3章 夏がくる
「.......ねむ。」
無事に退院した僕は、人には推奨できない
模範的な夏休みを過ごし始めた。
遅寝、遅起き。
睡眠時間を犠牲にパソコンゲームに興じ、気になっていた
本を読み、映画を見るなどした。
実家に戻らないという選択は、大正解だったようだ。
ここには分かりやすい自由がある。
堕落と呼ぶ人もいるだろうが……。
まぁ、まだ夏休みは始まったばかりだし。
もちろん課題やその他やるべきことがたくさんあることを忘れてはいない。
そんなこんなで約一週間ぶりにちゃんとした時間に起きた。
その感想が冒頭の独り言である。実に学生らしいというものだ。
堕落しつつある僕がなぜちゃんと起きたのかというと、
当然、部活動があるからだ。
目に見えやすいところで活動をする運動部が分かりやすいだけで、
文化部もちゃんと活動しているのだ。主に日陰で。
内容に関しては詳しくわかっていないが、
表向き科学研究部ではあるから、恐らくそういった方面の
勉強なり実験なりを行うのだろう。
確か県の展覧会の受賞歴があると聞いた気がするし。
ついでに自分の課題なんかも進めてしまえれば、御の字である。
退院してから、まだ直接は部員たちに会っていない。
1日1回、華から体調を気遣っているのか何かをうかがっているのか
察しづらいメッセージが届いていた。
今日からの部活動再開に至ったのも、このメッセージが発端だ。
「あんまり堕落しすぎると戻れなくなるかもよ?」
どこかで見られているのかと思うような一言に
チクリと心が痛くなった。
あとは1日複数回、蓮からどうでもいいな、と思える内容が
届いていたが、これは2日目の時点で読むのをやめた。
兄弟からは、たぶん兄の方から退院日にメッセージが届いていたな。
「昨日は騒がしくしてごめん、お大事に。」
といった内容だった。
常識ある内容。
過剰にメッセージを送らないのも好感が持てる。
なにはともあれ、退院してからも体調には変化ないし、
堕落しきる前に活動を再開しよう。
猫毛なくせに、くせ毛なものだから、
意外と準備に時間がかかる。
ここだけは、重力の影響を受けていないのではないか。
そんな無駄なことをいつも考える。
そういえば病院の朝食、なぜかおいしく感じたな。
時間があれば食べたいという気持ちはあるのだが。
僕の外出はなぜかいつも余裕があまりない。
早めに起きて準備をしているつもりなのに、
家を出る時間はなぜかぎりぎりに。
それを意識してさらに早めに準備しようとすると、
長々と時間が余って退屈なんだよな。
この現象に名前を付けたい。
つけたところで、たぶん改善はしないけれど。
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早朝の街の空気を吸うのは久しぶりだ。
といっても8時過ぎ。
この程度を早朝なんて言ってたら怒られてしまうかもしれない。
寮からは歩いて15分ほどで学校に到着する。
夏休みなので送迎バスは運行していない。
そもそも大混雑のバスを利用する気にはならないが。
というわけで、僕は基本歩いて学校まで通う。
この時間は嫌いではない。
夏は若干熱いのが困ったものだが。
しかし、意外と早い時間でも街には活気があるのだな。
普段より人が多いような感じがする。
夏休みの時期だからだろうか。
離れた公園の方から子供たちの遊ぶ声が聞こえた気がした。
こうして歩いていると、意外と家にこもるよりも
外が好きなのかもしれないと思ってしまう。
4時間の森林散歩はごめんだが。
「おおっ!やっと出てくる気になったのか!
オレは心配で心配で夜も眠れなかったんだぞ!
というか、メッセージを返せ!顔文字のみはやめろよ!
なんか悲しくなるから!」
後ろからかかる声。
振り向かなくても蓮だと分かった。
ゆっくりと流れる時間にふさわしくない声量。
夏でも冬でも朝でも夜でも変わらないな、こいつ。
ー体調も良くなったし、寮にこもっててもね。
家だとだらけてしまうから。
軽く答える。
「しかし、差がついちまったぜ?
なんせオレの夏の課題はもう7、8割終わっているからな!」
……!!
これはおかしい。
天変地異の前触れか、もしくはまた高熱が出ているかのどちらかだ。
と思ったが、空は晴れているし体調はすこぶるに良かった。
なるほど、ということは虚言だな。
ーお前、器用になったな。
起きながら寝言が言えるようになったのか。
我ながら、辛辣な対応だとも思うが、
それほどにあり得ないことなのだ。
蓮とは小学校からの腐れ縁だから、出会っておよそ10年。
その10年間、何休みの課題であっても
ちゃんと進めているところを見たことがない。
特に、休みが長く課題の多い夏休みに関してはなおさらで、
中学以降の8月末は徹夜しているのが当たり前。
その状態で出校してくるものだから、
夏休み明けにも職員室に呼び出される。
それを欠かさず習慣のように続けてきた男が、
夏休み突入1週間程度で8割の課題を終わらせるなど、
到底現実とは思えないだろう。
「いや、ところがどっこい事実なんだよなー。
実はやればできるタイプなのかもな」
いや、お前はそもそもやらないタイプだろ。
心の中で思ったが、話をよく聞いていくと
わが科学研究部の現在の活動は、夏課題の討伐らしい。
たくさんの研究ができる夏休みに、課題が邪魔をするため、
全員で課題を解いているそうだ。
しかも、わからないところがあれば校内最強とも呼べる
知恵者が解説付きで教えてくれるというのだから素晴らしい。
さらに、その知恵者がとてつもない美貌を持っているわけだ。
様々な角度から見ても、蓮にとっては最効率の学習かもしれない。
ちなみに、蓮以外は早々に課題を終えて何やら別の研究に
取り組んでいるらしい。
その話を聞いて、さすがに少し焦った僕は、
自堕落に過ごした先週の自分を呪った。
蓮より課題が進んでいないのは、初めてかもしれないな……。
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部室に到着すると、すでに部員はそろっていた。
「お!ずいぶんな重役出勤だったねー。
顔色もよさそう。」
華の声だ。
1週間ぶりに見たが、その美しさはゆるぎなかった。
「「よかったね、大事じゃなくて。」」
兄弟も続ける。
ーご心配おかけしました。
せっかくの合宿をつぶしてしまった罪悪感もあり、
やや表情が暗かったのかもしれない。
「気にすることないって!まだ夏休みは続くんだよ?
