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女主人達の異世界グルメ

霞宿のアマリリス

作者: 百鬼清風

 日が昇るより少し早く、私は目を覚ました。


 寝台の中で目を瞬かせながら、ぼんやりと天井を見上げる。今日もまた、厨房で火を起こし、宿の食卓を整える一日が始まる。まだ眠る町の静けさの中で、私の一日はゆっくりと立ち上がる。


 ここは「霞宿かすみやど」と呼ばれる、小さな宿屋。高台の街角にひっそりと佇んでいて、濃い霧に包まれる朝には、まるで空に浮かぶ舟のようだと旅人は言う。私はその宿の主、ミアナ・ティリス。大きな看板もなく、商売っ気のある挨拶も苦手な私だけれど、それでもここを訪ねてくれる人がいる限り、店は開けていたいと思っている。


 今日もきっと誰かが、霧を割ってやってくる。


 そう思いながら台所へ向かうと、ガラス戸の向こうに朝靄が流れていた。静かで、柔らかくて、どこか懐かしいにおいがする朝。


 薪に火をくべ、鉄鍋にスープを仕込む。じゃがいも、人参、干したポロネ豆、鶏の骨。塩と少しの香草を加えて煮込めば、心と体がほどけていくような味になる。それが、霞宿の定番の朝食だ。


「…あったまるかな、今日は」


 湯気の立つ鍋をかき混ぜながら呟いたそのとき、表の戸が控えめに叩かれた。


「すみません、宿をお借りできますか?」


 戸越しに聞こえてきた声は、少し掠れていて、それでも穏やかな響きを持っていた。


 私は布巾で手を拭いてから、戸を開けた。


 そこにいたのは、旅装の若い男だった。風にさらされたような髪と、焼けた肌。肩には小さな木箱を抱えていて、足元には鳥籠のようなものがひとつ。目が合うと、彼は少し照れたように笑った。


「…すみません。急に降り出した霧で、道を見失ってしまって」


 彼の声は低くて、どこか乾いた音がする。名を尋ねると、「ゼト」とだけ答えた。どうやら本名ではなさそうだったが、私はそれ以上詮索しなかった。


 霧に迷った旅人なんて、ここではよくある話だ。


 荷を預かり、部屋を案内して、食堂の席を勧めると、彼は目を細めて「…なんだか、いい匂いがしますね」と言った。


「スープ、要りますか?」


「ぜひ。…でも、僕の服、雨で濡れてしまってて。もし布巾か何かがあれば」


「それより、先に着替えます? 乾いた服なら貸せますから」


 少し考えて、彼は頷いた。私は一番奥の部屋に案内し、古着を用意する。風が通るような人だった。気配が軽くて、どこか掴みどころがない。まるで本当に、渡り鳥のようだった。


 スープを盛る頃には、彼は乾いた服に着替えて戻ってきていた。


 椅子に腰を下ろし、一口スプーンを運ぶと、驚いたように目を見開いた。


「…あったかい。味も、だけど、それだけじゃない感じ」


「…うちのは、気持ちも煮てますから」


 冗談めかしてそう言うと、ゼトは静かに笑った。


「じゃあ、今日は特に濃い目ですね」


 その言葉に、私は少しだけ胸が温かくなった。ほんのり甘い香草の香りが、食卓を包む。


 こうして霞宿の一日は、またゆっくりと始まるのだった。



 日が完全に昇る頃、霧はすっかり晴れていた。


 宿の裏庭に回ると、洗濯物の合間に干されたハーブの束が、朝露を弾いてきらきらと光っている。私はその中から、ラース草とティルの葉を手に取り、籠の中でゆっくりと揉んだ。


 いつもなら、昼の仕込みをしてから少し休むのだけれど、今日はなんとなく眠る気になれなかった。あの旅人ゼトのせいかもしれない。


 彼が抱えていた木箱には、細工の施された小さな鍵がついていた。さして気にも留めなかったのに、今になって中身が気になる。あれほど注意深く抱えていたのは、道具か、あるいは…何か秘密を抱えているのかもしれない。


