂には「孤児でなんの後ろ盾もない」という部分は本当だった。
また、翠蓮が音楽の高等教育を受けていないことも事実だ。
彼女の入府後の努力を知らぬものたちには、そこも叩くべき格好のネタだった。
不穏な噂は影となり、心を蝕む。
田舎の小さな楽団で育った翠蓮には、人からここまで悪意を向けられることは初めてだった。
「翠蓮、最近元気ない?」
「何かあった?」
絢麗や明鈴がそう聞いてくれても、翠蓮は曖昧にごまかしていた。
心配をかけたくないという気持ちもあるが、人から"そういう"対象にされているということを、認める勇気がなかった。
今日翠蓮たちは、書庫の掃除と書物の移動を頼まれていた。
蒼瑛が以前言っていた楽府用の図書館を創るらしい。
棚が備え付けられただけの簡易的なものだが、翠蓮は『これからここに音楽の本がたくさん並ぶんだ』と想像し、久々に心が明るくなった。
(そういえば、最近蒼瑛さま……お見かけしないな。)
「後は書物の移動ね」
絢麗が手をパンパンッとはたきながら言うが、明鈴は太凱にお願いする気満々らしい。
「か弱い乙女が運ぶ必要ないよ!太凱にやってもらおうよ~」
「か弱い……ね」
相変わらずつっこみが鋭いが、絢麗はいつの間にか明鈴や太凱とも打ち解けていた。それは翠蓮にとっても嬉しいことで、書庫には心癒される時間が流れていた。
「私、行ってくるよ」
翠蓮は籠に十冊ほど本を入れると、絢麗達を微笑ましく見ながら書庫を出る。
「暖かい……」
春の花が見事に咲き誇り、満開を迎えている。
その時、すれ違いざまに裾を踏まれて転んでしまった。籠の本が地面に散らばる。
「すみません……」
顔を上げると、麗春と紅綿が見下すように立っていた。
「あら、ごめんなさいね。あまりに鈍臭くて気が付かなかったわ。」
翠蓮はその言葉を無視して本を拾い集めるが、その淡々とした対応は余計に彼女たちを苛立たせるようだ。
麗春は、翠蓮が手を伸ばした本を踏みつける。
「あなた、本なんて読めるの?その籠でも持って、路地裏で施しでも受けてきたらいかが?」
(私が一体何をしたの……)
翠蓮は、その強さから嫌がらせに反応しないわけではない。ただ、弱いところがこぼれそうで耐えているだけなのだ。
踏みつけられた本が自分と重なってひどく惨めに思えた。
そのまま嘲るような笑い声は遠ざかり、翠蓮は動けずに、ただただ本を見ていた。
不意に頭の上から懐かしい声が落ちた。
「どうかしたか?」
顔をあげると、蒼瑛の心配そうな顔が飛び込んでくる。
翠蓮は息が止まりそうだった。
(知られたくない……)
そう思った翠蓮は詮索されないよう、さっと立ち上がり笑顔を作る。
「すみません、本を落としてしまって」
「そうか……」
いつもなら笑顔を向けてくれていた蒼瑛が、今日はなんだかぎこちない。
目を合わせてくれない。
人の声が遠くでさざめき、それを聞くと蒼瑛はさっと横を向いた。
「すまない。手伝ってやりたいが先を急ぐんだ」
「いえ……」
そのまま一切視線を合わせることはなかった。残された翠蓮は喪失感に襲われる。
「お忙しいんだから……」
そう言ってみたものの、もう頭も心も感情はぐちゃぐちゃだった。
あの優しさを期待してしまったのだろうか。立場も身分も違うあの人の。
(お優しいのは、私に限ったことじゃないのに――)
そして、勘違いではない。避けるようなあの態度が、翠蓮の胸をずたずたに引き裂く。もしかしたら自分は、紅綿たちが言うように本当に無価値な人間なのかもしれない。
どれくらいそうしていただろうか。
あまり遅くなると、不思議に思われてしまうかもしれない。
最後の一冊に手を伸ばすと、別の手が本に触れた。
「相変わらず泥だらけだな」
「あ……炎辰殿下」
好きで泥だらけになっているわけではないのだが、二回も同じような所を見られると恥ずかしい。
手に取った本に泥の足跡がついているのを見ると、炎辰が眉をひそめる。
翠蓮は思わずひったくるように本をとってしまった。ごまかすように言葉を探す。
「あの……いつぞやは助けていただきありがとうございました」
「いつの話をしているんだ」
「なかなかお会いする機会がなくて……申し訳ありません」
炎辰は沈んだ表情の翠蓮に、見透かしたように言葉を投げつける。
「お前はもう少し骨があると思ったけどな」
冷たい言葉だが、翠蓮は不思議と嫌な気はしなかった。むしろ、突き放されたことで頭が少し整理された気がする。
(変に寄り添われたら、泣いてしまったかも……)
「ありがとうございます。反骨精神を思い出します」
炎辰は意外な返事に驚いているようだ。
「励ましたわけではない」
苦々しげに吐き捨てる。
確かにその通りなのだろう。
だけど、先ほどまで悲しみと惨めさでいっぱいだった翠蓮の心は、少しだけ軽くなっていた。
◇ ◇