それより、課題はどう?まさか本当にだらけてただけじゃないよね?」
華は微笑みながら、余計に傷をえぐる。
僕の課題は、ほとんど白紙。
書いていたのは初日の日記のみだ。
「あらら……。
こりゃほとんど蓮君と変わらないねぇ。まぁ、忘れがちな
日記を進めようって気概は認めるけど。」
どうやら天上から見たら、僕らは大差ないらしい。
分かってはいるものの少しだけショックを受けた。
視界の端で、蓮が親指を立てていた。
これはもう、蓮を馬鹿にはできないな。
すこし、悲しくなった気持ちをうまく隠して席に着く。
華や兄弟の机の上には、僕が逆立ちをしても
理解できないであろう本やレポートが重なっていた。
「あ、これ?うちの部の発表にしようかなって。
竹の吸水性と保湿力に関して調べようと思ってて……」
懇切丁寧に教えてくれていたが、正直一行目を理解できていない。
理解できたのは昔「竹刀を触ったときに弾力性に驚いた」という
部分のみだった。
人間って、本当に個人差があるものだ。
到底同じ成分でできているとは思えない。
この高尚な講義を理解するのに、夏休みいっぱいかかりそうだ。
僕は理解することをあきらめて、ひたすら相槌をうつ。
このまま続けていたら、相槌レベルが上がって、なにか
別のスキルを覚えるんじゃないだろうか。
それはそれで、人生に役立ちそうな気がした。
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窓の外を見ると、すでに日が傾いていた。
正直、侮っていた。
我らが部長の能力を。
その英知を、僕は理解できていなかったのだ。
何をどう質問しても、ほとんどノータイムで
答えが返ってくる。
しかも驚くほどにわかりやすい解説付きで。
分かりやすすぎて逆に意味が分からないレベルだ。
一体あの人の頭の中はどうなっているのだろうか。
多分インテルとか入っテル。
そうでないと説明がつかない。
あまりにも恐ろしいので聞いてみたところ、
「うーん、よくわかんないんだけど
昔から記憶力がはいいのよね。大体1回見聞きしたこと
忘れないし!」
だそうだ。
やっぱり材質が違うのかもしれない。
「さて、今日はこれくらいにしとこうか。
明日も同じ感じになるかなー。できたら7月いっぱいで
各々課題を終わらせたいところだね。もし、
課題とか何でもいいけど、何かあったら連絡ちょうだい!」
言い残して華は帰っていった。
今日は少し用事があるらしい。
続くように僕たちも片づけを終えて部室を出た。
久しぶりに頭を使ったからか、甘いものを摂取したい気分だ。
「購買寄らね?なんか甘いもの欲しいわ。」
蓮が言う。
間違いなく僕らは同じ材質でできているな。
ついでに職員室にカギを返しに行こう。
部室棟と購買は学校内の端と端に位置するので、
その間に必ず職員室を通るのだ。
「「じゃあ、お願いするよ。
また明日ね」」
兄弟からカギを受け取る。
なぜかここはアナログなカギなんだよな。
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わが校の購買は、なかなかに品ぞろえがいいが、
その品ぞろえが崩れるタイミングが存在する。
それは昼休みと運動部の終了後である。
学生が一斉に訪れるため、もし出遅れてしまうと、
食べ物はおろかジュースすらも手に入らない。
だが、今はちょうど空白の時間だ。
あと1時間遅ければ戦争に巻き込まれていたのだが、
まさかこの時間に解散したのも僕たちの行動を
読んでいたからなのか。
そんな風に考えながら、まずは職員室に立ち寄る。
さすがに夏休み、しかも夕方。
いつもより人は少なかったが、それでもしっかりと
仕事をする先生たちの姿がそこにはあった。
ー失礼します
声をかけて入室する。
一瞬視線を集めるこの瞬間があまり好きではない。
金庫にカギを直して退室。
あとは購買に向かうだけ。
と、外に出ると職員室の前に見慣れない制服の女の子が立っていた。
掲示している校内新聞を読んでいる。
「お、あれは珍しいな。」
蓮が声を上げる。
「うちの制服って季節も合わすと8種類あるだろ?
その中でもあれ、秋服なんだよ。
昔は気温の変動が大きかったからあったらしいんだけど、
今じゃほとんど使われてない幻の制服なんだぜ?」
初耳の情報だった。
制服の種類が豊富なのは知っていたが、夏と冬以外の服があったのか。
それにしてもあの制服、普通に暑そうだぞ。
「多分寒がりなんじゃね?
空調が苦手みたいな人もいるしなー。
それより、早く行こうぜ!運動部が上がってきちまう!」
蓮が歩き出す。
ーそうだね、それはさすがに面倒だ。
つられて、やや早足になる。
振り向くと、制服の彼女はもういなかった。