 ふと、昨夜見た夢を思い出す。


 鳥になって空を飛んでいた。霞の中をくぐり抜け、知らない町へ、知らない国へ。だけどどこにも止まる場所がなくて、風に流されるまま、私はただ、羽ばたいていた。


 それはまるで、ゼトのような夢だった。


「…寝ぼけすぎだ、私」


 思わず口にすると、笑みがこぼれた。指先に絡んだハーブの香りが、気持ちをすっと引き締めてくれる。


 そのとき、裏戸が静かに開いた。


「お邪魔して、いいですか?」


 振り向けば、ゼトが鳥籠を両手に抱えて立っていた。中には灰色の羽を持つ小鳥が一羽。目が合うと、ぴいと一声、可愛らしい声で鳴いた。


「昨日、渡りの途中で弱ってて。連れてくるつもりはなかったんですが…見捨てられなくて」


 ゼトの声はどこか寂しげだった。宿主としても、料理人としても、私はその声に抗えなかった。


「じゃあ、その子に合うごはんも作らないとね」


 彼はきょとんとした後、ふっと笑った。


「そう言うと思いました」


 それから私たちは、裏庭の木陰で並んで腰を下ろし、小鳥の餌を砕いて混ぜながら、取りとめもない話をした。ゼトの旅先の話、遠くの市場で見かけた料理の話、そして


「…この鳥籠、元は兄の持ち物でした」


「お兄さん?」


 うなずくと、ゼトは少し視線を落とした。


「僕がまだ子どものころ、兄が旅立つときに、これを僕にくれたんです。“風が止まる場所を見つけたら、この鳥を放ってやれ”って」


 その言葉に、私の胸の奥が小さく揺れた。


 風が止まる場所。


 彼にとってのそれが、どんな場所なのかはわからない。でも、もし霞宿がそのひとつになれたら。そう思ってしまったのは、きっと私のほうがどこか、風に憧れていたのかもしれない。


「…今日の昼は、スモークハーブのスープを作ります。少し変わってるけど、香りがいいの」


「煙で煮るんですか?」


「いえ、煮ながら香りだけまとわせるの。灰にならないギリギリの火で、ラース草を燻すんです」


 彼は興味深そうに頷いた。


「じゃあ、見学してもいいですか?」


「見学って…厨房、狭いですけど?」


「大丈夫。僕、狭い場所の方が落ち着くんです」


 くすっと笑う彼を見て、私もつられて笑った。朝霧のような会話。触れればすぐに消えてしまいそうな、不確かな距離。でもその曖昧さが、今は心地よかった。


 霞宿の昼が、少しずつ深まっていく。




 スモークハーブの香りは、昼の霞宿にじんわりと広がっていた。


 ラース草とティルの葉を乾燥させたあと、ごく弱い火で燻して、煮込みスープの上に蓋のように被せる。そのまま数分蒸らせば、湯気に混じって、まろやかで奥行きのある香りがスープに染み込んでいく。食べた人の鼻の奥に、ふっと残る余韻が特徴だった。


 ゼトは台所の隅に腰かけ、興味深そうに鍋の様子を覗き込んでいる。


「本当に、煙が食べ物に移るんですね。しかも、いい匂いだ…」


「この火加減がね、難しいの。煙くさくならないギリギリ」


 私は蓋を取って、蒸気の向こうから彼に笑いかける。ゼトは少し目を細めて、白いもやを見つめた。


「子どもの頃、兄に言われたんです。“おまえは風に乗るより、風を包む側になるかもしれない”って」


「…それって、どういう意味?」


 ゼトは返事をせず、少しだけ笑った。そして木箱を静かに膝に置くと、ふたをゆっくりと開いた。


 中には、小さな風鈴が入っていた。透明なガラス製で、笛のような形。ごく淡い水色が差していて、見る角度で色を変える。風が吹けばどんな音が鳴るのだろう。


「これは、兄が旅に出る前に作ったものなんです。風に逆らわず、それでいて迷わないようにって。…僕が、進む先を失わないように」


 私はことばを失って、ただその風鈴を見ていた。


「でも、旅って、方向を見失うものなんですね。思ってたよりもずっと。どこに向かえばいいのか、誰に会いたいのかも、だんだん分からなくなって…」


 その声には、自嘲でも後悔でもなく、ただ風のような素直さがあった。私の知らない旅の重さが、そこにあった。


「ゼトさん」


 声をかけると、彼はふっと顔を上げた。


「ここは、風を包める場所かもしれないよ」


 私の言葉に、彼は目を瞬かせた。まるで、風鈴の音が、今ここで鳴ったかのように。


「…それ、すごく不思議な言葉ですね」


「でも、悪くないでしょう?」


「はい。…とても」


 そのとき、玄関の扉が、控えめに叩かれた。


 私はエプロンの手を払いながら出ていくと、そこには見知らぬ旅人が立っていた。肩までの金髪に、重ね着の旅服。砂色のマントには、見覚えのある紋章があった。あれは確か、南部の巡礼者が身につける印。


