2章 原因不明の原因
目を開けると、柔らかな光が飛び込んできた。
救急車に乗り込んだかどうかのところまでの記憶はあるのだが、
そこから、この景色を見るまでの記憶は一切なかった。
周りの状況から察するに、というか救急車に乗ったわけだから
おそらく病院なのだろう。
「知らない天井だ……」
よくわからなかったが、なぜかこの言葉を言わないといけないような気がした。
......本当になぜだろう。
身体を起こしてみる。
救急車で運ばれたのが噓かと思うほどに軽かった。
医学の進歩はあまりにも偉大だ。
横開きのドアののぞき窓から、廊下を行き来するたくさんの人が見える。
なんとも忙しそうだ。
ふと窓の方を見ると、黄色い太陽が頂点に光っていた。
テレビ台に埋め込まれた時計は13時を表示している。
意外と時間は経っていないようだ。
きっと疲れがいたずらしたのだろう。
森林散歩4時間は、急に行うものではないな。
しみじみと思いながら、再びベッドに横たわる。
その時、廊下の方から聞き覚えのある声が聞こえた。
聞き覚えはあったが、その語調は、普段聞かないものだった。
「私が……悪いんです。
水質の調査とはいえ、危険な場所に彼を連れて行ったんです!」
華の声だ。
心なしか、少し水分を含んでいるような声。
ゆっくりと立ち上がり静かに扉の方に近づいた。
のぞき窓からこっそりと外の様子をうかがう。
そこには、華を含む部員たち。
それと話す2人の男たちの姿がみえた。
しきりに頭を下げる華。
相手の男たちが誰なのかはすぐにわかった。
わが校の教頭、そして部活担当の教員だ。
わが校は、自由な校風を謳っている。
部活動自体の信頼度もあるが、生徒の主体性を尊重し学生のみで合宿が許可されている。
もともとは、そういう仕組みだったのだと思う。
だが、今の状態を表すなら、自由ではなく放任といった方がふさわしい。
部活担当といったが、部活に関連した何かであの教員を見たことはほとんどない。
部活動紹介のようなもので、顔を見かけたような気がする。
そんな程度で、実質部活に対して干渉はしていない。管理も指導もしていないが。
だが、便宜上担当教師だ。
華はそういった部分に抜かりがない。
手続きも含め完ぺきに行われていたのだろう。
その結果、「合宿中の体調不良」となる
今回の事案で呼び出されて同席しているのだ。
明らかに不服そうな態度をしている。
最初の声以外、扉越しでよく聞こえなかったが、
おそらくは責められている。
頭を下げた状態でうつむく華。
その後ろで同じように立ち尽くす兄弟と蓮。
どう考えても、彼女たちに悪い点がない。
何を責められる理由があるのだろうか。
なぜ、彼女が涙ながらに謝罪させられなければならないのか
小さな怒りがわいてきたころ、彼らは立ち去って行った。
彼女らは頭を下げたままだったが、やがて声が聞こえてくる。
「行ったか……?」
全員が顔を上げた。
その顔は誰もが普段通りだった。
「「というか先輩、もしかして泣いてました?」」
早急に踏み込む双子。
聞かなくてもいいことを。
僕のせいで女神の体積が減ったかもしれない。
一生発熱を恨んで生きていこう。
そんな決意をしていたが、無駄なことが発覚する。
「んー、ってことは私女優もイケる説?
ああいう時ってしおらしい感じにしてるとすぐ終わるのよねー。」
ぜんっぜん泣いてなかった。
何なら計算ずくの姿勢と声だった。
「というか、あの人は多分何か言いたいだけだしね。
ストレスたまってるんじゃない?
それよりもさ……」
視線を向けられる。
華の大きな瞳は完全に僕をとらえていた。
「盗み聞きは感心しませんなぁ。
思ったよりも元気そうで安心したけどね。」
いたずらっぽく微笑む表情。
あれ……ヴィヴァルディの「春」が聞こえる気がする。
無茶苦茶夏なのに。
何ならちょっと熱があるはずなのに。
いや、熱があるからかもしれない。逆に。
などと妄想に浸りながら扉を開ける。
「いや、安心したぜ。」
蓮の声で現実に引き戻された。
「ていうか、もう動けるんだな。
救急車に乗るときなんか本当に死んだのかって……」
華の肘が蓮の言葉を遮る。
まあ、不謹慎ではあると思う。
「「とにかく落ち着いたみたいでよかったよ」」
兄弟の言葉に頷く。
しかし、自分でも驚いている。
ほんの数時間前に40度の熱を発症して全く動けなかったとは思えない。
普通の風邪だとしてももう少し引きずると思うのだが。
「まぁ、いいじゃない。体調がいいならさ!
