1-10 鍵箱
楽府の稽古場に現れた陳偉が恭しく礼をする。
「翠蓮さま、お迎えにあがりました」
今日は個人と話したいという蒼瑛たっての希望で、一人ずつ彼の書斎を訪問していた。
「よかったな、迎えに来てもらって。迷子にならなくて済むじゃん」
既に面談を済ませた太凱が茶々を入れるが、緊張している翠蓮には聞こえていないようだ。
(皇子さまの書斎なんて一生縁のない場所だと思ってたな)
無礼のないようにしなければと顔を強張らせる翠蓮に、陳偉は微笑んだ。
「そんなに緊張なさらずとも大丈夫ですよ。書斎と言うより……恐らく翠蓮さまが想像しているような場所ではありません。さぁ、参りましょう」
蒼瑛の書斎は楽府から程ない宮殿の一室にあった。
元々は北側の皇族居住エリアに皇子用の書房があった。しかし、楽府創設の任を受けてからは移動時間も惜しくなり、現在はほとんどこの書斎にいるそうだ。
「この調子では近いうちに書斎に住みだすだろう」というのが陳偉の見方だった。
書斎の前まで着くと陳偉は、装飾がない簡素な扉の前で礼をした。
「蒼瑛さま。翠蓮さまがいらっしゃいましたよ」
翠蓮の名を聞いて、奥で慌てたようにバタバタと音がする。しばらく待つと蒼瑛が顔を覗かせた。
「入ってくれ」
私はこちらで、と目で挨拶をすると陳偉はもと来た方へと去って行った。
書斎に入った翠蓮の目にはおびただしい量の本が飛び込んで来た。
容量を当に超えた本達は、本棚に色んな向きで詰め込まれている。それでも入り切らない物は床に積まれていた。
(っと……危ない)
油断すると本の塔を蹴飛ばしてしまいそうだ。
正面の机は比較的片付いていたが、その横の小卓には書類がうずたかく積まれ、今にも雪崩を起こしそうになっている。
(奥にも何かある?)
部屋の奥は一段高くなっており、座れるように麻の敷物が敷かれている。
壁に二胡が立てかけてあり、その周りには書きかけの工尺譜や、音楽理論の本なども散らばっている。
(すごい……勉強家なんだな……)
皇子の書斎ではあるが、派手な装飾や格式高い家具などは置かれていない。
基本的に簡素だ。形式より実質を好む性格が見て取れる。学と芸術を好む蒼瑛らしい部屋だった。
「先ほどは失礼……君が来ると思っていなかったんだ」
蒼瑛は雑多な机の上を、取り繕うように片付け――端に寄せた。
翠蓮はその様子を見て思わず口元がほころびそうになる。
(なんか……ちょっとかわいい……)
年上のしかも皇子に失礼だと、その感情には気づかなかったことにした。
「申し訳ありません、明鈴がちょうど合わせ稽古に入ってしまい代わりに参りました」
「いや、いいんだ。座ってくれ」
着席を促すと、蒼瑛はバッジを手渡す。
「改めて合格おめでとう。これが歌人の証だ。明日はこれを着けて入府式に参加してくれ」
青い布に、声の象徴である波線が刺繍されている。翠蓮は両手で受け取るとじっくり眺めた。
「歌人の証」という言葉に胸が高鳴る。
「恐れ入ります、皇子殿下」
「『皇子殿下』だなんて、皇太子でもないのに大げさだな。蒼瑛で良い。皆公式の場以外ではそう呼ぶ」
「はい……承知しました、蒼瑛さま」
「ふっ……」
一応名前呼びになったものの、声が堅いままの翠蓮に、蒼瑛はおかしそうに肩を揺らす。
(こうして笑っていらっしゃると、太凱と同じように見えるな……)
事実、蒼瑛も太凱も歳は同じだ。
こちらが素なのか、試験の時の威厳ある雰囲気は消えていた。
「私も楽府の皆のことは名前で呼ばせてもらう。これからよろしく、翠蓮」
蒼瑛は真面目な顔に戻り、やや声の調子を落とした。見つめられると、思慮深そうな蒼い目に吸い込まれそうになる。
「今日来てもらったのは、君に楽府のことで初めに話しておきたいことがあったからなんだ」
「はい」
「楽府のことで気づいたことがあれば小さなことでも話してほしいんだ。私だけでは気づかないことも多い」
蒼瑛は人――特に最前線にいる人の声を大切にしていた。どんなに理想を掲げても、皆が付いてきてくれなければ裸の王様になってしまう。
「承知いたしました。私はまだ経験も浅くて、皆さんに付いていくだけで精一杯ですが……もし……」
翠蓮は遠慮がちに目を伏せると、奥の小上がりに視線を向ける。蒼瑛は優しく先を促した。
「その……あちらは音楽の書物でしょうか。私には難しいとは思うのですが、もし良ければ少し見てみたいなと……」
蒼瑛は勢い良く立ち上がった。
「もちろん、どんどん見てくれ!そうだ、楽府に専用の図書館を作ろう!そこに各国の音楽の本を……」
はたと我に返ると、蒼瑛は咳払いして再び椅子に座り直した。
「すまない……嬉しくてつい。とにかく、今みたいに気づいたことはなんでも言ってくれ」
はしゃいだところを見らればつが悪かったのか、一瞬叱られた子供のような表情を見せたが、すぐにいつもの蒼瑛に戻っていた。
冷静で威厳があり感情が読めない彼と、少年のように素直で無邪気な彼。
翠蓮は不思議な気分だった。
(どちらが本来の蒼瑛さまなんだろう)
蒼瑛の笑顔を見ると、自分のことのように嬉しい。
(もちろん、明鈴の笑顔も同じように嬉しい。だけど――だけど……?)
「今日は来てくれてありがとう。まずは明日の入府式を成功させよう。翠蓮……」
蒼瑛は一瞬言葉をためらい、視線を宙に泳がせる。再び翠蓮に向き直すと、声に力を込めた。
「翠蓮、困ったことがあれば何でも話してほしい。今度こそ……今度こそ君の力になりたいんだ」
翠蓮は不思議そうな顔をしたが、笑顔で返事をした。
◇ ◆
一人になった書斎で、蒼瑛は小さな鍵箱を開く。中には丸い形をした、翡翠色の首飾りが入っていた。
「やはり、覚えていない……よな」
一次試験で翠蓮の翡翠色の瞳を見た時には "まさか" と思った。
だが、最終試験の時、蒼瑛は揺りかごの唄を聴いて確信した。
罪悪感に押し潰されそうで、鍵箱に翡翠色の記憶を閉じ込めたあの日。
しかし、綺麗に忘れることなどできなかった。
胸には十年前の翠蓮の、笑顔と泣き顔が残る。
「初恋だったな」
自身の呟きに"だった"?と自問する。
「今の私には、口にすることは許されない」
皇子としての身分と、過去の戒めが胸を締めつける。叫びだしたくなる感情を抑えつけ、唇を噛み締めた。