「ごめんください。…ここは、霞宿で間違いないですか?」


「はい、そうですが」


「よかった。…旅人のゼトという男が、ここに立ち寄ったと聞いて」


 その言葉に、私は目を瞬かせた。ゼトの知り合いそれも、名前を探してやってきた人。


 裏庭に戻れば、ゼトは変わらず、風鈴を箱に戻していた。


「ゼトさん、あなたに会いに来た人がいます」


「…誰ですか?」


「巡礼者だって。南の」


 そのとき、ゼトの表情がほんのわずか、硬くなった。けれどその目は、どこか懐かしさも宿していた。


「兄かもしれません」


 彼はそう呟いた。




 夕暮れの霞宿は、ほんのりと橙色に染まっていた。


 囲炉裏の火がぱちぱちと鳴り、テーブルの上には旅人用の夕食が二人分。ゼトと彼の兄、ラーセルの席だった。


「…五年ぶりだな」


 その声は思っていたより低く、落ち着いていた。ゼトと似ていながらも、どこか風の代わりに土を踏みしめるような雰囲気があった。旅の中で、たくさんの責任や道を歩んできた人の声。


「兄さん、本当に…ここに来たんですね」


「ああ。誰かが“霞宿”に立ち寄ったって聞いて。まさか、こんな場所にいるとは思わなかった」


 ゼトは黙って、スープを見つめていた。私は鍋から、ふたりの皿にスモークハーブの煮込みをよそう。じんわりと湯気が立ち上り、部屋の空気を柔らかく包んでいく。


「…いい匂いだな」


 ラーセルがふっと笑った。その笑顔に、ゼトも少しだけ肩の力を抜いたように見えた。


「兄さん、覚えてますか。風鈴、作ってくれたやつ」


「もちろん。ゼト、おまえは風を包む人間になる…そう思ってた。正直、おまえがこんな宿にいるなんて想像してなかったけどな」


 私は黙ってその会話を聞きながら、心の中でうなずいていた。風に乗る人もいれば、風を迎える場所になる人もいる。どちらが正しいとかではない。ただ、それぞれの生き方があるだけ。


「俺は…途中で迷ってしまった。どこへ行けばいいのか、誰を探していたのか…霞宿に来てようやく、思い出せた気がする」


 ゼトの目は、少しだけ潤んでいた。


「僕は、ここにいてもいいのかな」


「おまえがそう思える場所なら、もうそれが答えなんじゃないか?」


 ラーセルは、まっすぐにゼトを見ていた。その眼差しには、旅を終えた者の静かな安心感があった。


「…私も、そう思いますよ」


 私はそっと口を挟んだ。


「ゼトさんは、ここで風を包んでくれました。私にとっても、それはとても、かけがえのないことだったんです」


 ゼトはこちらを見た。その目には驚きと、少しの恥ずかしさ、そして…やわらかな笑み。


「この宿は、風が止まる場所じゃなくて、風が寄る場所なんです。ほんのひととき、肩を休めるための、ね」


 私はそう言って、ふたりの皿にもう一杯ずつ、あたたかい煮込みを注いだ。


 食卓には風鈴の音は鳴らなかったけれど、どこかで優しい音が響いたような気がした。


 


 夜が更け、ラーセルは再び旅立つことを選んだ。けれどゼトは、ここに残ると決めた。旅ではなく、宿の人間として。


 そしてその日、私は初めて彼に、こう言った。


「ゼトさん。…よかったら、明日も一緒にごはん作りましょう?」


 彼は少し驚いたあと、静かにうなずいた。


「はい、ぜひ」


 