で、落ち着いてるならちょっと聞いておきたいんだけどさ。」
言いながら華が近づいてくる。
動くたびに目の前でゆりの花が揺れているような、
フローラルな甘い香りがした。
「変わったこととかなかった?変な夢を見たとかさ、
何か良くないものに触れたとか!」
……ん?
「ほら、あの旅館いわくつきとかって言ってたしさ、
もしかしたら、何かの怒りをかったとかそういう……」
無邪気な顔で何を言っているのだろうかこの人。
怒りをかうならお札を破壊しようとしていた貴女ではなかろうか。
神聖すぎて呪われないとかそういう立場か?
あきれ気味にはしゃぐ女神から、後ろに控える奴隷に視線を移す。
半ばあきらめたような眼をしていた。
「こうなったら無理だ。付き合ってやれよ」
そういう表情だった。
こっちはまだ病み上がっているかどうかさえ分からないんだぞ。
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疲れた……。
ベッドに再び横になったのは21時過ぎだった。
説明を受けたが
今の結論としては「わからない」ということらしい。
熱が出た原因も特になく、今現在症状が一切ない理由も
わからないそうだ。
原因がわからない、という話が出るごとに盛り上がっていく華を
落ち着かせてくれていた部員達には感謝だ。
15時ごろに母が病院に到着。
それと入れ替わりに彼女らは病院を後にした。
「またお話聞かせてね」
いたずらに耳打ちする華を見て
「あれはすごいわ。とんでもない美人だけどいやらしさがないものね。
大物になるわよ。」
と感想を述べる母。
女性のアンテナというのは敏感なものだ。
身体に一切問題がないうえ、今すでに元気なわけだから
すぐに帰れるだろう、と思っていたがそうはならなかった。
医師曰く、
「原因がないはずはない、逆に不審だから
徹底的に検査をしておかないと何か起こってから では遅い」
だそうだ。
というわけで、1日入院が延長され、この時間になって
ようやくベッドに横になることができたというわけだ。
思えば、今までにこんなに長く病院にお世話になったことはない。
丈夫な体に感謝だ。
しかし、病院というものは常に騒がしいものだ。
廊下を見ているとかなりの人数がこの時間でも忙しそうに
動き回っている。
昼間からいろいろな場所に検査で連れていかれたが、
患者の数もかなり多かった。
これだけ患者もいれば、待ち時間もそれは長くなるだろう。
そんなことを考えながら過ごしていると、看護師が部屋を訪れる。
22時には消灯になるそうで、電気を消すらしい。
長く入院していたら、規則正しくなれそうだ。
だが、残念なことに22時という時刻は
一般高校生にとって、寝るには早すぎる。
消灯を迎えても、以前廊下は忙しそうな気配だった。
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なぜか目が覚めた。
普段なら超熟睡の僕の目が覚めるとは。
やはり体調か、それとも環境かもしれないな。
もう一度目を閉じる。
と同時に感じる違和感。
何かが頭を触っている。
というよりは撫でられているような感覚だ。
うっすら目を開けると、テレビ台の前に男性が立っている。
なぜかその男性が頭をなでているのだ。
意味が分からない。
誰なのかもわからないし、どうやってここに来たのかもわからない。
どうすればよいのか。
今のところ悪意は感じないが、何か行動をとったときに
相手がどう動くかの予想がつかない。
とりあえず。
あの、どなたですか、と目を開いて声をかけてみた。
なるべく刺激をしないように声も小さめにしておいた。
男性はなぜか気づいていない様子で続けている。
同じくらいの声でもう一度、
なぜ頭をなでているんですか、と尋ねる。
その瞬間に、男性はひどく驚いたような表情で
手を離した。
驚きたいのはこちらなのだが。
そして、しっかりと僕の目を見た。
なぜか目をそらせなかった、というよりそらす気にならなかった。
向けられたその目が、あまりに暖かかったから。
微塵も悪意を感じなかったからだ。
あの、と再び声をかけたが、
男性は何も話さなかった。
だが、先ほどの驚いた表情ではなく、微笑んでいた。
ふと、テレビ台の時計に目を向ける。
時間は深夜2時過ぎだった。
ここに入院している患者なのだろうか。
などと思いながら視線を戻す。
しかし、そこにはすでに誰もいなかった。
……は?