 霞宿には今日も風が吹く。旅人の足音と、鍋の中の湯気の音が交じりあう、小さな食卓。


 私の手の中には、包丁と、誰かのために作る気持ち。そしてその隣に、風を包む人の笑顔がある。


 きっとこれが、私の旅の終わりで、始まり。


 物語の、食卓のかたち。



 翌朝、いつもより早く目が覚めた。霞宿の裏庭からは、かすかな春の香りが漂っている。草の匂い、蕾の匂い、土の匂いそのすべてを混ぜたような、目には見えない季節の合図。


「おはようございます」


 キッチンに立つと、すでにゼトが薪をくべていた。眠たげな目をしていたけれど、手の動きは無駄がなく、どこか嬉しそうに見えた。


「おはよう。今日は…何作りましょうか?」


「そうですね。春の月を煮詰めたような、やさしい朝食を」


 私がそう言うと、ゼトは一瞬きょとんとして、すぐに笑った。


「それって、どんな味ですか?」


「…ふふ。一緒に、考えましょうか」


 


 霞宿に春が訪れると、野の果実が市場に並ぶ。私はそこから、ほんのり甘い白蜜実と、朝摘みのさくら草を使うことにした。煮詰めると、ふわりとした香りと、やさしい甘みが残る。口に入れると少し温かくて、けれど後には何も残らないような、そんな味。


 ゼトは焼きたてのパンの表面に、丁寧にナイフでそれを塗っていた。


「…なんだか、不思議な気分です」


「どうして?」


「昔は食事って、ただの燃料みたいに思ってました。でも、こうして“誰かと一緒に”作るってだけで、全然違うんですね」


 ゼトの手が止まる。私がそっと彼の横に並ぶと、彼は少しだけ目を伏せた。


「それは、たぶん、あなたが優しいからですよ」


「えっ?」


「ここに来て、あなたと一緒に過ごして、僕の中のなにかが…少しずつ、変わっていったんです」


 私はその言葉を受け止めながら、胸の奥が少しだけ熱くなった。


 …けれど、その時だった。


 「アマリリスさーん、お届けものでーす!」


 外から聞き慣れた元気な声が響いた。郵便配達のマルカだ。


「今行きます!」


 私は外へ飛び出し、マルカから小さな包みを受け取った。開けてみると、中には…一通の手紙と、赤紫の封蝋。


 それは、私の故郷“テアロ”の印だった。


 


 その晩、ゼトと一緒にその手紙を囲炉裏の前で読んだ。


「…“帰ってきてほしい”?」


 封筒の中には、かつての料理師匠・リゼンの名前があった。彼は私に料理の基礎を教え、夢の片鱗をくれた人。その彼がいま、体を悪くして店を畳もうとしているという。


「…アマリリスさん、どうしますか?」


 私は、焚き火の火を見つめていた。ぱちぱちと、木が静かに音を立てている。


「行くべきかどうか、まだ…わかりません」


「僕は、ここで待ってますよ」


 ゼトの言葉は、あたたかくて、でも少しだけ寂しげだった。


「…あなたも、一緒に来ませんか?」


 その瞬間、ゼトの目が見開かれる。そしてすぐに、ふっと笑った。


「…それ、旅の誘いですか?」


「ええ。食材探しの旅、ということで」


「じゃあ、断る理由はありません」


 


 こうして、霞宿を少しだけ離れる旅が始まった。


 けれど私は知っている。帰る場所はここにある。風がやさしく吹いて、誰かと一緒に食卓を囲むそんな宿が、ちゃんとここにある。


 


 そして私はもう一度、自分の足で料理を作りなおす旅に出る。春の月を煮詰めた朝のように、静かで、あたたかい旅。



 久しぶりに馬車に揺られて、私は“あの町”へ向かっていた。テアロ。生まれ育った小さな港町で、潮の香りと一緒に暮らしていた日々の記憶が、少しずつよみがえる。


 横を見ると、ゼトは珍しく口数が少なかった。けれど、その瞳は真剣だった。時折、風に舞う花びらをじっと見つめるようにしていた。


「緊張してる?」


「してます。旅も、港町も、初めてなので」


 私は笑った。


「大丈夫。テアロの人はみんな、風のように優しくて、塩みたいに素っ気ないわ」


「それ、どういう意味です?」


「来ればわかるって」


 ゼトもふっと笑う。こうして並んでいると、不思議と肩が軽くなる。


 


 テアロに着いたのは、昼下がりのことだった。潮風が強く、町の石畳は少し湿っていた。港では魚を運ぶ人々が声を張り、角の食堂では皿を洗う音が聞こえる。


「…懐かしい」


 私の声に、ゼトはそっと寄り添った。


 そのまま、町の奥にある師匠・リゼンの家を訪ねると、老いた彼が縁側で茶をすする姿があった。


「…アマリか?」


「お久しぶりです、リゼンさん」


「おおお、ほんに…」


 彼はゆっくりと立ち上がり、少しふらつきながらも私の手をとった。ごつごつとした手。かつて火を握っていた手は、今は細く軽い。


「おまえ、またうまいもん作ってるか?」


「はい。宿も開きました。“霞宿”というんです」


「ふふ…おまえらしい名前じゃの」


 


 しばらくして、私は台所に立った。リゼンの家のそれは狭くて、道具も年季が入っていたけれど、不思議と落ち着いた。


 その日の夕食には、“潮花と苦菜の炒め煮”を選んだ。春の海で採れる潮花という海藻と、ほんのり苦味のある山菜。火を通すとそれらが溶け合って、舌に深い余韻を残す。


「…変わらんな、おまえの料理は」


 リゼンが笑いながらつぶやく。


「変わらないけど、変わったんですよ。今は、“誰かと食べるために”作ってますから」


「…ほぉ」


 その言葉を聞いた時、私の隣にいたゼトが、ほんの少しだけ驚いたような顔をした。そしてすぐに、ゆっくりと頷く。


 


 夜、リゼンが床についた後、私とゼトは縁側に並んで座っていた。


「…ここの星、霞宿とちょっと違いますね」


「そう?どんな風に違う?」


「霞宿の星は、柔らかくて静かで…でも、テアロの星は風の音がしてる気がする」


「詩人みたい」


「詩人になれそうです。アマリリスさんの隣にいると」


 風が、ひとつ吹き抜けた。


「ゼト」


「はい?」


「…この旅が終わったら、もう少しだけ、あなたのことを教えてくれる?」


 ゼトは少し目を伏せ、微笑んだ。


「もちろんです。けれど、その代わりに…」


「うん?」


「今度は、僕にも“あなたの味”をもっと教えてください」


 春の夜風は穏やかで、静かな波音とともに、私たちの時間を包んでいた。



 帰路につく馬車の中、ゼトはしばらく目を閉じたままだった。テアロでの数日間、彼は静かに、けれど深く何かを感じ取っていたように思う。


 私はそっと尋ねた。


「…思い出したの?」


「ええ、少しだけ」


 風が車窓を撫でる。私たちを乗せた馬車は、霞宿へと戻る道を淡々と進んでいた。


「僕、本当は“ゼト”じゃないんです」


 私は驚かなかった。薄々、どこかで感じていた。


「あなたの“本当の名前”は?」


 彼は一拍置いて、口を開いた。


「リアン、と言います。…リアン・ファルク」


 その名は、どこか懐かしく、でも初めて聞く響きだった。口にすればすぐに馴染むような、不思議な名前。


「じゃあ、ゼトは?」


「ある事件のあと…逃げるようにして名を変えたんです。“リアン”だった自分を、失くしたかったから」


 その瞳に、かつての痛みと後悔が宿っていた。私は彼の手に、自分の手を重ねた。


「じゃあ今は?」


「…今は、“ゼト”でも“リアン”でもなく、“アマリリスさんの隣にいる僕”です」


 


 霞宿に戻ってからの日々は、少しずつ変わり始めた。


 春の終わりを迎え、山の市場には夏の野菜が顔を出しはじめる。茄子、青い唐辛子、白い瓜。それらを見つめるリアンは、まるで初めて世界を見た子供のように楽しげだった。


「この瓜、どうやって調理するんです?」


「…なら、今日は“白瓜と鳥の冷やし煮”にしましょうか」


「冷やし、煮?」


「そう。冷たい料理だけど、火はちゃんと通すのよ」


 厨房に並ぶ私たちの肩は、もう並ぶのが自然になっていた。


 