室内を見渡しても、どこにも誰もいない。
扉を開ける音はしていない。
霞のように消えてしまった。
見間違い、というにはあまりにも「現実」だった。
頭にはまだあの手の感覚が残っている。
部屋の真ん中に立ち尽くしていると、急に扉が開く。
「どうかしましたか?」
見回りの看護師だった。
定期的に部屋を回って変化がないかをチェックするらしい。
あの……と伝えようとして、思いとどまる。
どう考えてもあり得ない。
どうやって誰にも見つからずに部屋に入るのか。
廊下の外はぼんやりと明るいし、この時間でも人の行き来はあるようだ。
どうやって部屋から消えたのか。
もし、本当にこの部屋にいたとして、消えたタイミングから考えれば、
この看護師が確実に目撃しているはずだ。
この部屋に入院しているのは僕だけ。
確実に不審者だから、何らかの騒ぎになっているはずだ。
「はい?」
不思議そうに看護師が見つめている。
いえ、なんでもありません、と答える。
今起こったことは理論的にありえない。
よく考えれば、昨日の朝40度の発熱を起こし、救急車で運ばれたのだ。
多少もうろうとしてもおかしくはないだろう。
きっと見間違えだ、そうに決まっている。
「もし何かあればナースコールを遠慮なく押してくださいね」
そう言い残して退室していく看護師の背中を見送る。
空調が完備されていて、熱くも寒くもないはずなのに、
身体が少し冷たい感じがした。
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結局、あれから眠れなかった。
寝よう寝ようと目を閉じるのだが、あの手の感触が戻ってくるのではないか。
そう思うと沈みかけた意識が浮上してくる。
眠れそうだ……と思った時間は病院内では朝だったようで、
明かりがともされ、朝食の配膳が始まった。
眠い目をこすりながら、朝食を平らげる。
うわさに聞いていたほどまずくはない。
むしろ、寮生活でジャンキー寄りだった生活に
不足している栄養素が含まれている気がする。
普段なら朝食は食べないが、しっかりと完食してしまった。
食事を終えて、少し休むかとベッドに横たわると、
それは許さないと言わんばかりに医師に呼ばれる。
昨日遅くまで検査した結果がそろったそうだ。
結果は「問題なし」。
今できる検査をすべて行った結果、特に何もなかったそう。
「小さい子どもとかだと急に熱が出たりするんだけどね……」
と話す医者。
高校生で悪かったな。
ともあれ、無事に何もないということが証明され
喜ばしいことに退院できるらしい。
短くとも貴重な経験をした。
母に電話をして退院の話をする。
夏休みだからそのまま自宅に戻るか、という話もあったが
いろいろな荷物や課題もあるため、寮に戻る選択をした。
お盆くらいには戻るだろうし。
荷物をまとめ、病室を出た。
やっぱり人が多い。
階段を下りて受付に。
精算を行う。
というか病院はここまで人が多いのか。
精算への流れはスムーズに行えたが、
受付の前は椅子に座れないほどに患者が待機していた。
しばらくはお世話になりたくはないな。
眠れない間に見かけた記事。
[栄養バランスが崩れていると、味覚に異常が!?]
病院食を美味しく感じた自分がおかしいのかと思ったが、どうやら
この記事に書かれている内容は、相当に極端な状態を指すらしい。
自分は単に好き嫌いがないだけだった。
それを再確認させてくれた感謝とともにそっとページを閉じる。
やっぱりいいか、一旦は。
イレギュラーはあったが、解決したのだから。
夏はこれからだ――。
病院を出る足取りは普段より軽かった。
重要なことをすっかり忘れてしまっているような気がするが、
忘れているということは、その程度のこと。
今は退院を喜び、これからくる夏に期待してもいいだろう。