 夕暮れ、出来上がった料理を庭の小さな縁台に運ぶ。


 白瓜はだしで優しく煮て、冷水にとって冷やす。鳥のむね肉は酒と塩で茹で、ほぐして、しらすと一緒に和える。仕上げに、ゆずの皮をほんの少し。


 食べた瞬間、リアンが驚いたように目を見開いた。


「涼しくて、でもあったかい…」


「そう。“冷たいけど温かい料理”って、好きなの。心の温度って、料理にも映ると思ってるから」


「アマリリスさん、今度は本当に詩人ですね」


「…リアンって呼んでいい?」


 彼はしばらく黙って、それから優しく頷いた。


「はい。僕も、“アマリ”って呼んでも?」


 胸が熱くなる。こぼれそうなほどに。


「…いいわ」


 そして、静かに名を呼び合うその瞬間が、私たちにとって、どんな契りの言葉よりも深く感じられた。


 


 夜、店を閉めてから、リアンはぽつりと口にした。


「霞宿って、すごく不思議な場所ですね」


「どうして?」


「いつのまにか、自分を隠さなくてもいいと思えるようになる」


 私は少し笑った。


「それは、私が隠すのが下手だからよ」


「…いいえ。たぶん、アマリが“見逃すのが上手”なんです」


 その言葉に、ふと涙が出そうになった。


 私たちはもう、お互いの“本当の名前”を知っている。


 そしてそれを、大切に呼び合えるようになっていた。



 それは、梅雨の始まりを告げる朝だった。


 ひと晩中降っていた雨がようやく止み、霞宿の石畳が濡れて光っている。私は、庭の草花に雨粒が宿っているのを見ながら、店の戸を開けた。


「…涼しい風」


 背後で、リアンいいえ、“私のリアン”が朝の支度を終えて、厨房から現れた。


「今日は少し肌寒いですね。温かいもの、増やした方がいいですか?」


「そうね。お昼は“あんかけのおじや”でも出してみましょうか。あの柚子胡椒を利かせて」


「…それ、絶対うまいやつです」


 そう言って微笑む彼の姿に、私はやっぱり惹かれてしまう。


 


 その日、昼過ぎに宿を訪れたのは、背の高い男だった。旅装束を整え、鋭い目をしたその人物は、リアンの姿を見るなりぴたりと立ち止まった。


「…リアン・ファルク」


 リアンの動きが止まる。


 空気が、薄く張り詰める。


「おまえを探していた。ようやく見つけたぞ」


 男は、かつてリアンが仕えていた王都の騎士団の一人だった。リアンは何も言わず、ただ視線を伏せる。


「王都に戻る気はあるか?」


 その問いに、リアンはしばらく黙った。


「…僕は、もう剣を持たないと決めたんです」


 その声は、静かで、でも強かった。


 騎士は一瞬、何か言いかけたが、それを呑み込むと一枚の手紙を差し出した。


「それでも、もし気が変わったら。王は今、おまえのような者を求めている」


 


 騎士が去ったあと、私は彼のそばに立った。


「戻るの?」


「戻らないと、思ってた。でも…手紙を見たら、少しだけ心が揺れました」


「…リアンの選ぶ道なら、私はきっと受け入れられると思う」


「ほんとに?」


「ええ。ただ、正直に言うなら…行ってほしくない」


 リアンは黙って、私の手を取った。


「僕も、同じ気持ちです。だけど…いつか、本当の自分として“帰る場所”を持つには、向き合わなきゃいけないと思った」


 私は、ほんの少しだけ涙が滲んだ目で彼を見つめた。


「約束して。絶対、帰ってきて。ここに」


 リアンは力強く頷いた。


「約束します。アマリ、僕はこの“霞宿”があなたが、大切でたまらない」


 


 そして、彼は数日後に旅立った。


 見送りの朝、私は“干し筍と干し海老の炊き込みご飯”を弁当に詰めた。きっと途中で食べたとき、懐かしくなってしまうような、そんな味。


 雨上がりの朝、風が優しく彼の背を押しているようだった。


 


 季節が巡り、夏が深まる。


 忙しくなった店で、ふとしたときに思い出す彼の顔。


 でも私は信じている。


 彼はきっと、風が帰る場所を知っている。


 そして


 それがこの店で、この庭で、この食卓であることを、忘れたりしないと。


 


 リアン、待ってるわ。


 あなたの“ただいま”を、いつでも。




おしまい

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